アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

江戸川乱歩 礼賛(6)「陰獣」

江戸川乱歩は、昭和の始めに明智小五郎の長編物「一寸法師」(1927年)を「朝日新聞」に連載して、あまりの出来の悪さに自己嫌悪に陥り「一寸法師」連載終了後に失意の放浪の旅に出て、しばらく休筆で筆を折る。江戸川乱歩という人は探偵小説家として案外いい加減な人で、連載長編にてあらかじめ話の結末の種明かしのトリックや犯人を考えずに、そのまま書き出す。行き当たりばったりで場当たり的に書くから長編の話が途中で破綻して連載が続かなくなる。

これは乱歩自身が「特に長編に関し、私は前もって話の筋や結末を考えずに書き出すので、連載で書き進めるうちに話の辻褄が合わなくなってきたり、初めに書こうとしたテーマから内容が次第に外れてきて失敗に終わり、いつも自己嫌悪におちいるのである」旨を後に述べており、プロの作家としてあるまじき江戸川乱歩である。日本の探偵小説ジャンル確立の第一人者の大御所の重鎮なはずなのに、そのいい加減さが笑える。「一寸法師」の後に傷心でしばらく筆を折って休んで、休筆から復帰の第一弾が「陰獣」(1928年)となるわけである。

(以下、「陰獣」の核心トリックを明かした「ネタばれ」です。乱歩の「陰獣」を未読な方は、これから本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

「陰獣」は雑誌「新青年」に掲載で、「新青年」といえば乱歩が以前に「二銭銅貨」(1923年)でデビューを果たし、横溝正史も一時期は編集長兼作家として頻繁に寄稿し、しかし横溝が大喀血で原稿を飛ばした時、当時まだ無名だった小栗虫太郎をピンチヒッターにして「完全犯罪」(1933年)を載せ小栗を世に知らしめた日本における探偵小説を一時期、強力に牽引(けんいん)した雑誌だ。そして江戸川乱歩の「陰獣」を「新青年」に掲載し、広告や原稿料など様々な面で「一寸法師」以来しばらくブランクのあった乱歩を支え乱歩復帰の道筋を盛り立てたのは、当時「新青年」の編集を任されていた横溝正史であった。乱歩の復帰を助ける横溝、江戸川乱歩と横溝正史の二人の友情が「陰獣」という作品が世に出る背景にあって、そこが昔から私が乱歩の「陰獣」が好きな理由だ。「陰獣」に関する、この辺りのことを乱歩みずからに言わせると、

「朝日新聞に連載した『一寸法師』に自己嫌悪を感じて放浪の旅に出てから一年半、雑誌『改造』から頼まれて書き出したのだが、依頼枚数の四倍近くになってしまったので、我儘(わがまま)の利(き)く『新青年』に廻したところ、当時の編集長・横溝正史君が非常に宣伝してくれたので、雑誌の再版、三版を刷るという売れ行きをみたのである」(「著者による作品解説」)

ただ小説「陰獣」の肝心の中身は正直、大したことはないと私は思う。乱歩の「陰獣」の目玉のトリックは一人三役である。あとは今まで乱歩が書いてきた自身の過去作品を改題し作中小説として利用して使いまくった自作の内輪(うちわ)ネタ落ちのセルフ・パロディだ。すなわち「屋根裏の散歩者」(1925年)→「屋根裏の遊戯」、「一枚の切符」(1923年)→「一枚の切手」、「D坂の殺人事件」(1925年)→「B坂の殺人」、「パノラマ島奇談」(1927年)→「パノラマ国」と、乱歩は過去作品にての自作トリックのネタを二次使用で使いまくる。

「一寸法師」で失敗し自信をなくして、しばらく休んだ後の久々の復帰作なため、過去の自作品の切り貼りコラージュ的な自己リハビリの薄手な作品となってしまうのはしょうがないの感慨は読後に残る。やはり「陰獣」は江戸川乱歩が自身の過去作品の「遺産」を利用し「貯金」を切り崩しながら書いているので、余裕や新しさがない。しかし小説の中身は今一つではあるが、江戸川乱歩「陰獣」は休筆から復帰のブランク事情や乱歩と横溝の友情が感じられて不思議と強く印象に残る。江戸川乱歩の全仕事の中でも外せない作品だと思う。

それから、その後の乱歩も前途多難だ。「新青年」にて復帰の「陰獣」で乱歩は全く本調子でなく、この後「新青年」に連載の「悪霊」(1934年)で江戸川乱歩は「一寸法師」以上の大失態を遂にやらかす。相変わらず結末を考えず場当たり的に長編連載をやるため話が破綻し、とうとうラストの結末が思いつかず続きが書けなくなって読者に詫(わ)び状を書いて連載中止、前代未聞のギブアップ宣言をしてしまう。ある意味ケタ違いで規格外の大きさ、型破りで破格な探偵小説の書き手、江戸川乱歩である(笑)。