アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(43)「トランプ台上の首」

横溝正史「トランプ台上の首」(1959年)の話の、あらましはこうだ。

「舟で隅田川沿いに水上惣菜屋を営んでいる宇野宇之助が、アパート聚楽荘(じゅらくそう)の1階に住むストリッパー、牧野アケミの生首を彼女の部屋で発見した。残されていたのは首だけで、胴体の行方は不明であった。前夜、アケミの部屋でトランプゲームをしに集まった、アケミの勤め先のストリップ劇場の支配人・郷田実や幕内主任の伊東欣三、同僚ストリッパーの高安晴子も生首はアケミに間違いないと話す。等々力警部に伴われて現場に訪れた金田一耕助が、散乱したトランプ台上に置かれた女の生首をめぐる猟奇事件の謎に迫る」

本作は見た目のインパクト大なバラバラ殺人事件である。「散乱したカードのうえ、テーブルのちょうど中央に、ちょこんとのっかっているのは、なんと、血に染まった女の生首ではないか」というのが、ギリシア神話の怪物・メデューサの生首を思い起こさせるケレン味ある趣向である。しかも、首切断で生首を現場のトランプ台上に残したまま、首下の胴体は現場から持ち去られ行方不明という誠に陰惨猟奇であり、かつ不思議な事件であった。

本作の舞台は東京の隅田川沿い、時代設定は昭和30年代であるが、そうした比較的近代の新しい時代に、舟の上の水上生活者や河岸すれすれに建ったアパートや家屋の住人へ向けて水上の舟から惣菜を売りあるく「水上惣菜屋」という商売従事の男が「トランプ台上の首」を沿岸アパートの一室にて発見する事件発露の発端がまず面白いと思う。何よりも「水上惣菜屋」という、江戸時代の昔からあった商(あきな)いに関する詳細説明の本作書き出しが新鮮だ。

探偵小説は筋道の通った合理的な近代文学である。ゆえに、遺体の首を切断して現場に生首だけをわざと残し、いわゆる探偵推理における身元が不明な「顔のない死体」とは全くの逆を行く、遺体の顔が明白なことから殺害された被害者の身元を発見者と捜査陣一同に堂々と知らしめるのは、あえてそうしたい犯人側の明確な事情があるからである。創作の探偵小説ではない、現実の首切断放置の猟奇殺人事件の場合、単に生首を晒(さら)しておきたい犯人の性癖とか、猟奇のショッキングさにて世間の人々の耳目を集めたい殺人犯の虚栄心があったりするのだけれど。だから本作「トランプ台上の首」では、なぜ犯人は遺体の首を切断して現場に生首だけをわざわざ残し、殺害された被害者の身元を発見者と金田一耕助ら探偵捜査陣に堂々と知らしめようとしたのか。あえてそうしたい犯人側の事情があるわけで、そこがこの探偵小説の話の本質的な面白さであり、最大の読み所であるといえる。

(以下、話の核心に触れた「ネタばれ」です。横溝の「トランプ台上の首」を未読の方は、これから新たに本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

一連の猟奇殺人に関係する犯人の詳しい犯行動機や後に継続して起こる関係者の連続殺人の細かな話の詳細は省いて、「トランプ台上の首」として、なぜ犯人は遺体の首を切断して現場に生首だけをわざわざ残し、殺害された被害者の身元を発見者と金田一耕助ら探偵捜査陣に堂々と知らしめようとしたのか、あえてそうしたかった犯人側の事情についてだけ述べると以下のようになる。

前夜に同室でトランプを一緒にやっていた、殺人被害者と目されるアケミの、勤め先のストリップ劇場の支配人や主任や同僚のストリッパーの関係者一同、「トランプ台上の首」は「女性の生首の顔からしてその部屋の住人のストリッパー、牧野アケミであり、彼女こそが殺人事件の被害者に間違いないこと」を証言したが、実はストリッパーの牧野アケミは事件被害者ではなかった。何と!牧野明美は双生児でウリ二つの妹がおり、トランプ台上の女性の生首はアケミに顔がそっくりな双子の妹であったのだ。アケミはかねてより麻薬の密輸に関わっていて、早くに逃亡したかった。牧野アケミは殺害されたことにして、彼女は合法的に蒸発したかったのである。だから「トランプ台上の首」はストリッパーの牧野アケミではなく、アケミに殺害され首切断された双子の妹で、実はアケミは生きていたのだった。

そして、なぜ首を切断し、首上だけ残して下の胴体を持ち去り行方不明にしたのかといえば、双子の妹の身体には、ある肝臓の病気から血管が圧迫されてアザのようなものが浮き出る身体的特徴があり、しかし日頃からストリッパーとして裸体をさらしていた牧野アケミには、そのアザの印がないため遺体の胴体を残すと、アザの有無から「死体が牧野アケミではないこと」が検死にてバレてしまう。だから首を切断してアケミと同一な首上だけ現場のトランプ台上に残し、「殺害されたのは牧野アケミ」と関係者一同に信じ込ませた上で、「死体の正体は牧野アケミではない」とバレるアザの身体特徴がある胴体は持ち去り、隠匿したのであった。

この作品のトリックの醍醐味は「事件被害者が実は双生児の双子であった」という、ある意味、探偵小説の書き手にとって誠に都合のよい初歩的で素朴な設定をあえて使ったということに尽きる。探偵推理にての不可能犯罪や現場不在証明(アリバイ)工作にて、容姿がウリ二つの双子、さらには三つ子の設定を用いるのは実は探偵作家として相当に恥ずかしい。双生児や三つ子設定は、あまりも書き手本位で都合がよすぎて現実には滅多にあり得ない、極めて素朴で初歩的な現実離れした無理設定であるからだ。だが、探偵小説家のベテランである横溝は本作にて恥ずかしげもなく何ら臆することなく、双生児の双子の設定を堂々と使ってしまう(笑)。そこが横溝正史「トランプ台上の首」の最大の意外性の面白さであり、読んで半畳の入れ所であると私には思えた。