アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(45)「女怪」

戦後に私立探偵の金田一耕助を創作し「本陣殺人事件」(1946年)にて初登場させた横溝正史は、最初から金田一の活躍を時系列で厳密に構成するシリーズ化の金田一探偵の物語世界構築を案外、丁寧に力を入れてやっている。例えば「黒猫亭事件」(1947年)は「本陣殺人事件」を執筆した疎開地の岡山に在住の語り手、つまりは横溝正史本人の元を金田一耕助が訪問する、「もうすこし、ぼくという人間を、好男子に書いて貰いたかったですな」などと金田一が軽口叩きながらの(笑)、横溝と金田一の架空の直接会見を小説冒頭に置く「本陣」の後日談になっている。

同様に「女怪」(1950年)は「八つ墓村」(1951年)の事件が解決し、岡山から帰京した金田一耕助が、金田一の友人で彼の事件簿の「この男の記録係」を務める私こと、この小説の書き手たる横溝正史と以下のようなやりとりを作中冒頭にて交わすのであった。

「先生、何をぼんやりしているんです。え?仕事が出来なくて弱っているって?そうあなた、机に向かってたばこを吹かしていちゃ、仕事もなにも出来るはずありませんや。たまにゃ環境をかえなきゃ…先生、旅行しましょうよ。どこか静かな、人気のない温泉場へでも旅行しましょう。…」「ほほう、これは景気がいいんだね。すると『八つ墓村』の事件も、うまく解決がついたんだね」

「女怪」は「八つ墓村」事件の後日談であり、「女怪」に描かれる事柄は、横溝正史の「先生」と金田一耕助の「耕さん」が休息がてら二人で出かけた人気のない静かな温泉地で遭遇する、思いもかけない事件なのであった。そうしてその事件の顛末(てんまつ)を「先生」こと、金田一の友人で金田一探偵譚の記録係でもある横溝正史が金田一からの手紙を交えて記述する作品が、本作「女怪」である。

それにしても驚異的な推理能力だったり、ズバ抜けた行動力でキャラクターの立つ名探偵に、比較的凡人だが気を許せる友人がいて、その彼が探偵に同伴し記録したり、探偵から直に聞いた回想話を後日談の事件簿として記述し読者に紹介する語りの形式は、ドイルのシャーロック・ホームズにてのホームズとワトソンから(おそらくは)シリーズ物として連続して本格的に始められたものであって、横溝正史の金田一探偵譚も初期には、金田一耕助を「耕さん」と呼び、その金田一から「先生」と呼ばれる懇意な作家の横溝正史が探偵・金田一の活躍を記録し読者に紹介する語りの形式になっていた。実はルブランの怪盗リュパンのシリーズも、その初期にはリュパンの友人がリュパンから実際に聞いた話をまとめ、後日に読者に紹介する形式であったのだ。そうした同伴の友人が後日談として名探偵の活躍事件簿を記述し一般読者に公開する語りの形式をシリーズものとして連続してやり、それを探偵小説ジャンルの定番に定着させたホームズ・シリーズ創作のドイルの功績は、相当に大きなものがあったと称賛を交え今なら言える。

加えて横溝正史「女怪」は、小説の冒頭から「私立探偵・金田一耕助には活動拠点の探偵事務所はあるのか」とか、「金田一は日々の生活の支払い、つまりは経済的収入をどうしているのか」といった読み手の金田一ファンの疑問や要望に答えるように、金田一探偵譚の物語世界の各種設定をこれまた横溝が案外に律儀(りちぎ)にやっている所が読み所で当作品の価値がそこにあり、また私にとっては多少の笑い所でもある。

私は探偵小説を読む際には純然たるトリック重視であり、探偵である金田一のキャラクターだとか、金田一の恋愛ロマンスだとか、金田一の日常の生活の様子など全く気にならないのだが、世の中の読者にはそういった細かな設定を気にする人が多いらしく、そうした暗にある読者の要望に応じる形で横溝は本作「女怪」にて、「一時は銀座裏の怪しげなビルディングの最上階に事務所を構えていたが、今ではパトロンの風間の二号が経営している大森の割烹旅館の離れ座敷に金田一は居候の形でころげこんでいる」だとか、「風間俊六や久保銀造のパトロンがいて、しかも金田一の冒険譚の記述者である私こと横溝正史も金田一の名でいくらか利益を得ており、金田一から分け前を請求されたことはないけれど、気を使ってできる限りのことを…実は些少の謝礼を」云々の「横溝が金田一に多少は支払って金銭援助をしている」旨をわざわざ事細かに丁寧に説明するのであった。そういえば「犬神家の一族」(1951年)ら以前に横溝の金田一シリーズを監督の市川崑が映画化していたが、横溝の原作小説にはないのに、金銭授受を介した探偵契約だとか、事件解決の折りには宿泊費と食費を差し引いた依頼人からの探偵・金田一への報酬支払いの場面を監督兼脚本家の市川崑が毎作、熱心に撮っていて私は笑った。率直に言って私立探偵・金田一耕助はフィクションで実在しない人物であり、探偵小説の力点は作者の横溝による練りに練ったプロットと大胆かつ精密なトリックにあるのだから、「金田一の定期の収入や日々の支払いはどうなっているのか!?」といった経済的なことはそこまで重要ではないはずなのに、金田一の探偵小説を映画化する市川崑を始めとして、そうした経済的な詳細設定にこだわる人が世の中には多くいるものなのだ、と感心し思わず私は笑ってしまう。

さて「女怪」は「獄門島」(1948年)のヒロイン・鬼頭早苗に続く、金田一耕助のロマンスの話でもある。本作では、金田一が密(ひそ)かに思いを寄せている持田虹子という未亡人のバーのマダムが出てくる。私はトリック重視の探偵小説の読み手なので、探偵・金田一の色恋の恋愛話にそこまで関心興味はないのだが、やはり世間には金田一耕助の恋愛話に強く惹(ひ)きつけられる金田一ファンの読者が多くいるらしい。すなわち、本文にて金田一と懇意な「先生」こと横溝正史が書くには、

「そうだ、金田一耕助はたしかに虹子を愛していた。およそ世界の探偵小説を読むに、探偵が恋をするなんてことはめったにないが、探偵が恋をしたとてなぜ悪かろう。かれらだって血の通った人間なのである。まして金田一耕助はまだ若いのだ。身を焼くような恋をしたとて、なんの不思議もない筈だ」

あと横溝正史「女怪」に関しては、単なる死体収集マニアの性癖ではない、続発する墓荒しの「合理的」理由(「なぜそこまで執拗に墓が掘り返され荒らされるのか!?」)が探偵小説のミステリー話としての一番の読み所であり、そこが話の肝(きも)である。