アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(23)「犬神家の一族」

横溝正史「犬神家の一族」(1951年)は、1970年代からの「昭和の横溝ブーム」の画期となった作品であり、横溝正史の全仕事の中でも外せないものだと思う。

やはり市川崑による横溝原作の映画化、金田一シリーズ第一弾「犬神家の一族」(1976年)の世評に与えたインパクトが強烈すぎた。これは角川映画の第一弾作品でもある。映画化された「犬神家」を観ると非常に面白い。冒頭の犬神佐兵衛(さへえ)臨終シーンでの日本家屋、屋敷内の襖(ふすま)や金屏風の美しさ、犬神佐清(すけきよ)の一度見たら忘れられない異様な白マスク顔、湖水に遺体の両足が直立して出るいわゆる「犬神立ち」、菊人形をよく見ると首が人間の生首に、劇中何度も回想挿入される犬神松子、竹子、梅子の三姉妹が青沼菊乃から家宝を取り上げる陰惨な暴力場面、犬神松子が、おもむろにタバコを吸う美しいラスト・シーンなど、映像化による視覚効果が抜群で見所が満載だ。

横溝の金田一耕助を映画化するに当たって、数ある横溝作品の中で「犬神家」を選択したのは当時の角川書店社長・角川春樹の「鶴の一声」であったそうだが、映画を作るのにまず「犬神家」を選び企画に推(お)した角川春樹の慧眼(けいがん)である。小説で読むと「犬神家の一族」は、そこまでよく出来ている作品とは正直私は思えないが、この小説は映像にすると異常に映(は)える、見応えがあって。この先、金田一の映画化を次々と進める市川崑も、本格的に映画制作に乗り出す角川書店もシリーズ第一弾に「犬神家の一族」の選択は間違っていなかったと思う。かなり、いい線を行っている。

(以下、「犬神家の一族」の主要トリックに軽く触れています。横溝の「犬神家の一族」を未読な方は、これから新たに本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

「犬神家の一族」は佐清のマスクを利用しての二人一役、ただ殺害するのではなくて見立ての連続殺人(「よき・こと・きく」)、連続殺人の実行犯がいるが、その犯人を動かすのがすでに亡くなっている死者、死んだ人の執着・怨念が生きている「犬神家の一族」の人々を(死んで亡くなっているにもかかわらず!)操作して疑心や殺人に駆り立てるところが肝(きも)である。そうして物語のラストにて犯人は、さんざん連続殺人を犯した自らの罪業が完全な自分の自由意思ではなく、死者から巧妙に半(なか)ばコントロールされて自身が操り人形に過ぎなかった事実に気づき愕然(がくぜん)とする。そして作中犯人の虚脱感が「人間の愚かさの悲哀」として横溝の探偵小説を読む者に、さらに増幅して伝わる。連続殺人の探偵小説そのものの話が非常に重くなる。この仕掛けは「犬神家の一族」同様、過去作品「獄門島」(1948年)の時から見られるものだ。こうした「連続殺人の実行犯がいるが、その犯人を動かすのがすでに亡くなっている死者、死んだ人の執着・怨念が死んで亡くなっているにもかかわらず生きている人間を操作して殺人に駆り立てる」のプロットを横溝は相当に気に入っていたらしく、戦後の金田一耕助長編にて一時期よく用いている。

また「一人二役」は探偵小説にて定番でよくあるが、その逆の意表を突いて「二人一役」というのが新鮮で良いと思う。あと、作中の「青沼静馬」(あおぬま・しずま)という名前が言葉の響きがよくて強く印象に残る。

「犬神家」の原型の話は、戦前の横溝の短編で確か「恐ろしき遺言状」のような題名であった。タイトルが曖昧(あいまい)だが、昔に角川文庫で読んだ記憶がある。横溝正史というのは、以前に短編で書いた話に肉付けし話をふくらませて長編にする、同じ話でも何度も書き直して再度世に出す(「貸しボート十三号」など)をよくやる人だ。