アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

大学受験参考書を読む(31)出口汪「現代文講義の実況中継」(「××力」信仰批判)

ここ数年、書店に行けば「××力」や「××する力」の似たようなタイトルの教育本・自己啓発本が、やたら大量生産で販売されており私は閉口している。読解力、集中力、直感力、会話力、論理力など。挙げ句の果てに質問力、段取り力、雑談力、人脈力、逆転力、鈍感力など、どう見ても「××力」の形式に勝手に当てはめて無理矢理に造語しただけのワケの分からない、普通に考えて明らかに怪しい能力だ(笑)。同様に「××する力」系も、伝える力、聞く力、論理の力、続ける力などのタイトル本が満載である。

「世の中の人々はそんなに力が欲しいのか。それほどまでに能力信仰なのか」と思わずにはいられない。しかし、そうした昨今の力崇拝の能力信仰隆盛の由来も、社会状況に絡(から)めて理解できなくはない。不況で日本経済は厳しく、この先の見通しは依然として暗い情勢を背景に倒産、解雇、失業で、いつ路頭に迷うか分からない。そうならなための自衛策、まさかの万一の時の打開策として、同様により豊かな生活、充実した幸福な人生を送れる社会的成功のカギとして今の世の中、求められ生き残れるのは能力があって実力がある者だ。能力があるに越したことはない。現代社会にて家柄の出自や個人の運は、あまり関係ない。そうしたわけで取り組むべきは「自己生存マネジメント」としての教育、自己啓発という個人の能力伸長である。能力があることは好ましい、あって損はない。否(いな)、能力は頼りになる。むしろ自己成長の意欲なき者は去れ。能力のない者は現代社会において淘汰されて当たり前。社会で脱落するのは、能力開発に自己投資しない怠惰、絶えざる学び直しで自力で必要な能力を更新・伸長しない自助努力の欠如ゆえの自己責任のような次第にエスカレートした「能力自己責任論」とでもいうべき風潮にいつの間にかなってしまって、そういった文脈状況の中で個人の力崇拝の能力信仰がどんどん幅を利かせ不気味に肥大化していく。その結果、街の書店には「××力」の類いの能力本があふれ、やたら人々が「力を欲しがる」事態になるわけだ。

だが、よくよく考えてみれば万一のための「転ばぬ先の杖」、もしくはより良い生活のための「成功のカギ」として人々の不安や欲望に外部から働きかけて、半(なか)ば強迫的にスキルアップの能力伸長に誘導し商材を売りつける資格・検定商法は昔からあった。しかし昨今の能力本の場合、かつての資格・検定商法よりもかなりタチが悪くて、きちんとした実体カリキュラムや資格検定付与の制度的保障の事後ケアなく、書店の店頭販売でとりあえずは手早く売って買わせて、「××力」など怪しい造語タイトルで顧客を引きつけ力系の啓発本を繰り返し何冊も購入させる。類似の「××力」が量産され、とにかく売り出す。「××力」系の書籍ばかり大量に連発で出す出版社や著者、一人の著者で短期間に本を仕上げ何冊も出しまくる猛者(もさ)さえいる。とりあえず普通の人なら気づくはずだ、書籍を執筆して出す方も、本を購入して読む方も「常識的に考えて一人の人間が、そんなに何冊も短い間隔で書籍を上梓できるのは、さすがにおかしい」と。普通の人は気づく。特に読む方はいつか気づいて購読するのをやめるだろう。

ところが、そういった能力信仰の啓発本を打ち止めなく類似書を連発で出す方(出版社や著者)は、なぜ打ち止めなく連発できるかといえば、「自己啓発」や「教育」などの実質的中身の重要性よりは、商材提供でうまくラベルを変え商品ラインナップを充実させて、とりあえず出し続ければ確実に利益を生み出す高性能な消費材という認識があるからに他ならない。そうすると、能力本を執筆・出版する当事者にとって書籍上梓は単なる商材提供で、そこでは売上の金儲けの論理が優先するから、同じような内容の類似書連発でも「本当にこのような情報商品を書籍にし連続して読者に売ってよいのか」倫理的自己規制や罪悪感のモードが働くことなく次々と出せる。だから、この手の能力信仰本には「自己啓発」や「教育」の正当ラベルとは裏腹にセールスで集金・課金の胡散臭(うさんくさ)さが絶えず付きまとう。

実際に能力本の類を試しに購入して読んでみると、新たな売り込み攻勢を読み手にかける仕掛けが施されており、高性能な「ネットワーク商品」として、なるほどよく考えられている。売り込み勧誘の回路がネットワークの網の目のように組み込まれていて本一冊を購入しただけでは到底、終わりそうにない。挟みこみチラシや本文にて週末セミナーや泊まりがけの勉強会への勧誘あり、その参加者の体験の喜びの声(?)あり、ホームページ紹介もあり、そこにリンクすると、さらにメルマガ購読、講演会の案内、高額な映像教材の一式購入を次々と勧められる。しかも、その「××力」として提供される内容は大量消費材の商品であるがゆえ、買い手であるお得意様顧客の歓心の満足度を満たすために商品説明を分かりやすく(「親切丁寧な指導解説で、誰にでも出来る」)それらの使用価値をすぐに実感できるようにしようとする(「習得後すぐに使えて即効果を体感」)と、そういった顧客提供の商品ニーズに応じて難解さや長時間の忍耐を要する習得は排され、連続性や整合性を欠いた中身の薄い単発知識や単なる情報、到底スキルとは呼べないコツもどきが安易にパッケージ化され切り売りされたりする。なかには驚くほどの効果が出て(「今までの自分は何だったのか、目からウロコ。あなたの人生が確実に変わる」)、ひとたび購入しさえすれば、あらゆる場面で繰り返し何度も使え汎用性がある(「一度身につけてしまえば、あなたの人生を守る生涯の武器になります」)といった過激な売り文句さえあって「本当かねぇ」、少なくとも私は疑わざるを得ない。

もちろん、私は能力開発や自己啓発そのものを全否定したりはしないが、少なくとも能力の習得は「簡単に短期間で得られ劇的効果が出て、しかも万能で一生使い続けられる」などそんな甘いものではないはずだ。習得には地味で地道な反復の訓練が伴うし、数年いや数十年単位の時間がかかるかもしれない。時に失敗したり挫折したり、しかし継続し、その都度見直し修正して自身で工夫の努力をしながら育て一生をかけて開花させていくものではないか、個人の能力というものは。少なくとも能力本を数冊読んだだけ、その書籍にいつの間にか誘導されて週末セミナーに参加したくらいで即効果が出る、お手軽でインスタントなものではないと私は思う。

昨今の能力本における能力習得のイメージは、ちょうどオンライン・ネットゲームのアイテム課金の発想に似ている。しかも人の実人生をゲームの冒険に重ねて、あの手この手でアイテム課金する陳腐なロールプレイング・ゲームだ。要するに人間の実人生も山あり谷ありの冒険のロールプレイング・ゲームだから、「転ばぬ先の杖」もしくは「成功のカギ」として各人が人生の各ステージにて(年齢、性別、時代状況など)、能力本購入やセミナー参加を通じて、その都度便宜、「××力」という万能魔法の能力アイテムを金銭購入して自身にプラスする。すると自分の能力数値がアップして有能になって強くなる。あたかも「××力」という能力が客体としてあって、それを購入して外部から装備する。能力の物象化である。それで、しばらくすると「能力自己責任論」で人々の不安が煽(あお)られたり「人生の成功」をちらつかせられ誘惑されたりして、また別の魅力的(?)な「××力」のアイテム課金を勧められ、つい次々と金銭購入してしまう。自分の中で根気よく辛抱強く能力を育てるのではなく、あたかも人間の能力が外部からその都度、プラスで付与される最新モードの装備アイテムのような発想である。完全なゲーム脳だ。しかも前述のように、次々に課金オススメで売りつけられる「××力」なるアイテムは大量消費材の商品(文字通りの「課金アイテム」)であるがゆえに、中身の薄いフェイクでガラクタな可能性が大なわけである。

その他にも教育や自己啓発というのは、能力獲得に終始せず、目に見えて直接の具体的な成果の利益が出ない領域も本来は幅広く含むものなのに、能力信仰で能力だけに焦点が当てられると常に「どれだけ上手にスムーズにできるかどうか」が唯一の目的基準となったり(方法知への矮小化)、教育や自己啓発の動機が常に「その能力獲得により、どういった利益を当人にもたらすか」になってしまう問題もあり(成果や利益の見返りを常に求める教育)、能力信仰に基づく教育や自己啓発には多くの弊害を指摘できる。

ところで、大学受験参考書を執筆の予備校講師で受験勉強の内容を「学び直し」で社会人用に改変・応用して示したり、効果的な勉強法のコツを伝授する自己啓発本を執筆して、その分野にデビューする人も少なからずいるのではと私は思っていた。そうしたら案の定、いた。それが現代文のベテラン・カリスマ人気講師、出口汪(でぐち・ひろし)だった。そして、これまで書いたような昨今の「××力」本ブームに対し、人々の力崇拝の能力信仰の風潮に疑問を持つ私にとって彼の近年の活動は衝撃であった。

出口汪の主な著作といえば「出口汪の論理力トレーニング」(2014年)、「センター現代文で分析力を鍛える」(2014年)、「東大現代文で思考力を鍛える」(2013年)、「ビジネスマンのための国語力トレーニング」(2014年)、「大人の日本語力が身につく本」(2013年)、「考える力を身につける本」(2012年)などである。「論理力」「分析力」「思考力」「国語力」「日本語力」「考える力」の「××力」の連発だ。この人は元々、大学受験の現代文を専門に教える予備校講師である。日常的に大学受験にて出題されるレベルの現代文評論や思想書の類いは普通に読んでいるはずだ。しかも、一般的な受験生や通常の社会人よりも内容を掘り下げてより深く精密に読解できるはずである。何しろ現代文読解のプロなのだから。

しかしながら「××力」の能力信仰本が量産される現状を昨今の社会背景から読み解くリテラシー能力もなければ、人々が力崇拝の能力信仰に走る風潮に対する問題意識も皆無である。むしろ逆に出口本人が「××力」や「××する力」系の能力本を相当な数で大量に連発で出しまくって頻繁に講演会やセミナーを開いて生徒を集め、精力的に教材販売の経済活動をやっている。そんな出口汪の問題は、これまでに私が述べた「××力」や「××する力」の能力本がはびこる現代社会の人々の肥大化した力崇拝や能力信仰の問題そのものである。「能力自己責任論」容認の風潮、高性能消費材たる教育カリキュラムの商品化、そのため教育内容よりもセールスの集金・課金が優先してしまう問題、顧客に配慮ゆえの教育商品の内容のインスタント化、能力習得イメージが完全にゲーム脳、成果や利益の見返りばかりを常に求める能力教育の弊害など。

おそらく、出口からしたら彼は教材カリキュラムを売りまくる自分の今の仕事を正当化するだろう。出口「先生」は「論理力」が大変にある方だから(笑)、昨今の能力信仰の風潮にワル乗りして「××力」の著作を連発する今の自分の仕事も難なく論理的に正当化できる。「一人でも多くの人たちに論理力を伝えること。それによって、人の人生を変え、世の中を変えていくこと。これが私のミッションだと自負しています」と強引に自身の「ミッション」(使命)にしたり、それこそ能力信仰を「一日生きることは、一日進歩することでありたい」というような人間の美しい(?)向上精神の発露に結びつけたりして。

だが、彼は人間として大切なことを見失っている。例えば氏のブログ「一日生きることは、一日進歩することでありたい」での2014年1月2日の記事「一回限りの人生なのに」を読むと、能力信仰を煽って、それに依拠して仕事をする人は結局、最後は自らが能力信仰に溺(おぼ)れて能力の有無で人間を判断したり、必要とされる能力の有無で仕事の職種に上下の序列を付けることが分かる。すなわち、論理力の能力があるがゆえに就ける「誰にも代わりができない、スキルが上がったり成長したりする自分にしかやれない仕事」と、論理力がないために従事する「一日中単調な作業の繰り返しで、誰でも代わりができる仕事」の序列を付けたりする。

アウトレットの駐車場で、寒さのなか一日中立ちっぱなしで車を誘導する係の人達を車中で見ながら「もし彼らに論理力の能力があれば、車を誘導する今の誰でも代わりができる単調な作業の繰り返し仕事ではなく、おそらく別の仕事の別の人生を選ぶだろう」といったことを出口は書いている。しかし、社会には単調な繰り返し作業の仕事も必ず必要で極めて大切で、そういった単純労働に従事する人も同様に絶対に必要で大切なはずだ。今の車を誘導する係の人がその仕事を辞めれば、誰か別の人が代わりに車を誘導する単調で繰り返しな仕事をやらなければならない。必ず誰かが、そういった誰でも代わりができる単調で繰り返しな仕事をやらなければ社会は回らない。絶対に必要で大切な仕事であり、大切な人なのである。それなのに「論理力」など特定の能力がないために職種選択が限定された結果、誰でも代わりができる単調な繰り返し作業の仕事をやる人生を彼らは余儀なくされていると勝手に考えてしまうのは、他ならぬ出口が能力の有無によって人間を判断し、求められ発揮される能力程度によって職業に序列の上下を付けているからに他ならない。こんな人は人に物を教える「先生」の仕事をやってはいけない。

大学受験参考書を読む(30)「ちくま評論選 高校生のための現代思想エッセンス」

筑摩書房から出ている「ちくま評論選・高校生のための現代思想エッセンス」(2012年)は、戦後の代表的評論の良い書き手の良い評論を抜粋し集めて各評論文のさらに良質で読み所な、まさに「高校生のための現代思想エッセンス」を凝縮し一気にダイジェストでまとめた「戦後評論傑作選」のような内容の合本で、私が高校生の頃からあった。

そこで近年の新しい改訂版「ちくま評論選」を最近、入手して久しぶりに読んでみた。評論の書き手で昔と変わらずに連続して文章が載っている論者もいれば(例えば「流れとよどみ」の哲学者の大森荘蔵、政治学者で日本思想史研究の丸山眞男、シベリア抑留帰還者で詩人の石原吉郎など)、昔は評論掲載はなかったのに、この最新の改訂版で(おそらくは)新たに登場した論者もいる。主に1990年代に論壇デビューし現在も活躍している比較的若い世代の人達、例えば、ひきこもりの心理学の斎藤環、「国家は暴力装着」の国民国家論の萱野稔人、動物化するポストモダン定義の東浩紀らだ。

同時に昔の国語教科書や大学入試現代文では常連の定番であったのに改訂版「ちくま評論選」では掲載を見送られた今となっては懐かしの論者達も、ややセンチメンタルな感傷を交え自然と思い起こされる。例えば、気品ある難解な思弁的文章で昔の若者に人気だった文芸評論の巨人で生涯、反マルクスを貫いた小林秀雄、以前の大学入試の評論出題では本当に頻出の定番でもともと医師で理系出身ならではの簡潔で分かりやすい文章を書く、日本人論を異常に書いて量産していた印象が強い加藤周一、ベ平連と「何でも見てやろう」と晩年は阪神・淡路大震災を自然災害でなく「人災」とやたら激昂(げきこう)していた小田実ら、今振り返ると実に懐かしい昔、輝いていた人達だ。

新しい「ちくま評論選」を読んで丸山眞男、藤田省三、市村弘正、各氏の評論が揃(そろ)い踏みで掲載されている点が非常に感慨深かった。私は東京大学の政治学者・丸山眞男が昔から好きである。彼の志向する政治学を「丸山政治学」、その丸山門下の弟子の人達を「丸山学派」と呼ぶ。そして藤田省三は丸山眞男の弟子で、「丸山学派」の中で最も左寄りで頭がキレる普遍主義者で思想史家な方であった。藤田は「丸山学派」随一の正統な弟子で東大から法政大学に行って、彼は自分が退官する際に自身の後継に指名し法政の後任に引っ張って来たのが、藤田が以前に「都市の周縁」(1987年)を書評にて絶賛していた、自分にも厳しいが他人にも厳しい、他の人をめったに褒(ほ)めないあの藤田省三が例外的に高く評価していた市村弘正である。だから丸山、藤田、市村で師匠と弟子と孫弟子の三人揃いの連続が、いわゆる「点が線になる」わけで、そういった掲載評論における後継連続の系統景色が「何だかキレイだな」と思える印象深い感慨だ。

さて、この「ちくま評論選」は巻頭と巻末に解説なしの「プロローグ、エピローグに置いた文章に、わたしたちの若い人々への期待をかさねる」という編者からの短いメッセージのみを添えた、大江健三郎「節度ある新しい人間らしさ」と保坂和志「断固として夢見る」を両端に挟(はさ)み、本編にて三十編の評論をプロローグ・エピローグとは対照的にそれらに詳細な解説を付して一冊の体裁となす。このプロローグとエピローグを含む全体の評論配置が、現代評論の現代思想に関する、決して直接的に詳しくは語らないが明らかに強く何かを伝えようとしている編者から読者たる高校生へ向けての明確な一つのメタ・メッセージとなっており、「わたしたちの若い人々への期待をかさねる」編者の強力な意図が透けて見える、その見事な評論配列の編集に私は非常に感心した。

つまりは以下のようなことだ。この本には主に二つのタイプの現代評論を載せている。人間主体の人格の尊厳や自由の大切さを説く、人間そのものに集約していく近代(モダン)なタイプの評論、そしてそれとは逆方向な、人間の記憶や意識、制度やシステムなどの当たり前の自明性・正統性を疑う、人間そのものから徐々に離れ俯瞰(ふかん)して人間主体や人間を取り巻く外部環境的なものを果てしなく相対化していく脱近代(ポストモダン)なタイプの評論である。前者の典型として、例えば丸山眞男「幕末における視座の変革」、石原吉郎「確認されない死のなかで」、見田宗介「コモリン岬」がある。後者の典型なら、例えば黒崎政男「私はどこへいく?」、渡辺浩「象徴の政治学・御威光」、大森荘蔵 「後の祭りを祈る」を挙げることができる。

これは私の実感も含めてのことだが、特に後者タイプのポストモダンな評論や現代思想に接するたび、「人間主体そのものや人間の記憶や意識、制度やシステムの自明性・正統性を疑い、それら生成原理や成立過程を鮮(あざ)やかに明らかにし得たとして、そのように全てを散々相対化し尽くした後に一体、何が残るのか」、そういった虚しさは主に1980年代から90年代にかけてのポストモダン思想を読むにつけ、自分の中に常に一貫してあった。そして「ちくま評論選」では、そのポストモダン型の評論にて果てしなく人間主体や制度・システムが相対化され思考が拡散されながら、同時にそれと反対方向な人間主体の尊重に思考が集約し集中していく旧来のモダン型評論との拮抗の渦の中で「しかしながら若い読者の高校生諸君、決して迷ってはいけない。モダンな近代思想には確かに問題があり、近代は批判され乗り越えられなければならないとしても、脱近代のポストモダンな現代思想にて、果てしのない懐疑主義の相対主義に陥ってはいけない。いくらモダンな近代思想に問題の欠陥があり、かたやポストモダンで近代の人間主体や制度やシステムの自明性・正統性が疑われ尽くしたとしても、最後に回収され戻っていく原点は、やはり人間そのものである。すなわち人間の人格の尊厳であり、人間主体の自由の尊重であり、人間同士のつながりの連帯の大切さに最後は戻る」。

そういったメッセージを、大江健三郎の慎みと気遣いの直接には見えない節度の配慮で細やかに尽くされる「節度ある新しい人間らしさ」のプロローグ評論と、「人間は本性において利己的だから所詮、他者とは分かり合えない」と言い張り、人と人とを分断することで利益を得ている人達に怒りを表明しつつ、それでも、否(いな)それだからこそ人々との連帯を「断固として夢見る」保坂和志のエピローグ評論を、それぞれ巻頭と巻末に決して詳しい解説を付さず一見不親切に、ただ評論本文だけを単独で置くことでじかに説教臭くクドく述べるのではなく、メタ・メッセージで間接的に暗にサラリと伝える。つまりは、それこそが「プロローグ、エピローグに置いた文章に、わたしたちの若い人々への期待をかさねる」編者からの若い高校生読者諸君へかさねて寄せる期待の実質的内容になるわけである。粋(いき)なはからいの編者の強力メッセージを含意し暗示する、心憎い評論配列の編集だ。

「ちくま評論選」は多くの評論をダイジェストで掲載して短時間で多くの評論が一気に読めるとても便利な本ではあるが、この書籍を一読しただけで「すべて分かった」つもりにならずに原書に直接に当たってほしい、と若い高校生読者に向けて私は強く思う。

例えば、石原吉郎の「確認されない死のなかで」は、彼の最初のエッセイ集「望郷と海」(1972年)の一冊の中でも最良の本当に最高な読み所の部分を抜粋し掲載している。「ちくま評論選」編者の抜粋選択眼は非常に確かで優れている。だだ、この「評論選」のダイジェストで終わらずに、石原の「望郷と海」を実際に手に取って一冊全部を読んでもらいたい。石原がシベリア抑留の過酷な強制労働環境の中で生き延び、日本へ引き揚げの「望郷」の思いを重ね、ついに念願かなって日本へ帰国した後、日本の親族たちから彼はどのような仕打ちを受けたのか。旧ソ連共産党の「アカの手先」と疑われ、親族から絶縁を突き付けられる石原吉郎「望郷と海」における「望郷」の結末を、「ちくま評論選」には書かれてない結末を、若い高校生読者には原書を読んでぜひ知ってほしい。

また例えば萱野稔人「ナショナリズムは悪なのか」にて萱野は、ヴェーバーの国家定義「国家とは、ある一定の領域の内部で正当な物理的暴力行使の独占を要求する人間共同体である」の引用からナショナリズムを説き始めるが、あれは1990年代に流行したアンダーソンの「想像の共同体」(1983年)を下敷きにした国民国家論に対する強烈な反(アンチ)であり、痛烈な批判である。萱野によれば、近代国家とはアンダーソンのいうような「想像の共同体」といった実体のない人々の共同観念によって作られるものでは決してなく、明確な実体を持った「物理的暴力行使の独占」の装着である、と。

そもそもアンダーソンの「想像の共同体」の国民国家論は、多民族や多宗教の国内紛争で苦しむ中東、アジア、アフリカ地域に近代的な国民国家を移植させることで紛争地域の国内統一を図って安定・平和をもたらす理論として国連で重宝され、そういった地域紛争解決の文脈にて「想像の共同体」は、主要テキストとして1990年代に世界的に広く読まれていた。ところが、その国民国家論が日本に入ると「国民国家の移植」の本来的意味が剥(は)がれ落ち、「国家とは実体のない、人々の頭の中にある想像の共同体で単なる共同幻想」のような、現存国家への批判に便利な理論として非常に安易な使われ方をされることになる。1990年代の日本では歴史修正主義者らの歴史教科書運動など、右派、保守、反動勢力が台頭し、左派、リベラル、戦後民主主義な人達は、そうした旧来的な日本の国家賛美の国家主義反動のメディアでの悪目立ちに危機感を持っていた。そこでアンダーソンの「想像の共同体」の国民国家論を現存国家の封じ込めの国家主義批判に使う。「国家は実のところ作られた伝統の想像の共同体でしかないのだ」と。

だが「国家は想像の共同体」といくら言い募(つの)ってみても、近代国家には軍隊や警察の「合法的な」物理的暴力行使があり「合法的な」徴税の強制執行があり、国家が現実に日常的に国民を支配し抑圧していることは事実で、決して観念上の「想像の共同体」ではないわけだ。そういった国民国家論ブームの現代思想の流れでの右派と左派との激しいの攻防が1990年代にあって、しかしアンダーソンの「想像の共同体」で「国家は作られた伝統の想像でしかない」と国家主義の台頭を叩く左派、リベラルの戦略に無効性を感じていた論壇雑誌、青土社の「現代思想」の当時の編集長が、「国家は物理的暴力行使の独占」のヴェーバー定義を掲げて論じていた萱野稔人を引っ張って連れてきて雑誌「現代思想」に連続的に集中掲載させる。萱野稔人は「現代思想」の編集長によって案外、力わざで強引に論壇デビューさせられた人である。だから、そういった1990年代のアンダーソン「国民国家論」の偏(かたよ)った日本的読まれ方のブームの時代状況を踏まえた萱野の出自の事情も知って、彼の「ナショナリズムは悪なのか」を本当は読まなければならない。

しかし、そういった細かなことまで「ちくま評論選」の解説では詳しく述べていないので、やはりダイジェストで便利な「ちくま評論選」を読んだだけで「すべて分かった」つもりにならずに、若い高校生の読者諸君には萱野稔人の原著「国家とはなにか」(2005年)にまで遡(さかのぼ)って当たり、しっかり読んでほしいと常々私は思う。

大学受験参考書を読む(29)田村秀行「本音で迫る小論文」

田村秀行「本音で迫る小論文」(1988年)は、大学入試の小論文対策の受験参考書である。本書は、田村秀行監修、梵我堂主人著の「本音で迫る小論文」の何やらめんどくさい体裁の書となっている。実際に執筆しているのは代々木ゼミナールの現代文講師の田村秀行なのだが、その田村はあくまでも本参考書の監修であり、著述は梵我堂主人となっている。なぜこのような訳のわからない、変なことになっているのかといえば、それは本書を読む限り以下のような事情による。

もともと代ゼミで大学入試の現代文を担当していた田村秀行が現代文に加えて、小論文対策の講座も開講してやりたいと当時の代ゼミ教務課に掛け合ったところ、教務は田村は現代文講師なので小論文の講座は開講できないと断わり許可しなかった。そこで、大和書房の「受験面白参考書」シリーズで今般の「本音で迫る小論文」を書店売りの大学受験参考書として世に出した。ただし代ゼミの教務が小論文講座の開講を認めてくれなかったので、そのことを不服とし抗議の意味で、本参考書の著者を田村秀行とはせず、架空の人物である「梵我堂主人」にして。梵我堂主人(ぼんがどう・しゅじん)というのは、本書によれば江戸の時代に生まれ後の明治の世まで生きた人物で、「梵我一如(ぼんがいちにょ)」の悟りを開き、安静の悟りを得た人であるという。彼は「天竺に渡り、『梵我一如』の悟りを開くも、近年帰朝して世を見るに、世はさらに我と肌合わぬ様に変はれれば、…世が曲がりて、本音こそが斜にものを見る戯作の道にかなへると思へばなり」の本意にして、大学受験の小論文指導にて読者に向け、田村秀行演ずる架空人物の梵我堂主人が遺憾なく「本音」を語りまくるという設定である。

そうして「本音で迫る小論文」の後の増販での監修者である田村秀行の「監修者追記」によると、「当初は代ゼミの教務から小論文を担当させてもらえず」の恨み節の抗議の意で田村秀行監修、梵我堂主人著の「本音で迫る小論文」の受験参考書を出したが、本書が受験生に好評であったため、後に代ゼミ教務から正式に改めて小論文ゼミの担当を依頼され、本書の精神に基づいて今では大学入試の現代文に加えて小論文対策の講座もやっている、という。本論から暗に読み取れる、「以前は小論文を担当させなかった代ゼミの教務、ざまあみろ」的な田村秀行による挑発的な書きぶりになっている。

本書が出された1988年の80年代から90年代には、まだ本格的な小論文指導の大学受験参考書はあまりなかった。それゆえ田村秀行「本音で迫る小論文」(面倒だが厳密には田村秀行監修、梵我堂主人著「本音で迫る小論文」)は、その内容はともかく、それなりに貴重な小論文対策の受験参考書であったと思う。現在とは違い、大学受験小論文の指導法は昔はまだ確立されておらず、当時の大学受験生は小論文という受験科目に対する情報知識や方法論をほとんど知らなかったと思われるので。

田村秀行「本音で迫る小論文」は大和書房から出ていた「受験面白参考書」シリーズの中の一冊なので、やや「面白さ」も狙って、本論にて大学受験の小論文に関し「本音」をズバズバ語る内容になっている。例えば冒頭の「理論解説編」にて、

「小論文では皆の言えることをいっても意味がない」「小論文では採点者と同じレベルの内容が必要とされる」「小論文入試では、大学の教官が自己の不快を未然に防ぎ、酒を面白く呑むために行われる」「小論文入試では、学力に目をつぶり、ユニークさを求めている」「大学は、勉強が出来るかユニークなものが入れる所であって、どちも満たさない者は大学へ行く資格はない」

らの各種原則がまず挙げられる。正直、「本音で迫る小論文」は悪ノリのキワモノ狙いで、田村秀行はフザケすぎである。真剣に大学合格したい真面目な大学受験生は小論文試験に挑(いど)むに当たり、本書での「本音で迫る」提言をそのまま聞き入れて実践してはいけない。「小論文入試では、大学の教官が自己の不快を未然に防ぎ、酒を面白く呑(の)むために行われる」とか、「小論文入試では、学力に目をつぶり、ユニークさを求めている」などは明らかに言い過ぎである。大学入試の小論文で採点者は、自分が「自己の不快を未然に防ぎ、酒を面白く呑むため」といった個人的な私情をはさんで採点などしない。小論文入試では、だいたい採点基準や配点表があって採点者は、それに基づいて厳密厳正に小論文の採点評価をしているはずであるし、「小論文入試では、学力に目をつぶり、ユニークさを求めている」のようなことも決してない。無駄に奇をてらった新奇の「ユニークさ」を狙いに行くような小論文は、逆に「キワモノ」として敬遠され、得点評価は低くなる。

常識的な通常の内容の小論文でも、文章がしっかりして論理的整合が取れていれば、本参考書で明確に否定されている「高校の先生に好かれる意見」「高校生らしい意見」の論述であっても、そこそこの得点はもらえるし、それで合格圏内に到達できる。

田村秀行「本音で迫る小論文」では、よそ行きで優等生的、無難で常識的な従来型の小論文の模範解答に対する対抗意識が著者の田村秀行にもともと強烈にあって、その常識的な模範解答の逆を行く逆張りのすすめを「本音で迫る小論文」と称しているのであり、どうも壮大に小論文指導の方向内容がズレているように思える。

大学受験参考書を読む(28)田村秀行「田村の本音で迫る文学史」

田村秀行「田村の本音で迫る文学史」(1995年)は、大和書房の「受験面白参考書」(略して「オモ参」というらしい)の大学受験参考書シリーズの中の一冊だ。試験に出る文学史対策の内容で、日本近代文学の主な流れ、すなわち文学運動や主要文学会派、重要な文学者とその代表作の概説・紹介を各章に分けて幅広く解説しており、それぞれの章終わりに「本章で必ず覚えること」の重要語句のまとめがあって、文学史の受験対策として非常に簡潔で学びやすい参考書となっている(ただし奈良・平安から江戸時代までの前近代の古典文学史には全く触れていないので要注意!)。

「受験面白参考書」の文字通り「面白」い所は、著者の田村秀行が日本近代文学史に対し、まさにタイトル通り「本音で迫る」スタイルで、「本音」の反対は「タテマエ」だから、ややもすれば、これまであまりにも当たり前で皆が普通に受け入れ承認し、そこまで疑って否定しなかった日本近代文学における定番で予定調和な物言いや、文学者と文学作品に関する定説評価を田村が「本音」で語って否定し遠慮なく斬って斬って斬りまくる所である。だから、参考書記述を面白くするために「私が昔生徒だったときに疑問に思っていたこと」など「多くの文学史の参考書とは異なり、かなりの主観が入っている」とか、「私の文学史観」の「本音」を本書には躊躇(ちゅうちょ)なくどんどん書き入れるようにした旨の著者の田村の並々ならぬ決意が「はしがき」冒頭から記されているわけである。

「どうせ『面白参考書』なのだから、読み物として面白いものにしようと思った。それには事実の羅列ではなく、著者としての『私』が出なくてはならない。つまり、私の文学史観がはっきり示されなくてはならないと思ったのである。だから、多くの文学史の参考書とは異なり、かなりの主観が入っている。また、私が面白いと思う点に記述の重点がかかっており、私が昔生徒だった時に疑問に思っていたことを書くようにした」(「はしがき」3ページ)

前述のように「本音」の反対は「タテマエ」であり、ただその本音語りの形式はもともと原理的に非常な困難を抱えている。つまりは、社会に広く流通している常識の「タテマエ」に文句をつけ「本音」を暴露する、単にそれは世間の人々の耳目を自分に集めたいがための場合が多く(現代風にいえば「炎上」目的である)、ゆえに時に悪乗りエスカレートして、あえて突拍子もない常識を外れた相当に飛躍した過激なことをわざわざ「本音」として無理して述べるはめに陥る。奇をてらい過ぎている感が否めず、皆を驚かせ世間の人々の注目を我に集めたいがために発言する傾向といった「本音」語りに常に付きまとう払(ぬぐ)っても拭いきれない「不純な動機」の胡散臭(うさんくさ)さの問題がまずある。

加えて、これまで広く根強く社会にある定番定説な考えなど、そう簡単に論破しひっくり返して否定できるようなやわなものではない。世の中の人も、そこまで愚かではないので世間一般に通用の常識観念は、いくら「タテマエ」とはいえ、それなりに正統性や合理性はある。ゆえに本音の暴露で「タテマエ」をひっくり返し否定する際、世間的常識に対しての異議申し立ての「本音」の内容をよくよく聞いてみると、本当につまらない重箱の隅をつついただけの取るに足らない聞くに耐えない、ただの揚げ足取りの屁理屈であえなく終わる場合が多い。例えば「自由」や「平等」の人間の普遍的権利を突拍子もなく過激に全否定したり、社会的弱者救済の必要性や人権や民主主義そのものの「常識」を安易に疑って否定したがる昨今流行の「本音」主義の浅はかさは、調子に乗って語る立場の当人は良くても他方、聞かされる側のこちらには傾聴に耐えない恥ずかしさが常に付きまとう。

以上のように「本音」語りの手法は、世間一般でもともと広く承認され流布している「タテマエ」の常識に反(アンチ)の楔(くさび)をあえてを打ち込む、その語り形式の由来からして原理的にもともとそれ自体相当な無理の困難を抱えている。さて、「田村の本音で迫る文学史」における文学史常識に対する田村秀行の「本音語り」の「本音迫り」は果たして上手くいくのだろうか。

本書での田村による、従来的な日本近代文学史に対する「本音」語りの最たるものは、氏の異常なまでに低い夏目漱石評価であるといえる。田村秀行がいうところの「夏目漱石という作家が日本近代文学の代表作家と一般にみなされている問題」である。例えば以下のような、田山花袋と夏目漱石とを対比させ、文学史での従来的な漱石への高評価をあからさまに否定しようとする田村の「本音」語りだ。

「田山花袋がいなければ『私小説』という日本近代文学の最大の特徴が生まれないのであるから、これは文学史上の重要作家であるということになる。それに対して漱石の場合は、末期にわずかに出入りした芥川龍之介などを除いて、長期にわたって門下生であった人間からは、たいした作家は出ていない。…逆に言えば、漱石という作家は、その作品の質という意味では日本近代文学史にとって重要であるが、『流れ』という意味から言えば、誰を受けついで誰につながっているということがないので、これを省いても『文学史』を書くには困らない人物なのである」(「夏目漱石」58・59ページ)

田村による不当に低い漱石評価である。田村秀行は、あまりにも皮相で無知だ。「誰を受けついで誰につながっているということがない」とか「芥川を除いて、長期にわたって門下生だった人間からは、たいした作家は出ていない」というのは、単に「漱石は師匠筋や後継の弟子に恵まれていなかった。漱石は人的関係に運がなかった」というだけの話でしかない。漱石は近代の言文一致にも絡(から)んでいるし、例えば自然主義の田山花袋との「小説は拵(こしら)へものか否か」の激しいやり取りもある。また漱石の「文学論」の方法論が後の時代の作家に与えた影響もある。

さらに日本近代文学史における「近代」ということの意味を突き詰めて考えた場合、「近代」は人間中心主義の時代であり、前近代の呪術性・魔術的なものから人間が解放され遺憾なく主体性を発揮できる一方で、人間の欲望、エゴイズムの負の問題も絶えずついてまわる。もちろん、前近代の人間にも欲望エゴイズムの問題はあるが、自分のエゴを見つめ意識化して修正できるのは「近代」の人間のみである。それゆえ「近代」文学は、この人間悪のエゴイズムの問題に深く切り込まなければならない。自らの作品にて、男女の恋愛の三角関係を何度も執拗に多用し(なぜなら恋愛における三角関係は男女二人が恋愛成就して幸福になると、必ず一人の不幸な失恋者を出す「他者の不幸の上に自分たちの幸福を築く」究極のエゴイズムの発露だから)、「則天去私」の哲学を自己のうちに見出だし格闘した夏目漱石は、人間エゴの「近代」の課題に「文学」を通して正面から誤魔化しなく取り組んだ。その点で彼は超一流の破格な「近代文学」者であった。

そして、漱石がやった近代文学の仕事を引き継いで、もちろん漱石門下の弟子の芥川龍之介は、素材は前近代の古典の題材典拠が多いが、それに人間主体のエゴイズムの問題という近代の異質なものを相当な力業(ちからわざ)で無理矢理に強引に接木させて日本近代文学を前に進めた。その他、少なくとも私の知る限り、有島武郎が白樺派の中で例外的に漱石や芥川の課題を共有して近代の人間悪の問題を深くやった。また太宰治も主にキリスト教の聖書をモチーフに漱石と芥川の近代文学の正統後継としてエゴイズムの問題と格闘した。近年では、そのまま「近代文学」同人の埴谷雄高が、そのものズバリの直球で存在論の哲学に絡め非常に粘り強く深く「近代」の人間悪の問題を扱った。

日本近代文学における「近代」という言葉に引っかかり、その「近代」の意味を掘り下げ、人間悪追及の「近代」文学を誠実にやった漱石の文学仕事を発見すれば、「門下生から有名作家輩出の実績」云々の表面的なことではなく、同時代文学や後続へ与えたマクロな文学仕事の影響からして文学史での「近代」文学の本筋としての夏目漱石の存在は省けないし、絶対に外せない。「漱石という作家が日本近代文学の代表作家と一般にみなされている問題」とか、「これを省いても『文学史』を書くには困らない人物である」というような事態には、おそらく夏目漱石に関してはならない。

ただ「田村の本音で迫る文学史」は「受験面白参考書」で読み手の受験生に対し、書き手の田村がサーヴィスして、わざと面白くなるよう執筆しているから。また前述のように定番定説な「タテマエ」常識を否定し、ひっくり返す「本音」語りの形式は、もともと突拍子もない飛躍した過激なことをあえて語らざるをえない無理の無茶を原理的に強いられるものだから。なるほど、これまでの文学史にて漱石を高く評価する常識に対し、「夏目漱石という作家が日本近代文学の代表作家と一般にみなされている問題」を提起する田村による「本音」語りの異議申し立ては相当に無理があるのだけれど、あらかじめ無理の不利を強いられている氏の「本音」語りのサーヴィス精神を勘案すれば、そこまでムキになって反論する程のことではないのかもしれない。「受験面白参考書」で面白くするためならば、とりあえず「漱石を日本近代文学の代表的作家とするには問題がある」でも別によいのかもしれない。

しかしながら、このように日本近代文学史の中での夏目漱石への評価が田村秀行の中で異常に低いことの理由が、冒頭の「はしがき」にて田村自身が述べているように、氏の「かなりの主観が入った私の文学史観」に由来していることを最低限、確認しておくことも必要だろう。

「日本では『文学』という名称を用いたことが象徴するように、本来『美』を目指すべき『芸術』の一分野である小説などがひどく堅苦しいものになってしまった。結論から言えば、この分野の文章は『美しさ』か『面白さ』があればいいのである。そして、その『面白さ』の一種として哲学的なものや人の生き方を教えるようなものも含まれていればいいのである。さもなければ、『人間』が描けていればいいのであって、それが真面目なものである必要はない。ふざけたものでも嘘でも、人間の精神の至りうる範囲の全域をその領域とすればいいのである。それが、日本では、『真面目・真剣』という範囲に狭苦しく限定されてしまった」(「日本近代文学の堅苦しさ」146ページ)

この人は大学入試現代文の評論文で抽象的な難しい文章読解を受験生に日常的に教えているにもかかわらず、日本近代文学における「近代」に対する問題意識がそもそも希薄であり、ゆえに「近代」文学を語る際には、その「哲学的なものや人の生き方を教えるようなもの」を「真面目で真剣という範囲に限定されてしまった堅苦しさ」、すなわち「日本近代文学の堅苦しさ」として安易に排除しようとする。だから、「本来『美』を目指すべき『芸術』の一分野である小説」とか、「結論から言えば、この分野の文章は美しさか面白さがあればいいのである」とする氏の「かなりの主観が入った私の文学史観」からして、夏目漱石は「哲学気質の人間であり、その人間追究の姿勢」は「真面目・真剣の堅苦しさ」に他ならず、例えば後述のように「一般に夏目漱石が日本近代文学の代表者として考えられているということも、…日本人読者の不幸というべきある」とさえ大胆に述べて、日本近代文学史の中での夏目漱石の存在が不当なまでに異常に低く見積もられてしまう。その代わりに不当に低い漱石評価とは対照的に、哲学気質ではない耽美派で芸術至上「文芸」な谷崎潤一郎は、その文章の「美しさ」や話の「面白さ」から「文芸理念にかなった世界的な作家」として、今度は田村秀行により異常なまでに高く好意的に評価される極端な結果になってしまう。

「一般に夏目漱石が日本近代文学の代表者として考えられているということも、…漱石というのは哲学気質の人間であり、その人間追究の姿勢は立派であるものの、そういう突き詰めた真面目さを持たないと文学でないと読者が思うようになったことは、日本人読者の不幸というべきである。いまだに多くの人の間では、夏目漱石と谷崎潤一郎ならば夏目漱石の方を『まともな文学』として考えてしまうという風潮が残っているわけである。世界的には谷崎の方が『文芸』の理念に合っているはずであるのに」(「日本近代文学の堅苦しさ」148ページ)

大学受験参考書を読む(27)田村秀行「田村の現代文講義」

昔から代々木ゼミナールが出す、「代々木ゼミ方式」という冠タイトルが付いた代々木ライブラリーの大学受験参考書が好きだった。高校生の頃、友人が学校に持って来ていて、あの書籍としての洗練された感じが。まず表紙カバーの装丁が代々木ライブラリーの本は比較的落ち着いて上品でよい。また別冊の問題冊子が巻末に付いて問題と解答解説があらかじめ分離していて、多くの紙面を費やす本体に詳細な解答解説が割(さ)かれているのも好感が持てる。

「田村の現代文講義」全五巻(1984─87年)は、代ゼミの田村秀行による現代文の問題集シリーズである。私の記憶の感慨で、それまでの大学入試の現代文といえば記号選択でも傍線記述説明でも答えがまずあって、その答えを前もって知っている教師が強引に後付けで「だからこうなる」式に結びつけ説明づける場当たり的「解説」もどきが多くて、どんな現代文問題に対しても通用する常に一貫して持つべき読解の方法論を教えてくれる人は少なかった。結果ひどい話が、評論と小説ともに毎回問題となる出典文章が違う現代文には一貫した解法はない、勘やフィーリングに頼る何となくの直感の読みが主で、現代文の試験対策として事前にやれるのはせいぜい漢字や慣用句の語句知識習得だけといったことになる。

「田村の現代文講義」を初めて読んだ時、非常に新鮮だったのは「助詞の使い分けに着目する」といった日本語の文法規則に基づいた丁寧でミクロな読み、また客観式問題の記号選択で「適切でない」選択肢の判定基準根拠を「アサ、スギ、ナシ、ズレ」とパターン化して教えてくれていたことだ。特に後者の選択肢の判断基準に関し、こうした指導は今の大学受験指導では普通にやられているが、まだ昔は珍しかった。いつもただ何となく「適切でない」選択肢を排除するのではなく、こういった誤選択肢のパターンを事前に知って確固たる判断根拠をもち、常に確信して正解選択肢を選ばないといけない。

私は過去問の教材研究も熱心にやったことがないので入試現代文を日々遊びで解いてみての感触になるが、客観式問題における「適切でない」誤選択肢パターンには、おそらく少なくとも以下のものがあると思われる。

バツ(本文とは全く違う反対の事柄が書かれている)、ナシ(常識的な内容で正しいが問題文中に書かれていない)、イイスギ(一見適切と思われる選択肢に「必ず」や「絶対」などの極端な限定・強調を付けることで内容が逸脱してしまっている)、バクゼン(正しい選択肢文ではあるが全体に抽象的に漠然と述べられており、「最も適切なもの」を選ぶ場合、より詳しく具体的に述べられている他の選択肢との比較で落とさざるをえない)、カケ(本文中のテーマ、話題、特徴など必ず触れるべきポイントが二つか三つ以上あるのに選択肢の中であえて一つにしか触れていない。故意に欠落を作っている)、テイサイ(課題文中のキィワードや主題となる言葉を抜き出しつなぎ合わせて適当にもっともらしい選択肢文を体裁よく作っている。よくよく読んでみると語句のつながりが不自然で文章が意味不明である)

こういった客観式問題の選択肢見極めにおける「バクゼン」「イイスギ」を「田村の現代文講義」では「アサ」「スギ」とパターン化して丁寧に解説しており、決して場当たり的でない、どのような現代文問題に対しても常に一貫して取るべき解答姿勢を示してくれていて田村秀行の参考書を初めて読んだとき非常に印象深かった。

私は田村秀行の代ゼミでの現代文講義を実際に受けたことがないのだが、噂では田村秀行は大変に真面目な方で表情を変えずに淡々と授業をするので、同僚で友人の代ゼミの古文講師、土屋博映から「能面田村」と当時は言われていた(笑)。

大学受験参考書を読む(26)中野芳樹「現代文読解の基礎講義」

駿台文庫の中野芳樹「現代文読解の基礎講義」(2012年)は、評論問題に関する限り、本書の「現代文読解」の方針は筆者の「書き方の工夫」=「表現法・修辞法(レトリック)」が施されている箇所にマーキングで逐一記しを書き入れながら一回の読みで重要なポイントを発見し、問題文の内容論旨を完全把握しようというものだ。

なぜなら大学入試のテストには当然、時間制限があり限られた時間内で速く、しかも正確に読み解かなければならないから。いくら速く読めたとしても飛ばし読みなどの雑な読みで内容が頭に入っていなかったり、要点を見落としたりしていたら何にもならない。かといって慎重に正確を期して自分の気がすむまでゆっくりと読んでいては時間切れで問題が解けなくなってしまう。速く読まなければ問題を解く時間がなくなる、しかし速く読もうとすれば正確な内容把握が難しくなる。そうした「読解速度と内容把握のジレンマ」を合理的に解消するためにただ漠然と読むのではなく、文中の論理語などにマークの記しをつけ書き入れながら読み進めて行くという方法を取る。これが著者の中野芳樹がいうところの「客観的速読法」だ。なるほど「客観的速読法」。私の日頃の読書の経験からしても、速読で速く文章が読め短期間で多くの本を読了できて、しかも同時に内容把握が正確である「読解速度と内容把握の両立」は求めてやまない理想である。

そういったわけで問題を解いて本文解説を読んでみた。もちろん、本書の指示通りに私は問題文をコピーしてマーキングをする具体的書き入れ作業はやっていなくて(笑)、なぜなら先々、氏の方法を実行し実際に本を読むとして、本当にマークの記しを書き入れると本が汚れて嫌だから。さらにはマーキングの作業をやると書き入れの時間ロスで「客観的速読法」の速読スピードが遅くなってしまうから。だから問題文を読んで自分の頭の中でマーキングしてその後に解説を読み、中野がやっているようにきちんと重要箇所を漏(も)れなく逐一マークできてるか確認し、マーキングの見落としあればその場で反省し修正して何度か繰り返し問題演習をやった。本書に掲載の例題はそこそこ難しい。センター試験や国立二次の過去問なので、繰り返しの反復演習に耐えうる良問となっている。

ただ「現代文読解の基礎講義」は大変に参考になる面もあるが正直、難点もあると思った。「要約表現」(つまり、このように)「重視・強調表現」(こそ、じつは)「筆者の主観(心情)表現」(と思う)など論理的文章にてマーキングすべき語句の種別一覧、全十二種を本書では挙げている。この十二のなかに「因果関係」と「並列・添加」が個別の独立した項目として入っていない。「因果関係」(からである、なぜなら、によって)や「並列・添加」(も、さらに、のみならず)の論理語も重視して積極的にチェックしマークするように受験生に指導したほうがよくはないか。

センター試験の過去問を解いて私が痛感するのは、センター現代文は「並列・添加」を見極められるか否かが解答のポイントになる設問が実に多いことだ。例えば「も」の並列・添加の表現があれば、「A+Bも」の図式がすぐ頭の中に思い浮かんで「これまでのAの要素に、どんなBの情報が対応し新たにプラスされて『A+Bも』の並列・添加になるのか」即見極められなければならない。そういった思考の対応がセンターの現代文では多々求められる。

「現代文読解の基礎講義」にはセンター現代文の過去問を使った演習もあるが、本書での中野の解説が元々淡白で不親切なのに加え、このセンター現代文の問題は明らかに並列の文構造を見切って解く問題のはずなのに、出題の大学センター側も並列を意識して作問していると思われ並列構造を指摘したら簡単に解答できるはずなのに、氏の十二のマーキングすべき用語範疇(はんちゅう)に「並列・添加」がないため「並列・添加」を通しての解き方解説になっておらず、そのため遠回しで回りくどい曖昧(あいまい)な解説になっている。「なぜここで並列・添加や因果関係にマークさせないのか」と思う場面が少なからずあった。

あと文章を読む際、いちいち細かくマーキングする記し書き入れの具体的作業を学生に必ず課して負担を強いるのは、マーキングという形式にこだわり過ぎていて、やり過ぎなのではと正直思えなくもない。評論の論理的文章を読む場合、例えば「『つまり』や『このように』の語句の後には主張の結論がまとめられている場合が多いから、注意して警戒しながら読め進めなさい」の口頭指導で本当はすむ話だ。わざわざ過剰に書き込みマーキング作業をさせる必要性はないのではないか。律儀にマークの書き入れ作業をやっていってたら、本やテキストも汚れるし時間ロスで速読スピードも落ちるだろうし。

だが、中野芳樹の「客観的速読法」における「客観的」は、どんな文章に対しても常に同じ方法で文章にマーキングする作業を機械的に形式的に必ず遂行することで初めて主観や恣意によるその場しのぎの場当たり的な読み方を脱して確保される「客観的」なので、しかも一回読んでマーキングを施した文章は戻り読みなどして繰り返し二度読む必要がない、だから一読ですむから「速読法」ということになっているので、マーキングという作業が、単に重要とされる論理的語句にマークの記しをつけて満足してしまう文章の言葉の表層をなぞるだけの形式的読みに終始する陥穽(かんせい)の危険性も使う人によって実際のところ、かなりあるであろうにもかかわらず、やはり氏のウリである「客観的速読法」における「客観的」と「速読法」の確保のために語句にマーキングしながら読み進める形式に拘泥(こうでい)する過剰作業を強要せざるをえない、そういったジレンマの構造がある。

大学受験参考書を読む(25)川戸昌 二宮加美「近代文語文問題演習」

大学入試の国語で近代文語文を出題する大学が少数ながらあり、しかしながら標準的な高校の国語授業のカリキュラムに近代文語文はなく、また受験対策指導の補講も高校では準備されないケースが多いため、予備校によっては特別に「近代文語文演習」の対策講座を設置し、近代文語文が出題される大学の進学希望者に向けた指導を行う場合があるようだ。

駿台文庫、川戸昌・二宮加美「近代文語文問題演習」(2009年)は、予備校に通えない文語文対策が必要な大学受験生の自宅独習用、ないしは予備校での講義を受けた後に実戦演習を重ねるために近代文語文の入試過去問を集めて解説した数少ない文語文対策の大学受験参考書である。

近代文語文というのは表現表記としては漢文書き下し文の文語で最初から返り読みなくスラスラと読めるので、古文や漢文の読解と違い比較的読みやすい国語だと思う。また内容に関しても近代文語文は主に明治以降に書かれた文で、文明論、政治論、文芸論など文章の性質として書き手の主張がはっきりしたものが多く、構成が「筆者の抽象的主張とその抽象的主張に即した具体例提示」のワンセットになっており、「抽象主張から具体例」もしくは「具体例から抽象主張」の論理展開パターンをとる場合がほとんどなため、これまた分かりやすい。近代文語文というのは表記と内容ともに「これほど論理的で分かりやすい筋道通った明解な日本文学が、かつて以前、そしてこれ以降も日本文学史においてあっただろうか」と感嘆されるべきものだ。少なくとも私の近代文語文読後の感慨として。

本書に収録の近代文語文の大学入試過去問、出典の書き手を挙げてみると、森鴎外、西周、福沢諭吉、幸田露伴、坪内逍遙、徳冨蘆花、中江兆民、永井荷風、夏目漱石、山田孝雄となる。そして近代文語文はそもそも総体的には易しいが、本書収録の文語文に関しては、その中でも書き手によって意味が分かりやすい相当に易しいものと、時に意味が分かりにくいやや難しいものとの二極に分類できるように思う。それで作問する各大学も、やや難しい文語文の場合、設問は普通だが、非常に易しい文語文の場合には「さすがに受験生のほとんどが容易に読めてしまう」の危惧が働いて課題の文語文が易しい分、代わりに設問の正誤選択肢で相当にひねって混乱させるような微妙なものを作り結果、皆が完答できず受験生間の得点に自然に差がつくよう工夫されている。

前者の易しい文語文の典型なら、福沢諭吉、中江兆民、夏目漱石あたりであるし、後者の難しい文語文の典型なら、西周、森鴎外、幸田露伴あたりだ。相当に易しい文語文の典型を書く人達は、もちろん当人の元よりの人間的資質もあるが、彼らが誰に向けて書いているか読者層の想定、そのことへの意識由来による。例えば福沢諭吉は一般国民に向けて幅広く書く、まさに福沢は明治初期からの国民大啓蒙時代の思想家であり、難解学問よりも日用実学を奨励の「学問のすすめ」な書き手なため彼が記述する文語文は非常に分かりやすい。中江兆民も自由民権運動の理論的支柱の思想家であって、民権論の紹介思想書や新聞評論を執筆の経歴持ち主であり、士族民権、豪農民権、困窮農民騒動、大同団結ら、その都度、一般民衆に向けて幅広く文章を書くため分かりやすい。また兆民は漢学儒学の素養があり、文筆に特に優れた人だったので彼の漢文書き下し文語文は正統であり、美しく簡潔明瞭である。夏目漱石も新聞連載小説の書き手で、幅広い階層の不特定多数の新聞読者に向けて作品を書く近代日本の国民的文学者である。新聞小説創作の手際(てぎわ)、また講演にても難解高尚な話は避け明解な例え話や表現、時にウイットやユーモアあふれる落語調の庶民的語りにて、とにかく分かりやすい言葉で分かりやすい文章を漱石は書く。

他方、やや難しい文語文の典型を書く人達、例えば西周は明治最初期の「啓蒙」思想家、明六社同人であり、しかし後の福沢のように国民大啓蒙路線でなく「明六雑誌」を始めとして読み手がまだ広い層に社会拡散されていない想定のためか、非常に文語的で読みづらい文語文の印象だ。森鴎外や幸田露伴も主題が文芸論で読者が限られ、加えて各人の資質に高尚重厚な文筆嗜好があり、それを捨てきれていない、広い階層の読み手に分かりやすく伝える文章記述に自身を徹しきれていないフシがあり、文語文として言葉遣いや文体、卑近な具体例提示の内容が固く読むのがやや難しい。

このように、ある種の近代文語文が読むのに時に難しく感じられることの主な要因として書き手の資質や嗜好や文章の読み手想定以外にも、古語の古い固い表現の使用、例えば二重否定や反語の多用ら、文語文表記そのもの一般的問題が考えられる。なかでも二重否定と反語の文法事項は特に注意が必要で、二重否定なら最終的に否定なのか肯定なのかの見極めを正確にやらないと結局のところ書き手は二重の否定を経て肯定しているのに全く逆の否定の意味をとって読み誤り、正確な論旨把握が出来なくなる。また反語なら書き手の主張や立場ははっきりしているのに、あえてわざわざ疑問文で読者に尋ねる反語の大袈裟な言い回しに振り回され結果、筆者の本意を適切に見切ることが困難になる事例が考えられる。

これら二重否定と反語の文法問題は大学入試にての近代文語文の問題を解く際に下線部訳や内容把握の設問で頻繁に狙われるし、本書「近代文語文問題演習」でも「文法ポイント 」の項目にて詳しく解説されている。二重否定と反語の文法事項は、近代文語文を正確に読み解く際の大きな「ポイント」であるといえる。

駿台文庫「近代文語文問題演習」は、大学入試過去問にて出題の文語文を明治から昭和まで古いものから新しいものの順に時系列で並べ収録しており、実は簡略な近代日本文学史の体裁にもなっている。本書は、近代文語文が出題される大学に進学希望の大学受験生だけでなく、一般の人が「近代日本文学史」の概略本として読んで問題を解いても十分に楽しめる内容の大学受験参考書である。

大学受験参考書を読む(24)栗原隆「基礎徹底 そこが知りたい古文」

栗原隆「基礎徹底・そこが知りたい古文」(2010年)は、以前に同じ駿台文庫から出ていた同著「ボーダーを超える古文」(1997年)に加筆し改訂したものである。

新著「そこが知りたい古文」の内容構成は、旧著「ボーダーを超える古文」とほぼ同じである。しかしながら、旧著タイトルには「ボーダーを超える」という応用編で上級者向けのニュアンスがあり、内容はほとんど変わっていないのに新著では「基礎徹底・そこが知りたい古文」とし、あえて「基礎徹底」と基礎編に徹するタイトルになっている所が面白い。この辺り、旧著から新著へのタイトル変更の印象操作を通して「応用から基礎へ」参考書の読み手対象レベルを故意に下げているのは、著者ないしは出版元の駿台文庫の意向が働いたものと思われる。

本書は一般的な大学受験の古文参考書と同様、古典文法や古文常識に一通り触れ解説しているが、さらにこの古文参考書の他著にない良さは、大学受験レベルの古文読解なのに日本古典文学のテクスト分析たる記号論や構造主義の手法を応用していることだ。それは次のような著者の古文理解ないしは言語観に由来している。

「科学とは、ある領域に対して一般法則を探求して、合理的知識の体系を構築するものです。…『古文』についても同じことが言えます。『古文』とは『日本語』と『日本の文学的テクスト』のシステムを通時的に考察していく『科学』にほかならないのです」

こうした「古文とはテクストのシステムを考察していく科学にほかならない」とする著者の古文理解の立場から、例えば本書での「掛詞」の解説にてソシュールの記号論を、長文古文の「物語テクストの構造」にて構造主義の分析手法を用いて解説している。特に後者の「物語テクストの構造」分析の読解解説は非常に優れている。「テクスト」とは本来「織物」の意味であり、そもそも言語とは、発話であれ記述であれ、必ず特定の語り手から発せられ、必ず特定の聞き手に伝わる言葉であって、言葉を発する主体も言葉が伝わる主体も必ず社会的存在であり特定の時間と空間に属するわけであるから言葉も必ず特定の時間と空間に属する。そこで言葉が属する時間と空間を「位相」とし、文学作品の物語世界にて、多様な言葉により織られ構成されるテクストには、さまざまな時間と空間の位相をもつ文章群が異なる次元の階層にて交錯し入り混じり多層化してある、とする。そして、テクストの物語世界にある多層な位相は四つのレベルに分類でき、その概要は本書解説に従えば以下の通りである。

「レベルⅠは、私たち現代人が『古文』の『物語』というテクストに対峙するときの、まさにその瞬間、つまり『解釈』の位相です。レベルⅡは、『作者』が扮している『虚構の語り手』が『物語』を語っている位相です。レベルⅢとは、私たち読者が追う、『物語』の登場人物が行動したり、語り手が、登場人物の属する環境を描写したり、登場人物の会話文などを引用している、『ドラマ』の位相です。そして、これら三つ世界の基層には、レベルОとして、生身の人間である、作者が実際に作品を執筆している『作者の時間』があるでしょう」

古文解釈が現代の私達にとって時に困難に感じられることの理由の一つに、この四つの位相レベルの中でレベルⅢの「登場人物の位相 」に属する登場人物の行動や会話引用を記述している作者の語り(ナレーション)の客観的な地の文の中に、レベルⅡの「虚構の語り手」の主観の感想が挿入句として無原則に頻繁に入ることによる読み手の混乱がある。レベルⅢのドラマ描写の客観ナレーションの地の文の中にレベルⅡの物語の語り手自身の主観的な感想が自在に入る挿入句の見極め、この挿入句の見極め処理が古文読解の困難を乗り越える一つの要点であると考えられる。こういった点からしても、著者による「物語テクストの構造」の四つの位相からの構造主義的なテクスト解析の読み方教授は大変に優れている。

ただ大学受験の古文にて物語長文を読む際、そうした四つの位相に厳密に分け解析して読むことなど大して必要ないわけで、わざわざそのようなテクスト解読の構造主義的な手法を使わなくても大学入試古文は普通に読める。だから、旧著「ボーダーを超える古文」に加筆・改訂し内容構成がほとんど変わらないにもかかわらず、新著「基礎徹底・そこが知りたい古文」と強引にタイトル変更してはいるけれど、やはり「基礎徹底」というには無理があって、どう読んでも「基礎徹底・そこが知りたい古文」に関しては旧著「ボーダーを超える古文」同様、応用編の上級者向けな大学受験参考書といった読後の感想に落ち着いてしまう。

大学受験参考書を読む(23)高橋正治「古文読解教則本」

駿台予備学校の高橋正治「古文読解教則本」(1988年)は、副題が「古語と現代語の相違を見つめて」であり、この参考書は古典文法の主な意味・用法を難易別の典型古文の例文を集めて収録した英語の構文集のような体裁をとっている。著者の高橋師によれば、「『古文読解教則本』と名づけたのは、ピアノ教則本・バイオリン教則本などの名前を踏襲した」ためで冒頭の「まえがき」にて、さらに氏は以下のように述べる。

「本書は助詞・助動詞・敬語を中心とする学習をするために編集したものである。『古文読解教則本』と名づけたのは、ピアノ教則本・バイオリン教則本などの名前を踏襲したのである。楽器の教則本は、その順序に従って学習すれば、自然に進み、動きにくかった指も他の方法にくらべれば楽に動くようになってゆく。文法も、個々の単語の意味の理解の最初の段階ではこのような方法がよいと考える。現行の教科書では、例えば助動詞の学習の場合も『る・らる』あたりからはじまり、意味の説明があって、用例になるが、その用例の中にまだ学習していない助動詞が入ってしまっている。これでは学習の充実感は得られない。そこで、助詞・助動詞に関しては、それを混合して、ある助詞・助動詞の学習のときには、あとで学習する助詞・助動詞が含まれない例文によることができるようにした。あとに出てくる例文は前に出てきた助詞・助動詞が繰り返し現れ、さらに反復・補強されつつ学習が進行し、おのずから習熟できるようになっている」

こうした楽器技術修得の教則本形式に則(のっと)り、全362文の短文な基本文とそれへの現代語訳と軽い文法解説がある。内容は易から難へ、本質基本から枝葉応用なものへ。しかも学び始めの段階では未修な文法事項を含む例文はあえて出さず、逆に一度学んだ既修項目は後に何度も重複で繰り返し載せて定着強化の習熟をはかる。すなわち「ある助詞・助動詞の学習のときには、あとで学習する助詞・助動詞が含まれない例文によることができるようにした。あとに出てくる例文は前に出てきた助詞・助動詞が繰り返し現れ、さらに反復・補強されつつ学習が進行し、おのずから習熟できるようになっている」。確かに、この要領で古典文法を項目別に順番に学んでいくと、あたかもピアノやバイオリンの教則本にて自然と指運びが出来るようになるのと同様、易から難へ筋道立てて無理なく古典文法を体得し自然な形で古文が読めるようになっていけそうだ。

本書は改訂にあたり、高橋師が「簡単な解説を新たに付した」旨を述べてはいるが、氏の文法解説が比較的淡白で簡略なため一読して難しい。一度は詳しく古典文法の学習をやって、「しかし文法を学んではみたけれど実際の古文読解にて文法知識を活用・駆使できない」や「教えられた文法事項がバラバラで自分の中で有機的に上手くまとめられない」の悩みを持つ、すでに古典文法を一度は学んでいる人向けのいわゆる「二周目の参考書」といった感じはする。本書の後半で格助詞「の」の用法解説にて、三浦つとむが「日本語はどういう言語か」(1956年)で昔よくやっていた時枝誠記の時枝文法での「風呂敷型統一形式」をいきなり載せて、例の風呂敷展開図にて高橋師は説明している。しかし、時枝文法の風呂敷図式における客体的表現と主体的表現の区分を土台とする展開図式の読み方の詳しい解説はなく、時枝文法など、おそらくはまだ知らないであろう10代の大学受験生が果たして初見でこの参考書を独学で使いこなせるかの疑問は正直、残る。

しかしながら、そういった細かな難点はありつつも高橋正治「古文読解教則本」は、全体によく考えられ執筆された古文の大学受験参考書の名著であり、何より「教則本」の内容配列のアイディアが古典文法教授の他著よりも断然に優れている。

加えて「まえがき」にて、高橋師が自身の大学受験の往時を振り返り、恩師の古文の受験指導に対する恩義に謝する回顧の文章がこれまた良いのだ。学問の世界では師匠に対する弟子筋からの師の学恩に謝する回顧文や追悼文は日々よく書かれ頻繁に目にするが、弟子・高橋正治による恩師・山岸徳平へ向けての回顧文は数あるそれら類型の文章群の中でも相当に上手い。師への感謝の気持ちの細やかさが読み手の心に重く伝わる、かなりの名文だ。

「旧制高校のことであったので、将来のことをゆっくり考えながら三年間を過ごし、三年の十二月に古典の専攻を決定した。古典読解に関してはそれまほど熱心ではなかったので、ことばの見分けがつく程度であった。それから二か月間が受験勉強である。当時は初心者のためのよい学習書はなかった。そのときの東京教育大学(現筑波大学)の国文科主任教授であった山岸徳平先生が徒然草・大鏡・枕草子の添削をしてくださることになった。ただでさえ専門の研究がお忙しい先生であるのに、東大の国文科を受けるという話題になったとき、では正当に勉強できるように見てあげようと言われたのである。人に及ぼすことの好きな先生の愛情と活力は今の私の心のともし火でもある。…問わず語りになんでも説明してくださる先生のことばを忠実に実践し、読めない状態から読める状態までを短い時間で経験し、実感として初心者の方法を意識化したのであった」

「人に及ぼすことの好きな先生の愛情と活力は今の私の心のともし火でもある」。簡潔で的確な心のこもった名文を昔の人は、さりげなくサラリと書く。

大学受験参考書を読む(22)関谷浩「古文解釈の方法」

昨今の社会で勉強の教え方やスポーツ指導やニュース解説で説明が複雑だったり内容が難しかったりすると、それだけで忌(い)み嫌われ、その分「易しく丁寧な解説で誰にでも分かりやすい」や「短時間で最小限の努力で効率よく習得できる」の易しくて楽に理解できる説明解説や教授法の類(たぐ)いがやたら歓迎され、もてはやされる風潮があるが、私は全く感心しない。

もともとが複雑で難しい事柄もある。ゆえに説明や解説も誠実にごまかしなくやれば、当然ながら同様に複雑で難しくなる。「易しく丁寧な解説で誰にでも分かりやすい」や「短時間で最小限の努力で効率よく習得できる」というのは、本当に堅実に真面目にごまかしなく取り組めば本来は到底そんな簡単に分かりやすく易化するはずがないものまで内容をかなり削って省略したり、時に強引に一般化して無理やり単純化・図式化した結果、「易しく丁寧な解説で誰にでも分かりやすい」や「短時間で最小限の努力で効率よく習得できる」になったりしているわけだ。「易しく丁寧な解説で誰にでも分かりやすい」や「短時間で最小限の努力で効率よく習得できる」は耳障(みみざわ)りがよくとっつきやすいが、ごまかしが伴う場合も多い。内容のない厳密で正確ではない薄っぺらなフェイク(まがい物)のガラクタで偽物な危険性が大いにある。ゆえに本来複雑だったり、難しかったりする事柄は妥協せずしっかり腰を据(す)えて、そのまま「複雑で難しいもの」として理解するしかない。いくら時間がかかっても手間暇がかかって苦労し消耗しようとも、そうして自分のものにして自身に血肉化する、そういった正攻法でやるしかないのである。

にもかかわらず、世間には相も変わらず「易しく丁寧な解説で誰にでも分かりやすい」や「短時間で最小限の努力で効率よく習得できる」のガラクタのフェイクが溢(あふ)れかえっているのは、人々が中身の正確さ・厳密さ・精巧さは二の次で、とりあえずは簡単でお気軽で楽な解説説明や方法を手っ取り早く求めるからに他ならない。そして、そういった世間の人たちの求めに応じ、「易しく丁寧な解説で誰にでも分かりやすい」や「短時間で最小限の努力で効率よく習得できる」は市場価値が出る。下世話な言い方をすれば簡単に沢山売れてすぐに金になり楽に儲(もう)かる。そのため一部出版社やメディアや専門家や自称「先生」の人達がワル乗りして、そうしたフェイクのまがい物を放送やネットの情報媒体に乗せたり、書籍やカリキュラム一式教材にして日々、量産販売しているわけである。

同様に大学受験参考書も最近はやたらと「易しく丁寧な解説で誰にでも分かりやすい」や「短時間で最小限の努力で効率よく習得できる」を売りにした軟派な参考書籍が多くあって、そういった参考書を執筆の著者は「教え方の上手な先生」であり、「人気のカリスマ教師」ということに一応、世間ではなっている。しかし、ここでも前述のようにそれら耳障りの良い売り文句に常につきまとう内容のない、厳密で正確ではない薄っぺらなフェイクのまがい物、ガラクタで偽物な危険性に十分に注意を払うべきである。

さて駿台予備学校の古文科、関谷浩執筆の「古文解釈の方法」(1990年)、この参考書は昔から解説文が堅苦しくて取っつきにくい、内容が難しくて分かりづらい、難度が高く同様に難しい参考書、同じく駿台の英語科、伊藤和夫「英文解釈教室」(1977年)のまるで古文バージョンのようだと(笑)、時に酷評される書籍だ。しかしながら、ごまかしなく誠実に厳密に正確に本格的に「古文解釈の方法」を教えるとなると、これくらい難しくて複雑で習得に苦労するのは当たり前で、関谷師の「古文解釈の方法」の難しさを責める以前に、ここは「難しくて分かりづらい」と簡単に根を上げてしまう忍耐強さが足りない自身の甲斐性のなさを大いに反省すべきであろう。「古文解釈の方法」は、「易しく丁寧な解説で誰にでも分かりやすい」や「短時間で最小限の努力で効率よく習得できる」今風の軟弱な大学受験参考書とは明らかに一線を画する、無愛想だが本格派で本物な本当に良い参考書だ。

古文を教えるのが下手な高校教師や古文が苦手な学生は古文の勉強というと、どうしても敬語と文法の助動詞の活用・意味を主とする品詞分解にのみ一生懸命になって、そこにだけ気を取られ、それだけで精一杯。教える側も教わる側もいつも敬語と助動詞文法の品詞分解ばかりをやっている悪印象が私にはある。当然、古文の学習は敬語法や助動詞文法以外にも学ぶべきことは多くあり、関谷師の「古文解釈の方法」は、敬語と助動詞文法はもちろんのこと、その他の重要事項も漏(も)らさず網羅されていて総合的な古文学習の参考書としてよく出来ている。準体法や中止法、「××ば」の条件節に続く主体の転換、引用や挿入の見極めなど硬質な文体で厳密に詳細に書かれている。ゆえに一読して確かに「難しい」と感じるが、いずれも必修の事柄である。

しかしながら、ここにも最近の「易しく丁寧な解説で誰にでも分かりやすい」や「短時間で最小限の努力で効率よく習得できる」を良しとするお手軽で安易な易化の魔の手が迫っていた。近年、この「古文解釈の方法」は改訂版(2013年)が新しく出た。明るいデザインや見やすいレイアウトの形式上の改訂はともかく、中身の一部まで変わっている。つまりは旧版よりも内容が易しくなって易化している。問題と解説の一部を削って内容が旧版より薄くなっている。

「古文解釈の方法」は、準体法・中止法、動詞・形容詞・形容動詞の活用、助動詞・助詞の意味と活用、敬語法、引用・挿入、和歌の読解の各項目からなる。旧版には助動詞・助詞の意味・活用を終えて、敬語法の単元に新たに入る前に本居春庭「詞の通路」を読ませる問題演習があった。この文章が相当に良い内容の古文で、動詞や助動詞・助詞の文法学習を終えるに当たり「助動詞・助詞を正しく学ぶことは確かに大切だが、古文の読解はそれだけでは十分でない。語句の係り受けを理解しなければ正しく文章を読めないこと」を戒(いまし)め伝える、古文学習の基本の大切さを読み手に訴えかける本居春庭の文章である。

だが、この本居春庭の古文を読ませる問題演習が新しく出た改訂版にはない。旧版には確かにあったのに改訂版では丸々削除されている。改訂版で変に受験生に媚(こ)びを売って今風の丁寧で親切な(?)分かりやすいカジュアルな参考書を目指し、旧版の一部内容を削除し中途半端に内容を易化させてしまったこと、特に本居春庭の読解問題を無くし内容を薄くしてしまったことに私は関谷師に対し大変に失望し立腹した。