アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(35)「貸しボート十三号」

横溝正史「貸しボート十三号」(1957年)は、基本は陰惨・猟奇な殺人事件なのだけれど、なぜか読後にはさわやかな(?)読み味の余韻が残る不思議な探偵小説である。本作は名門大学ボート部を舞台にした金田一耕助が活躍する探偵推理であり、「学園もののカレッジ(大学)青春小説」といった感がある。話の概要はこうだ。

「隅田川の河口に浮いていた貸しボートの中で、豊満な肉体をレインコートに包んだ女性と裸の男の死体が発見された。女は絞殺された上で左の乳房を鋭利な刃物で抉(えぐ)られ、男は逆に首に紐(ひも)の跡を残しながらも心臓をひと突きされているのが致命傷であった。しかも、不審なことに二つの死体の首が、どちらも半分切られていたのだった。女は某省某課に勤める大木健造の妻の藤子、男はX大学ボート部のチャンピオン・駿河譲治ということが分かった。そして殺害現場が合宿のボート・ハウスであることも判明した。ボート部員を巻き込んだ『生首半切り擬装心中事件』と称される、この連続殺人の謎に金田一耕助が挑む」

貸しボートの中で男女の惨死体が別時刻にそれぞれ殺害されたにもかかわらず、あたかも同時に心中したように見せかけた殺人事件である。ボートの中はおびただしい血の海、しかも男女ともに生首を半分だけ切りかけの状態にて放置するという誠に陰惨・猟奇な殺人事件であった。本作タイトル通り、死体発見現場の「貸しボート」が「十三号」という不吉な数字であるのも、なるほど納得だ。

書き手の横溝は、「なぜか遺体の生首が半切り状態であること」の謎を本編記述にて異常に煽(あお)る。探偵推理小説の常識からして、おそらく犯人は遺体の身元を隠すために首を切り落として首なし死体にしようとしたのだが、何らかの事情で首切断作業を中止せざるを得なかっただけのことだろうと予測される。しかし、その事情が微妙に異なる所が何よりも本作の読み所である。実のところ「半分首を切断されかけた死体、頸部(けいぶ)をノコギリかなにかで引かれて、しかもまだわずかに胴体とつながっている男女ふたりの死体」というのは、「被害者の身元を隠すためではなくて、むしろ…」云々の殺害現場発見時を見越しての犯人による、あらかじめの誤誘導(ミスディレクション)策略という点が「貸しボート十三号」という作品の肝(きも)であり、話の面白さの源泉といえる。

そして、その複雑操作の死体処理の背後には「伝統ある大学ボート部の母校の名誉を守るため、同じ合宿所にて共同生活を送るボート部学生同士の友情やボート部員のある若者の挫折、部員の皆が好意を寄せる令嬢ヒロインへの献身」の青春群像が幾重にも絡(から)んである。実はこの点こそが、前述の「基本は陰惨・猟奇な殺人事件なのだけれど、なぜか読後にはさわやかな(?)読み味の余韻が残る不思議な探偵小説」に本作をするに至るのである。ゆえに探偵の金田一耕助が、事件関係者の皆が招かれた夕食会の席上にて、事件の全容を語って犯人が明らかにされる「最後の晩餐(ばんさん)」たるラストの場面は陰惨な「生首半切り擬装心中事件」の見かけにもかかわらず、どこまでも明るくさわやかで救いのある希望に満ちた結末なのであった。

このように事件の犯人が明かされても不思議とさわやかで明るい救いの希望があるのは原理的に言って、つまりは殺害された被害者の男女の方に大いに問題があるからであって、いわば「勧善懲悪」の筋書きだからである。実際、殺害したり生首を切り落とそうとした犯人よりも、殺害された男女二人の方が断然に「悪」であり、殺害した犯人の方は比較的「善」である。被害者には殺害されても致し方ない「身から出たサビ」の自業自得な印象が読んで私には正直、強く残った。