アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(42)「探偵小説」

横溝正史の短編「探偵小説」(1946年)は、そのまま「探偵小説」という何となく締(し)まらない捻(ひね)りのない凡タイトルではあるが、この平凡タイトルは本作の語られ方の叙述設定に由来している。

ある東北地方の温泉地へスキーシーズンに探偵小説家の一同が訪れるも、付近の雪崩(なだれ)の影響により汽車が遅延する。そこで列車が来るまで探偵小説家が仲間と駅の待合室のストーブを囲んで当温泉町にて1ヶ月前に発生した当時、人々を騒がせた未解決の女学生殺人事件のトリックを予想する。それを事件被害の女学生の関係者が同待合室の隅にいて密(ひそ)かに聞いていて、その探偵小説家のトリック話が、はからずも当たっていた。フィクションの「探偵小説」の創作話が、現実の殺人事件の真相を見事に言い当てていた。ゆえに本作は「探偵小説」のタイトルなのであった。

横溝正史「探偵小説」はアリバイ崩しの話であり、本作品は、ある種の「鉄道ミステリー」と言えなくもない。女学生は絞殺されて神社の境内にて遺体で発見された。関係者の中でも重要容疑者として彼女が通う女学校の教師が一番怪しいのだが、遺体の死亡推定時から判断される当日の犯行時刻に、その教師は汽車で一駅離れた隣町にいて、彼には確固とした現場不在証明(アリバイ)があった。どう考えても隣町にいた教師が、犯行時刻に一駅離れた町の神社の境内にて女学生殺しの殺害現場に居合わせることは物理的に不可能なのである。果たして、その教師が女学生殺しの犯人なのか。もしそうだとすれば、アリバイ証明されている教師は、どうやって不可能犯罪を成し遂げたのか!?

(以下、トリックを明かした「ネタばれ」です。横溝の「探偵小説」を未読の方は、これから新たに本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

女学生殺しの犯人は、やはり彼女が通う女学校の教師なのであった。その際に使われたのは「遺体の移動にともなう犯行現場の錯覚」によるアリバイ・トリックである。遺体が故意に移動されて殺害現場が別の場所と錯覚されているため、錯覚させた殺人現場の犯行同時刻に犯人は物理的に存在し得ないという偽のアリバイが成立するわけである。

当日の犯行推定時刻に、その教師は汽車で一駅離れた隣町にいて、女学生殺しの犯人たる教師には確固とした現場不在証明(アリバイ)があり、普通に考えれば隣町にいた教師が、遺体の死亡推定時から判断される犯行時刻に一駅離れた町の神社の境内にて女学生殺しの現場に居合わせることは物理的に不可能である。ところが、隣町にいた教師は自宅で女学生を絞殺した後、教師宅の近所にて徐行通過する列車の屋根に彼女の遺体を乗せ、人知れず遠くの隣町まで運ばせていた。遺体が落下するのは、殺害現場から遠く離れた隣町の急カーブで車体が大きく傾く地点である。しかも、大雪の季節で急カーブ地点に落下した遺体に後続列車からの屋根上の雪が落ちて何度となく降りかかるので、雪に埋もれて遺体は一時的に隠される。それで翌日に教師は、線路脇急カーブにて列車の屋根から振り落とされて雪に埋もれている女学生の遺体を掘り起こし、近くの神社境内に移動させて、あたかも彼女が前日に隣町の神社にて絞殺されたように細工したのだった。

「遺体を移動させて殺害現場を錯覚させる」というのは、探偵小説ではよくある。いわゆるアリバイ(現場不在証明)工作の一環として利用される。要するに殺人犯からすれば、時間的・空間的に遺体を自身から出来る限り遠ざけたいわけで、だから遺体を殺害現場以外の場所に運んで移動させる。しかし、その際に自分が遺体を運んでいる所を目撃されたら、もうアウトなわけだから周囲の人々に気づかれず、労力をなるべく使わずに人知れず効率的に死体を自身から遠ざけ遠くに運ぶ方法を考える。「列車の屋根に乗せて遺体移動」というのは、かなり大胆で理にかなった効率的な労力の少ない省エネ安全なやり方だ。

「列車の屋根に遺体を乗せて移動させる」というのは、実はコナン・ドイルのシャーロック・ホームズ短編「ブルース・パティントン設計書」(1917年)が元ネタである。同様に江戸川乱歩も「鬼」(1931年)という作品で、このトリックをドイルから流用し自作品に使っている。ただ本作「探偵小説」の登場人物の探偵小説家の口上によれば、ドイルも乱歩も「列車の屋根に遺体を乗せて移動させる」トリックに難点があった。本作品内の探偵小説家によるドイルと乱歩の先行作品に対するトリック難点の指摘批評は、他ならぬ著者の横溝の意見であるわけだが、ドイル「ブルース・パティントン設計書」の場合、「このトリックの難点は、死体が線路のすぐそばにあると読者は列車の屋根から遺体が振り落とされたこと」にすぐに気づいてしまう。そうして、この弱点を補うために出来たのが後の江戸川乱歩「鬼」であり、乱歩の場合、死体は線路脇に振り落とされるのだが、そこへ山犬が現れて死体を林の中に引きずり込む。つまりは、「死体は線路から離れた林の中で発見されるので作中の探偵も作品を読んでいる読者もひっかかる」ということになる。しかし、それは僥倖(ぎょうこう)でしかなく、「そう都合よく山犬が現れて死体をわざわざ遠方に引きずっていくか」の不自然さが残る。

そこで横溝はドイルと乱歩の双方のトリック難点を克服すべく、本作「探偵小説」にて、あえて雪国の舞台設定にして、遺体が落下するのは急カーブ地点で、後続列車からの屋根上の雪が落ちて何度となく降りかかるので線路脇に降り落とされた死体は雪に埋もれて一時的に隠される。それで後日に犯人は、線路脇急カーブにて列車の屋根から振り落とされて雪に埋もれている死体を掘り起こし、線路から離れた場所に移動させればよいわけである。結果として横溝の「探偵小説」は、「降り落とされた遺体が線路近くにそのままある」というドイルの「ブルース・パティントン設計書」の難点と、「遺体は線路のすぐそばから離されてあるが、線路脇からの遺体の移動が偶然の幸運に頼っている」という江戸川乱歩の「鬼」の難点の双方を合理的に克服するものであった。

横溝正史「探偵小説」は、あらかじめある過去作のトリック難点を改良・克服しようとする発想が最初にあって、そのトリック改善を果たすような形で横溝は探偵推理の骨格をまず考え、それから人物関係や舞台設定の細部を後に継ぎ足す順序で創作されている。そうした「探偵小説の創作順序の仕組み」が分かりやすく本作から読み取ることができ、探偵小説の創作の手順がよく分かる。横溝の短編「探偵小説」は、ある意味、清々(すがすが)しいタイトル通りの「探偵小説」だと私は思う。