アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(54)「首」

多作の量産作家の作品を何作も連続して読んでいると、状況設定や人物類型やラストの結末の付け方まで、いつの間にか似通り重複していて正直、ツライ時がある。以前に私は松本清張の社会派推理をよく読んでいたけれど、どうしても事件背景や犯行動機や殺人トリックや犯人暴露のオチが類似・重複して、多作な松本清張作品は読んでも印象に残らず、すぐに忘れてしまう。また似たような話が多いので別の作品と混同していたり、確かに読んだはずなのに、ある作品内容に関し全くの思い違いをしていて後々自分ながら驚くことがよくあった。

こうした事情は多作である横溝正史に関しても同様だ。私は一時期、横溝の探偵小説を毎日、連続してほぼ全作読んでいた時期があった。その時に、横溝のような多作の量産作家は、書き連ねていく内に個々の作が状況設定や人物類型や使用トリックや事件の真相と犯人の正体に至るまで、どうしても類似の重複になってしまい、「これと似た話は以前に横溝の作品で読んだことがある」「本作の殺人動機とトリックは、あの作品の使い回しだ」と読んでいる中途で分かってしまい、何となく興ざめなことがあった。

今回の「再読・横溝正史」で取り上げるのは、横溝の「首」(1955年)である。

「滝の途中に突き出た獄門岩にちょこんとのせられた生首。まさに三百年前の事件を真似たかのような凄惨な村人殺害の真相を探る金田一耕助に挑戦するように、また岩の上に生首が…事件の裏の真実とは?」(角川文庫版・表紙カバー裏解説)

やはり、本作は他の横溝作品とかなり似ている(笑)。「休息」と称して岡山の山奥の湯治場に岡山県警の磯川警部が金田一耕助を誘うも、実は以前に発生した迷宮入りの未解決事件の謎を金田一に解かせるためで、私立探偵の金田一耕助がいつの間にか事件解決に乗り出す冒頭の話の入り方は、同じ横溝作品の、例えば「悪魔の手毬唄」(1959年)によく似ている。一年前に起こった生首切断の殺人事件での被害者、山に猟に出かけた村の有力者の若者が一時的に行方不明になる事件の詳細は、同じ横溝作品の「鴉(からす)」(1951年)に酷似している。今回起こった生首切断の事件が三百年前、この地域の名主が何者かに生首切断にて殺害され、後に百姓一揆が発生したという、かの地で語り継がれる歴史上の事件が気味悪く現代に再現されるプロットは、横溝の「八つ墓村」(1951年)と同じであるし、さらに犯行時に犯人はなぜか「首」を切断して胴体と離し放置しておく合理的理由、これは犯人による、ある種の現場不在証明(アリバイ)工作に絡むものであるが、そのトリックは横溝作品の「車井戸はなぜ軋(きし)る」(1949年)に類するパターンのものである。そうしてラストで明かされる今回の一連の殺人事件の真相、真犯人はこれまた横溝の「悪魔の手毬唄」の結末と同一である。

横溝正史「首」は、どうしても他の横溝作品と多くの点が酷似しており、またそのままの使い回しが多いため、全体に薄味な「横溝正史の傍流短編」の悪印象が正直、私には拭(ぬぐ)えない。

本作では時代をまたいで三度の生首切断の殺人事件が起こる。いずれも被害者の首をわざわざ切断し、滝の岩(「獄門岩」!)の上に、これみよがしにさらして人々に見せようとする犯人の意図である。第一の首切り殺人は、三百年前に当地の有力農民(名主)が何者かに首切断で殺害され、これを機に農民らの怒りが爆発し百姓一揆の勃発にまで発展したのであった。続く第二の殺人は金田一がこの湯治場を訪れる一年前、山中に猟に出た村の若者が一時的に行方不明になり、後に首切断され殺害されて「晒(さら)し首」のように生首放置で、あたかも三百年前の事件を再現するような事件である。そうして第三の殺人は金田一らが村に滞在中に、映画撮影で当地を訪れていた関係者が、過去の生首切断事件に興味を示して夜半にかつての犯行現場に探索に出かけた所、またもや首切断で殺害されてしまうという奇異怪々な事件なのであった。しかも、第一と第二の首切り事件は、金田一耕助が当地を訪れるまで長い間、迷宮入りの未解決事件となっていたのだ。

「でもねえ、ただひとつ、ぼくには不思議に思えることがあるんです。…犯人が達夫(註─第二の殺人事件の被害者)の首を斬りおとしたってことね。それが不思議なんです。首を斬りおとすことは容易なことじゃありませんよ。時間もかかるでしょうしねえ。それにもかかわらず、ちょくちょく首なし事件ってのが起こるのは、犯人が被害者の身許(みもと)をくらまそうとするためでしょう。ところが、この事件では犯人はべつに、被害者の身許をかくそうともしなかった。生首は故意か偶然か、獄門岩にのっかっていたし…」

という作中の金田一耕助の発言にあるように、「なぜ犯人はわざわざ遺体の首を切断して、その首を隠すことなく、あえて『晒(さら)し首』のようにして人々に誇示したのか!?」の過去および今回の生首切断殺人の理由(わけ)、「犯人がぜひとも首切断をやらなければならなかった合理的な理由」というのが、横溝正史「首」での話も肝(きも)であり核心である。確かに金田一が指摘するように、普通の探偵推理の殺人事件では首切断の遺体があった場合、犯人は首のほうだけ隠匿(いんとく)して誰の死体か人々に知られないよう工作をする。そうした被害者を身元不明の遺体にするために通常、犯人は遺体の首を切断するのである。ところが、横溝の「首」における二度目と三度目の生首切断の殺人事件は、当地に伝えられる三百年前の歴史上の第一の生首事件を受けての単なる見立て演出の殺人ではない。つまりは、面倒であってもわざわざ遺体の首を切断して、しかもそれを大々的に人々にさらして見せようとする犯人の行為に、ある種の現場不在証明(アリバイ)工作に絡むトリックがあるのであった。ここが本作の何よりの読み所といえる。

最後に横溝の「首」の昔の角川文庫、杉本一文による表紙カバーのイラストは実に素晴らしい。紅葉の滝を背景に切断された人間の生首が岩(切り株にも見えるが…)の上にそのままさらされてある構図の衝撃イラストである。横溝正史「首」に関しては昔の角川文庫、杉本の傑作カバー絵の書籍をぜひとも所有して末永く愛蔵しておきたいものである。