アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

大学受験参考書を読む(1)富田一彦「試験勉強という名の知的冒険」

私はもう、だいぶ前に学校を卒業して、すでに学生ではないのだが、今でも大学受験参考書を読んで面白がったり、時に不満に感じたりすることが多々ある。そういったわけで今回から始まる新シリーズ「大学受験参考書を読む」である。

富田一彦「試験勉強という名の知的冒険」(2012年)は比較的近年の著書であり、厳密には大学受験参考書ではない。大学受験や試験全般に通ずる「試験勉強」に関する読み物体裁となっている。

富田一彦は代々木ゼミナールの英語講師で有名な方で予備校講師歴が長く、1980年代、私が高校生の頃から活躍で当時から私は氏のことを知ってはいた。しかし、地方都市に在住の私は東京は代々木の代ゼミ本校の氏の講義を受講したことはなく、ただ大学入学後に外部試験の一般教養で語学の英語があり、そのとき富田「英文長文問題・解法のルール144」(2000年)を購入し短期の付け焼き刃で英語の試験勉強をやった。なかなか分かりやすい論理的で理にかなった英文の読み方を教えてくれる参考書で、一文一文の構文をとって精読していく、どこか駿台予備学校の伊藤和夫「英文解釈教室」(1977年)を思い起こさせる構文主義な英文アプローチが好きだった。そして、富田「英文長文問題・解法のルール144」の「はじめに」が、かなり悪ノリした毒舌に溢(あふ)れる軽妙な語り口で、しかし受験勉強に限定されない全般的な物事の考え方や問題解決の方法に関する本質的なことをサラリと的確に述べており、本文の英文読解解説よりも面白く感じた。そういった以前の好印象が強くあったので今回、富田「受験勉強という名の知的冒険」を購入して読んでみた。聞くところによると現役受験生や浪人生に対する愛情と信頼関係の裏返しから学生を散々からかって軽く毒を吐く英語の先生らしいので、それに倣(なら)ってこちらも毒舌の軽いダメ出しから始めてみる。

まず書籍のタイトル名が良くない。現代風の俗な言い方をすれば「本のタイトル名がダサい」。「受験勉強という名の知的冒険」である(笑)。「知的冒険」などという恥ずかしい言葉をタイトルに照れずに堂々と使う書籍を私は久しぶりに見た。「知的冒険」とか「知的興奮」とか「知的遊戯」とか、1980年代のポストモダンのニューアカ・ブームのとき以来の「知識があること、知的であることにあからさまに価値を認めて優越を措く」(本来、知識があったり知的であること、それ自体には何ら価値や優越はない)著者の態度が透けて見える非常に恥ずかしい題名、いわゆる「ダサいタイトル」で正直、本書を手に取って書店レジに持ってくことがこれまた恥ずかしかった。この辺り、出版社の大和書房の担当編集者(本文によると小宮久美子さんという人らしい)は「知的冒険」の、どうしようもないタイトルを著者の富田を説得して事前に何とか修正できなかったのか。

本書では第一部の「問題はどのようにしてできているか」にて、出題者が解答者にミスディレクションを仕掛けて故意に正解から遠ざける誤誘導の「目くらまし」の「隠し」技術を「雑音」といい、類型化して「雑音」のいくつかのパターンを挙げている。その際の例で出す問題が実に馬鹿馬鹿しい。やはり、この人は英語の先生なのであり、英語に関する例題やそれを通しての「雑音」の説明は普通であるが、英語以外の問題が実に馬鹿馬鹿しい。例えば26ページの「くだらない問題ですが、新大阪を出た新幹線は」云々の例題から「雑音」を解説する記述はいくら例とはいえ、こんな馬鹿馬鹿しいなぞなぞ問題をわざわざ持ち出して、そこから話を広げようとする氏は救いようがなく実にどうしようもない。私は読んでいて氏の例題引用センスのなさに、あまりに馬鹿らしく正直ここで本を放り投げて読むのやめようかとさえ思った。

また例えば42ページの「江戸時代の大坂における商業の発達と金融について」の南山大学の入試問題を例にとって、出題者が受験生を誤答のミスディレクションに導く「雑音」の仕組みを得意気に説明していくくだりも氏が非常に憐(あわ)れで可哀想な思いがした。あのような手の込んだ「雑音」蘊蓄(うんちく)なくとも、あれは多少の日本史の知識があれば、極めて普通に簡単に、変に「雑音」の深読みなどせずとも瞬時に解ける素朴な問題である。あの南山大学の日本史の問題で、わざわざ本書記載のような「雑音」知識を利用して問題を解く受験生はおそらく皆無だ。無理して専門の英語以外にも手を広げて、つまらないなぞなぞや例題を出して読者から嘲笑を買う。この人は英語を主に知って、その英語の知識でご飯を食べている、いわゆる典型的な「予備校の英語の先生」なのであった。

さて、あまり調子に乗って半畳入れてダメ出しばかりやっていると代ゼミの富田「信者」から憎まれて石でも投げつけられそうなので(笑)、ここからは心を入れ替え「本書のまさに読まれるべき良さの読み所」を紹介することにしよう。ここまで散々に書いてきて、もはや誰からも信じてもらえないかもしれないが(笑)、本書は従来の「試験勉強」に根本的な再考を促す、のみならず試験を受けない一般の人に対しても広く通じる実に有益な良著である。富田一彦という人は相当にデキる人だ。つまりは本書にて「問題を解く=人間が物事を考えること」について、極めて本質的な考察を至極真っ当に行っている。

氏の予備校講師の立場から若い学生に日々接し感じることとして本文中にてしばしば語られるが、受験生や高校生など試験を受ける人達は「絶対」や「必ず」や「これだけ」や「出るのはズバリここ」や「これさえやっておけば」が本当に好きらしい。氏がいうところの「Xすれば必ずY」のような、試験に臨む際に例外なく常に必ず正答にたどり着ける解法原則を皆が知りたがり、それを求め手に入れ安心したがる。それで一般的な予備校講師は、そうした「問題が楽に解けるポイント」や「必ずここが出る」や「これさえやっておけば大丈夫」といった小手先の受験テクニックを要領よくまとめて切り売りし、「カリスマ人気講師」(?)に体裁よくおさまる。

しかしながら、富田一彦は「そういうのは思考停止だから良くない。事実、東大などの難関校では既に知っているか否かの知識の有無ではなく、本質的な思考の過程を試す良問を出すから、その都度自分で主体的に考えてやっていかないと難関大学には合格しない」「ましてや試験問題は出題者が、あらかじめ作成した必ず正解がある箱庭だけれど、学校を卒業して社会に出たら誰も正解を知らない未知の世界だから、試験勉強を通して自力で主体的に考える訓練をやっておくと先々も役立つ生きる糧(かて)となる。人として豊かな人生を送れる」といった旨、そこまで「試験勉強」を「知的冒険」と目して掘り下げ深く考えている。

それが実際に英文を読んでいて、「意味が分からない未知の単語が出てきてもパニックにならず途方に暮れず諦(あきら)めずに前後の文脈で類推する」や、選択肢の取捨でも「あえて意味を取らず無理やり日本語に訳さずに、例えば名詞か否かの品詞の特定をやって消去法を使って正解を絞り込んで行く」や「視点を変えて全文の広い視野から類似の反復パターンを見つけ出す」の工夫につながる。未知の問題にその場で臨機応変に対応して、自分の中に限られてある知識をフルに活用動員して何とか自力で正解にまでたどり着く。実は難関大学の出題者も、そうした良質な学生を求めてあらかじめ試験問題を作問しているフシがある。

そういうのが本書でいう「知識ではなく知恵を」における「知恵」の具体的内容(コンパクトで統一されてる、例外少なく対処しやすい、融通が利く)、「やじろべえの精神」(ゆるやかだが常に一定の範囲にある柔軟な知性)、「観察力」(目の前の現象を正直に見る、答えではなくまずは手がかりを探す、ほかの何かと比べる)で集約され具体的に示される。おそらくは思想史研究でよく言われるところの、「刻々と変わり移りゆく状況の中で、その場限りで場当たり的に対処せず、知性を持って粘り強く試行錯誤を繰り返しながら一貫した思考で対応していく強靭な主体的精神」と同義なはずだ。

富田一彦は「試験勉強という名の知的冒険」を通して、試験にて高得点獲得で合格の目先の利益にのみ捕らわれない、「単なる小手先の合格テクニックを切り売りする既存の予備校講師ではないから、問題を解いて人間が抽象能力を遺憾なく発揮し物事を考えることの根本本質まで掘り下げているから、この人は他の予備校講師や高校教師とは違って頭ひとつ抜けている、いや頭ふたつかみっつは軽く抜いている」といった感慨を私は持つ。

加えて「試験勉強」を「知識ではなく知恵へ」の転換契機と捉えるため、「受験勉強は知識の詰め込み」と否定する従来のステレオタイプな受験勉強批判に反論する富田であるが、その際に「もちろん、私が受験勉強の世界で生きている人間だから受験勉強を擁護したいというバイアスを持っていることは認める」といった旨、予備校講師で受験産業に従事している自身の所属立場から来る偏向(バイアス)を外部から客観的に押さえる一文をソツなく挿入するバランス感覚である。「この人は相当にデキる人だ」と率直に私は思う。

これを読んでる大学受験生や学生さんは、まだピンとこないかもしれないが、学校を卒業して社会に出ると、例えば氏が言っているような「観察力」=「目の前の現象を正直に見る、答えではなくまずは手がかりを探す、ほかの何かと比べる」の大切さを今さらながら私は身に染みて感じる。世の中には「目の前の現象を正直に見る」ことができず、自身の願望や希望的観測を織り交ぜて物事を見る人、「答えではなくまずは手がかりを探す」苦痛が受け入れられず、すぐに答えを探して、だが見つからなくて諦めて簡単に堕落する人、「ほかの何かと比べる」相対的判断ができず、独我論の独善論に陥って勝手に自滅する人などザラにいる。

大学受験生、学生さん、がんばれ。