アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(15)「不死蝶」

横溝正史は以前にウィップル「鍾乳洞殺人事件」(1932年)を翻訳し、「自分もウィップルの作品のような鍾乳洞を舞台にした探偵小説を」と構想を練り後に執筆している。横溝の作品の中で鍾乳洞の設定を効果的に使ったものといえば世間で有名なところで、やはり「八つ墓村」(1951年)になるのだろうか。「八つ墓村」以外にも鍾乳洞設定の作品は横溝にあって、例えば「不死蝶」(1953年)がそうである。本作は迷路のように複雑に入り組んだ鍾乳洞内での殺人事件という鍾乳洞の舞台装置を巧みに使った良作となっている。そんな「不死蝶」のあらすじといえば、

「『蝶が死んでも、翌年美しくよみがえるように、いつか帰ってきます』。二十三年前、謎の言葉を残し、突然姿を消した一人の女。当時、鍾乳洞殺人事件の容疑者だった彼女は、成長した娘と共に疑いをはらすべく、今因縁の地に戻ってきた。だが、彼女の眼の前で再び忌まわしい殺人が起きた!被害者の胸には、あの時と同じく剣のように鋭い鍾乳石が…。迷路のように入り組んだ鍾乳洞で続発する殺人事件の謎を追って、金田一耕助の名推理」

下手に書いて「ネタばれ」にならないよう「不死蝶」の話の概要を慎重にさらに補足すると、以下のようになる。信州の射水という町にブラジルのコーヒー王の養女・鮎川マリと母親の君江が訪問し滞在する。その鮎川君江が射水の町の過去の、ある因縁人物を彷彿(ほうふつ)とさせる。その因縁とは町で敵対する矢部家と玉造家とがあって二十三年前、矢部の長男・慎一郎と玉造の娘・朋子が「ロミオとジュリエット」的な恋仲になり、町の鍾乳洞の奥で落ち合い駆け落ちしようとしたところ、二人を連れ戻そうとした矢部家の次男・英二が鍾乳洞内で殺害されてしまう。その英二の死体には朋子の着物の片袖が握られており、当の殺人容疑者たる玉造朋子は、鍾乳洞の「底なし井戸」に絶望のあまり投身自殺をはかる。しかし「底なし井戸」から身を投げたらしい朋子の死骸は見つからず、そして朋子が投身したらしい井戸の側には「あたしはいきます。でも、いつかかえってきます。蝶が死んでも、翌年また、美しくよみがえってくるように」の書き置きが残されていた。そういった二十三年前の町での因縁の鍾乳洞殺人事件があり、今回町に滞在している鮎川君江が玉造朋子と年齢、容姿で実に似通っていて一致する。果たして鮎川君江は、かつての玉造朋子なのか、二人は同一人物か。「不死蝶」の書き置きの文言の如く、彼女は美しくよみがえり颯爽(さっそう)と「蝶の如く」二十三年ぶりに郷里に帰ってきたのか。鮎川君江の正体は如何。そして二十三年後、金田一耕助の前で再び鍾乳洞内での殺人事件が起きる。

「不死蝶」の最大の読み所は、このように今回、町に来た鮎川君江の正体、彼女は本当に「不死蝶」で二十三年前の玉造朋子と同一人物なのかにある。最後まで読むと「彼女の正体」は明らかになるし、今回、金田一耕助の前で新たに起きた鍾乳洞殺人事件の犯人と同時に二十三年前の鍾乳洞殺人事件の真犯人も明かされて、物語中の全ての伏線や過去の謎が一気に悉(ことごと)く回収され解決される本作読後の爽快感が相当に心地よい。

横溝正史は、探偵小説の話を組み立てるのが実に上手い。登場人物のすべてに意味があり、皆がそれぞれ探偵小説構成の役割を果たして過不足なく話を収束させる。現在進行中の鍾乳洞内での殺人事件の真相と、二十三年前の鍾乳洞内での殺人事件の真相との落とし所のオチの付け方など絶妙だと私には思える。横溝はインタビューや座談で、作家兼業で編集者をやっていた時代に原稿を飛ばした作家の連載続きの代筆や、掲載作品が足りない時には架空の作家名義で穴埋めに即席で書いていたことを後に白状している。その際、「どんな話であっても他人の作品を中途から引き継いで、それまでの伏線を全て拾って破綻なく書き抜き、その上ラストに傑作なオチまで付けてソツなく話を終わらせることができる。特定のテーマや制約があっても苦にならず楽に書ける。そういった上手に話を組み立てるストーリーテラーとしての自身の能力には、いささかの自信がある」旨をしばしば語っている。

確かに横溝正史は話の組み立てが上手く物語の筋書きが巧妙だ。本作「不死蝶」は、そうした横溝の名ストーリーテラーの天才ぶりを存分に味わえる探偵小説の良作だ。最後の金田一耕助の説教的セリフ「これが日本人のもつ愛情、自己犠牲なのです」云々も、「不死蝶」事件の全貌をすでに知った読者にとって非常に重みのある言葉で、なかなかの説得力である。