アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(44)「幽霊座」

以前に横溝正史の探偵小説を連日、連続してほぼ全作読んでいたとき、例えば「本陣殺人事件」(1946年)や「獄門島」(1948年)ら、有名どころの金田一耕助探偵譚を読み切ってしまった後に「残りの横溝マイナー作に読むべきものは、ほとんど残っていないのでは」と、そんなに期待せず引き続き横溝を読み進めていたところ、これが意外にも、おそらくは世間一般にあまり知られておらず、そこまで広く読まれていないであろう傍流な横溝作品の中にもなかなかの良作があり、「うれしい誤算」の思いがけない収穫に恵まれることが多々あった。

横溝正史「幽霊座」(1952年)も、おそらくは世間一般にあまり知られておらず、そこまで広く読まれていないであろう横溝作品群に埋もれた傍流な、しかし、なかなかの秀作であり、「読んで再発見」の「うれしい誤算」で私にとっては思いがけない収穫の作なのであった。

横溝「幽霊座」は、後の角川文庫の巻末解説、大坪直行による「本作は歌舞伎好きである横溝唯一の歌舞伎役者とその舞台を題材にした作品だが、全集(旧版)に収録されていない。それは、あまりよく知られていない歌舞伎の世界をバックにしただけに、当の横溝は自信がなかったのかも知れない」旨の解説文とともに今でも紹介されることが多いけれど、なかなかどうして、私が読む限り良作の力作で横溝全集に収録されて当然の金田一ものであると思える。確かに本作にて、歌舞伎演目「鯉つかみ」での舞台上の人間消失と早変わりの舞台裏仕掛けの説明は、歌舞伎を知らない読者には文章説明を一読しただけでは分かりにくいものがあるが、本作には「『鯉つかみ』眼目の場面の仕掛け」のイラスト図解も掲載されており、それが参考になる。

さて、横溝正史「幽霊座」のあらすじは以下だ。

「稲妻座は歌舞伎興行を独占する会社から秋波を送られている小さな劇場である。いまから17年前、夏芝居の演目であった『鯉つかみ』上演中、一人の役者が失踪した。名を佐野川鶴之助という。いつしか稲妻座では鶴之助失踪の日を彼の命日とするようになり、昭和27年夏、その追善興行として再び『鯉つかみ』が上演される。かつて鶴之助が演じた滝窓志賀之助=鯉の精は鶴之助の遺児、雷蔵が担当するはずだったが、上演直前に倒れたせいで鶴之助の弟、紫紅が演じた。ところがその紫紅が水船から鉄管を通って奈落へ落ちてきたときに死亡する。検視の結果、紫紅は毒殺されたことが判明。その前後に17年前に失踪した鶴之助と見られる人物が舞台袖で目撃され、『鶴之助の幽霊の徘徊か!』。事件の不可解な謎は深まるばかりである。鶴之助のみならず戦前から稲妻座の古参連中と懇意にしていた金田一耕助はその場に居合わせたことから、例によって例の如く事件の渦中に巻きこまれてゆく。やがて金田一耕助の推理は鶴之助を中心とする、梨園にわだかまる因襲と確執、親子の愛憎の因果な人間関係を暴くことになるのだが…」

本作「幽霊座」は人間消失、そうして一度は死んだはずの人間が17年後に甦(よみがえ)り、「幽霊」のごとく「一座」の歌舞伎小屋を徘徊するという趣向である。ゆえに本作は「幽霊座」のタイトルなのであった。

横溝「幽霊座」のミソは歌舞伎の舞台裏のからくり装置を使ったミステリーで同じ事柄の反復構造にある。その舞台装置を利用して、一度目は「人間消失」の失踪であり、二度目は殺人である。しかも二回とも事件の小道具に眠り薬や毒入りのチョコレートが使われており、この辺り探偵小説愛好の読者には、往年のバークリー「毒入りチョコレート事件」(1929年)を思い起こさせ、横溝の筆はなるほど心憎い。あまり詳しく述べると「ネタばれ」になってしまうので直接には書けないが、一連の事件の発端となる17年前に「鯉つかみ」の演目中に舞台上から忽然(こつぜん)と姿を消した「佐野川鶴之助にとって相当に年の離れた××が実は××だった」という意外性の驚きが話の肝(きも)で、一般人の社会とは異なる梨園の世界の特殊な人間関係にて、「こうしたことは実際に昔も今も歌舞伎界ではありがちなこと」といった印象だ。

当時、人気随一の若手歌舞伎役者であった鶴之助の幼少の長男が自宅屋敷の庭の池で溺死し、そのショックで鶴之助の妻も若くして病死して以来、鶴之助は精神的に不安定になり17年前に失踪してしまうのだが、長男溺死の真相を知った際の鶴之助のショックときたら。長男溺死の真相には、後によくよく考えれば鶴之助自身の「身から出たサビ」の自業自得な所もあり、当時から人気で将来を期待された若手歌舞伎俳優であったのに、そうした輝かしい未来も何もかも捨てて「人間消失」で失踪したくなる鶴之助の哀愁で虚無の心境を本作を最後まで読んで事情を知れば、「まぁ、そうなるわな」の共感の思いが私はする。

佐野川鶴之助が失踪するひと月前に、金田一耕助が鶴之助から行状調査を依頼された篠原アキという謎の女。元看護師で夫殺しの毒婦、彼女は一体何者なのか。彼女は歌舞伎俳優の鶴之助と、どういう関係にあるのか。そうして彼女は今どこにいて何をしているのか!?

角川文庫「幽霊座」の杉本一文による表紙カバーイラストも素晴らしい。ただラストで、年寄りの男衆が追善興業にての紫紅殺しの犯人が分かり、だが文盲で字の読み書きが出来ないため、死の直前に工夫を凝らして犯人ヒントのダイイング・メッセージを残す「ブロマイドを血で逆さに貼りつけて」云々の金田一の読み解き口上が、やや無理があってこじつけでクドく、この点に関してだけ本作「幽霊座」にて横溝は失策をしたなとも私は思った。