アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

江戸川乱歩 礼賛(2)「人間椅子」

江戸川乱歩の小説は探偵推理が土台で、それに大正デモクラシーの「モダニズム・テイスト」か、昭和初期の「エロ・グロ・ナンセンス」の表層の味が加わるように思う。私は後者の猟奇で恍惚な「エロ・グロ・ナンセンス」よりも、前者の明るくて馬鹿っぽい「モダニズム・テイスト」のほうが好きなのだが。

大正の時代になると、日本も近代化や都市化が進んで賃金労働者や遊学で地方から様々な人が都市に流れてくる。働かなくても生活できる「高等遊民」という人達も出てくる。特に高等遊民は、仕事をしなくても生活にゆとり(お金)があって基本ヒマだから、なかには馬鹿なこと考えて実行する人も出てくる。

例えば「屋根裏の散歩者」(1925年)の主人公・郷田三郎である。この小説の書き出しはこうだ。「多分それは一種の精神病ででもあったのでしょう。郷田三郎は、どんな遊びも、どんな職業も、何をやって見ても、いっこうにこの世が面白くないのでした」。しかも「親許から月々いくらかの仕送りを受けることのできる彼は、職業を離れても別に生活には困らないのです」。それで下宿を転々として、ついには「屋根裏の散歩」を出して完全犯罪まで思いつく。ヒマで生活に余裕があると人間は馬鹿馬鹿しいことを考えて実行する。

例えば「鏡地獄」(1926年)の主人公・Kの友人である。もともとレンズ偏愛癖の「彼」が親の財産を相続するや、自宅の庭に建てた実験室にて球形の鏡(いわゆる「鏡地獄」)を作り、その中に入りたがる。馬鹿だなぁ(笑)。

例えば「パノラマ島奇談」(1927年)の主人公・人見広介である。「彼はこの世を経験しない先から、この世に飽きはてていたのです」。とはいえ、せっかく身代わりで「蘇生」して莫大な財産を自由に使えるようになったのだから「パノラマ島」の可視の桃源郷など作らずに、自身の事業を立ち上げて投資するとか、慈善チャリティーをやって社会に貢献するとか、家族・友人のために役立てるとか、もう少しマシなお金の使い方、労力や創造の持っていき方があると思うが。

江戸川乱歩、「怪奇幻想小説の旗手」「現世(うつしよ)は夢、夜の夢こそまこと」と言われれば「そうかな」と思わないこともないけれども、よくよく冷静に考えると「こんな奴は実際におらんだろう」と思わずツッコミの合いの手を入れたくなる与太郎の与太話は乱歩作品には多い。例えば「人間椅子」(1925年)など。

(以下、「人間椅子」の最後のオチに触れた「ネタばれ」です。乱歩の「人間椅子」を未読な方は、これから本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

「人間椅子」は、椅子を改造してその中に入って椅子に座る女性との接触肉感を楽しむ変態心理を描いた作品である。しかし、さすがの乱歩も書き進めるうちに「まずいな。自分の趣味に走りすぎたな。実際こんな椅子の中にずっと入っているような馬鹿はおらんだろう」と思ったのではないか。だから、最後に「突然お手紙を差し上げます。ぶしつけを幾重にもお許しくださいまし。…別封お送りいたしましたのは、わたしのつたない創作でございます。原稿のほうは、この手紙を書きます前に投函しましたから、すでにごらんずみかと拝察いたします。…表題は『人間椅子』とつけたい考えでございます」。つまりは「人間椅子など、あくまでも作中小説の創作のフィクション(作中で主人公に投函発送した「人間椅子」という題名の小説)で、こんな椅子の中にずっと入っているような馬鹿は実在しません」という、どんでん返しのオチを乱歩みずから、わざわざまわりくどくつけたような気が私はする。

江戸川乱歩の「人間椅子」を現代風に真面目に読むと、「粘着質のストーカーによる背筋も凍る偏愛恐怖」のようなことになるのだろうけれど、私からすれば「実際に『人間椅子』を考えて、こんな椅子の中にずっと入っているような馬鹿はおらんだろう」というツッコミ所が満載の、笑える与太郎の与太話にしか思えない(笑)。