アメジローのつれづれ(集成)

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大学受験参考書を読む(28)田村秀行「田村の本音で迫る文学史」

田村秀行「田村の本音で迫る文学史」(1995年)は、大和書房の「受験面白参考書」(略して「オモ参」というらしい)の大学受験参考書シリーズの中の一冊だ。試験に出る文学史対策の内容で、日本近代文学の主な流れ、すなわち文学運動や主要文学会派、重要な文学者とその代表作の概説・紹介を各章に分けて幅広く解説しており、それぞれの章終わりに「本章で必ず覚えること」の重要語句のまとめがあって、文学史の受験対策として非常に簡潔で学びやすい参考書となっている(ただし奈良・平安から江戸時代までの前近代の古典文学史には全く触れていないので要注意!)。

「受験面白参考書」の文字通り「面白」い所は、著者の田村秀行が日本近代文学史に対し、まさにタイトル通り「本音で迫る」スタイルで、「本音」の反対は「タテマエ」だから、ややもすれば、これまであまりにも当たり前で皆が普通に受け入れ承認し、そこまで疑って否定しなかった日本近代文学における定番で予定調和な物言いや、文学者と文学作品に関する定説評価を田村が「本音」で語って否定し遠慮なく斬って斬って斬りまくる所である。だから、参考書記述を面白くするために「私が昔生徒だったときに疑問に思っていたこと」など「多くの文学史の参考書とは異なり、かなりの主観が入っている」とか、「私の文学史観」の「本音」を本書には躊躇(ちゅうちょ)なくどんどん書き入れるようにした旨の著者の田村の並々ならぬ決意が「はしがき」冒頭から記されているわけである。

「どうせ『面白参考書』なのだから、読み物として面白いものにしようと思った。それには事実の羅列ではなく、著者としての『私』が出なくてはならない。つまり、私の文学史観がはっきり示されなくてはならないと思ったのである。だから、多くの文学史の参考書とは異なり、かなりの主観が入っている。また、私が面白いと思う点に記述の重点がかかっており、私が昔生徒だった時に疑問に思っていたことを書くようにした」(「はしがき」3ページ)

前述のように「本音」の反対は「タテマエ」であり、ただその本音語りの形式はもともと原理的に非常な困難を抱えている。つまりは、社会に広く流通している常識の「タテマエ」に文句をつけ「本音」を暴露する、単にそれは世間の人々の耳目を自分に集めたいがための場合が多く(現代風にいえば「炎上」目的である)、ゆえに時に悪乗りエスカレートして、あえて突拍子もない常識を外れた相当に飛躍した過激なことをわざわざ「本音」として無理して述べるはめに陥る。奇をてらい過ぎている感が否めず、皆を驚かせ世間の人々の注目を我に集めたいがために発言する傾向といった「本音」語りに常に付きまとう払(ぬぐ)っても拭いきれない「不純な動機」の胡散臭(うさんくさ)さの問題がまずある。

加えて、これまで広く根強く社会にある定番定説な考えなど、そう簡単に論破しひっくり返して否定できるようなやわなものではない。世の中の人も、そこまで愚かではないので世間一般に通用の常識観念は、いくら「タテマエ」とはいえ、それなりに正統性や合理性はある。ゆえに本音の暴露で「タテマエ」をひっくり返し否定する際、世間的常識に対しての異議申し立ての「本音」の内容をよくよく聞いてみると、本当につまらない重箱の隅をつついただけの取るに足らない聞くに耐えない、ただの揚げ足取りの屁理屈であえなく終わる場合が多い。例えば「自由」や「平等」の人間の普遍的権利を突拍子もなく過激に全否定したり、社会的弱者救済の必要性や人権や民主主義そのものの「常識」を安易に疑って否定したがる昨今流行の「本音」主義の浅はかさは、調子に乗って語る立場の当人は良くても他方、聞かされる側のこちらには傾聴に耐えない恥ずかしさが常に付きまとう。

以上のように「本音」語りの手法は、世間一般でもともと広く承認され流布している「タテマエ」の常識に反(アンチ)の楔(くさび)をあえてを打ち込む、その語り形式の由来からして原理的にもともとそれ自体相当な無理の困難を抱えている。さて、「田村の本音で迫る文学史」における文学史常識に対する田村秀行の「本音語り」の「本音迫り」は果たして上手くいくのだろうか。

本書での田村による、従来的な日本近代文学史に対する「本音」語りの最たるものは、氏の異常なまでに低い夏目漱石評価であるといえる。田村秀行がいうところの「夏目漱石という作家が日本近代文学の代表作家と一般にみなされている問題」である。例えば以下のような、田山花袋と夏目漱石とを対比させ、文学史での従来的な漱石への高評価をあからさまに否定しようとする田村の「本音」語りだ。

「田山花袋がいなければ『私小説』という日本近代文学の最大の特徴が生まれないのであるから、これは文学史上の重要作家であるということになる。それに対して漱石の場合は、末期にわずかに出入りした芥川龍之介などを除いて、長期にわたって門下生であった人間からは、たいした作家は出ていない。…逆に言えば、漱石という作家は、その作品の質という意味では日本近代文学史にとって重要であるが、『流れ』という意味から言えば、誰を受けついで誰につながっているということがないので、これを省いても『文学史』を書くには困らない人物なのである」(「夏目漱石」58・59ページ)

田村による不当に低い漱石評価である。田村秀行は、あまりにも皮相で無知だ。「誰を受けついで誰につながっているということがない」とか「芥川を除いて、長期にわたって門下生だった人間からは、たいした作家は出ていない」というのは、単に「漱石は師匠筋や後継の弟子に恵まれていなかった。漱石は人的関係に運がなかった」というだけの話でしかない。漱石は近代の言文一致にも絡(から)んでいるし、例えば自然主義の田山花袋との「小説は拵(こしら)へものか否か」の激しいやり取りもある。また漱石の「文学論」の方法論が後の時代の作家に与えた影響もある。

さらに日本近代文学史における「近代」ということの意味を突き詰めて考えた場合、「近代」は人間中心主義の時代であり、前近代の呪術性・魔術的なものから人間が解放され遺憾なく主体性を発揮できる一方で、人間の欲望、エゴイズムの負の問題も絶えずついてまわる。もちろん、前近代の人間にも欲望エゴイズムの問題はあるが、自分のエゴを見つめ意識化して修正できるのは「近代」の人間のみである。それゆえ「近代」文学は、この人間悪のエゴイズムの問題に深く切り込まなければならない。自らの作品にて、男女の恋愛の三角関係を何度も執拗に多用し(なぜなら恋愛における三角関係は男女二人が恋愛成就して幸福になると、必ず一人の不幸な失恋者を出す「他者の不幸の上に自分たちの幸福を築く」究極のエゴイズムの発露だから)、「則天去私」の哲学を自己のうちに見出だし格闘した夏目漱石は、人間エゴの「近代」の課題に「文学」を通して正面から誤魔化しなく取り組んだ。その点で彼は超一流の破格な「近代文学」者であった。

そして、漱石がやった近代文学の仕事を引き継いで、もちろん漱石門下の弟子の芥川龍之介は、素材は前近代の古典の題材典拠が多いが、それに人間主体のエゴイズムの問題という近代の異質なものを相当な力業(ちからわざ)で無理矢理に強引に接木させて日本近代文学を前に進めた。その他、少なくとも私の知る限り、有島武郎が白樺派の中で例外的に漱石や芥川の課題を共有して近代の人間悪の問題を深くやった。また太宰治も主にキリスト教の聖書をモチーフに漱石と芥川の近代文学の正統後継としてエゴイズムの問題と格闘した。近年では、そのまま「近代文学」同人の埴谷雄高が、そのものズバリの直球で存在論の哲学に絡め非常に粘り強く深く「近代」の人間悪の問題を扱った。

日本近代文学における「近代」という言葉に引っかかり、その「近代」の意味を掘り下げ、人間悪追及の「近代」文学を誠実にやった漱石の文学仕事を発見すれば、「門下生から有名作家輩出の実績」云々の表面的なことではなく、同時代文学や後続へ与えたマクロな文学仕事の影響からして文学史での「近代」文学の本筋としての夏目漱石の存在は省けないし、絶対に外せない。「漱石という作家が日本近代文学の代表作家と一般にみなされている問題」とか、「これを省いても『文学史』を書くには困らない人物である」というような事態には、おそらく夏目漱石に関してはならない。

ただ「田村の本音で迫る文学史」は「受験面白参考書」で読み手の受験生に対し、書き手の田村がサーヴィスして、わざと面白くなるよう執筆しているから。また前述のように定番定説な「タテマエ」常識を否定し、ひっくり返す「本音」語りの形式は、もともと突拍子もない飛躍した過激なことをあえて語らざるをえない無理の無茶を原理的に強いられるものだから。なるほど、これまでの文学史にて漱石を高く評価する常識に対し、「夏目漱石という作家が日本近代文学の代表作家と一般にみなされている問題」を提起する田村による「本音」語りの異議申し立ては相当に無理があるのだけれど、あらかじめ無理の不利を強いられている氏の「本音」語りのサーヴィス精神を勘案すれば、そこまでムキになって反論する程のことではないのかもしれない。「受験面白参考書」で面白くするためならば、とりあえず「漱石を日本近代文学の代表的作家とするには問題がある」でも別によいのかもしれない。

しかしながら、このように日本近代文学史の中での夏目漱石への評価が田村秀行の中で異常に低いことの理由が、冒頭の「はしがき」にて田村自身が述べているように、氏の「かなりの主観が入った私の文学史観」に由来していることを最低限、確認しておくことも必要だろう。

「日本では『文学』という名称を用いたことが象徴するように、本来『美』を目指すべき『芸術』の一分野である小説などがひどく堅苦しいものになってしまった。結論から言えば、この分野の文章は『美しさ』か『面白さ』があればいいのである。そして、その『面白さ』の一種として哲学的なものや人の生き方を教えるようなものも含まれていればいいのである。さもなければ、『人間』が描けていればいいのであって、それが真面目なものである必要はない。ふざけたものでも嘘でも、人間の精神の至りうる範囲の全域をその領域とすればいいのである。それが、日本では、『真面目・真剣』という範囲に狭苦しく限定されてしまった」(「日本近代文学の堅苦しさ」146ページ)

この人は大学入試現代文の評論文で抽象的な難しい文章読解を受験生に日常的に教えているにもかかわらず、日本近代文学における「近代」に対する問題意識がそもそも希薄であり、ゆえに「近代」文学を語る際には、その「哲学的なものや人の生き方を教えるようなもの」を「真面目で真剣という範囲に限定されてしまった堅苦しさ」、すなわち「日本近代文学の堅苦しさ」として安易に排除しようとする。だから、「本来『美』を目指すべき『芸術』の一分野である小説」とか、「結論から言えば、この分野の文章は美しさか面白さがあればいいのである」とする氏の「かなりの主観が入った私の文学史観」からして、夏目漱石は「哲学気質の人間であり、その人間追究の姿勢」は「真面目・真剣の堅苦しさ」に他ならず、例えば後述のように「一般に夏目漱石が日本近代文学の代表者として考えられているということも、…日本人読者の不幸というべきある」とさえ大胆に述べて、日本近代文学史の中での夏目漱石の存在が不当なまでに異常に低く見積もられてしまう。その代わりに不当に低い漱石評価とは対照的に、哲学気質ではない耽美派で芸術至上「文芸」な谷崎潤一郎は、その文章の「美しさ」や話の「面白さ」から「文芸理念にかなった世界的な作家」として、今度は田村秀行により異常なまでに高く好意的に評価される極端な結果になってしまう。

「一般に夏目漱石が日本近代文学の代表者として考えられているということも、…漱石というのは哲学気質の人間であり、その人間追究の姿勢は立派であるものの、そういう突き詰めた真面目さを持たないと文学でないと読者が思うようになったことは、日本人読者の不幸というべきである。いまだに多くの人の間では、夏目漱石と谷崎潤一郎ならば夏目漱石の方を『まともな文学』として考えてしまうという風潮が残っているわけである。世界的には谷崎の方が『文芸』の理念に合っているはずであるのに」(「日本近代文学の堅苦しさ」148ページ)