アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

東京スカパラダイスオーケストラ大百科(9)「Arkestra」(青木達之)

アルバム「Arkestra」の時期の「東京スカパラダイスオーケストラ」は「新しいことをどんどんやっていく」モードなので、これまで一応インスト・バンドでやってきていたが、ここで新たにボーカルを正式フロント・メンバーに入れる。クリーンヘッド・ギムラの弟・杉村ルイをスカパラの正式メンバーとして迎え入れる。ジャケット写真の大旗はためく感じからして、当時は「船がデカイ旗を立てて大人数の男たちを乗せて未開の海の荒波に新たに漕ぎ出していく」イメージがあった。

しかし、結果からいうと杉村ルイ在籍はこのアルバムのみで、間もなくスカパラから脱退してしまう。後日、冷牟田竜之が「あの時はプロデュースの方針でルイには愛に満ちたメッセージ・ソングを歌ってもらう方向でやったけど、本当はもっとルイのロックな不良っぽさとかストリートな感じを前面に出してやってたら、その後の展開は変わってたかもしれない」趣旨のことを言っていた。「なるほど、そうかも」と私も思う。実際、このアルバムを引っさげての全国ホールツアーを私は観に行ったが、杉村ルイはずっと出ずっぱりではなく、中盤のインスト曲の時は奥に引っ込んで出て来なくて、その代わり最初と最後の歌の楽曲の時はスカパラのバンドをバックに従えスポットライトを浴びて杉村ルイ中心でやって「やっぱり歌が上手いな」。歌テクと声量とで会場中が圧倒される感があった。

私はスカパラ・デビューのころからずっと「冷牟田推し」の冷牟田ファンなのでライヴに行ったときは、いつもステージ上の冷牟田竜之を目で追っていたが、当時ライヴ本番なのにステージ脇で冷牟田がルイと普通に話しこんでいるというか、その場で直接にアドバイスしている情景があった。結局、クリーンヘッド・ギムラの実弟の杉村ルイを「正式なフロント・メンバーとしてスカパラに迎えたい」と言い出したのも、おそらくは常に新しいことをやってバンドを活性化させたい「スカパラ次の一手」をいつも先読みで考えていた冷牟田発のアイデアだろうし、「インスト主体じゃなくて歌モノやるなら僕は…」ということで、ギターの寺師徹は「Arkestra」制作前にスカパラを脱退しているし。だから、積極的に杉村ルイを誘った冷牟田竜之がルイにライヴのことやバンドのこと、スカパラの色々なことを教えて「新加入・杉村ルイのサポート役」でバンド内で機能していたところがあったと思う。

このアルバムで杉村ルイの歌モノ以外のインスト曲では、洗練されたスカ「ブルー・マウンテン」や、お洒落なタンゴ調の「裏通りのふたり」が私は好みだ。

スカパラは、バンマスのASA-CHANG在籍時の1枚目「スカパラ登場」から「パイオニアーズ」までが「東京スカ」を追究する基本に忠実なスカパラ第一期であり、ASA-CHANGが脱退して「ファンタジア」から、この「Arkestra」までがスカ以外の楽曲や他の人とのセッションや歌モノなどにも果敢(かかん)に挑むスカパラ第二期に当たる。そして「Arkestra」を経て、次のアルバム「Full-Tension・Beaters」以降でテンション高いハードなインストやオリジナルなスカを極めて、同時に他方歌モノ3部作も重ねるスカパラ第三期でバンドの成熟期という感じが私はする。

青木達之。ドラム担当。アルバム「Arkestra」発表後に逝去されました。

青木達之さんのことなど。青木達之急逝のニュースを最初に聞いたとき、私は非常に驚いた。1990年代のあの頃、一番スカパラのライヴに参戦して連日通っていたし、実際ステージ上での彼をリアルタイムでよく見ていたから。また当時はスカパラの中で青木達之のみ既婚を公(おおやけ)にファンに明かしていて(他にも当時既婚のメンバーはいたが、だいたい隠していた)、娘さんとの写真をアルバム冊子やツアーパンフに載せて小さなお子さんがいることを知っていたから。

青木達之が亡くなったとき、スカパラ・メンバーは(確か)翌日に宮崎に行くスケジュールで、深夜から早朝にかけ連絡が入って皆が青木の急逝を知る。後日聞いた話では、そのとき沖祐市は電話口で嗚咽号泣したらしい。ガモウも「もうライヴは出来ない」と再起不能になるくらい直後には憔悴(しょうすい)していたらしい。谷中、川上、沖の三人が青木と同学年の同級で昔から知っており、谷中敦と川上つよしは普通に「青木」と呼ぶのだけれど、沖祐市とガモウは、いつも「青ちゃん」と呼んでいた。

青木達之はスマートでクレバーで実に頭のキレるドラマーだった。ちょうど同じく「スマートでクレバーで実に頭のキレるドラマー」に、元「YMO」の高橋幸宏がいる。元YMOの坂本龍一いわく、「だいたい昔からドラマーっていうのは体育会系の汗かきの筋肉質な肉体派で女好きで、譜面が読めず作曲もできなくて。でも、幸宏はそういった従来のありがちな野卑な体育会系のドラマー像を見事に打ち破る。繊細でナイーヴで曲も作るし、ドラムを叩いても汗かかないっぽいし、文化系で洗練されてて普段からスーツなんか着てクールでお洒落だ」。

高橋幸宏同様、青木達之も文化系でクールでお洒落なドラマーだった。高橋同様、青木もタイトで禁欲なドラミングを心がけ、時に感情的になって勝手にドカドカと手数が出そうになったり、気分的にノッてリズムが走りそうになると、自分のプレイをわざと抑えて自己コントロールしているフシが当時からスカパラのライヴにて私には見受けられた。「青木さんもずっと音楽を続けて、後々は高橋幸宏さんのようになるのかな」と私は思っていた。実際、青木は自ら「YMO好き」を公言していたし、高橋幸宏も青木達之を知って可愛がっていたし非常に仲が良かった。いつも互いに「幸宏さんと青木君」だった。「高橋と青木のニュー・ウェーヴ系ドラマーの師弟愛」といったものを私は勝手に感じていた。「高橋幸宏の後継といえば間違いなく青木達之だろう!」くらいの勢いで。スカパラがYMOの良曲「シムーン」のカバーをやるのも、はたまたスカパラが高橋幸宏をゲスト・ボーカルに迎えてコラボで「ウォーターメロン」のシングルを切るのも、結局は高橋と青木の「師弟つながり」だろうし。

「おい!青木」「はい?」「オマエやる気ないんだったら帰れよ」「えっ?」「バンドにドラマーは2人も要らねぇんだよ…って言ったら、あの二人は仲が悪いって、みんな信じちゃうんですよね」っていう高橋と青木のお約束「キレ芸」茶番コントを昔はライヴMCでよくやっていた(笑)。高橋幸宏はドラマーであり、歌うときは太鼓を叩けないのでライヴのサポート・メンバーでドラムによく青木達之を指名していたから。

事実、青木達之は多くの人に慕(した)われていたし好かれていた。高橋幸宏同様に竹中直人も青木達之をよくイジってた。以前にスカパラは、竹中直人とディナーショーやテレビ番組やライヴの飛び込みゲストなどで頻繁に共演していて、昔「デカメロン」という深夜テレビのコント番組を竹中直人とスカパラの面々でやっていた。他に出演が「ビシバシステム」の住田隆とふせ・えりの二人や土屋久美子ら、もろ芝居系の人達でワケがわからない「竹中直人ワールド」全開のアングラな笑いだ。それで青木の主演コントが「どらむ寿司」(笑)。とにかく竹中直人が、青木達之のことが好きで非常に気に入っていたことは間違いない。

青木達之が「スマートでクレバーで実に頭のキレるドラマー」というのは、「なぜ今スカパラがこの曲をやる必要があるのか」いつも彼が理知的に考えて、その都度的確に答えていたから。昔はスカパラのインタビューには青木、谷中、川上の同級生トリオが揃(そろ)うことが多くて、確かに谷中敦は哲学青年で「言葉のメッセージの人」だから色々しゃべるのだけれど、あの人は案外その場の雰囲気で勢いで適当に話すことが多いから。それで「俺も言いたいことがあったんだけど、全部青木に言われた。青木の言うとおり」のような(笑)。あと冷牟田も「これまでにない新しいことをやりたいとアイデア出すと、賛成でも反対でも必ず青木君が最初に返事を返してくれてた。あれはスゴい」旨のことを後に語っている。青木達之はスカパラのことを色々と真剣に考えていたと思う。

以前にスカパラのバンド内でクラブツアーのオールスタンディングのライヴの時、なぜかメンバー内輪(うちわ)で「客席にダイブする」というのが一時期流行っていたらしく、普段は冷静なナーゴも客席ダイブしたりして、それで川上つよしもダイブしていたら、「(リズム隊の)ベースは行くなよ!」川上は後で青木から叱(しか)られていたらしい(笑)。青木達之は堅実で、しっかりした人だった。

青木達之は途中までスカパラをやりながら講談社に勤めていて、スカパラがバンド結成して最初の目標にしていた初の武道館単独ライヴ、武道館であの360度の円形ステージをやってスカパラが目標達成をしたとき、彼は会社を辞めてプロのミュージシャン一本に活動を絞る。だから普通の社会人として賢くやれて、しかも音楽も出来て、常識がない「バンド命の音楽バカ」ではない。そういった、わきまえあるバランスとれた大人なところも私は好きだった。歴代のスカパラ他メンバーも社会人として常識ある人が多かった。ソプラノサックスの武内雄平は途中で脱退してしまうけれど朝日新聞勤務だし、クリーンヘッド・ギムラも確か青木達之と同じ講談社勤務なはずで、スキンヘッドで見た目が破天荒なギムラがカタギな会社勤めというのは改めて考えるとスゴい(笑)。

スカパラの曲で青木達之といえば、私がすぐに思い浮かぶのは「Just・a・Little・Bit・of・Your・Soul」だ。今でこそスカパラはスカ以外の曲も多彩にやっているが、「俺たちは東京スカパラダイスオーケストラなんだからスカ以外の楽曲はやってはいけないんじゃないか」という考えが、昔はあったらしい。それで最初のレコーディングの時、青木がスカではない「ジャスト・ア・リトル・ビット・オブ・ユア・ソウル」のカバーをやろうと言い出して(もしかしたら逆かもしれない。誰か別メンバーが言って、それに青木が反対したのかも。要確認)、バンド内で結構モメる。結果、その意見が通ってレコーディングされ、「ジャスト・ア・リトル・ビット」は初期スカパラ・ライヴで定番大盛り上がりの必殺曲になった。非スカ曲の「ジャスト・ア・リトル・ビット」のカバー選択はバンドとして大正解だった。

あとスカパラでの青木達之に関する曲といえば、谷中敦作詞の「めくれたオレンジ」で、谷中が正式にコメントをしていないから分からないけれど、あの歌は青木と谷中、沖、川上の同級生仲間の「友情とその別れ」を歌ったものだと曲を聴くたび私はいつも思う。

「くたびれた服、スカした顔で仲間を連れて夜を明かす。答えが欲しい訳じゃないのに、探すふりしてとぼけていた」「呼び出された日、落ち着かないと肩を震わせじっとしてた。次に逢う時、必ず聞くよ帰るときだけ笑顔だった」「流れる光見てた。打ち明けられた夜。言葉が通り過ぎていく。瞬(またた)きも出来ない。」

「めくれて見えた優しさと目を伏せた弱さのため」=「めくれたオレンジ」=青木達之っていう、たぶん。