アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

東京スカパラダイスオーケストラ大百科(10)「Full-Tension・Beaters」(冷牟田竜之・その1)

アルバム「Full-Tension・Beaters」の時期の「東京スカパラダイスオーケストラ」は、ドラムの青木達之の急逝により、バンド自体が大きく揺れ動く。そうしたとき動揺するメンバーをバンマス(バンド・マスターのリーダー)として引っ張っていったのが冷牟田竜之だった。そのため、このアルバムは冷牟田主導で作られている。

当時、深作欣二監督のヤクザ映画「仁義なき戦い」がリメイクされ、深作監督自身も「バトル・ロワイヤル」でバイオレンス映画へ復帰を果たし、世間の深作評価が高まりの影響もあってか、冷牟田作の「フィルムメイカーズ・ブリード・頂上決戦」や映画挿入歌の「さよなら・みなさま」など全体に東映実録ヤクザ映画の影が色濃く出ている。このアルバムのPVを作るのに深作監督にオファーを出したところ、ギャラと制作費もろもろで1億円だったので断念したという噂があるが、本当なのか!?ジャケットもカッコよく、スカパラの面々もどこぞのチンピラ・ヤクザのような出で立ちである。タイトル通り、全曲「フルテンション」のほぼ1発録りで、特に「イン・ア・センチメンタルムード」のスカ解釈カバーは雰囲気があって、本当に良い上質なスカだと私は思う。

この時期もアルトサックス、ギター、アジテートマン担当の冷牟田竜之は、以前の事故によるケガで休養と復帰を繰り返していましたが、近年治療専念のためスカパラを脱退されました。

冷牟田竜之さんのことなど。スカパラの人達は、楽器テクがスゴくて、いつもモッズなスカパラ・スーツでクールにキメてカッコよくて私は全メンバーを好きなのだが、あえて「一番好きなメンバーは?」と聞かれたら、私は初期の頃からずっと「冷牟田推し」の冷牟田ファンだ。「テキーラと赤い薔薇」で、よく薔薇の花一輪をスーツや楽器に差していた冷牟田の担当はアルトサックス、ギター、アジテートマンである。最後の肩書き「アジテートマン」は、「アジテート」=「煽動する」でライヴで客席の観客を煽(あお)りに煽って文字通り「アジテート」してパニック・ムードを演出して盛り上げる。政治で民衆を煽動し無意味に煽るのは「デマゴーグ」でよくないが、音楽ライヴで観客を煽りまくってヒートアップさせる「煽動」は許される。昔の冷牟田は髪の毛を赤色に染めて、スカパラ・スーツに「リーボック」(Reebok)のスニーカーを履いて、ステージが広いホールツアーの時はマイク片手にチキやりながらステージ上をスゴい勢いの速さで走り回っていた。

冷牟田竜之は福岡出身のいわゆる「九州男児」で、私は冷牟田を見ると、いつも同じく福岡出身でめんたいロックの「シーナー・アンド・ザ・ロケッツ」の鮎川誠を思い出す。冷牟田も鮎川も無口でシャイな九州男児、しかし心は強い。冷牟田竜之は、あまり笑わない。スカパラがテレビに出てトークをやると、他のメンバーは、にこやかにさわやかに談笑して話の笑い所のオチでは全員が爆笑しているのに、そんな時でもグラサンをかけた冷牟田だけ真顔で笑わず。そして、なぜかひとりだけ笑わないクールな真顔の冷牟田がカメラに抜かれる(笑)。それが冷牟田ファンの私はテレビ前で、いつも快感だった。

そんな冷牟田竜之が事故にあって足を負傷する。当時、いつも通りライヴに行ったら、会場入口に「冷牟田竜之・休演のお知らせ」のデカい紙が貼ってあって、入場してもらうフライヤー(チラシ)の中に冷牟田の事故の様子と治療の経過をスカパラのマネージャーが詳しく書いた紙が入っていた。

タイにライヴに行って、ステージを組んでゲネプロ(通しリハ)も終わり、ライヴ本番までメンバー各自が自由な時間を過ごしていた。冷牟田は現地のバイク屋でバイクを借りて街に乗り出して行った。しかし、ライヴ本番が近づいても冷牟田だけ帰ってこない。「まさか遅刻か」と心配していたら昔からスカパラに帯同のカメラマンの仁礼博が、「ヒーヒーが事故って病院に行ったって地元のスタッフが言ってるよ」。とりあえず冷牟田抜きでライヴを始めて、「遅れてきた冷牟田を何曲目からステージに上げスカパラ本体の演奏に合流させるか」マネージャーはグルグル考えていたのだけれど、病院に駆けつけて実際に集中治療室で治療を受けている冷牟田を見た瞬間、「ライヴに合流させる云々レベルの話ではないな、負傷というよりは重体」。瞬間で顔が、みるみるうちに固まった。事実、現地の医師は足の切断にまで言及したらしい。それからタイで手術をして、さらに日本に帰ってからも手術を繰り返し、「今回のツアーは休演だけど冷牟田は徐々に回復に向かいつつあるので皆様ご安心下さい」といった内容だった。

そして、冷牟田竜之は武道館で復活を果たす。私は、うれしかったし感動した。1曲のみのスポット参戦で、まだバンドへの本格復帰ではなかったけれど、キューブリック(Kubrick)の「時計じかけのオレンジ」のコスプレ衣装で、ギターを持った冷牟田が三角パワーのピラミッド・セットのステージ床下からサプライズでせり上がって登場という。

冷牟田竜之は、後にスカパラに本格復帰して以前と変わらず果敢にライヴをやったりしていた。復帰直後は普通に立っていたし、杖をついてるときはあったけれど、後のようにステージに椅子を出して座りながらライヴをやることはなかった。やはり足が悪いと姿勢が不自然になって立ったり歩いたりする時に足の悪い所を自然とかばうので、今度は身体の別の部分に余計な負担がかかったり、身体全体に疲労が蓄積して消耗しやすくなるのだと思う。それから、しばらくして冷牟田竜之はスカパラを脱退する。

脱退の経緯や理由については、本人談で以下のようなことだった。スカパラ・メンバーに誤解を与えないよう、ものすごく気遣って「僕は今もスカパラのメンバーにはリスペクトの念を持っていますし、その前提で話を聞いてほしいんですけど」と念を押しながら冷牟田は慎重に語る。

「あの頃いちばん問題だったのは、僕がずっと鬱(うつ)だったことなんですね。最後の4年くらいはその状態がずっと続いていたんです。そのせいで、メンバーのみんなに迷惑をかけたところがあって。具体的には、まだ言いにくいです。でもそれがみんなの中に蓄積して、非常に空気を悪くしてしまったし。それと同時に足の状態もすごく悪くなっていって。メンバーと話し合っていくうちにバンドから1回外れて足を治してください、って話になったんですよ。だから、脱退という形はとりましたけど、僕としてはあのとき完治したらスカパラに戻るつもりでいたんです。…でも、次に何をやろうってことが浮かぶわけがないんですよ。あの頃自分にとってスカパラはすべてでしたから。そのせいか、辞めたことによって余計鬱が深くなって。3ヶ月くらいは本当に最悪の状態でしたね。生きてるエネルギーがゼロに等しいというか。…手術・リハビリを経て、ある程度歩ける状態になったので、スカパラに戻ろうと思ってメンバーに会ったんです。でもそこで、待ってたよって空気にはならなかったんですよね。迷惑かけたのはこっちだし、今のスカパラがあるからそれはよくわかるんです。でも、ああ、もう一緒にできないんだなと。だからそこで方向転換して、自分で一からやろうと」

確かに冷牟田竜之は、スカパラ脱退直前まで鬱(うつ)でストレスが溜(た)まっていたのかもしれない。脱退間際のライヴで彼は、ステージ上で毎回やたらギターを壊していたような気がする。奈良の東大寺野外や、さいたまスーパーアリーナで「ハナレグミ」らをゲストで迎えてやった時も狂暴化してギターを壊していた。当時、オールスタンディングのクラブツアーで名古屋に観に行った時、アンコールでメンバーが再登場して楽器をセッティングしている際に、ステージが狭いので冷牟田と北原が背中同士でぶつかって、北原雅彦が「ごめん」と声をかけているのに冷牟田は全く気付かず。そもそもぶつかったことすら気付いていないような、彼は疲労困憊(ひろうこんぱい)で余裕がなく自分のことに懸命で周りが見えていない、そうした場面を実際に私は目撃したことがあった。

冷牟田竜之がスカパラを脱退して最初に新しく作ったバンドは「DAD・MOM・DAD」である。そのアルバム新譜を聴いた時は内容がスカパラ曲のカバーが多くて、「冷牟田さん、何でわざわざ新しいバンド作ってスカパラ時代の定番の自分の持ち曲『モンスター・ロック』とか『インターセプター』やるの?そんなのスカパラ本体に復帰して今まで通り普通にやれば」と正直、私は思った。しかしながら、あれは今考えると冷牟田本人が一番スカパラに復帰して、またメンバーみんなとやりたいと切実に強く望んでいたけれど、もうやれなくて「ああ、もう一緒にできないんだな」と残念に思って、だが「自分がスカパラで失ったもの」を認めたくなかったから、自身がスカパラでなくした「モンスター・ロック」や「インターセプター」の演奏を新しいバンドを早急に組んでもう一度激しくやる。そうした喪失の精神的代償行為で理解すると、冷牟田周辺の関係者や新バンドのファンの方には大変に失礼でお叱(しか)りを受けてしまうかもしれないけれど、少なくとも私はそう感じた。

失ったものへの精神的な代償行為。さらに近年の新バンド「THE・MAN」も、やはり楽器編成がトランペットからトロンボーン、アルトサックスからバリトンサックスまでスカパラのホーンセクションとほぼ同じで、「冷牟田さん、自分が失ったスカパラを何とかしてもう一度取り戻したいんだろうな」と、ついつい思ってしまう。実際に大変なはずだ、精神的にも体力的にも。スカパラでメジャーで武道館のデカい箱やら全国ツアー、海外ライヴまでこなしていたメジャーな人が新たにバンドを立ち上げて路上ライヴや一発録りのレコーディングの最初から、もう一度始めるというのは。「スカパラは自分自身」とか、「一時期スカパラのこと以外、何にもやらなかった…朝起きてスカパラのことやって寝て、また起きてスカパラのことやっての繰り返し…ともかくスカパラのことだけ考えて、やりました…自分のプライベートは一切なかった」とか言ってしまう真っ直ぐな人だがら。

冷牟田が足をケガして入院して手術とリハビリをやって治りかけのとき、メンバーに内緒で名古屋のスカパラのライヴをこっそり見に行く。その時に冷牟田は自分がいないスカパラを外から客観的に見て、「ハードさが足りないな」と思った。それでケガから復帰後の新作アルバム「Full-Tension・Beaters」で、ハードコアな激しさを前面に押し出した深作欣二ばりの東映実録ヤクザ映画の暴力路線(?)のコアなスカ曲をやる。映画「仁義なき戦い」や「燃えよドラゴン」のテーマ曲のスカ解釈カバーをやる。それは、ちょうどその時にドラムの青木達之が急に亡くなり、メンバー全員が精神的に非常に動揺してバンドの屋台骨がグラグラになっていた時だったから、冷牟田なりに「ここで誰かがスカパラ強引に引っ張ってバンドを前進させなければ、前に進めなければ」という、スカパラに対する腹をくくった強い責任の思いがあったと思う。

また、従来のような海外の大きなフェスに単発参加ではなくて、ツアーバスに乗っての強行スケジュールで欧州の小さなライヴ・ハウスを次々にまわるヨーロッパ・ツアーをこの時にやったことも大きかった。「だって、ヨーロッパの小さな箱とかでやると、今までスカパラのこと全く知らない地元のパンク野郎とかスキンヘッドのヤツらが普通に見に来たりするんだよ。そいつらに初見でナメられちゃいけない。バンドは、どこかハードで狂気なところがないと」。小さなライヴ・ハウスをまわる、どぶ板のヨーロッパ・ツアーに初めてスカパラを出す当時、冷牟田竜之は、そんなふうなことを言っていた。

だから、スカパラから冷牟田竜之が抜けて「今の東京スカパラダイスオーケストラは穏(おだ)やかでさわやかで優しい人しかいないので何だか物足りないないな。グラサンかけて真顔で、ほとんどめったに笑わない冷牟田さんのようなクールでハードなメンバーも欲しいな。冷牟田さんがスカパラに復帰してくれたら」というのが、今の私の思いだ。冷牟田竜之のスカパラ関連の活動を見ていると、バンド脱退のその後も含めて「男はツラくてもキツくても人生を背負って生き続けなければいけない」と悟るし、学ばされる。冷牟田竜之、カムバック!

冷牟田曲で好きなのは当然「モンスター・ロック」だ。彼の作る曲は、だいたい分かる。「サッカーのドリブルでゴールまでの最短距離の一直線をそのまま力わざで無理やり強引に一気に駆け抜けるような曲」である(笑)。「モンスター・ロック」以外にも「エレキでGO!」など。

ライヴで「スキャラバン」をやるときは、いつも沖祐市のキーボード・ソロ弾き終わりの直後に定番の約束で「ジャンプする」というのがあった。足をケガしていないときの昔の冷牟田竜之は沖ソロ後のそのタイミングでいつも派手に飛んでいたし、オールスタンディングの会場ライヴでの「スキャラバン」の時は前列の客のみんなも冷牟田に合わせて、やたら大げさにジャンプしたりしていた。