アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

フリッパーズ・ギター 小沢と小山田(11)コーネリアス(小山田圭吾)「ファースト・クエスチョン・アワード」(その1)

特集「フリッパーズ・ギター・小沢と小山田」は、数回前から「フリッパーズ・ギター」(FIippers・Guitar)解散後の小沢健二と小山田圭吾、両君のソロに関する内容で書いている。今回、明らかにしたいのは以下のようなことだ。アルバム「ヘッド博士の世界塔」がフリッパーズ・ギター解散後の小沢健二と小山田圭吾に与え、後々まで引きずった衝撃、つまりは「フリッパーズ解散の背景理由」と「フリッパーズ解散後のソロが同じバンドでやっていたにもかかわらず、小沢と小山田でなぜあんなにも違ってくるのか?」

「フリッパーズ・ギター」(FIippers・Guitar)解散の引き金を引いたラスト・アルバム「ヘッド博士」までの内容を振り返り確認しておくと以下のようになる。フリッパーズ・ギターの最終作「ヘッド博士の世界塔」は、前作の「カメラ・トーク」とは明らかに異なる新機軸を打ち出したアルバムである。「カメラ・トーク」までは本来、世界は「─であるべきはず」なのに「─ではない」、小沢がいうところのNOT構文の文法アルバムであった。「─ではない」否定の欠落で世界と折り合いがつかない苛立(いらだ)ちだったり、他者と心の底から分かりあえない諦(あきら)めだったり、そういう「個人の気分的なもの」をモラトリアムの、はかなく美しい甘い青春な詞を書いてアルバム作っていた。しかしながら「ヘッド博士」の頃になると、フリッパーズもそういったNOT構文の「─ではない」否定の欠落のモラトリアムの甘い青春の季節は、もはや過ぎ去ってしまって「何か普遍的で真実的なものがある」、すなわち「何かがある!」存在を示唆するだけのBE動詞の第一文型的なアルバムになる。否定の欠落から「何かがある!」の存在示唆への転換を鮮(あざ)やかに遂げる。

そして小沢健二ソロに関しては、小沢はフリッパーズ時代の「ヘッド博士」での「最終的に普遍的で真実的なポジティヴな救いがないとダメですよ」の存在思考における、「確かにある普遍的で真実的な本当のことの中身の内実」を突き詰める作業を独りソロ作品にて果敢(かかん)にやる。

ここでふと思うのは、「なぜ小沢はそういったフリッパーズ時代の『ヘッド博士』に端を発した、最終的なポジティヴな救いの中身の具現化作業をソロになって独り孤独にやるのか?」ということだ。「ヘッド博士」のアルバム制作時に「最終的にポジティヴなものがないと、ダメですよ。…その辺で僕らはすごく誤解されてる。最終的にそういう救いのあるものは必要なのよ」と小山田と一緒に言っているわけだから、わざわざフリッパーズ・ギターを解散させずに小沢と小山田の共同で「ヘッド博士」の次の新作アルバムをフリッパーズ名義で制作発表して、その中で「確かに存在するはずの最終的なポジティヴの救い」の中身を精査し明らかにする続きの作業をやればよい。

事実、フリッパーズ・ギターの電撃解散の突然の辞め方は、かなりヒドかった。「ヘッド博士」の全国ツアーライヴは途中で投げ出して中止にするし、次作のレコーディングのためのスタジオも押さえてあったのにキャンセルし違約賠償もろもろの損失が。当時、読売新聞に「プロ意識・欠く行為」と書かれフリッパーズ・ギターは散々叩(たた)かれた。しかし後々トータルで考えると、解散後に発売のベスト盤の売り上げや小沢と小山田それぞれのソロ活動の収益でフリッパーズ解散時に出した損失分は軽く回収され、むしろ事務所やレコード会社は結果、黒字回復にまで持って行けたとは思うが。

バンドを解散せず、フリッパーズを継続させて「確かに存在するはずの普遍的で真実的なポジティヴな救い」の中身の具体化を二人の共同作業でやればよかった。にもかかわらず、フリッパーズ・ギターは「ヘッド博士の世界塔」完成直後に未練なく電撃的に解散し、しかも周りに散々に迷惑をかけて小沢と小山田の個別のソロに分かれてしまう。そして、小沢健二は普遍的で真実的な救いの内実を突き詰める作業を独り孤独に単独でコツコツとやる。決して小山田と一緒に共作ではやらない。問題はそこにある。つまりは「フリッパーズ解散の背景理由」。

ここで注目したいのは、フリッパーズ・ギターは小沢と小山田が対等でイーブンに楽曲制作していた才能とセンスあふれる2人組のバンドだったけれど、よくよく考えると作詞と作曲の役割分担は変則的で異常に偏(かたよ)った分業体制だった。作曲は両者でバランスよくやっていたが、作詞は全部小沢が担当していた。詞に関しては小沢健二のみで小山田圭吾は歌詞に一切関与していなかった。フリッパーズ・ギターの制作クレジットは、小沢健二と小山田圭吾の2人の共通イニシャル「K・O」を取って「Double・K・O・Corporation」(ダブル・ノックアウト・コーポレーション)名義でボカしてたけれど、実際に全曲の詞を書いてたのは小沢健二だ。つまりはフリッパーズ・ギターの「ヘッド博士の世界塔」の時、「最終的にポジティヴな救いがないとダメですよ」と言って「確かに普遍的で真実的な本当のことがある」のBE動詞の存在の思考で小沢と小山田のコンビのフリッパーズ・ギター名義でアルバムを作ったけれど、アルバム「ヘッド博士」の世界観の詞を全力で全て書き上げたのは小沢だったため、「何かがある!」と強く確信していたのは作詞担当の小沢のみで、歌詞に直接的に深く関与していない小山田は、そんなに切実に「何か普遍的で真実的な本当のものがある」の存在示唆の確信にまで強く思い至らなかった疑いがある。

小沢健二は「ヘッド博士の世界塔」の制作過程で「確かに何かがある!」のBE動詞の存在思考の新境地に一足先早く、すでに移行していた。だが、小山田圭吾は同じフリッパーズ・ギターで小沢とコンビでやってはいたけれど、存在示唆のBE動詞の新境地にいまだたどり着いていなくて、むしろ小山田は前作アルバム「カメラトーク」での世界は本来「─であるべきはず」なのに「─ではない」否定のNOT構文の思考に、おそらくは依然としてあった。だから小沢からすれば、「ヘッド博士」を作った後の「確かに何かがある!」の普遍的で真実的なポジティヴな救いの中身の具現化作業を小山田と一緒に共同でやっていくことはできない。「ヘッド博士」完成の時点で小沢は「確かに何かがある!」の存在のBE動詞だったけれど、小山田は実質、本来「─であるべきはず」なのに「─ではない」否定のNOT構文のままで二人の立ち位置が完全にズレていたから。もう小沢健二はフリッパーズ・ギターを解散させて、小山田圭吾と別れて独りソロでやっていくしかない。

フリッパーズ・ギターの解散に関して、「2人がお互いに何となく自然に同時に解散に思い至った」ニュアンスで後に、特に小山田は語っているが、私の感触では、おそらくラスト・アルバム「ヘッド博士の世界塔」の聴き所の最大の目玉である全曲歌詞を全て独りで自在に書き上げアルバムの世界観を構築し彼の主導で「ヘッド博士」を作りきった小沢健二、すなわち「確かに何かがある!」の思考に到達し、次にその「普遍的で真実的な救いの何か」の内実を突き詰めて前のめりで早く明らかにしたかった小沢が「ヘッド博士」の制作同様、これまた小沢主導でフリッパーズ・ギターを解散に持って行って無理やり終わらせるバンドの幕引きをした、そんな「フリッパーズ解散の背景理由」の可能性が果てしなく強い。私はそういった気がする。

結局「フリッパーズ解散の背景」について、「あー言葉で説明するの面倒くさいから、もう渡辺満里奈の取り合いの末のケンカ別れでいいや。それでいいですよ」みたいな(笑)、当人らが語る俗っぽいおもしろ芸能ゴシップでは到底、説明できない。ヘラヘラしてフニャモニャラな見かけの不真面目な態度とは裏腹に小沢も小山田も音楽的に真面目で真剣なフリッパーズ・ギターだったから、その解散理由も極めて真っ当至極、解散は音楽的な事情である。

この記事は次回へ続く。