アメジローのつれづれ(集成)

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大学受験参考書を読む(6)安藤達朗「大学への日本史」 大久間慶四郎「大学への世界史の要点」

駿台予備学校の安藤達朗著、研文書院刊「大学への日本史」(1973年)は、丁寧に細かく書かれた非常に良い参考書だ。本書の「あとがき」を読むと、まだ安藤師が30代の頃に書いた本ということで「当時は、このような大著は数人が分担して執筆し、有名な先生の名義を借りて出版する、というのが通常であった。私が単独ですべてを執筆し、若造であった私の名で出版するというのは、私にとっては無謀といえる作業だったし、研文書院にとっては大英断だった」。

なるほど、30代の若さでこれだけのものを分筆なしに独力で原始・古代から近現代まで一気に書き抜くというのは確かに優秀で圧巻である。「大学への日本史」を上梓した後、「本書の完成によって、私は、私ほど広く深く日本史全体に通暁しているものはいない、という自負をもつことができた。その自負は、単なる自惚れではなく、間違いないものだったと思う」という自身への感慨、安藤の「自負」も充分に納得できる。

「大学への日本史」は、入試に出る重要歴史事項の解説まとめ以前に、最初に「第1編・日本史ガイダンス」にて歴史に関する考え方や理論、時系列の時代区分・発展段階説と場所概念の地域別文明の生態史観を一通り概説している所がいかにも安藤達朗らしい。大学の「史学概説」の講義でやるような学術的内容で、定番のクローチェ「歴史はすべて現代の歴史である」の引用から、よく言われる「価値の歴史的被制約性」「歴史的投企」から「プロトコル言明」、マルクスの史的唯物論の解説まで幅広くやっている。正直「大学への日本史」にて、これから大学合格を目指して受験勉強に励む高校生や浪人生には、まだ習得に早すぎる内容である。それこそ無事に合格を果たした後、大学の「史学概説」の講義に出て大学生が積極的に学ぶべき事柄だ。大学に入る前から「価値の歴史的被制約性」や「プロトコル言明」を知っていても、という思いは正直ある。

しかしながら、そういった大学生になってから身につけても十分に間に合うはずの歴史学の理論的なことまで「大学への日本史」の冒頭第1編に書いてしまう安藤達朗の手加減しない本気の容赦のなさが、この人の教師としての誠実さ優秀さであり、本物の本格派志向の魅力であるといえる。

はたまた「日本史の学習法」のアドバイスで、安藤師が「理解」とは、すなわち「自己は外的環境との相互関係の下にあり、そこでの自己と環境との交渉を構造連関というが、その構造連関における生を追体験し把握する過程を理解という」とするディルタイの「理解」の主張を律儀に生真面目に引用する所に思わず私は笑ってしまう。確かに、日本史学習に際し「機械的な丸暗記ではなく、歴史の流れや内容を理解して覚えろ」とよく言われるが、その「暗記ではない理解」にディルタイの「構造連関における生の追体験」のような対象への主体的な働きかけ「理解」は、大学受験では必要ない。せいぜいテストにて正確に間違えず解答できるよう歴史事項を当面は忘れずに覚えることが大切であって、何しろディルタイ的な対象に共感する生の追体験の本質的理解を歴史学研究で飯を食ってるプロの大学教授や研究者、大学院生が実際にやれているかといえば、果てしなく怪しい。そうしたディルタイ並みの「構造連関における生の追体験の理解」を歴史対象に向けて実践できている研究者など現在でも、ごくごく一部の少数ではないか。

しかし安藤師が、ここでも容赦なく手加減せずに本気で律儀に「生の哲学」のディルタイの「理解」の引用説明をするあたりは、さすがであり、本物の硬派な学問である。安藤達朗、この人は間違いなく信用できる。

巻末の「部門別の整理」や「史料演習」も上手くまとめられており使い勝手がよく、大変に有用である。かつ、この人は本編中に頻繁に掲載されてあるような細かで複雑な非常に入り組んだ関係性の歴史事項を一見にて即座に見切って理解させる視角図式化の図表まとめが、非常にこなれているの好印象を持つ。

ところで、「大学への日本史」における安藤達朗に関し常々私が思うのは、安藤師はかなり高級で上品な人ということである。安藤師の参考書を読んでいて、私が時に物足りなく不満に感じるのは、安藤が政治的や時事的な発言を最初から出来るだけ述べないようにしているところだ。例えば近代史、十五年戦争にての日本の大陸侵略の果てしない膨張路線に対する批判など、近代日本における国家主義や軍国主義に対する直接的批判記述や私的な見解は、安藤師の参考書には、ほぼ皆無である。ならば、この人は近代日本に関し問題意識や批判精神が全くないのかというと決してそうではない。「大学への日本史」と駿台文庫「日本史講義」全五巻(1991─96年)を併(あわ)せて通読すると分かるが、安藤達朗なりに日本近代に対する明確な批判の問題意識はある。安藤達朗という人は近現代史に関する限り、かなりオーソドックスな戦後日本の歴史学の主流な立場を踏襲する人だ。

すなわち、「近代日本が国家主義の軍国主義に走るのは近代思想受容の際、西洋の軍事科学には便利で有用なものとして積極的にコミットするけれど、肝心のそれら科学や合理性を生み出した根本の西洋の近代精神は取り入れない。ゆえに近代科学と前近代的な封建倫理とを依然として共存・併用させる。個人主義や人権思想など民主化の側面が近代日本は圧倒的に弱い。この二元的受容の使い分けの折衷主義が、つまりは日本における近代化の不足であり、その精神的な前近代性の近代化の不足から天皇制国家の帝国主義や軍国主義の全体主義にブレーキが効かず、近代日本は強力な超国家主義として暴走する」とした、近現代の日本に対し「内面的な近代化の不足」を問題とする戦後歴史学の一般的見解を安藤達朗もとる。

「ヨーロッパ以外の地域では、近代は軍艦と大砲に象徴される圧倒的な軍事力としてあった。…ヨーロッパの中では政治の理念とされた自由・平等・人権などの観念は片隅に押しやられた」「明治以後において、欧米の達成した成果を取り入れることに急で、佐久間象山の『西洋技術、東洋道徳』という言葉にも示されるように、その成果を生み出した背景である近代の精神には眼を向けないという傾向が強かった」(安藤達朗「日本史講義1」)

安藤達朗は、どこまでも高級で上品なのである。自分が考えていることを直接的に全部は言わない。時事的・政治的なことを、あらかじめ抑えて参考書を執筆しているフシがある。

かたや、低俗で下品な人ほど自分の考えていることを人前で全力で全て語りたがる。一般に自身の考えを相手に説得力を持って伝えたい場合、自分が思っていることを全部言葉にして出して言ってしまっては駄目だ。全部言ってしまうと、言外の深まりがなく余裕がなくなって説得力がなくなるから。適度に抑えて、いつも知っていること・考えていること・思っていることの6割くらいしか言わない、それくらいが説得力の出る、ちょうどよい加減である。しかしながら初心者や低俗・下品な輩(やから)は、クドく全部言って詳しい説明を施さないと相手を説き伏せられない不安に常に苛(さいな)まれるから、全力で知っていること・考えていることを全部しゃべって自分の手の内を全てさらけ出して、逆に余裕がなく説得力が出ないマイナス印象を相手に与え、勝手に自滅する(笑)。そういう失態を日常的に私はよく目にする。

安藤師は大学受験生を前に自分の考えていることを全て吐き出さないし、全力で披露しない。あえて政治的や時事的なことは強く言わない。しかし他方で、それは一般論として確かに一つの「つつましい美徳」ではあるけれど、何か物足りないものを感じてしまうのも事実だ。歴史学は過去の事柄を学習していても、それが現代状況に還元されて時事的・政治的な価値判断を本当は繰り込まなければいけないので。なぜならクローチェ「歴史はすべて現代の歴史である」わけだから。

そして「大学への世界史の要点」(1976年)を執筆の大久間慶四郎は「大学への世界史」にて、特に近現代史に関する時事的・政治的なことをかなり自由奔放にコラム欄も最大限に駆使して直接的に書く。「英仏による中国占領での円明園の焼却」や「ナチスの反ユダヤ主義のユダヤ人虐殺」や「スターリン独裁体制下での大粛正」など、「歴史上の蛮行」として糾弾する内容で、非常に批判的に「もう絶対に許せない!これでもか」というくらいの勢いで書きまくる(笑)。もちろん、近代日本に関しても「トピックス」のコラム「愚行インパール作戦」にて、牟田口中将の作戦計画の無謀さを牟田口への個人攻撃にして大久間は痛烈に批判している。

「大学への世界史」の大久間が非常にノリノリの前のめりで、現代の価値判断の立場から時事的・政治的なことを自身の参考書に自在奔放に書き入れるのに対し、かたや「大学への日本史」の安藤は、現在からの時事的・政治的な価値判断を極力抑えて、ほとんど述べない。自身の政治的立場を紙面にて積極的に披瀝(ひれき)しない。同じ「大学へのシリーズ」であっても、大久間慶四郎と安藤達朗の二人の歴史の執筆姿勢の違いが私には常々おもしろいと思える。

思えば、大久間慶四郎はかつての駿台予備学校世界史科主任であり、同様に安藤達朗はかつての駿台予備学校日本史科主任であって、お二方とも駿台の史学教科主任の輝ける碩学であった。