アメジローのつれづれ(集成)

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江戸川乱歩 礼賛(20)「一寸法師」

江戸川乱歩は、昭和の始めに明智小五郎の長編物「一寸法師」(1927年)を「朝日新聞」に連載して、あまりの出来の悪さに自己嫌悪に陥り「一寸法師」連載終了後に失意の放浪の旅に出て、しばらく休筆で筆を折る。このことを後の乱歩自身の回想文にて言わせると、

「さて、この年の初め私は『一寸法師』と『パノラマ島奇談』を書き終わると(殆ど同時に終ったように記憶する)、いよいよペシャンコになってしまった。作物についての羞恥、自己憎悪、人間嫌悪に陥り、つまり、滑稽な言葉で云えば、穴があればはいりたい気持ちになって、妻子を東京に残して当てもなく旅に出た」(「探偵小説十年」)

江戸川乱歩「一寸法師」は、「朝日新聞」に掲載された連載小説である。山本有三の連載小説が作者病気のため中絶することとなり、次に予定連載であった武者小路実篤のものが紙面掲載に間に合わず、その空白期間を埋めるピンチヒッターとして乱歩に連載依頼が来たのだった。大正昭和の時代の当時、探偵小説を「朝日新聞」のような大新聞が、しかも朝刊に載せるというのは極めて異例であり初めての試みであった。それだけのメジャーな大仕事で世間に注目された探偵推理連載の「一寸法師」であったが、書いた本人は作品の出来に相当の不満があったようで、当の乱歩に言わせれば「書き終わると、いよいよペシャンコになってしまった。作物についての羞恥、自己憎悪、人間嫌悪に陥り、つまり、滑稽な言葉で云えば、穴があればはいりたい気持ちになって、妻子を東京に残して当てもなく旅に出た」。乱歩は連載終了後に失意の放浪の旅に出て、しばらく休筆で筆を折っている。

「一寸法師」は、まさに犯人たる「一寸法師」の暗躍に絡(から)み、主人公の一人である小林紋三が夜半に一寸法師の奇妙な行動に偶然に出くわした後の尾行に始まる、いわゆる「奇妙な発端」、「令嬢消失」の令嬢を屋敷内から連れ去る際の絶妙な人間の隠し場所の設定、多くの人々が行き交う百貨店の服飾売り場にてマネキン人形と本物の人間の一部をすげ変える遺体ばらまきという衆人に殺人を見せる劇場型犯罪の趣向、化粧クリームに残った指紋の証拠ら小物使いの上手さ、素人探偵・小林紋三と名探偵・明智小五郎との推理合戦、事前に関係者を買収したり部下をあらかじめ潜入させておく名探偵・明智小五郎の探偵捜査の手際(てぎわ)など、探偵小説としての読み所はいくつもある。

なかでも本作の最大の読み所は、真犯人の正体であり(「一寸法師」は犯行を行ってはいるが真犯人ではない)、「一連の誘拐殺害事件の犯人は一体誰なのか!?」真犯人と目される怪しい人物が複数人出てきて、話は中途で何度もひっくり返され二転三転する。そうして、ラストでの明智小五郎による「犯人は確かにあったのです。ただそれがあまりに意想外な犯人であるために、だれも…気がつかなかったのです」の発言に尽きる。確かに犯人は「だれも気がつかない、あまりに意想外な」人物なのであった。この辺り、作中の明智以外の関係人物たちや当時の「朝日新聞」連載で本作を毎日読んでいた読者、ならびに後に乱歩の「一寸法師」を読む探偵小説愛好の人々も皆が少なからず驚く、なかなか推理しにくい事前予測が困難な「意外な真犯人」の結末である。

乱歩も本作の出来に関し、そこまで悲観的になって自己嫌悪に陥るほどのことはないのではないか。私が読む限り、確かに江戸川乱歩「一寸法師」は探偵小説の名作とか傑作とまでは到底いえないが、あからさまな失敗作や破綻のある致命作でもなく、通常の出来の並の作である。特に当時の「朝日新聞」購読者、まだ探偵小説をよく知らず、それまで読んだことがない一般読者に向けて「探偵小説とはこのような趣向の読み物の娯楽の文学だ」と知らしめる「探偵小説紹介の入門編」の入り口程度のものとして、十分に及第点に達しているように思う。

本作にて描写される「一寸法師」の風貌とは、例えば以下のようなものであった。

「十歳くらいの子供の胴体の上に、借り物のような立派やかなおとなの顔が乗っかっていた。それが生人形のようにすまし込んで彼を見返しているのだ。はなはだ滑稽にも奇怪にも感じられた」

小さな子供の体躯(たいく)で、しかし立派な大人の顔をした「一寸法師」が不気味に笑い、死人の片腕を抱えて浅草の夜の町を軽妙に闊歩(かっぽ)したり、集落に火を放ったりの悪行三昧を尽くすわけである。こうした「一寸法師」の視覚インパクト、際立った奇怪さが当時の読者の興味を大いに惹(ひ)いて話題となり、本作は連載終了後、数回に渡って繰り返し映画化されている。