アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

大学受験参考書を読む(14)薬袋善郎「基本からわかる英語リーディング教本」( 薬袋善郎の「品詞分解」と伊藤和夫の「構文主義」)

以下は、英文中の各単語の品詞(名詞、動詞、形容詞など)と働き(主語、目的語、補語など)とを逐一押さえ、徹底的に図示し明示して英語を構造分析的に読み解こうとする、いわゆる「品詞分解」の英文解釈の方法を教授する薬袋善郎(みない・よしろう)「基本からわかる英語リーディング教本」(2000年)での、著者による「『あとがき』に代えて」の文章の一部である。

「私のやり方はいわゆる『品詞分解』と呼ばれる方法ですが、これに触れて少しでも魅力を感じる人は10人中4人位です。そのうち特に強烈に魅きつけられる人は2人位で、この2人は本人も信じられないようなスピードであっという間に英語ができるようになります。…それに対して、私の方法に触れて、少しも心が動かない人が10人中4人位います。それから強い反感を持つ人が10人中2人です。そういう人は、わざわざ私のところに『先生のやり方は邪道だと思います』とか『何を言っているんだか、さっぱりわからない最低のやり方だ』とか『キワモノですね』とか言いに来ます。でも、そんなことはどうでもいいのです。大事なことは無作為に抽出した10人の中に、いつも2人は私のやり方で劇的にできるようになる人がいるということなのです。…ですから、私は『この本は全ての人に買ってもらわなくてもよい。その代わり、全ての人に是非一度見てもらいたい』と思うのです」(「基本からわかる英語リーディング教本」293ページ)

「基本からわかる英語リーディング教本」にて展開される品詞分解の読み方教授に関し、薬袋本人によるあまりにも低い自己評価だ。一般読者の私は非常に心配になって気の毒で心痛む「あとがき」である。「私の方法に触れても少しも心動かない人が10人中4人位」で、同様に「強い反感を持つ人が10人中2人」なら、もともと薬袋の英語読解法に全く賛同しない、ないしは反感を持つネガティヴな人は併(あわ)せて「10人中6人位」となり、半数以上の人が氏の「英語リーディング」に最初から否定的である結果になってしまう。しかも「大事なことは無作為に抽出した10人中に、いつも2人は私のやり方で劇的にできるようになる人がいる」で他方の劇的成功事例は10人中2人であり、習得成就の成功率がたったの2割程度とは。自己謙遜や謙譲の美徳が仮に入るとしても、あまりに低すぎる自己評価ではないか。著者は自身の品詞分解による英文解釈の方法論に、もっと自信を持ち胸を張ってよいのではないか。「基本からわかる英語リーディング教本」という、せっかくの英語参考書上梓のめでたい「『あとがき』に代えて」の挨拶記述の場でもあるのだから。

そのように読んでいる読者が心配になるほど時に気弱で自信喪失な「あとがき」記述になってしまうのは、氏が提唱の品詞分解による「英語リーディング」教授に対し、直に過酷な中傷・批判言説浴びせのストレスに薬袋善郎が日々さらされ続けた事情があるからだと思われる。「そういう人は、わざわざ私のところに『先生のやり方は邪道だと思います』とか『何を言っているんだか、さっぱりわからない最低のやり方だ』とか『キワモノですね』とか言いに来ます」。世の中には無神経で非常識なヒドい人達がいる。薬袋提唱の品詞分解の英文読解法の良さが分からなかったり、その方法で効果が出なかったら、「氏の品詞分解の読みは、たまたま自分には合わなかった。残念ながら自分の場合は上手く機能しなかった」で単に諦(あきら)めて、そのまま別の英語参考書に新しく手を出すなり、他の英語教師を探して新たに付くなりすれば済む話だ。わざわざ氏のところまで「邪道だ、さっぱりわからない、キワモノですね」云々を言いに行くのは人として明らかに礼を欠いている。率直に言って失礼である。世の中には無神経で非常識な人達が残念なことに少なからずいる。それで結果、「でも、そんなことはどうでもいいのです」とか「ですから、私は『この本は全ての人に買ってもらわなくてもよい』と思うのです」の鬱(うつ)に入った病(や)んだような薬袋の「あとがき」記述になってしまうのだから、端から見て一般読者の私はとても心配で気の毒で心が痛む。

薬袋善郎は以前に駿台予備学校の英語課に在籍で駿台にて大学受験英語を教えていたが、そこでの英語課主任・伊藤和夫と英語指導法をめぐり一時期、軋轢(あつれき)の確執があった人とも言われている。私は部外者で当時の駿台英語課内部の事情を当然、詳しく知らないので、実際に薬袋善郎と伊藤和夫との間に英語指導法をめぐるある種の確執があったかどうか断言はできないけれども後々、伊藤和夫が書いた英語指導論や英語学習法のエッセイ評論を読み、品詞分解にて英文の一字一句を意識し精密分析を進める英文読解の方法に対し伊藤師があからさまに不快感情を示す、時に「有害な考え方」として直接批判する以下のような文章群を見るにつけ、「薬袋と伊藤の間に対立の確執が実際にあったかもしれない」と推測される。

「英語の勉強というと、鉛筆を手にするのが何より先で、次にテキストを開き、行き当たりばったりで、あっちこっちにSとV、OとかCなどという記号を書きちらしたり、英文の一部をカッコで囲ったり矢印をつけたり、これ以上汚せないほどテキストを汚してからでないと、英文を読みはじめられない人もいる」(「伊藤和夫の英語学習法」1988年、48ページ)

「彼らのテキストは、記号や各種のカッコでいっぱいであり、時には美しく色分けまでされていて、原文が判読できぬくらいである。…しかし、そういう不毛の努力、本来は無意識による抑制の世界で行われるべき活動を過度に意識する努力は、かえって英文を読めなくしてしまうのである」(「予備校の英語」1997年、71ページ)

前述の「わざわざ私のところに中傷・批判を言いに来ます」云々のストレスに加え、同じ駿台英語課の中で直属の上司たる伊藤和夫と英語の指導法をめぐる相違があり、同圧なストレスをさらに受け続けていたであろう薬袋の境遇を考えると複雑な心境だ。一般論から言っても仕事への考え方・やり方が自分とは相反する上司の下で働く会社勤めの社会人が日々、感受し蓄積するプレッシャーのストレスというのは相当なものである、少なくとも私の実感として知る限りでも。

ただ、ここで伊藤和夫の名誉のために長年の「伊藤和夫ファン」の私からして幾重にも強調し、あらためての確認を促しておきたいのは、伊藤和夫は薬袋善郎の品詞分解による厳密な構文分析の英文読解の方法を決して全否定しているわけではない、ということである。「しかし、そういう不毛の努力、本来は無意識による抑制の世界で行われる活動を過度に意識する努力は、かえって英文を読めなくしてしまうのである」。要するに伊藤は薬袋の品詞分解を全否定しているわけでは決してなく、品詞分解をやってもよいけれど、あくまでそれは「本来は無意識による抑制の世界で行われる活動」たるべきと単に指摘してるだけのことであって、事実「英文解釈教室」を始めとするどの英語参考書を読んでみても、伊藤和夫も薬袋善郎同様、複雑な英文の場合には品詞分解を適時に施(ほどこ)し、一字一句を厳密に意識し慎重に分析判断した上で構文解説したり日本語訳を組み立てたりしている。

思えば、伊藤和夫という人は予備校にて大学合格のための受験英語を教えてはいたけれど、その大学受験英語こそが日本人が将来に渡って自在に英語を読み書きできる事につながる英語教育の本筋と考え、目先の大学合格だけではなく、広い視野を持って日本人全体の英語力の向上、日本の英語教育の行く末まで見通した上で予備校にて大学受験英語を教える実に偉大な英語の先生であった。ゆえに伊藤師が「このままでは将来の日本人は今よりも確実に英語が出来なくなる」という相当な危機意識を持って本当の意味で全否定し終始、敵対し痛烈に全力で批判し続けたのは、「よく使う特定フレーズを覚えさえすれば英語は自動的に話せるようになる」のお気楽な英会話英語と、「返り読みをしてはいけないし、文法知識も一切いらない。なぜならネイティプは通常の英語の読み書きにて、いちいち文法を意識し深く考えたりしないから。とにかく習うより慣れよ」の理論不在で無責任な街のカルチャー英語に対してだった。伊藤和夫は東京大学・文学部出身で哲学を専攻していて(実は英語学専攻ではない)、どちらかといえば理屈っぽい人だったので、英会話学校やカルチャースクール英語の理論不在な、お気楽英語に生涯一貫して全力否定であり、文法や構文をしっかり理解し、それらを効果的に運用することで自在な英語の読み書きを遂げる大学受験英語の理詰めな英語教育こそが日本人が将来に渡り自由に英語をあやつれる、いわゆる「使える英語」への最良最短な基本の道筋だと信じてやまなかった。

伊藤師のエッセイ類を読んで感じる、氏の街の英会話スクールとカルチャー英語に対する徹底批判、沸々と燃え上がる憎しみの炎に比べたら(笑)、同じ大学受験英語の中で、先に引用したような薬袋がやっている品詞分解の厳密な読みの教授法に関しての間接的な伊藤の言及が何だが時に「批判めいたもの」に読み取れることがあったとしても、実はそれほど大した問題ではない。伊藤和夫が本当の意味で終生対決していたのは、大学受験英語の枠内での指導法をめぐっての品詞分解ではなく、理論や文法知識を一切不要とする薄っぺらい英会話英語やカルチャー英語であったわけだから。

伊藤和夫の英文読解アプローチは「構文主義」ともいうべきもので、伊藤師は英文を左から右に読んでいって、できるだけ返り読み少なく「直読直解」を目指し、その都度次に来る文要素を予測し、しかし時に予測が外れれば適時修正を繰り返して英語の構文の自然な流れに出来るだけ忠実に読みの流れを止めず、ネイティプの感覚に近い形で英文を読み進めようとする。そういった構文主義の伊藤の立場からして、英文の一字一句を過度に意識化し、常に一文を細切れに分解して毎回律儀(りちぎ)に英文の精密な分析構造把握を強要する薬袋の品詞分解に対し、伊藤が少なからず反感の批判意識を持っていたであろうことは想像に難くない。何しろ品詞分解の英文解釈アプローチは、出来るだけ返り読み少なく、左から右への文の自然な流れに沿った文章理解に即するネイティプの感覚に近い「直読直解」の英語の理想的な読みへの努力を最初から断念しているので。

ただ薬袋の立場からすれば、初学者や英語が苦手で中途挫折した英語のやり直し輩には文章中の各単語の品詞や働きを全く押さえず、英文ルールに則(のっと)った厳密な構文分析をせずに英文中の各単語を自動的に日本語変換し、それらを適当に繋(つな)ぎあわせて不正確に勝手に日本訳を作ってしまうような場当たり的でいい加減な読みが横行していて、そういったことをやらせたくない防止のために薬袋は「直読直解」とは程遠い、ある意味非常に地道で泥臭い厳格厳密な品詞分解の解析作業を英語を読む際、どの英文に対しても必ず遂行するよう過剰強要するわけである。伊藤師がいう所の「本来は無意識による抑制の世界で行われる活動」であるべき品詞分解を毎回、過度に意識化してやるようにと。

結局のところ、初学者や学び直しの英語が苦手な人には、英文の「英語リーディング」の教え方教授の方便として一時的に連続集中して、しつこく品詞分解をさせるのはありだとしても、いつまで経っても「英文を読むのに必ず品詞分解しないと読めない」では正直いって困る。いつかは、ちまちまといちいち品詞分解の細かい作業を経なくても、英文を左から右に自然に軽く流して読んだだけの一読で主節の「S+V」が即座に見切れて、その他、形容詞・副詞の句や節の構造、各単語の品詞も瞬時に分かるような、品詞分解の過剰な作業形式の型を破る無意識下での瞬間判断、即事理解な英文読解思考を研ぎ澄ます習熟の域にまで達することが必要であろう。

そうした「品詞分解の過剰な作業形式の型を破る、無意識下での瞬間判断、即事理解な英語読解思考の研ぎ澄まし」ということが、実は伊藤師が常々言及していた英文解釈における「直読直解」の理想の内実に他ならないのであって、その内容は伊藤和夫「英文解釈教室」(1977年)の「あとがき」での以下のような、あの有名な名文に遺憾なく見事に凝縮されているように思う。

「英語の力は理解が半分、習練による慣れが半分である。英語を読むことによってのみ英語は読めるようになる。…数多くの書物を読み、多くの英文にふれて英語に慣れることによって、形式に対する考慮はしだいに意識の底に沈んでゆく。やがては、形式上、特に難解な文章にぶつからぬかぎり内容だけを考えていればよくなる。その時、つまり、本書の説く思考法が諸君の無意識の世界に完全に沈み、諸君が本書のことを忘れ去ることができたとき、『直読直解』の理想は達成されたのであり、本書は諸君のための役割を果たし終えたこととなるであろう」(「英文解釈教室」301・302ページ)