アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

大学受験参考書を読む(30)「ちくま評論選 高校生のための現代思想エッセンス」

筑摩書房から出ている「ちくま評論選・高校生のための現代思想エッセンス」(2012年)は、戦後の代表的評論の良い書き手の良い評論を抜粋し集めて各評論文のさらに良質で読み所な、まさに「高校生のための現代思想エッセンス」を凝縮し一気にダイジェストでまとめた「戦後評論傑作選」のような内容の合本で、私が高校生の頃からあった。

そこで近年の新しい改訂版「ちくま評論選」を最近、入手して久しぶりに読んでみた。評論の書き手で昔と変わらずに連続して文章が載っている論者もいれば(例えば「流れとよどみ」の哲学者の大森荘蔵、政治学者で日本思想史研究の丸山眞男、シベリア抑留帰還者で詩人の石原吉郎など)、昔は評論掲載はなかったのに、この最新の改訂版で(おそらくは)新たに登場した論者もいる。主に1990年代に論壇デビューし現在も活躍している比較的若い世代の人達、例えば、ひきこもりの心理学の斎藤環、「国家は暴力装着」の国民国家論の萱野稔人、動物化するポストモダン定義の東浩紀らだ。

同時に昔の国語教科書や大学入試現代文では常連の定番であったのに改訂版「ちくま評論選」では掲載を見送られた今となっては懐かしの論者達も、ややセンチメンタルな感傷を交え自然と思い起こされる。例えば、気品ある難解な思弁的文章で昔の若者に人気だった文芸評論の巨人で生涯、反マルクスを貫いた小林秀雄、以前の大学入試の評論出題では本当に頻出の定番でもともと医師で理系出身ならではの簡潔で分かりやすい文章を書く、日本人論を異常に書いて量産していた印象が強い加藤周一、ベ平連と「何でも見てやろう」と晩年は阪神・淡路大震災を自然災害でなく「人災」とやたら激昂(げきこう)していた小田実ら、今振り返ると実に懐かしい昔、輝いていた人達だ。

新しい「ちくま評論選」を読んで丸山眞男、藤田省三、市村弘正、各氏の評論が揃(そろ)い踏みで掲載されている点が非常に感慨深かった。私は東京大学の政治学者・丸山眞男が昔から好きである。彼の志向する政治学を「丸山政治学」、その丸山門下の弟子の人達を「丸山学派」と呼ぶ。そして藤田省三は丸山眞男の弟子で、「丸山学派」の中で最も左寄りで頭がキレる普遍主義者で思想史家な方であった。藤田は「丸山学派」随一の正統な弟子で東大から法政大学に行って、彼は自分が退官する際に自身の後継に指名し法政の後任に引っ張って来たのが、藤田が以前に「都市の周縁」(1987年)を書評にて絶賛していた、自分にも厳しいが他人にも厳しい、他の人をめったに褒(ほ)めないあの藤田省三が例外的に高く評価していた市村弘正である。だから丸山、藤田、市村で師匠と弟子と孫弟子の三人揃いの連続が、いわゆる「点が線になる」わけで、そういった掲載評論における後継連続の系統景色が「何だかキレイだな」と思える印象深い感慨だ。

さて、この「ちくま評論選」は巻頭と巻末に解説なしの「プロローグ、エピローグに置いた文章に、わたしたちの若い人々への期待をかさねる」という編者からの短いメッセージのみを添えた、大江健三郎「節度ある新しい人間らしさ」と保坂和志「断固として夢見る」を両端に挟(はさ)み、本編にて三十編の評論をプロローグ・エピローグとは対照的にそれらに詳細な解説を付して一冊の体裁となす。このプロローグとエピローグを含む全体の評論配置が、現代評論の現代思想に関する、決して直接的に詳しくは語らないが明らかに強く何かを伝えようとしている編者から読者たる高校生へ向けての明確な一つのメタ・メッセージとなっており、「わたしたちの若い人々への期待をかさねる」編者の強力な意図が透けて見える、その見事な評論配列の編集に私は非常に感心した。

つまりは以下のようなことだ。この本には主に二つのタイプの現代評論を載せている。人間主体の人格の尊厳や自由の大切さを説く、人間そのものに集約していく近代(モダン)なタイプの評論、そしてそれとは逆方向な、人間の記憶や意識、制度やシステムなどの当たり前の自明性・正統性を疑う、人間そのものから徐々に離れ俯瞰(ふかん)して人間主体や人間を取り巻く外部環境的なものを果てしなく相対化していく脱近代(ポストモダン)なタイプの評論である。前者の典型として、例えば丸山眞男「幕末における視座の変革」、石原吉郎「確認されない死のなかで」、見田宗介「コモリン岬」がある。後者の典型なら、例えば黒崎政男「私はどこへいく?」、渡辺浩「象徴の政治学・御威光」、大森荘蔵 「後の祭りを祈る」を挙げることができる。

これは私の実感も含めてのことだが、特に後者タイプのポストモダンな評論や現代思想に接するたび、「人間主体そのものや人間の記憶や意識、制度やシステムの自明性・正統性を疑い、それら生成原理や成立過程を鮮(あざ)やかに明らかにし得たとして、そのように全てを散々相対化し尽くした後に一体、何が残るのか」、そういった虚しさは主に1980年代から90年代にかけてのポストモダン思想を読むにつけ、自分の中に常に一貫してあった。そして「ちくま評論選」では、そのポストモダン型の評論にて果てしなく人間主体や制度・システムが相対化され思考が拡散されながら、同時にそれと反対方向な人間主体の尊重に思考が集約し集中していく旧来のモダン型評論との拮抗の渦の中で「しかしながら若い読者の高校生諸君、決して迷ってはいけない。モダンな近代思想には確かに問題があり、近代は批判され乗り越えられなければならないとしても、脱近代のポストモダンな現代思想にて、果てしのない懐疑主義の相対主義に陥ってはいけない。いくらモダンな近代思想に問題の欠陥があり、かたやポストモダンで近代の人間主体や制度やシステムの自明性・正統性が疑われ尽くしたとしても、最後に回収され戻っていく原点は、やはり人間そのものである。すなわち人間の人格の尊厳であり、人間主体の自由の尊重であり、人間同士のつながりの連帯の大切さに最後は戻る」。

そういったメッセージを、大江健三郎の慎みと気遣いの直接には見えない節度の配慮で細やかに尽くされる「節度ある新しい人間らしさ」のプロローグ評論と、「人間は本性において利己的だから所詮、他者とは分かり合えない」と言い張り、人と人とを分断することで利益を得ている人達に怒りを表明しつつ、それでも、否(いな)それだからこそ人々との連帯を「断固として夢見る」保坂和志のエピローグ評論を、それぞれ巻頭と巻末に決して詳しい解説を付さず一見不親切に、ただ評論本文だけを単独で置くことでじかに説教臭くクドく述べるのではなく、メタ・メッセージで間接的に暗にサラリと伝える。つまりは、それこそが「プロローグ、エピローグに置いた文章に、わたしたちの若い人々への期待をかさねる」編者からの若い高校生読者諸君へかさねて寄せる期待の実質的内容になるわけである。粋(いき)なはからいの編者の強力メッセージを含意し暗示する、心憎い評論配列の編集だ。

「ちくま評論選」は多くの評論をダイジェストで掲載して短時間で多くの評論が一気に読めるとても便利な本ではあるが、この書籍を一読しただけで「すべて分かった」つもりにならずに原書に直接に当たってほしい、と若い高校生読者に向けて私は強く思う。

例えば、石原吉郎の「確認されない死のなかで」は、彼の最初のエッセイ集「望郷と海」(1972年)の一冊の中でも最良の本当に最高な読み所の部分を抜粋し掲載している。「ちくま評論選」編者の抜粋選択眼は非常に確かで優れている。だだ、この「評論選」のダイジェストで終わらずに、石原の「望郷と海」を実際に手に取って一冊全部を読んでもらいたい。石原がシベリア抑留の過酷な強制労働環境の中で生き延び、日本へ引き揚げの「望郷」の思いを重ね、ついに念願かなって日本へ帰国した後、日本の親族たちから彼はどのような仕打ちを受けたのか。旧ソ連共産党の「アカの手先」と疑われ、親族から絶縁を突き付けられる石原吉郎「望郷と海」における「望郷」の結末を、「ちくま評論選」には書かれてない結末を、若い高校生読者には原書を読んでぜひ知ってほしい。

また例えば萱野稔人「ナショナリズムは悪なのか」にて萱野は、ヴェーバーの国家定義「国家とは、ある一定の領域の内部で正当な物理的暴力行使の独占を要求する人間共同体である」の引用からナショナリズムを説き始めるが、あれは1990年代に流行したアンダーソンの「想像の共同体」(1983年)を下敷きにした国民国家論に対する強烈な反(アンチ)であり、痛烈な批判である。萱野によれば、近代国家とはアンダーソンのいうような「想像の共同体」といった実体のない人々の共同観念によって作られるものでは決してなく、明確な実体を持った「物理的暴力行使の独占」の装着である、と。

そもそもアンダーソンの「想像の共同体」の国民国家論は、多民族や多宗教の国内紛争で苦しむ中東、アジア、アフリカ地域に近代的な国民国家を移植させることで紛争地域の国内統一を図って安定・平和をもたらす理論として国連で重宝され、そういった地域紛争解決の文脈にて「想像の共同体」は、主要テキストとして1990年代に世界的に広く読まれていた。ところが、その国民国家論が日本に入ると「国民国家の移植」の本来的意味が剥(は)がれ落ち、「国家とは実体のない、人々の頭の中にある想像の共同体で単なる共同幻想」のような、現存国家への批判に便利な理論として非常に安易な使われ方をされることになる。1990年代の日本では歴史修正主義者らの歴史教科書運動など、右派、保守、反動勢力が台頭し、左派、リベラル、戦後民主主義な人達は、そうした旧来的な日本の国家賛美の国家主義反動のメディアでの悪目立ちに危機感を持っていた。そこでアンダーソンの「想像の共同体」の国民国家論を現存国家の封じ込めの国家主義批判に使う。「国家は実のところ作られた伝統の想像の共同体でしかないのだ」と。

だが「国家は想像の共同体」といくら言い募(つの)ってみても、近代国家には軍隊や警察の「合法的な」物理的暴力行使があり「合法的な」徴税の強制執行があり、国家が現実に日常的に国民を支配し抑圧していることは事実で、決して観念上の「想像の共同体」ではないわけだ。そういった国民国家論ブームの現代思想の流れでの右派と左派との激しいの攻防が1990年代にあって、しかしアンダーソンの「想像の共同体」で「国家は作られた伝統の想像でしかない」と国家主義の台頭を叩く左派、リベラルの戦略に無効性を感じていた論壇雑誌、青土社の「現代思想」の当時の編集長が、「国家は物理的暴力行使の独占」のヴェーバー定義を掲げて論じていた萱野稔人を引っ張って連れてきて雑誌「現代思想」に連続的に集中掲載させる。萱野稔人は「現代思想」の編集長によって案外、力わざで強引に論壇デビューさせられた人である。だから、そういった1990年代のアンダーソン「国民国家論」の偏(かたよ)った日本的読まれ方のブームの時代状況を踏まえた萱野の出自の事情も知って、彼の「ナショナリズムは悪なのか」を本当は読まなければならない。

しかし、そういった細かなことまで「ちくま評論選」の解説では詳しく述べていないので、やはりダイジェストで便利な「ちくま評論選」を読んだだけで「すべて分かった」つもりにならずに、若い高校生の読者諸君には萱野稔人の原著「国家とはなにか」(2005年)にまで遡(さかのぼ)って当たり、しっかり読んでほしいと常々私は思う。