アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(17)「真珠郎」

横溝正史「真珠郎」(1937年)は戦前に雑誌「新青年」に連載にて、昔の角川文庫のカバー絵、杉本一文イラストのごとく、湖水にて夜行虫でヌラヌラと透けるように怪しく光る女性的な(!)殺人美少年「真珠郎」にまつわる奇怪な事件を描いたもので、同じく戦前の「新青年」に連載の「塙侯爵一家」(1932年)と並んで私は好きな横溝作品だ。

冷酷で猟奇な殺人美少年たる「真珠郎」の容姿といえば、「房々と額に垂れた金色の髪、玉虫のようにネットリとした輝きをおびた瞳、濡れているような唇。あまりの異常な美しさに、私は思わずチリチリとふるえあがったのである」。その「真珠郎」の境遇、彼の出生や成長の秘密をめぐるドス黒い陰謀が、いかにも戦前昭和の「エロ・グロ・ナンセンス」ぽく、江戸川乱歩の好長編「孤島の鬼」(1930年)に話の味が何となく似ている感じがしないでもない。

「鬼気せまるような美少年『真珠郎』の持つ鋭い刃物がひらめいた!瞬間、凄まじい悲鳴を上げて展望台からころがり落ちた男。夕日が血塗られた刀を一層赤く照らした…。休暇中の旅行先で私は恐ろしい殺人事件に巻き込まれた。事件直前、不吉な予言を残して立ち去った老婆は何者?同行した友人の突然の奇行は?浅間山麓に謎が霧のように渦巻く」(角川文庫版、表紙カバー裏解説)

本作で起こる連続殺人は三つ、被害者は三人で、いずれも切断で首上無し、ないしは顔面毀損(きそん)で着衣から本人らしいとせいぜい推察されるだけの、いわゆる「顔のない死体」である。それら死体は着衣から被害者と推定される人物と果たして同一か、もしくは別人物で入れ替わりはあるか。「顔のない死体」の正体は一体、誰なのか。しかも、犯人と目される殺人美少年たる「真珠郎」を話の語り手の「私」が三度とも殺人の第一発見者となり、遠くから「真珠郎」を目撃する、電話ごしに彼の声を聞く、街角で偶然に彼とすれ違う、周りの者から「真珠郎」を見かけた話を頻繁に聞くという趣向である。一人の人物がいつも殺害現場に居合わせ、これ見よがしに犯人の凶行を目撃してしまう。語り手の私が実に不自然な、誠に好都合な「善良すぎる」犯罪目撃証人になってしまうわけで、この辺りの出来すぎた「偶然」の連続が壮大かつ巧妙に仕掛けられた欺瞞(ぎまん)の罠の策術か。 視覚上位な「見る・見られる」の近代の人間主体の要訣を押さえた周到トリックだ。

ただ横溝の「真珠郎」は雑誌「新青年」に半年連載で200ページ程度であり、話の壮大さの割には枚数が少なく、特に後半の謎のクライマックスからラストへ向けての事件解決の展開が早く、足早に「真珠郎」の謎をさっさと回収して淡白に話が終わってしまう。あの殺人の際に犯人は、どう準備をし、まんまと犯行に移り結果、上手く切り抜けたのか、そもそも良心を持たない冷酷・猟奇な殺人美少年「真珠郎」生誕の秘密とは何かなど、細かで密な策略・陰謀の事件の核心部分に対し「横溝は説明不足」の感が拭(ぬぐ)えず、普通に読んで面白くて充分に楽しめるが、あえて言えば、そこが「真珠郎」という作品の難点だと思える。また本作では事件解決に探偵の由利麟太郎が乗り出すが由利先生の推理や活躍場面記述も少なく、読んでいて正直、何だか物足りない。横溝正史「真珠郎」は話のプロットは抜群、怪奇の雰囲気も満点で探偵小説として今のままでも及第だが、願わくば「もう少し枚数を増やして丁寧な書き入れ記述の長編にして再度、読み直してみたい」の率直な感想だ。

最後に横溝正史執筆の歴代の探偵小説の中でも群を抜いて印象深く、私には「最高な始まり」と思える横溝の「真珠郎」の傑作な書き出しを。

「真珠郎はどこにいる。あの素晴らしい美貌の尊厳を身にまとい、如法闇夜よりもまっくろな謎の翼にうちまたがり、突如として世間の視聴のまえに踊りだしたかと思うと最初は人里離れた片山蔭に、そしてその次には帝都のまっただ中に、世にも恐ろしい血の戦慄を描き出した奇怪な殺人美少年。いったい、あいつは、どこへ消えてしまったのだろう」