アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

大学受験参考書を読む(26)中野芳樹「現代文読解の基礎講義」

駿台文庫の中野芳樹「現代文読解の基礎講義」(2012年)は、評論問題に関する限り、本書の「現代文読解」の方針は筆者の「書き方の工夫」=「表現法・修辞法(レトリック)」が施されている箇所にマーキングで逐一記しを書き入れながら一回の読みで重要なポイントを発見し、問題文の内容論旨を完全把握しようというものだ。

なぜなら大学入試のテストには当然、時間制限があり限られた時間内で速く、しかも正確に読み解かなければならないから。いくら速く読めたとしても飛ばし読みなどの雑な読みで内容が頭に入っていなかったり、要点を見落としたりしていたら何にもならない。かといって慎重に正確を期して自分の気がすむまでゆっくりと読んでいては時間切れで問題が解けなくなってしまう。速く読まなければ問題を解く時間がなくなる、しかし速く読もうとすれば正確な内容把握が難しくなる。そうした「読解速度と内容把握のジレンマ」を合理的に解消するためにただ漠然と読むのではなく、文中の論理語などにマークの記しをつけ書き入れながら読み進めて行くという方法を取る。これが著者の中野芳樹がいうところの「客観的速読法」だ。なるほど「客観的速読法」。私の日頃の読書の経験からしても、速読で速く文章が読め短期間で多くの本を読了できて、しかも同時に内容把握が正確である「読解速度と内容把握の両立」は求めてやまない理想である。

そういったわけで問題を解いて本文解説を読んでみた。もちろん、本書の指示通りに私は問題文をコピーしてマーキングをする具体的書き入れ作業はやっていなくて(笑)、なぜなら先々、氏の方法を実行し実際に本を読むとして、本当にマークの記しを書き入れると本が汚れて嫌だから。さらにはマーキングの作業をやると書き入れの時間ロスで「客観的速読法」の速読スピードが遅くなってしまうから。だから問題文を読んで自分の頭の中でマーキングしてその後に解説を読み、中野がやっているようにきちんと重要箇所を漏(も)れなく逐一マークできてるか確認し、マーキングの見落としあればその場で反省し修正して何度か繰り返し問題演習をやった。本書に掲載の例題はそこそこ難しい。センター試験や国立二次の過去問なので、繰り返しの反復演習に耐えうる良問となっている。

ただ「現代文読解の基礎講義」は大変に参考になる面もあるが正直、難点もあると思った。「要約表現」(つまり、このように)「重視・強調表現」(こそ、じつは)「筆者の主観(心情)表現」(と思う)など論理的文章にてマーキングすべき語句の種別一覧、全十二種を本書では挙げている。この十二のなかに「因果関係」と「並列・添加」が個別の独立した項目として入っていない。「因果関係」(からである、なぜなら、によって)や「並列・添加」(も、さらに、のみならず)の論理語も重視して積極的にチェックしマークするように受験生に指導したほうがよくはないか。

センター試験の過去問を解いて私が痛感するのは、センター現代文は「並列・添加」を見極められるか否かが解答のポイントになる設問が実に多いことだ。例えば「も」の並列・添加の表現があれば、「A+Bも」の図式がすぐ頭の中に思い浮かんで「これまでのAの要素に、どんなBの情報が対応し新たにプラスされて『A+Bも』の並列・添加になるのか」即見極められなければならない。そういった思考の対応がセンターの現代文では多々求められる。

「現代文読解の基礎講義」にはセンター現代文の過去問を使った演習もあるが、本書での中野の解説が元々淡白で不親切なのに加え、このセンター現代文の問題は明らかに並列の文構造を見切って解く問題のはずなのに、出題の大学センター側も並列を意識して作問していると思われ並列構造を指摘したら簡単に解答できるはずなのに、氏の十二のマーキングすべき用語範疇(はんちゅう)に「並列・添加」がないため「並列・添加」を通しての解き方解説になっておらず、そのため遠回しで回りくどい曖昧(あいまい)な解説になっている。「なぜここで並列・添加や因果関係にマークさせないのか」と思う場面が少なからずあった。

あと文章を読む際、いちいち細かくマーキングする記し書き入れの具体的作業を学生に必ず課して負担を強いるのは、マーキングという形式にこだわり過ぎていて、やり過ぎなのではと正直思えなくもない。評論の論理的文章を読む場合、例えば「『つまり』や『このように』の語句の後には主張の結論がまとめられている場合が多いから、注意して警戒しながら読め進めなさい」の口頭指導で本当はすむ話だ。わざわざ過剰に書き込みマーキング作業をさせる必要性はないのではないか。律儀にマークの書き入れ作業をやっていってたら、本やテキストも汚れるし時間ロスで速読スピードも落ちるだろうし。

だが、中野芳樹の「客観的速読法」における「客観的」は、どんな文章に対しても常に同じ方法で文章にマーキングする作業を機械的に形式的に必ず遂行することで初めて主観や恣意によるその場しのぎの場当たり的な読み方を脱して確保される「客観的」なので、しかも一回読んでマーキングを施した文章は戻り読みなどして繰り返し二度読む必要がない、だから一読ですむから「速読法」ということになっているので、マーキングという作業が、単に重要とされる論理的語句にマークの記しをつけて満足してしまう文章の言葉の表層をなぞるだけの形式的読みに終始する陥穽(かんせい)の危険性も使う人によって実際のところ、かなりあるであろうにもかかわらず、やはり氏のウリである「客観的速読法」における「客観的」と「速読法」の確保のために語句にマーキングしながら読み進める形式に拘泥(こうでい)する過剰作業を強要せざるをえない、そういったジレンマの構造がある。