アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(22)「八つ墓村」

横溝正史「八つ墓村」(1951年)の概要はこうだ。

「かつて戦国の時代に三千両を携えて村に落ちのびた八人の武者を、村人たちが欲に目が眩(くら)んで惨殺して強奪。以来、この村は『八つ墓村』と呼ばれ、不詳の怪奇が相次ぐ。首謀者の子孫が突然に発狂して村人を虐殺して行方不明の事件が…これは『八つ墓』の呪いなのか!?そして、金田一耕助の前で、再び怪奇な連続殺人が『八つ墓村』を襲う」

日本の共同体の古い村落の言い伝え「落ち武者伝説」の呪いの怪奇に絡(から)ませた演出、話の膨(ふく)らませ方が異常に上手い。しかも内容は本格長編である。横溝正史は破格の超一流な探偵小説の書き手だ。冒頭の弁護士事務所にて寺田青年を「八つ墓村」に迎えにきた人物が、いきなり服毒殺人で殺されるインパクトある始まり、これで読者は、まずは物語世界に引き込まれ必ず続きを読みたくなる。「八つ墓村には足を踏み入れるな」云々の恐ろしい脅迫手紙、この忠告に従って寺田青年も、さっさと遺産相続権利を放棄してそのまま東京にいれば「田治見家当主の発狂による以前の村人連続殺人の詳細」も「鍾乳洞内の鎧甲ミイラの秘密」も、すべて知らずに平穏無事にすんだのだが、寺田青年が「八つ墓村」に行かないことには何しろ話が前に進まないので、しょうがない(笑)。

さらに「八つ墓村」は探偵小説家の横溝正史にとって、再浮上の飛躍のきっかけとなった非常に重要な作品であったと思う。

現在の私達は「横溝正史」の名前の大きさからして、彼はずっと人気の売れっ子作家で常に探偵推理の第一線で活躍していたように思われがちだが、実はそのようなことはない。横溝にも不人気で不遇な干(ほ)されの時代はあった。彼は戦前から探偵小説雑誌の編集長や作家として活動し、敗戦直後に「本陣殺人事件」(1946年)や「獄門島」(1947年)を書き探偵の金田一耕助を誕生させて一躍人気となるが、しかし、その後しばらくは不遇の低迷期に入る。

戦後の推理小説にて松本清張のような、いわゆる「社会派」の新しい書き手が出て来て、すると横溝のような従来型の探偵推理は「常に設定が犯人と探偵の対決を基本にした従来推理の構図で、現代社会の趨勢(すうせい)を取り入れてないから(例えば「偶然のきっかけで関係ない人が突然、事件に巻き込こまれる不条理」とか、「探偵でもない主人公がアクシデントで事件に引きずり込まれ解決推理に乗り出す展開」とか、「現代の発達した消費社会や都市文化の匿名性、システムを利用して事件が起こる」とか、「現代社会に暮らす人々の孤独や挫折、人間関係の歪みや異常さなど昨今の時事的な話題を即に主題に盛り込む」など)、リアリティがなく話が古臭い、語りが大げさで劇画的で作り物っぽい」と評されてしまう。はたまた「犯人や探偵、事件関係者の登場人物が皆、殺人事件が起きて事件がめでたく解決するまで、それぞれ各役割を作者から強く担(にな)わされており、まるでチェスや将棋の駒のあやつり人形のようだ。本格の探偵推理小説であるがゆえに人間そのものがリアルに描かれていない」(この種の批判を「探偵推理におけるチェス・将棋の駒論」といったりする)という散々な悪評である。それで敗戦後しばらくして戦後社会が高度成長期に入った頃には「社会派」の台頭で、横溝のような伝統的な昔の探偵推理の本格派は不遇の時代で世に認められず非常に苦労するわけである。

ところが高度成長の時代が終わり、1970年代に入って日本全国どこでも一定の都市化を経て高度資本主義な消費社会に突入する頃になると、これが不思議なことに「犯人と探偵の対決がマンネリ」などと以前は、さんざんな言われようだった従来型の探偵推理の本格派の人気が再燃してくる。しかも、日本の村落共同体の風習や伝説、おどろおどろしい怪奇な言い伝え、村社会の閉鎖的で排他的な人間関係の悲劇を自身の探偵小説のモチーフの構成要素に積極的に取り入れる横溝が得意とし「八つ墓村」でやっていたような手法が、なぜか急に評価され再人気となる。つまりは、こういうことだ。横溝が得意とし自身の本格長編に取り入れてよく使っていた日本の共同体の前近代的なものは、以前は普通に人々の生活の身近にあって皆が嫌悪し、それらは克服されるべき古い物としてあった。ところが1970年代に入り、日本社会全体が近代化で底上げされ各地域が均質に明るく都市化し、村落の古い因習や排他的な暗い掟の伝統習慣がなくなりかけてきて、すると今度は、それら日本古来の古くて非合理な物が急に懐かしく、ある意味、新鮮な物のように錯覚で思えてくる。

結局、急速に発展し古いものを駆逐していった高度資本主義の都市文化において、それらかつて駆逐された日本古来の共同体的秩序や封建的因習が、それに強いられてリアルに生きる抑圧苦役なものではなく、主に都会の人々に単に外部から鑑賞し享受され消費される「商品」として、まさに消費流通の新しい形で復活し再び戻って来たということだ。そして、そういったかつて否定的に見られていた日本古来の共同体の伝統的なものを新鮮に感じ、懐かしんで消費する消費社会の文脈にて、日本古来の共同体の伝統的な掟や風習を自分の探偵推理の中に積極的に取り入れてきた横溝正史の再評価、怒涛(どとう)の復活の快進撃が始まる。

横溝の探偵小説、金田一耕助のシリーズが幅広く、特に以前の日本を知らない都市文化の若い世代に読まれ始め再び大人気となる。いわゆる「昭和の横溝ブーム」が来る、まさしくこの1970年代から。おそらくは、そういったことである。事実1960年代の終わり頃、まずは少年誌にて漫画化された横溝正史「八つ墓村」の映画化企画が持ち上がり、当時は「過去の人」だった横溝が徐々に再注目され始め70年代初頭に角川文庫に横溝作品が多数入る。「昭和の横溝ブーム」の最大の立役者の功労者といえば、杉本一文のカバー・イラストで横溝正史の全小説を発掘し、当時ほぼコンプリートで出しまくっていた角川春樹の角川書店である。そしてメディア・ミックスで角川書店が東宝とタッグを組んで、監督・市川崑、主演・石坂浩二で角川映画第一弾「犬神家の一族」(1976年)の制作・公開となる。皆さん、ご存知の通り時代は「横溝ブーム」の最高潮を迎えるわけだ。

1970年代に入って横溝正史の探偵小説を角川文庫に入れる際、角川春樹の非常に面白い話があった。

前述の通り、70年代に入るまでは新しいタイプの「社会派」の推理小説に押され、不遇で干されていた横溝正史。不人気の時代で彼はリアルタイムで世間にあまり知られていなかった。当時、大衆路線の新しい角川文庫を作ろうとしていた角川春樹が「今度の新しい角川文庫には推理小説の娯楽物を入れるべき」と考えたが、例えば江戸川乱歩はすでに講談社に押さえられていた。そこで「乱歩がダメなら横溝」ということになって、角川文庫に横溝作品を入れてもらえるよう角川春樹は横溝の家に頼みに出向く。

「もう正史は亡くなってるだろうから、遺族のご家族の方に了承をもらって契約して」と(笑)、角川春樹は考えながら横溝邸に行ったら、お爺さんが出て来て応対して「君せっかく来たんだからお上がりなさいよ」と言われ、話しているうちにそのお爺さんが横溝正史本人と気づいて角川春樹は非常に驚いた。「横溝さん、ご存命でしたか!」←(笑)。(しかし、この話は角川春樹の脚色であり、本当は事前に約束して「横溝は体調不良で当日、本人に会えるかどうか分かりません」の確認を家人から得た上で角川は成城の横溝邸に出向いている)。それから横溝正史と角川春樹の絆が深まって、角川は横溝のことを「もう一人の自分の親父」と思うようになる。とても良い話だ。

以上のように「八つ墓村」は横溝正史にとって、後の「横溝ブーム」再浮上の飛躍のきっかけとなった大変に重要な作品といえるのである。