アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

大学受験参考書を読む(48)中野清「中野のガッツ漢文」

中野清「中野のガッツ漢文・改訂新版」(1996年)は懐かしい大学受験参考書だ。「中野のガッツ漢文」(1987年)という書籍が昔あった。大和書房の「受験面白参考書」シリーズのラインナップのうちの一冊で、「中野のガッツ漢文」は上下二巻にさらに「中野のガッツ漢文」副読の問題集も出ていたはずだ。

復刊が「情況出版」、ここは間違いなく笑うところである。日本共産党から離反した共産主義者同盟(ブント)系の雑誌「情況」を毎月出している情況出版からの復刊である。情況出版は、福岡が生んだ偉大な哲学者でマルクス研究者である廣松渉が、自腹で資金を出して作らせた雑誌「情況」の出版元である。現在でも「情況」は月刊誌形態で刊行されている。私の近所の書店では「情況」と、これまた日本共産党機関誌「前衛」が毎月仲良く書棚に並んで陳列販売されている。

もちろん、「ガッツ漢文」の著者・中野清も左翼関係で反権力な人だ。昔から中野清の参考書を読むと、この人のお上の国家権力に対するアンチな反権力の志向性を氏の漢文講義を通して、その発言の端々に遺憾なく感じ存分に味わい尽くすことができる。例えば、以下は1996年復刊「中野のガッツ漢文・改訂新版」にての、はしがきの中の一文である。

「大学入試センター試験への私立大学の参加は、入学試験の国家統制への道なのではないか、という危惧がますます強まったということなのです」

大学入試センター試験が「入学試験の国家統制への道」とは、さすが元全共闘世代は考えることがスゴい(笑)。共産主義者同盟の情況出版が「中野のガッツ漢文」を改訂新版で出すのも、同じ全共闘「同志」として敬愛の、つながりがあるからだろう。よくよく考えてみると共産左翼の学生運動と予備校講師とは非常に親和性がある。往年の学生運動に参加し活躍していた人は、秀才で優秀な人が多い。頭脳明晰で学問ができるし文献も読める。理論に精通し理知的に思考もできて、おまけに弁も立つ。ただこういう人は、秀才で優秀なのだけれど大学卒業後の進路に困る。頭脳明晰で学問ができるなら、そのまま大学に残って研究者の道に進むこともありだが、普通の大学は学生運動をやって大学の教授会やら学部当局と散々敵対し、「大学解体」などと叫んでいた学生を当然ながら進んで大学の組織内には入れたがらない。いくら秀才で有能でも、せいぜい非常勤講師の数年契約くらいで、将来的に専任として学内人事に積極的に大学側は採用したがらない。彼らが後々、教授や研究職として正式に大学に残る道は、おそらく厳しい。何しろ当時は現役の教授・助教授・講師陣ですら、学生運動を支持すると大学を追われ職を失ったりしていたので。

また一般企業への就職も、華々しく反体制運動をやって「秩序糜爛(びらん)」の疑いで検挙や逮捕歴がある学生を就職採用で積極的に採用するかどうか。さらに、そういった闘争運動をバリバリやっていた人は実際に優秀でプライド高く自信にみなぎる人が多いので企業組織に属することに少なからず抵抗を感じ、自分から新卒正規の就職を拒絶したりもする。

そこで比較的自由が効いて組織の縛り少なくフリー、しかも本人の実力次第でいくらでものし上がれる予備校講師稼業への転身を果たす。最近はどうか知らないが、昔の予備校講師には「左翼でもともと学生運動の闘争を派手にやっていた」ような人が結構いた。受験生の応援色紙に「一点突破・全面展開」など、運動の闘争スローガンをそのまま書いてしまう人、容姿の風貌も長髪ヒゲでヒッピーのような服装の出で立ちで「それ!普通の企業や大学勤めなら風紀的に一発アウトだろ」という人(笑)。しかし、そうした見た目がヒッピーで自由度が高いフリーな人ほど優秀で頭がキレて難しい大学入試問題もスラスラ解けて、しかもバイタリティあって受験生に教えるのが異常に上手い。人は見かけでは判断できない。要は人間は中身だから。

そうした自由人で秀才な予備校講師として私がすぐ思いつくのは駿台予備学校の物理科の山本義隆で、氏は東大の全共闘(全学共闘会議)の元代表だった。また河合塾の現代文講師にも以前に牧野剛という、反権力な名古屋大学出身ゆえ相当に左派の重鎮な方がいた。昔の河合塾は文化活動講演に学生運動シンパの吉本隆明を呼んだり、河合文化教育研究所にマルクス研究の廣松渉を招聘(しょうへい)しようとしたりしていた。

そういったわけで全共闘世代の元学生と予備校講師とは親和性あって、つながりが深い。だから、かつての運動での優秀な学生「同志」の同世代人が多く予備校業界にいる、共産主義者同盟系の情況出版が、反権力で反体制な中野清の「ガッツ漢文」を自社で「改訂新版」として復刊する、その辺りのつながりは大変よく分かるし、私は非常に合点(がてん)が行く。

「中野のガッツ漢文・改訂新版」は漢文を中国語のように厳密に外国語の語法に従って読む、そうすると「なぜこのように送りがな付けて読めて、そのような書き下し文になるのか」漢文の仕組みが原理的に分かる、という氏による漢文読解アプローチである。当然、中野清は全共闘世代の反体制なので、彼からすれば今まであやふやで慣れや反復重視で「何となく」だった素読主義の漢文読解の従来教授に対する「反」(アンチ)の意識が強烈にあるわけだ。そのため、漢文を「なぜそのように読むのか」論理的に原理から分かりたい受験生には中野清「ガッツ漢文」は昔からウケがよい。

ただ私が思うのは、漢文に関して「なぜそう読むのか」とか「そういった書き下し文になるのはなぜなのか」の原理の理屈を詰めていくのは誤りな気がする。漢文や古文の知識は大切で、大学に入ってからも史料読解で必要になるけれど、やはり漢文・古文の類(たぐ)いは「文献読解で使えるか否か」の実用学問スキルで、「なぜそう読むのか」の意味を持たせた原理に深入りする方向は明らかに不健全で誤りな思いがする。

私は今でも古典の歴史史料を読む機会があるが、「なぜそのような読み方になるのか」など原理的に考えることはない。原理的負担なく、もう自然に無意識で読めているからだし、本当は読み方の原理に関し、そこまで拘泥(こうでい)してはいけない。漢文や古文は史料があって原文素材がそのまま出てきた時、即座に読めて意味内容が正確に理解把握できるかどうかが勝負所な、いわゆる「使える道具のスキル科目」であると思う。