アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(14)「白と黒」

横溝正史による金田一耕助もの、新聞連載の長編「白と黒」(1961年)は約500ページの長編で枚数が多く話が長いが、苦もなくサラりと気軽に読める。いつもの角川文庫版、杉本一文による傑作カバー絵も特に秀逸で、私はこの「白と黒」の陰影コントラストな少女の絵が昔から好きだ。一読して中身の小説内容と共に本の装丁、イラスト体裁も強く深く印象に残る。さて「白と黒」の話の概要は以下の通りである。

「平和そのものに見えた団地内に突如、怪文書が横行し始めた。プライバシーを暴露した陰険な内容に人々は戦慄!その矢先、団地のダスター・シュートから真黒なタールにまみれた女の死体が発見された。眼前で起きた恐ろしい殺人に、団地の中はたちまち大混乱。よれよれのセルの袴(はかま)に、もじゃもじゃ頭の名探偵・金田一耕助が近代的な団地を舞台に展開する鮮(あざ)やかな推理」

さらに「白と黒」に関しての、横溝による自作解説は以下である。

「いったいわたしは芝居の言葉でいう『世界』がきまらないと書けない作家である。芝居の『世界』とは少しちがうが、筋だの、トリックだけでは書けない作家である。『白と黒』の場合、『世界』を団地においてみた。団地に住むいろんなひとびとのあいだに起こるカットウ、人生パターン、そういうものを書き綴(つづ)っていきながら、そこに起こる連続殺人を書いてみたらどうかというのが、この『白と黒』の最初の発想である。わたしは俄然意欲にもえてきた」

そして横溝は続けて、

「わたしはまえに中編物で、怪文書から端を発する殺人事件を書いてみたことがある。この怪文書を団地へもってきたらどうかというのが、この『白と黒』の第二の発想である。団地に他人を誹謗し、中傷する怪文書が横行しているというのはどうであろうかというのである。この着想がわたしの創作意欲を決定的なものにした。よし、相当徹底的に団地に怪文書をバラ撒(ま)くことにしてみようと」

なるほど、連載初出の1960年代にて当時は「最先端」でモダン(近代的)な「最新の」集合住宅な団地に「セルの袴で、もじゃもじゃ頭」な前近代な男、探偵の金田一耕助が縦横無尽に団地内を往来し活躍するプロット、「前近代な風貌の金田一耕助、先端近代な新興団地に出向く」のズレた組合せの妙がまず面白い。「団地に住むいろんなひとびとのあいだに起こるカットウ、人生パターン、そういうものを書き綴っていきながら、そこに起こる連続殺人を書いてみたらどうか」について改めて補足するなら、集合住宅の団地というのは壁一枚隔(へだ)てた共通規格の間取に、実は本当はよく知らない他人同士が顔を付き合わせ住んでいる。確かに互いに面識はあるし、戸口や廊下で会えば挨拶もする。しかし、その人が本当はどのような人物なのか、実はよく知らない。各家庭の各戸の部屋内には当の家族しか知らないプライベートな秘密が隣家とは壁一枚隔て守られ隠されてある。しかも、団地の住民は朝に出かけて決まって夜に帰ってくる。昼間は団地の外で何をやっているのか、本当ところ団地内の住人は互いに深く知らない。例えば、普段はにこやかに挨拶を交わす隣家の真面目なご主人が、団地を出たら大胆不敵な怪しい仕事に従事して華麗なる(?)女性関係の裏の顔を持つ。ないしは旦那が団地を出たら、隣家の良妻奥様には同じ塔の住民男性と不義の情事を重ねる裏の顔がある。

団地というのは住人各自にある裏の顔、それを互いに隠し暮らしている誠に不思議な集合住宅であって、そこで横溝の「白と黒」のような団地住人の裏の顔の秘密を暴く無署名の怪文書が次々に投函され団地内に噂が広まる。「怪文書の送り主は隣のあの人なのでは」互いに疑心暗鬼で戦々恐々となり、団地の中は大混乱である。探偵小説である以前に一般の小説として団地という舞台設定が面白い(と私は思う)。

本作は約500ページの長編で、喀血の療養中でプロ野球ファンで日本シリーズを楽しみにしている詩人の「S・Y先生」(言わずと知れた横溝正史の匿名イニシャル表記)を最初と中盤と最後に三度登場させ、「エピローグ、インターバル、プロローグ」として金田一耕助と会談させる趣向は、中だるみをさせず読者を退屈させない横溝の工夫である。読み手に配慮する横溝正史の筆は実に冴(さ)えている。隠居的生活を送る古風で前近代な詩人のS・Y先生が、突如眼下に出現した近代的な団地の一群をまるで「蜃気楼の幻」のように感じ、その「蜃気楼の幻」の中に住む団地住民を巡って殺人事件が次々と起こる、少なくとも部外者のS・Y先生にとっては「団地住民が恐怖戦慄な一連の怪文書殺人事件が現実にあったことなのか。まるで夢うつつの幻想のような」といった小説本体を挟むフレーム設定も絶妙だ。

「詩人のS・Y先生は、ある朝、散歩の途次、世にもおどろくべきものを、空のかなたに発見して、しばし唖然(あぜん)としてその場に立ちすくんでしまった。…じっさい、おりからのくもり空にそびえている、幾楝かの団地の建物を望見したとき、S・Y先生はひどく感動を催した。あらゆる装飾や媚態(びたい)を拒否するかのような、その建物たちの聚落(しゅうらく)は、いたって古風で前近代的な生活を送っているS・Y先生にとっては、一種厳粛で荘厳なものにさえ見えたのである。しかも、そこにはもう生活がはじまっているらしい!いつの間に、あんな建物めが?」

さらに探偵小説としては、死体の顔が毀損(きそん)して身元判別不能な、いわゆる「顔のない死体」のトリックが用いられている。衣服や持ち物から推察される被害者と死体の正体は本当に同じなのか。探偵推理が好きな読者なら必ず惑わされるに違いない。団地内の共同設備「ダスター・シュート」内に高熱タールで顔面がドロドロに焼けただれた身元判別不可能な死体というのも、グロテスクで雰囲気がある。

何よりも題名の「白と黒」というのが、この話のポイントで、現場にあった殺人被害者へ送られた怪文書のズタズタに引き裂かれた紙片の一部に「白と黒」という文言があり、この謎の言葉を巡って金田一以下、探偵捜査陣は苦労するのであった。「白と黒。金田一耕助には妙にこの言葉が気になるのだ。悪魔のようなこの怪文書の製作者は、じつにえげつない言葉であいての秘密をついてくる」。「白と黒」は特定の人達のみが使い、かつ分かる符丁(ふちょう)の隠語で、この言葉の真意を知らなければ、本作は初読時に長編ではあるが長く読んで楽しめ、結末の犯人の意外性に驚き読後感も良いはずだ。ただし「白と黒」の隠語の意味内容を最初から知っている人だと犯人はすぐに分かってしまい、あまり楽しめないかもしれない(笑)。

あと「探偵は皆を集めてさてと言い」といった、最後に事件関係者一堂を集め、探偵の金田一耕助が「さて」と連続殺人事件のタネ明かしをやり、皆の前で犯人を大袈裟に指摘する探偵推理にありがちなマンネリ結末展開を避けて、さりげなく犯人を明かしている本作にての横溝の叙述の工夫に私は好感を持った。