アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

大学受験参考書を読む(31)出口汪「現代文講義の実況中継」(「××力」信仰批判)

ここ数年、書店に行けば「××力」や「××する力」の似たようなタイトルの教育本・自己啓発本が、やたら大量生産で販売されており私は閉口している。読解力、集中力、直感力、会話力、論理力など。挙げ句の果てに質問力、段取り力、雑談力、人脈力、逆転力、鈍感力など、どう見ても「××力」の形式に勝手に当てはめて無理矢理に造語しただけのワケの分からない、普通に考えて明らかに怪しい能力だ(笑)。同様に「××する力」系も、伝える力、聞く力、論理の力、続ける力などのタイトル本が満載である。

「世の中の人々はそんなに力が欲しいのか。それほどまでに能力信仰なのか」と思わずにはいられない。しかし、そうした昨今の力崇拝の能力信仰隆盛の由来も、社会状況に絡(から)めて理解できなくはない。不況で日本経済は厳しく、この先の見通しは依然として暗い情勢を背景に倒産、解雇、失業で、いつ路頭に迷うか分からない。そうならなための自衛策、まさかの万一の時の打開策として、同様により豊かな生活、充実した幸福な人生を送れる社会的成功のカギとして今の世の中、求められ生き残れるのは能力があって実力がある者だ。能力があるに越したことはない。現代社会にて家柄の出自や個人の運は、あまり関係ない。そうしたわけで取り組むべきは「自己生存マネジメント」としての教育、自己啓発という個人の能力伸長である。能力があることは好ましい、あって損はない。否(いな)、能力は頼りになる。むしろ自己成長の意欲なき者は去れ。能力のない者は現代社会において淘汰されて当たり前。社会で脱落するのは、能力開発に自己投資しない怠惰、絶えざる学び直しで自力で必要な能力を更新・伸長しない自助努力の欠如ゆえの自己責任のような次第にエスカレートした「能力自己責任論」とでもいうべき風潮にいつの間にかなってしまって、そういった文脈状況の中で個人の力崇拝の能力信仰がどんどん幅を利かせ不気味に肥大化していく。その結果、街の書店には「××力」の類いの能力本があふれ、やたら人々が「力を欲しがる」事態になるわけだ。

だが、よくよく考えてみれば万一のための「転ばぬ先の杖」、もしくはより良い生活のための「成功のカギ」として人々の不安や欲望に外部から働きかけて、半(なか)ば強迫的にスキルアップの能力伸長に誘導し商材を売りつける資格・検定商法は昔からあった。しかし昨今の能力本の場合、かつての資格・検定商法よりもかなりタチが悪くて、きちんとした実体カリキュラムや資格検定付与の制度的保障の事後ケアなく、書店の店頭販売でとりあえずは手早く売って買わせて、「××力」など怪しい造語タイトルで顧客を引きつけ力系の啓発本を繰り返し何冊も購入させる。類似の「××力」が量産され、とにかく売り出す。「××力」系の書籍ばかり大量に連発で出す出版社や著者、一人の著者で短期間に本を仕上げ何冊も出しまくる猛者(もさ)さえいる。とりあえず普通の人なら気づくはずだ、書籍を執筆して出す方も、本を購入して読む方も「常識的に考えて一人の人間が、そんなに何冊も短い間隔で書籍を上梓できるのは、さすがにおかしい」と。普通の人は気づく。特に読む方はいつか気づいて購読するのをやめるだろう。

ところが、そういった能力信仰の啓発本を打ち止めなく類似書を連発で出す方(出版社や著者)は、なぜ打ち止めなく連発できるかといえば、「自己啓発」や「教育」などの実質的中身の重要性よりは、商材提供でうまくラベルを変え商品ラインナップを充実させて、とりあえず出し続ければ確実に利益を生み出す高性能な消費材という認識があるからに他ならない。そうすると、能力本を執筆・出版する当事者にとって書籍上梓は単なる商材提供で、そこでは売上の金儲けの論理が優先するから、同じような内容の類似書連発でも「本当にこのような情報商品を書籍にし連続して読者に売ってよいのか」倫理的自己規制や罪悪感のモードが働くことなく次々と出せる。だから、この手の能力信仰本には「自己啓発」や「教育」の正当ラベルとは裏腹にセールスで集金・課金の胡散臭(うさんくさ)さが絶えず付きまとう。

実際に能力本の類を試しに購入して読んでみると、新たな売り込み攻勢を読み手にかける仕掛けが施されており、高性能な「ネットワーク商品」として、なるほどよく考えられている。売り込み勧誘の回路がネットワークの網の目のように組み込まれていて本一冊を購入しただけでは到底、終わりそうにない。挟みこみチラシや本文にて週末セミナーや泊まりがけの勉強会への勧誘あり、その参加者の体験の喜びの声(?)あり、ホームページ紹介もあり、そこにリンクすると、さらにメルマガ購読、講演会の案内、高額な映像教材の一式購入を次々と勧められる。しかも、その「××力」として提供される内容は大量消費材の商品であるがゆえ、買い手であるお得意様顧客の歓心の満足度を満たすために商品説明を分かりやすく(「親切丁寧な指導解説で、誰にでも出来る」)それらの使用価値をすぐに実感できるようにしようとする(「習得後すぐに使えて即効果を体感」)と、そういった顧客提供の商品ニーズに応じて難解さや長時間の忍耐を要する習得は排され、連続性や整合性を欠いた中身の薄い単発知識や単なる情報、到底スキルとは呼べないコツもどきが安易にパッケージ化され切り売りされたりする。なかには驚くほどの効果が出て(「今までの自分は何だったのか、目からウロコ。あなたの人生が確実に変わる」)、ひとたび購入しさえすれば、あらゆる場面で繰り返し何度も使え汎用性がある(「一度身につけてしまえば、あなたの人生を守る生涯の武器になります」)といった過激な売り文句さえあって「本当かねぇ」、少なくとも私は疑わざるを得ない。

もちろん、私は能力開発や自己啓発そのものを全否定したりはしないが、少なくとも能力の習得は「簡単に短期間で得られ劇的効果が出て、しかも万能で一生使い続けられる」などそんな甘いものではないはずだ。習得には地味で地道な反復の訓練が伴うし、数年いや数十年単位の時間がかかるかもしれない。時に失敗したり挫折したり、しかし継続し、その都度見直し修正して自身で工夫の努力をしながら育て一生をかけて開花させていくものではないか、個人の能力というものは。少なくとも能力本を数冊読んだだけ、その書籍にいつの間にか誘導されて週末セミナーに参加したくらいで即効果が出る、お手軽でインスタントなものではないと私は思う。

昨今の能力本における能力習得のイメージは、ちょうどオンライン・ネットゲームのアイテム課金の発想に似ている。しかも人の実人生をゲームの冒険に重ねて、あの手この手でアイテム課金する陳腐なロールプレイング・ゲームだ。要するに人間の実人生も山あり谷ありの冒険のロールプレイング・ゲームだから、「転ばぬ先の杖」もしくは「成功のカギ」として各人が人生の各ステージにて(年齢、性別、時代状況など)、能力本購入やセミナー参加を通じて、その都度便宜、「××力」という万能魔法の能力アイテムを金銭購入して自身にプラスする。すると自分の能力数値がアップして有能になって強くなる。あたかも「××力」という能力が客体としてあって、それを購入して外部から装備する。能力の物象化である。それで、しばらくすると「能力自己責任論」で人々の不安が煽(あお)られたり「人生の成功」をちらつかせられ誘惑されたりして、また別の魅力的(?)な「××力」のアイテム課金を勧められ、つい次々と金銭購入してしまう。自分の中で根気よく辛抱強く能力を育てるのではなく、あたかも人間の能力が外部からその都度、プラスで付与される最新モードの装備アイテムのような発想である。完全なゲーム脳だ。しかも前述のように、次々に課金オススメで売りつけられる「××力」なるアイテムは大量消費材の商品(文字通りの「課金アイテム」)であるがゆえに、中身の薄いフェイクでガラクタな可能性が大なわけである。

その他にも教育や自己啓発というのは、能力獲得に終始せず、目に見えて直接の具体的な成果の利益が出ない領域も本来は幅広く含むものなのに、能力信仰で能力だけに焦点が当てられると常に「どれだけ上手にスムーズにできるかどうか」が唯一の目的基準となったり(方法知への矮小化)、教育や自己啓発の動機が常に「その能力獲得により、どういった利益を当人にもたらすか」になってしまう問題もあり(成果や利益の見返りを常に求める教育)、能力信仰に基づく教育や自己啓発には多くの弊害を指摘できる。

ところで、大学受験参考書を執筆の予備校講師で受験勉強の内容を「学び直し」で社会人用に改変・応用して示したり、効果的な勉強法のコツを伝授する自己啓発本を執筆して、その分野にデビューする人も少なからずいるのではと私は思っていた。そうしたら案の定、いた。それが現代文のベテラン・カリスマ人気講師、出口汪(でぐち・ひろし)だった。そして、これまで書いたような昨今の「××力」本ブームに対し、人々の力崇拝の能力信仰の風潮に疑問を持つ私にとって彼の近年の活動は衝撃であった。

出口汪の主な著作といえば「出口汪の論理力トレーニング」(2014年)、「センター現代文で分析力を鍛える」(2014年)、「東大現代文で思考力を鍛える」(2013年)、「ビジネスマンのための国語力トレーニング」(2014年)、「大人の日本語力が身につく本」(2013年)、「考える力を身につける本」(2012年)などである。「論理力」「分析力」「思考力」「国語力」「日本語力」「考える力」の「××力」の連発だ。この人は元々、大学受験の現代文を専門に教える予備校講師である。日常的に大学受験にて出題されるレベルの現代文評論や思想書の類いは普通に読んでいるはずだ。しかも、一般的な受験生や通常の社会人よりも内容を掘り下げてより深く精密に読解できるはずである。何しろ現代文読解のプロなのだから。

しかしながら「××力」の能力信仰本が量産される現状を昨今の社会背景から読み解くリテラシー能力もなければ、人々が力崇拝の能力信仰に走る風潮に対する問題意識も皆無である。むしろ逆に出口本人が「××力」や「××する力」系の能力本を相当な数で大量に連発で出しまくって頻繁に講演会やセミナーを開いて生徒を集め、精力的に教材販売の経済活動をやっている。そんな出口汪の問題は、これまでに私が述べた「××力」や「××する力」の能力本がはびこる現代社会の人々の肥大化した力崇拝や能力信仰の問題そのものである。「能力自己責任論」容認の風潮、高性能消費材たる教育カリキュラムの商品化、そのため教育内容よりもセールスの集金・課金が優先してしまう問題、顧客に配慮ゆえの教育商品の内容のインスタント化、能力習得イメージが完全にゲーム脳、成果や利益の見返りばかりを常に求める能力教育の弊害など。

おそらく、出口からしたら彼は教材カリキュラムを売りまくる自分の今の仕事を正当化するだろう。出口「先生」は「論理力」が大変にある方だから(笑)、昨今の能力信仰の風潮にワル乗りして「××力」の著作を連発する今の自分の仕事も難なく論理的に正当化できる。「一人でも多くの人たちに論理力を伝えること。それによって、人の人生を変え、世の中を変えていくこと。これが私のミッションだと自負しています」と強引に自身の「ミッション」(使命)にしたり、それこそ能力信仰を「一日生きることは、一日進歩することでありたい」というような人間の美しい(?)向上精神の発露に結びつけたりして。

だが、彼は人間として大切なことを見失っている。例えば氏のブログ「一日生きることは、一日進歩することでありたい」での2014年1月2日の記事「一回限りの人生なのに」を読むと、能力信仰を煽って、それに依拠して仕事をする人は結局、最後は自らが能力信仰に溺(おぼ)れて能力の有無で人間を判断したり、必要とされる能力の有無で仕事の職種に上下の序列を付けることが分かる。すなわち、論理力の能力があるがゆえに就ける「誰にも代わりができない、スキルが上がったり成長したりする自分にしかやれない仕事」と、論理力がないために従事する「一日中単調な作業の繰り返しで、誰でも代わりができる仕事」の序列を付けたりする。

アウトレットの駐車場で、寒さのなか一日中立ちっぱなしで車を誘導する係の人達を車中で見ながら「もし彼らに論理力の能力があれば、車を誘導する今の誰でも代わりができる単調な作業の繰り返し仕事ではなく、おそらく別の仕事の別の人生を選ぶだろう」といったことを出口は書いている。しかし、社会には単調な繰り返し作業の仕事も必ず必要で極めて大切で、そういった単純労働に従事する人も同様に絶対に必要で大切なはずだ。今の車を誘導する係の人がその仕事を辞めれば、誰か別の人が代わりに車を誘導する単調で繰り返しな仕事をやらなければならない。必ず誰かが、そういった誰でも代わりができる単調で繰り返しな仕事をやらなければ社会は回らない。絶対に必要で大切な仕事であり、大切な人なのである。それなのに「論理力」など特定の能力がないために職種選択が限定された結果、誰でも代わりができる単調な繰り返し作業の仕事をやる人生を彼らは余儀なくされていると勝手に考えてしまうのは、他ならぬ出口が能力の有無によって人間を判断し、求められ発揮される能力程度によって職業に序列の上下を付けているからに他ならない。こんな人は人に物を教える「先生」の仕事をやってはいけない。