アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

特集ドイル(4)「シャーロック・ホームズの事件簿」

コナン・ドイルによる「シャーロック・ホームズ」は英米の海外だと普通に大人が楽しんで愛読する書籍であるが、どうも日本ではホームズはジュヴナイル(少年・少女向けの児童読み物)の感が昔から拭えない。小中学生の頃には児童物に翻訳されたホームズを皆が一時期、夢中になって読みはするが、やがて大人になってホームズの探偵小説を卒業するような。

ところで、ドイルのシャーロック・ホームズの熱烈なファンで書評や評論を書いてホームズ譚を研究する人のことを一般に「シャーロキアン」と呼ぶ。ホームズが未だジュヴナイルの児童読み物の類に思われ、成熟した大人の読書に(特に日本において)取り上げられないのは、私は「シャーロキアンの幼稚さ」にその原因の一端があると思う。

誠に失礼で申し訳ないけれど、だいたいシャーロキアンの方の研究内容は正直くだらない。ホームズの部屋の間取りとか、ワトソンの結婚の時期と回数とか、これまたワトソンの戦場行って負傷したケガの正確な身体的位置などの検証をやる。ドイルも連載にて、その都度書き足していっているのでワトソンの結婚時期などの記述がズレて辻褄が合わなくなるのは当たり前だ。最初からホームズ世界の詳細設定をして矛盾なく書き抜こうとはしていないから。にもかかわらず、シャーロキアンらは重箱の隅をつつくような細かな事象の幼稚な揚げ足取り研究を飽きもせず嬉々としてやる。つまらない、とるに足りないことをわざと真剣に真面目にやる。「この人達はどこまでが面白マジメの冗談なのかマジなのか」という不信のイタい思いがシャーロキアンに対し正直、私はする。そうしたワトソンの結婚時期や回数などは枝葉末節な事柄であり、何ら本質的な小説の読みではない。

例えば、ドイルがホームズ作品にて多用する手法の一つに「事件由来の外部世界への遡及(そきゅう)」というのがある。現在起こっている事件の由来がイギリスから遠く離れたインドやアメリカやアフリカにあったりする。そのため現在起きている事件がインスタントに軽くならず、その発生由来の空間的隔たりが事件そのものに非常に重みを与え読み手に伝わるという効果を狙った、探偵小説における割合よく常套される技法の記述である。よくよく考えてみたら、そうした「事件由来の外部世界への遡及」というのは、ホームズの時代のイギリスがまぎれもない勢いのある覇権国家の大英帝国で、インドを始めアメリカやアフリカなど覇権地域を多々有し、手広く植民地経営しているから、そういう「外部世界への遡及」が可能になるわけである。すなわち、ポストコロニアル批評の植民地と宗主国における宗主国の視点からドイルのホームズの大英帝国たるイギリスを読み解くことが可能なわけだ。

さらに言うと、ドイルのホームズは日本では比較的早く大正・昭和の時代には広く翻訳紹介されて多くの人に親しまれていた。そして、明治から大正・昭和にかけての大日本帝国にとって、大英帝国のイギリスは、かなりの憧れであったはずだ。戦前の日本の大日本帝国は明治維新のスタート時から近代天皇制国家であり、最初からフランスやアメリカのような共和制の道は絶たれている。せいぜい穏健な自由主義を標榜する場合であっても、英国流の立憲君主制で行くしかない。しかも19世紀のイギリスは植民地経営を手広く手堅く行う、海外に支配地域を多々有する覇権国家のイギリスであって、帝国主義の大陸膨張路線で行く近代日本にとって手本の目標となるところが相当にあった。そうした近代日本にとっての憧れ、手本の目標であった大英帝国のドイルのホームズが当時の日本人にどう受け止められ、どう読まれていたのかなど。

こうしたポストコロニアル視点からのドイルのホームズ読解など素人の私が思い着くくらいだから、すでに文芸批評にてシャーロック・ホームズを題材にしてやられているはずで(その手の研究で優れたものがあれば、是非とも教えて頂きたい!)、シャーロキアンの方々にも物語世界の枝葉末節の幼稚な検証追究はやめて、これくらい本質的な仕事やってもらいたいと思う。何だかエラそうで、すみません。

さて短編連作集の第四作「シャーロック・ホームズの事件簿」(1927年)である。まず「事件簿」にて注目すべきは物語の語り口の変則短編があることだ。従来は友人で助手であるワトソンが、ホームズと行動を共にしたり、彼から聞いた事件の話を後日、読者に紹介する形式が守られていたが、この「事件簿」ではワトソンの代わりにホームズみずからが語って紹介したり(「白面の兵士」「ライオンのたてがみ」)、三人称で客観的に叙述したりする(「マザリンの宝石」)語り口の変則パターンが新しく出てきている。

(以下、「シャーロック・ホームズの事件簿」各話の核心トリックに触れた「ネタばれ」です。「ホームズの事件簿」を未読な方は、これから本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

「高名な依頼人」は、女収集(?)の卑劣な男爵との婚約・結婚を、男爵に惚れてイカれた令嬢にやめるよう思い止まらせる話だ。最後の硫酸顔浴びせな結末が深く印象に残る。この短編でワトソンが悪徳男爵とコンタクトをとるために、ホームズの頼みで東洋磁器のコレクターになるべく、一夜漬けで陶器の知識を猛勉強するエピソードが私は昔から好きである。

「マザリンの宝石」は単純な機械トリック利用のエピソードで、宝石盗難犯との同席会談にてホームズが「私は隣の部屋でバイオリンを弾いてるから」と言って席を外すが、実は機械であらかじめ録音しておいたバイオリン演奏を流しておいて、カーテンの陰に隠れてホームズが宝石のありかを立ち聞きするというものだ。機械を使った軽い現場不在証明(アリバイ)作りである。レコーダーや蓄音機がまだ出始めで、当時は最新機器だったものをドイルは早速使う。だから今読むと正直、単純素朴でしょうがない感じもするが(笑)、これは20世紀初頭、執筆当時の時代の最先端ということで。

「三人ガリデブ」は、初期の傑作「赤髪組合」と同様な、いわゆる「奇妙な発端」の典型話である。「赤髪組合」とかなり内容が似ている。「赤髪組合」が銀行金庫への地下トンネル掘削、かたや「三人ガリデブ」は、床下地下の紙幣偽造の大規模設備が狙われる。ホームズ短編を多く執筆するにつれてドイルもある程度のネタ切れ、話の重複は避けられないのかとは思う。しかし「三人ガリデブ」は登場人物のガリデブ氏が、かなりユーモラスで魅力的だ。何よりも「三人ガリデブ」という絶妙に味のあるタイトルが印象深くインパクトがあって心に残る。

「ソア橋」は、これまでのホームズ短編にはなかった新ネタ「凶器消失」のエピソードである。この作品は本当に堂々としたフェアプレイで、凶器消失の仕掛けや事件の動機ら話に破綻がなく素晴らしい。個人的にはホームズ短編群の中でもベスト3には入ると思う。「ライオンのたてがみ」は動物が犯人の話で、これは読み始めで、だいたいラストまですぐに分かってしまう。

「白面の兵士」「三破風館」「サセックスの吸血鬼」「這う男」「覆面の下宿人」は、いずれも「奇妙な発端」を使った短編だ。話の冒頭から「奇妙な発端」の不思議な出来事が起こり、謎が謎を呼んで、その「奇妙さ」で読者の興味を惹(ひ)きつけてラストに合理的解釈を提示し、スッキリ話を終わらせる。「かつての戦友の兵士が行方不明、しかし異様に『白い顔』の白面の姿を目撃」「家財道具一切を含めて丸ごと家を買い取りたい奇妙な申し出」「現代社会で中世世界の迷信・怪奇な吸血鬼が出現」「類人猿のような這う男が夜ごと屋敷に現われる」「奇妙な覆面の下宿人がいる」などなど、これら「奇妙な発端」に対して、さすがはドイル、最後は万人が納得できる合理的で科学的な解釈をホームズの推理を通じて提示し、見事に話を終わらせている。

個人的には「這う男」の、年若い女性と結婚した老教授の若返り願望にて、あやしい薬を海外から取り寄せ服用して、その副作用で凶暴・野生化の類人猿で「這う男」という年取った男の哀愁話が印象深く読後も長く余韻を引きずる。