アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

江戸川乱歩 礼賛(1)「孤島の鬼」

江戸川乱歩の素晴らしさを誉(ほ)め称(たた)える、時には乱歩の駄目な所にも半畳を入れて無理に誉める、今回から始まる新シリーズ「江戸川乱歩・礼賛(らいさん)」である。

「乱歩の前に乱歩なし、乱歩の後に乱歩なし」。江戸川乱歩である。日本の探偵小説は明治時代の黒岩涙香から始まったと思うが、日本に探偵小説のジャンルを確立させたのは明らかに江戸川乱歩だ。巨匠であり、巨星であり、偉大である。それゆえ敬意を表して時に「大乱歩」(だい・らんぽ)と呼ばれる。

しかし正直、私はこの人は初期に書いた傑作短編群の「遺産」の「貯金」で探偵小説家として食いつないでいたところがあると思う。初期の「屋根裏の散歩者」(1925年)や「D坂の殺人事件」(1925年)や「心理試験」(1925年)は、なるほど傑作で面白い。だが乱歩は中期になると、だんだんいい加減になってくる。これは乱歩自身が後に述べているが、「特に長編に関し、私はあらかじめ話の筋や結末を考えずに書き出すので、連載で書き進めるうちに話の辻褄が合わなくなってきたり、初めに書こうとしたテーマから内容が次第に外れてきて失敗に終わり、いつも自己嫌悪におちいるのである」といった旨を白状していて、「こら(怒)、プロの作家なら事前にプロットや結末を全部決めてから計算して書け」と思う。

言われてみれば、確かに中期の「講談倶楽部」に連載の頃のもの(「魔術師」「恐怖王」「緑衣の鬼」ら)は、読んでも印象に残らない。例えば「恐怖王」(1932年)など、いかにも行き当たりばったりで場当たり的に書いた感触が強く本当にいい加減な話である。昔、創元推理文庫で読んだとき、本編よりも巻末解説の方が「恐怖王」の作品のボケが満載な内容展開、乱歩のいい加減な話の持っていき方にツッコミの合いの手をいちいち執拗に入れる解説で面白かった。事実、乱歩は朝日新聞に「一寸法師」(1927年)連載後、あまりに出来が良くなかったため傷心の自己嫌悪で放浪の旅に出たり、スランプで書けなくなって何度か執筆活動を中断している。

そうした江戸川乱歩の長編のなかで比較的、出来が良いと思うのは「孤島の鬼」(1930年)だ。この作品は世評が良い旨をよく聞くし、「長編に関して、あらかじめ話の筋を最後まで考えてから書き始めたのは『孤島の鬼』と『パノラマ島奇談』だけ」と後に乱歩みずから、これまた正直に白状している。確かに「孤島の鬼」は長編乱歩のなかでは例外的に話に破綻がなく上手くまとまっている。

最初の密室殺人のトリックが私は好きだ。被害者の枕元のチョコレート缶がなくなる例の趣向である。その他、「海水浴場での衆人環視の殺人」「奇妙な日記」「見世物小屋の曲馬団」「系図の暗号」「人外境の悪魔の実験」「洞窟内での宝探し」など、全体に推理と冒険の要素がうまく加味されており、一つの長編としてよく出来ている。英国はドイルのシャーロック・ホームズ「六つのナポレオン像」(1904年)を、乱歩が日本風に翻訳して消化すると「乃木大将の石膏像」になるところが笑いを誘う。

「孤島の鬼」は江戸川乱歩長編の中でも例外的に良くできた面白い作品であり断然、私はお薦めする。