アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

大学受験参考書を読む(5)富田一彦「基礎から学ぶビジュアル英文読解 構文把握編」

結局のところ、大学受験の英語のみならず、要するに私の英語読解嗜好として少なくとも一読しただけでは意味のとれない非常に構文が複雑で面倒で難解な、まさに詰め将棋のように熟考を要する難しい英語を日常的になぜか読みたいわけである、下線部英文和訳にて。英語文化圏のネイティブの人達が通常、使う分かりやすい簡潔な実用英語ではなくて。

そういった同じ英語の言語ではあるが一読できない、もしくは一読しても意味が分からない熟考を要する難解な英文というのは確実にあって、それは日本語でも同様だ。私は日本語に不自由なく日常的に日本語の会話や読み書きができるが、一読しただけでは意味が分からない、一読した後に何度繰り返し読んでみても意味の分からない、そうした日本語の文章もあるに違いない。当然、文法的にも正しく適切な現代文の日本語であるにもかかわらず。

少なくとも私の経験からして、例えば小林秀雄の文芸批評や大江健三郎の随筆エッセイなど軽く一読で済ますには理解するのに難解な日本語文である。それら一読しても容易に意味が分からない熟考を要する日本語文は確実に存在する。大学受験英語の下線部訳の逆パターンで、日本語受験の下線部訳問題にて、小林秀雄や大江健三郎の難解文章を日本語学習や日本語テスト受験の海外の人に無理矢理に読ませるナンセンス(笑)。外国の人が日本で普通に生活し仕事をするための日本語習得にて難解な小林秀雄の日本語文芸批評を読める必要は、ほとんどないにもかかわらず。しかし、そのナンセンスな逆のことを英文読解にて、あえて私はやりたい。

大学入試英語をいくぶん解いた上での私の感触では、そんな非実用でナンセンスな難しい英文解釈を大学入試にていまだ出題するのは国立二次試験の京都大学や大阪大学あたりだ。東京大学の英語の二次試験は現代英語のネイティブ風な「使える英語」に改良されており、問題英語そのものよりも設問の問い方(一文挿入、不要文指摘、段落整序など)が難しく、実は英文それ自体は比較的容易で分かりやすい。他方、京大や阪大の入試で出る英文は昔ながらの文語的硬質な英語で英文そのものが難しく(構文、単語、意味内容の抽象度いずれにおいても難しい)、「これぞ!一読しただけでは意味のとれない非常に構文が複雑で面倒で難解な、まさに詰め将棋のように熟考を要する難しい英文の理想形だ」と私には思える。

近年では、そのような難解英語構文和訳の問題演習や解法解説に特化した親切良書な英文解釈の大学受験参考書は数多く出ており、例えば小倉弘「京大入試に学ぶ英語難構文の真髄」(2016年)や篠田重晃「英文読解の透視図」(1994年)らがある。その中で今回の「大学受験参考書を読む」は、富田一彦「基礎から学ぶビジュアル英文読解・構文把握編」(2003年)を取り上げてみる。

本書は、まず英文読解演習の問題数が多い。難易度も易から難へ全126問の収録である。問題英文は長くても、せいぜい4行から5行程度だが全126問の一冊すべてをやり終わるのに、そこそこ日数かかるため長く使えて有用である。また読解英文も出題大学名を明記してはいないが、おそらくは難関大学の過去問ないしは予備校テキストに定番掲載の受験指導英語にて、その筋では有名な英文だと思われる。それに何よりも全体に英文が難しい。しかも、テクニカルターム(専門的術語)やマイナーな難解語の単に英単語が難しいため和訳が困難というのではなく、構文が複雑で文の意味内容そのものが難しい、いわゆる「意味のある難しさ」だ。

著者の富田一彦による本文解説も単に表面的に日本語訳を置きにいかない、「とりあえず日本語変換して形式的に辞書的に訳せたら、それで良し」とはしない。英文そのものの本質理解を促す解答解説にまで射程をもって説明記述されている所が本書の最大の持ち味の良さになっている。例えば「××してくれるな」と否定文で相手に依頼する意味内容を持つ英文について、以下のような著者による解説記述がある。

「一般化すると、『人はなぜ否定文を言うのか』である。否定文は情報の価値という点ではゼロである。何しろ『─でない』のだから。それなのに、人はよく否定文を言う。それはなぜであろうか。その答えは、『聞き手が肯定を想定していると話し手が予想するから』である」

なるほど、「××してくれるな」となぜ否定文で頼むのかといえば、それはそのように否定文混じりの依頼で頼む話し手が「聞き手は相当な確率で××するに相違ない」という「聞き手が話し手が否定したい事柄とは反対の内容を想定している」とする話し手側の予想が、あらかじめ働くからである。だから、先回りし先制してあえて打ち消す。わざわざ回りくどく「人はよく否定文を言う」、決して「××してくれるな」と。

そして上記の「人は相手が思っていそうなことを先回りして打ち消す性質がある」の解説に続く、与太郎の与太話的な実に馬鹿馬鹿しい具体例与太を用いた以下のような解説記述が、著者の富田一彦による「富田節」炸裂の真骨頂である。

「こういう書き方をするとややこしそうに見えるが、実は簡単なことだ。諸君が少し遅くなって家に帰ってきたとき、聞かれもしないのに『遊んできたわけじゃないよ』ということがあるはずた。だがそのとき諸君は『別にお神輿(みこし)を担いできたわけじゃないよ』とか、『裁判の傍聴に行っていたわけではないよ』などとは、多分言わない。なぜだろう。それは当然諸君が遅くなったことに対し、親が『こいつ遊んできたな』と思っているはずだ、と諸君が想像するからだ。人は、相手が思っていそうなことを、先回りして打ち消す性質がある。諸君の親は『神輿を担いでいたな』とか『裁判を傍聴していたな』とは普通思わない(もちろん特殊な例は除くが)ので、諸君はわざわざそんなことを言おうとさえ思いつかないのだ」

「別にお神輿を担いできたわけじゃないよ」とか「裁判の傍聴に行っていたわけではないよ」とか、実に馬鹿馬鹿しい(笑)。富田一彦、この人はどこまでも悪ノリしてブレーキが効かず、ふざけて暴走する所が氏の大学受験参考書上の紙面にて時々ある。しかしながら、たとえ話は与太で実に馬鹿馬鹿しくても説明内容は理にかなっており、掘り下げて深く考察され解説されていることは確かだ。この辺りの勘所(かんどころ)、単に表面的に日本語訳を置きにいかない、「とりあえず日本語変換して形式的に辞書的に訳せたら、それで良し」とはしない、英文そのものの本質理解を促す解答解説は最良である。

直接の発話であれ間接の記述であれ、言葉は、ある特定の具体的状況下にて、必ず誰かの相手に向けて発信されてあるわけだ。言葉そのものが、ただ漠然とそれ自体完結して孤立してあるわけでは決してない。だから、その言葉はどういう状況の設定下にて、どのような関係の間柄にある相手に対し発せられており、その際に話し手や書き手のどういった思いや反応への予測がその言葉に込められ発せられているのか。そういった発話記述をめぐる言葉の使われ方の文脈状況や人間同士の関係性や主体の発話の背景にある思考や意図など、総体的に分析的に押さえられなければならない。

本書における「××してくれるな」「××じゃないよ」が、話し手による「聞き手はおそらく××と想定しているに違いない」の予測の先制が働いた上で発話記述されるという事例の英文解釈解説以外にも、例えば仮定法の「もし××ならば××」は、裏発想で「現実にないこと」が、あえて裏側から期待願望を込めて、もしくは実現拒絶の不安が働いて述べられているのであって、「仮定法読解の肝要は未だ実現していないことへの言及である」だとか。また強調構文は、ある物事や事柄の多数ある側面項目のうち母集団から、ある1つの強調したい項目だけをあえて取り出し選択して強調しているわけで、「(強調するのは)××ではなくて××の方」という強調したい選択項目と、それ以外のその他の母集団すべての特質項目との対立図式に必ずなる。強調構文を使う話し手の背後には必ずそうした対立発想の思考がある、だとか。そういった書かれた英文の背景にある「直接的には書かれていない」記述者の思考の発想や意図、その英文が使用され解釈理解される文脈状況や他の知識ヒントがなくても単純に記述された英文のみから推測できる話し手と聞き手の間柄や関係性の推測把握、それらを散発的に教えてくれる良心的な英文解釈の大学受験参考書は上級者向けの書籍で、本書の富田「基礎から学ぶビジュアル英文読解・構文把握編」を含め時々は見かけるが、まだそのことに特化し有機的に完全網羅した本格的な英語参考書はないと思うので、そうした英語の学術参考書を将来、私は読んでみたい。

ところで近年、広汎性発達障害のトピックが非常に社会の関心を集めており、その中でもアスペルガー症候群の話題が焦点にされることが多々ある。知的障害ではないが、発達障害の中の一範疇(いち・はんちゅう)であるアスペルガー症候群については、(1)対人相互反応における質的障害(相手の気持ちがつかめない、場に合った行動がとれない、周囲との協調性に欠く)、(2)コミュニケーション障害(言葉の使用の誤り、会話をつなげない、目を合わせないなど視線の不安定)、(3)行動、興味活動が限定反復、常道的(こだわりが強すぎる、状勢に応じた状況的判断・行動ができない、自身のルールや言語の辞書的意味に異常に執着・拘泥する)の特徴が主に挙げられる。

このようなアスペルガー症候群の病状の問題が現代社会にてピックアップされてきたのは、現在の社会にて対人相互反応における質的向上や濃密なコミュニケーションが各人に対し異常に強烈なまでに求められるからであって、その高すぎる社会からの要求ハードルの結果の「不適応」で「症候群(シンドローム)」が社会的に新しく生成される面も少なからずあるはずだ。昔の時代と違い、今の現代社会は幼児期から若年、成年大人に至るまで社会参加の強制強迫が実に熾烈(しれつ)で、学生の学校生活でも社会人の会社勤めでも、対人相互反応の質的優良さや濃密なコミュニケーション(集団生活における協調性、分業・協業作業での相互確認・情報共有のコミュニケーション、画一的・機械的ではない状況と相手に応じた柔軟な個別対応の機転など)、俗にいう「空気を読む」ことが相当に高いレベルまで各人に求められる誠にシビアな非寛容社会である。

そうした現代社会への厳しい参加適応の要請観点からして、アスペルガー症候群における症候論点とされる対人相互反応の質やコミュニケーションの濃密度は、実はアスペルガー症候群以外の人でも現代社会に「適応」し生きる上で必須な能力となるわけで、それら対人相互反応やコミュニケーションの核となる言語活用の能力(スキル)は各人において日々、向上研鑽(こうじょう・けんさん)されるべきものと思われる。

それで富田執筆の本書にあるような「××してくれるな」の意味内容を持つ英文についての解説記述に見られる、辞書的意味の機械的・画一的読解和訳に決して終始しない、相手との関係性を勘案した文脈状況や、その文脈状況にて時に付与される言葉の新たな意味や言外のニュアンス、話し手の背後にある意図・思考を即座に見切る力は、対人相互反応の質的向上や濃密コミュニケーションのための言語活用の能力スキルとして現代の社会にて欠かせないものであり、そうした意味において「大学入試の英文解釈は、若い学生のこれからの人が大いに学ぶべき学びがいのある意味ある有益な学習科目であるし、また大学入試の英文読解は若い人に十分に貢献できるのでは」と大学受験英語への希望を持って私は深く思う。

大学受験参考書を読む(4)富田一彦「富田の英語長文問題 解法のルール144」

現役の大学受験生のような入試で高得点を獲って志望大学に合格するといった実利的な目的以外の所で大学受験参考書を読んでいると、その参考書を介して勉強そのものが分かるや得点・偏差値が伸びるといった大学受験参考書の、そもそもの本来趣旨以外のこと、執筆の予備校講師や出版の予備校教務や編集者ら受験産業従事者らの本音や意図に時に気付き、それらが見切れてしまうことがある。

大学受験参考書を日々、読んでいて気付くのは、実際に予備校に通って授業に出席するよりも学生が安く購入できて各自勝手に自宅学習できる、一般書店売りの大学受験参考書は明らかに執筆者が「出し惜しみ」して書いている感があるということだ。問題演習や解答解説にて、「部分的にしか書いておらず漏(も)れが多く全体の網羅性に欠ける」や、「明らかにイントロの入り口のみで核心の部分まで深く掘り下げて書いていないので深まりの生彩を欠く」の難点が、書店売りの参考書には多々ある。

これら大学受験参考書が「出し惜しみ」な件に関し、特に該当なのは現役予備校講師が執筆の大学受験参考書である。予備校の講師が書店売りの一般参考書を執筆で出す場合には、おそらく予備校の教務から暗に言われているのだと思う。「誰でも店頭で比較的安価で購入できる利益率の低い書店売りの参考書で教材カリキュラムの全貌を示すのは、予備校本体授業での生徒集めに響くから、できるだけ内容をセーブして」とか、「予備校の授業で生徒にテキストとして渡す完成された教材カリキュラムを、そのまま書店売り参考書として一般提供するのは、学生以外の同業他社の予備校講師にも自身の指導の手の内を明かすことになるので得策でない」とか、「むしろ予備校の本講義に学生が申し込みたくなるような、お試し勧誘アプローチのセールス的内容を書店売りの一般参考書を活用して積極的にやるべき」というようなことを。

当然、執筆の予備校講師の側もこの先、この業界で自分が生き残るためには自身の講座人気や締め切り状況が気になって、結局は書店で参考書を購入して安くすませるよりは、むしろ受験生には予備校に通って自分の講座を取ってもらいたいと考えるのが自然なので、講座を取って実際に出席した人にしか教えない限定秘伝(?)の独自指導や方法まとめが満載の門外不出なオリジナル・テキストがあったりして、特に予備校講師の方は書店売りの一般参考書では内容的に「出し惜しみ」に走る傾向が強いと私は感じる。

しかしながら、富田一彦「富田の英語長文問題・解法のルール144」(2000年)は予備校系の一般書店売りの受験参考書であるにもかかわらず、案外「出し惜しみ」なく、おそらくは予備校の講義で氏が日常的にやっているであろう指導内容をそのままを詳しく書き出し公開した記述で、「非常にフェアな参考書」といった感想を私は持った。英文解釈の日本語訳にまでたどり着く各文の構文解説のみならず、それぞれの設問パターン(語義選択、内容説明、訳文選択、内容一致、大意要約など)に応じた「解法解説」の問題の解き方や考え方まで丁寧に教えてくれる。そこが有益であり、本参考書の良い所だ。

私が強く印象に残っているのは、上巻の第2問での1997年度の津田塾大学・学芸学部、下線部2の和訳である。あそこで「主節を決定する2つの方法」にて、「文法解析からの背理法」と「前文との関係からの特定」の2つの観点から4ページ程も使用して異常にこだわって長々と非常にしつこく構文分析をやる解説記述は、著者ならではの「富田節」の炸裂で圧巻であった。

この「英語長文問題・解法のルール144」は、前著「英文読解100の原則」での「英文読解の原則ルールがピッタリ100なのは不自然過ぎる。話が出来過ぎで、おかしいじゃないか」という受験生からの読者ハガキのツッコミが入ったらしく、そのため「140でもなく、ましてや150でもない、さらには145のキリのよい数字も避けて、わざと中途半端な(?)144のルール」に著者はしているらしい。そうした本書の迷走タイトルも笑いを誘い、良い読後感の醸成(じょうせい)に陰ながら貢献している。

大学受験参考書を読む(3)富田一彦「富田の英文読解100の原則」(その2)

私が代々木ゼミナールの富田一彦を好きなのは、この人は学生が受験勉強を通じて実際に英語が話せて書けて使えるようになることを最初から笑ってしまうほど潔(いさぎよ)く断念しているフシがあるからだ。学生に英語を教える、英語の教師であるにもかかわらず(笑)。

そうした実用的で話せて書ける、いわゆる「使える英語」の線には行かないで、むしろ英語というのは世界で数多くある言語の中でも極めて筋の通った合理的で論理的な言語体系だから学生が初見で未知の英文に出くわした時に、自身の中に限られてある知識で推測して筋道立てて論理的に考え解釈する抽象思考の訓練に英文読解が大変よく適しているという観点から、割り切って英語を教えているフシが氏にはある。つまりは「思考訓練のための格好の素材としての英語」という捉え方である。このことは氏が執筆の参考書「富田の英文読解100の原則」(1994年)と「富田の英語長文問題解法のルール144」(2000年)両著における時に毒舌あふれる誠に傑作な、まえがきとあとがきでの例えば以下のような文章群を一読すれば明白だ。

「英語は『なんとなく』『勘で』分かるものなどではない。誰にでも完全に、正しく理解できるものである。…諸君に求められるのは、目に見える語句の配列に対して、常に『なぜ』を考えることである。英語は論理的な言語だから、語句の配列には必ずなんらかの理由がある。その理由を文法的に解明していけば意味は自ずから明らかになるのだ」(「富田の英文読解100の原則」)

「一般教育、中でも高等教育でもっとも重視されるべきは論理的思考力である。…そのためには、まず知識体系を誤りなく吸収し、自分のものとして利用できるようにする訓練が必要となる。英語であれ、数学であれ、古文であれ、いわゆる社会人になってから全く必要のない知識体系を高校で学習するのはそのような論理思考の素材としてに過ぎない。本当のことを言えば、ネタは何でもよいのだ」(「富田の英文読解100の原則」」)

「注意力を持って現象を観察し、筋道立ててものを考え、一つの結論に達するという訓練は、若い諸君が将来知的に生きていくために是非とも必要なことだし、その意味では受験勉強は、うまくやれば先々も役立つ生きる糧になりうる、と思うのである」(「富田の英語長文問題解法のルール144」)

なるほど、確かに数ある言語の中で英語は比較的筋が通っていて例外が少ない普遍的な共通ルールが明確にあり、合理的で学びやすい非常に良くできた論理的な言語である。ここでその論理的思考の主なものを定式化していえば、(1)抽象と具体。(2)対立構造。(3)因果関係の3つになる。英語には、この3つの代表的論理が時に本当に目に見えて分かりやすいほど文章内にてしばしば見受けられる。

「抽象と具体」なら英文は普通、左から右へと文章が流れるから、例えば「S+V+C」の第2文型があった場合、「S=C」でSが抽象でVを経て文章が右へ流れ内容が開いて展開してCがSの具体化になる。だから常に右展開の具体化を予測しながら人は「S+V+C」の英文を読むはずだ。また「対立構造」で典型的なのは「not・A・but・B」の呼応である。この型が出たら、とりあえず「AとBの意味内容が同資格であり、かつ対立であるか否か」をまずは確認するのが定石(じょうせき)だ。さらに「因果関係」ならは、例えば「A・result・from・B」の文があれば厳密な日本誤訳を組み立てる以前に「Aは結果でBは原因」と思いながら普通に英文を読むに違いない。

このように英語そのものが非常に筋道の通った合理的で論理的な言語であるから、英語学習は学ぶ人の抽象的思考を高める訓練の場として確かに適しており、非常に優れている。しかしながら現代社会において、なぜ英語がかくも広範な地域で多くの人々によって話され書かれ、政治や経済や教育や国際交流の場にて英語が国際共通の公用語の扱いで広く使われるのか。もちろん、英語という言語そのものの合理性や論理性から来る学びやすさ、使い勝手の良さもあるが、それは英語が母国語のイギリスとアメリカの19世紀から現在に至るまでの覇権国家の帝国主義的繁栄があるからだ。いわゆる「英語帝国主義論」である。

現在ではアメリカ覇権の一極突出で、国際通貨といえばアメリカの「ドル」が世界市場で信用され、国際通貨として流通しているのと同様、現代の英語隆盛の一因も実は米国の国家的強さに由来している。日本国内で語学といえば、まずは英語であり、その他の言語(例えばフランス語やスペイン語や中国語など)は学習も使用も比較的傍流である。義務教育の小・中学校の早い時期から子どもに英語を習わせようとしたり、「これからの国際社会では英語が必須。英語が出来て当たり前」というような、やたらに英語学習を強要させられるのは、それは現在の日本が紛(まぎ)れもなく英語圏のアメリカの同盟国であり、アメリカによる帝国主義的な覇権秩序、グローバル化の体制を日本が(少なくとも日本の国家や日本の企業資本が)積極的に容認し、その体制秩序に乗っかっているからに他ならない。

特に近現代史の帝国主義、植民地支配の文脈に重ねて外国語の習得使用や外国語学習の意味を考えると、「人々が自民族・自国の言葉以外の外国の言語を話せるようになること」の由来には、かなり胡散臭(うさんくさ)い側面があることも確かだ。とある南国諸島に旅行に行って現地の言葉を話せないから英語で話したら、「英語でなくフランス語で頼む」と地元の人に言われ「なぜ?」と考えてみたら、その地域は以前に帝国主義時代の英仏の激烈な植民地争奪戦があって結果、フランスが勝利してフランス人が長いこと現地支配していたから。そのため現地の人々は英語がダメで、代わりに旧宗主国の公用語であるフランス語を極めて流暢(りゅうちょう)に話す。とあるアジア・太平洋地域に行ったら、地元の高齢な方がいきなり日本語でスラスラと話しかけてきて「なぜ?」と尋ねてみたら、これまた戦時中この地域に日本の軍隊がやって来て軍政を敷いて日本人が現地支配をして、皆が日本語を習わさせられた、当時は日本語を話せた人の方が現地の日本人軍閥にうまく取り込め重用されて見返りが多かった、といった話である。

結局のところ、帝国主義下の植民地政策にて言語は強国による現地人支配ための馴致(じゅんち)の有用な道具の一つだから、その点からして現在にまで至る外国語学習や外国語習得の奨励に実は相当に胡散臭い面があることは否定できない。「国際交流」とか「国際教養」とか「国境を越えた地球市民」とか「世界のグローバル化に対応」など、この手の美辞麗句は英語を主とした外国語学習の奨励・強迫につきまとうけれども。この辺りのことだ、英語という言語そのものを学習する以前に、なぜ外国語を学ばなければならないのか。しかも今や語学の外国語学習の王道は英語であり、なぜフランス語やスペイン語や中国語など、その他の言語であっては駄目なのか。

純粋に英語が好きで、将来は英語に関係する仕事や英語圏にて生活がしたいから英語科系の大学進学のために現在必死に受験勉強をしている、未来への夢と希望にあふれた純真な(?)大学受験生に、この辺りの「英語帝国主義」のことは、さすがに残酷すぎて追及する気には私はなれないが、しかし大学に入学した後や、すでに卒業して社会人になっても英語の学習を続けている人、もしくは日常的に英語を使ったり、積極的に英語に関わって特に英語を人に教えて、それでお金を稼いでご飯食べてる人達、例えば予備校の英語講師や中学・高校の英語教師、英会話学校の経営者、TOEICや英検など各種の検定試験・資格制度に携わる人々へ、問いたい。

「なぜ外国語学習を推進・奨励なのか?」しかも学習するのに「数ある外国の言語の中でフランス語でもスペイン語でも中国語でもなく、なぜ他ならぬ英語なのか?」単に「英語は合理的で論理的で学びやすい素晴らしい言語だから」といった英語翼賛以外での、「英語帝国主義」の文脈から考えた少しはシニカルで醒(さ)めた英語学習の動機づけに関する深められた認識を持つことも必要ではないか。余計なお世話だが常々、私はそう思う。

大学受験参考書を読む(2)富田一彦「富田の英文読解100の原則」(その1)

富田一彦「富田の英文読解100の原則」(1994年)は、氏による論理的な英文精読の方法教授の大学受験参考書であり、「英文以外の、トピックの背景にある常識的前知識を活用する」や「前後の文脈で」や「行間を読む」の「何となく」な英文解釈が厳禁の参考書である。そのため意味を取って日本語訳を作る以前に文型や各単語の品詞について便宜、適切に判断処理しなくてはならない。だから、本書に当たる以前に最低限度の英文法の理解や動詞の語法に関する知識は必要なはずだ。

本書にて例えば、副詞節「as・S+V」の後が「完全な文なら時・理由、不完全なら様態」とする解説がある。「asのS+V以下が完全な文か不完全な文か」の見極めなど、そもそも英文法の文型についての理解がないと判断できないし、また同様に動詞に関する語法の知識があって、この動詞は自動詞で「S+V」の第一文型で終わって文が完結するが、他方この動詞は他動詞で「S+V+O」や「S+V+O+O」の第三、第四文型を通常はとるにもかかわらず、目的語が欠落しているから不完全といったようなことを普段から分かっていないと「as・S+V」以下が果たして完全な文か、欠落ある不完全な文か到底、独力では判断できない。そのため本書に臨むに当たり、基本の英文法や動詞の語法に関する知識は最低限あらかじめ必要だ。その上で毎日一題ずつ問題を解いて氏の解説を読んで理解を深めていくと、かなりの短期間で英文が正確に精読できるようになるに違いない。

また、例えば「目的語にthat節をとる動詞はすべて思考・発言を示す。『考える』『言う』を訳の基本にすればよい」のような時間をかけて多くの英文を読む経験を重ねていけば、やがては誰もが普通に気づくであろう「英文解釈上の知恵」を前もって手際(てぎわ)よく教えてくれるので、短期間で効率的に英文読解力を向上させるのに非常に有益な書籍だ。

一般的に言って英語を読む場合には一文単位のミクロの英文精読でも、英文全体の要旨を把握するマクロの英文読解でも「抽象と具体、対立構造、因果関係」の3つの論理を使って英語を読むことが必須である。富田一彦は、この三大論理のうちで特に因果関係が相当に気に入っているようで、本書にての構文解説でも頻繁に使う。英文を因果関係で突き刺して文要素を「原因と結果」に峻別(しゅんべつ)する。例えば「A・reflect・B」があれば、厳密な日本語訳を組み立てる以前に、まずは「Aが結果でBが原因」の把握が必須というような指導だ。その他「consist・of」(…で成り立っている)、「be・based・on」(…に基づいている)などの英文でも、この人は前後を原因と結果の因果関係に毎回律儀(りちぎ)に分け強引に解釈しようとする(笑)。また「secret 」という「秘密」の単語が出てくれば、「秘密=隠された事実・考え」の意味から「(その隠された)理由は…」の毎度の因果関係で無理に訳したがる(爆笑)。

おそらく氏が英文を読む際に因果のロジックを使用しているのだろうし、また構文解説にて、この因果関係を使うと分かりやすく学生を納得させる説明ができるので大変に重宝して富田は因果関係を多用しているのだと思う。それはよいとして、であるならば他の抽象・具体と対立構造の論理も偏(かたよ)りなく、因果関係と同程度に類型パターンのまとめを詳細にやって「因果関係同様、抽象・具体と対立構造も英文解釈にて非常に有用で使えること」を網羅的・有機的に教えてくれたら、と私は本書を読んでいていつも思う。

「富田の英文読解100の原則」に関し「動詞の数-1=接続詞の数」のルールについて、「実際に英文を読むとき、そんな引き算をいちいちやって動詞や接続詞の数を数える人はいない」とする批判の書評をよく見かけるが、あれはあくまでも氏による「教え方の方便」である。英語の初心者で英文解釈が初めての人は、「とりあえずは『V-1』の引き算から始めなさい」というだけのことでしかない。実際にネイティブや英語に慣れている日本人なら、そうした引き算などしなくとも普通に主節のVは一読で見極められると思うし、現実に富田一彦も英文を読むときに、そのような引き算をして動詞の数を数えることなどいちいちやってはいないはずだ。

事実、「V-1」の引き算解説が出てくるのは「富田の英文読解100の原則」の上巻の最初の解説部分だけであるし、下巻ではそうした「引き算ルールで動詞の数をかぞえる」について氏も殊更(ことさら)に言及してはいないので、あれは「超初心者向けの教え方の方便」であって、そこまで酷評して批判するほどのことではない。

大学受験参考書を読む(1)富田一彦「試験勉強という名の知的冒険」

私はもう、だいぶ前に学校を卒業して、すでに学生ではないのだが、今でも大学受験参考書を読んで面白がったり、時に不満に感じたりすることが多々ある。そういったわけで今回から始まる新シリーズ「大学受験参考書を読む」である。

富田一彦「試験勉強という名の知的冒険」(2012年)は比較的近年の著書であり、厳密には大学受験参考書ではない。大学受験や試験全般に通ずる「試験勉強」に関する読み物体裁となっている。

富田一彦は代々木ゼミナールの英語講師で有名な方で予備校講師歴が長く、1980年代、私が高校生の頃から活躍で当時から私は氏のことを知ってはいた。しかし、地方都市に在住の私は東京は代々木の代ゼミ本校の氏の講義を受講したことはなく、ただ大学入学後に外部試験の一般教養で語学の英語があり、そのとき富田「英文長文問題・解法のルール144」(2000年)を購入し短期の付け焼き刃で英語の試験勉強をやった。なかなか分かりやすい論理的で理にかなった英文の読み方を教えてくれる参考書で、一文一文の構文をとって精読していく、どこか駿台予備学校の伊藤和夫「英文解釈教室」(1977年)を思い起こさせる構文主義な英文アプローチが好きだった。そして、富田「英文長文問題・解法のルール144」の「はじめに」が、かなり悪ノリした毒舌に溢(あふ)れる軽妙な語り口で、しかし受験勉強に限定されない全般的な物事の考え方や問題解決の方法に関する本質的なことをサラリと的確に述べており、本文の英文読解解説よりも面白く感じた。そういった以前の好印象が強くあったので今回、富田「受験勉強という名の知的冒険」を購入して読んでみた。聞くところによると現役受験生や浪人生に対する愛情と信頼関係の裏返しから学生を散々からかって軽く毒を吐く英語の先生らしいので、それに倣(なら)ってこちらも毒舌の軽いダメ出しから始めてみる。

まず書籍のタイトル名が良くない。現代風の俗な言い方をすれば「本のタイトル名がダサい」。「受験勉強という名の知的冒険」である(笑)。「知的冒険」などという恥ずかしい言葉をタイトルに照れずに堂々と使う書籍を私は久しぶりに見た。「知的冒険」とか「知的興奮」とか「知的遊戯」とか、1980年代のポストモダンのニューアカ・ブームのとき以来の「知識があること、知的であることにあからさまに価値を認めて優越を措く」(本来、知識があったり知的であること、それ自体には何ら価値や優越はない)著者の態度が透けて見える非常に恥ずかしい題名、いわゆる「ダサいタイトル」で正直、本書を手に取って書店レジに持ってくことがこれまた恥ずかしかった。この辺り、出版社の大和書房の担当編集者(本文によると小宮久美子さんという人らしい)は「知的冒険」の、どうしようもないタイトルを著者の富田を説得して事前に何とか修正できなかったのか。

本書では第一部の「問題はどのようにしてできているか」にて、出題者が解答者にミスディレクションを仕掛けて故意に正解から遠ざける誤誘導の「目くらまし」の「隠し」技術を「雑音」といい、類型化して「雑音」のいくつかのパターンを挙げている。その際の例で出す問題が実に馬鹿馬鹿しい。やはり、この人は英語の先生なのであり、英語に関する例題やそれを通しての「雑音」の説明は普通であるが、英語以外の問題が実に馬鹿馬鹿しい。例えば26ページの「くだらない問題ですが、新大阪を出た新幹線は」云々の例題から「雑音」を解説する記述はいくら例とはいえ、こんな馬鹿馬鹿しいなぞなぞ問題をわざわざ持ち出して、そこから話を広げようとする氏は救いようがなく実にどうしようもない。私は読んでいて氏の例題引用センスのなさに、あまりに馬鹿らしく正直ここで本を放り投げて読むのやめようかとさえ思った。

また例えば42ページの「江戸時代の大坂における商業の発達と金融について」の南山大学の入試問題を例にとって、出題者が受験生を誤答のミスディレクションに導く「雑音」の仕組みを得意気に説明していくくだりも氏が非常に憐(あわ)れで可哀想な思いがした。あのような手の込んだ「雑音」蘊蓄(うんちく)なくとも、あれは多少の日本史の知識があれば、極めて普通に簡単に、変に「雑音」の深読みなどせずとも瞬時に解ける素朴な問題である。あの南山大学の日本史の問題で、わざわざ本書記載のような「雑音」知識を利用して問題を解く受験生はおそらく皆無だ。無理して専門の英語以外にも手を広げて、つまらないなぞなぞや例題を出して読者から嘲笑を買う。この人は英語を主に知って、その英語の知識でご飯を食べている、いわゆる典型的な「予備校の英語の先生」なのであった。

さて、あまり調子に乗って半畳入れてダメ出しばかりやっていると代ゼミの富田「信者」から憎まれて石でも投げつけられそうなので(笑)、ここからは心を入れ替え「本書のまさに読まれるべき良さの読み所」を紹介することにしよう。ここまで散々に書いてきて、もはや誰からも信じてもらえないかもしれないが(笑)、本書は従来の「試験勉強」に根本的な再考を促す、のみならず試験を受けない一般の人に対しても広く通じる実に有益な良著である。富田一彦という人は相当にデキる人だ。つまりは本書にて「問題を解く=人間が物事を考えること」について、極めて本質的な考察を至極真っ当に行っている。

氏の予備校講師の立場から若い学生に日々接し感じることとして本文中にてしばしば語られるが、受験生や高校生など試験を受ける人達は「絶対」や「必ず」や「これだけ」や「出るのはズバリここ」や「これさえやっておけば」が本当に好きらしい。氏がいうところの「Xすれば必ずY」のような、試験に臨む際に例外なく常に必ず正答にたどり着ける解法原則を皆が知りたがり、それを求め手に入れ安心したがる。それで一般的な予備校講師は、そうした「問題が楽に解けるポイント」や「必ずここが出る」や「これさえやっておけば大丈夫」といった小手先の受験テクニックを要領よくまとめて切り売りし、「カリスマ人気講師」(?)に体裁よくおさまる。

しかしながら、富田一彦は「そういうのは思考停止だから良くない。事実、東大などの難関校では既に知っているか否かの知識の有無ではなく、本質的な思考の過程を試す良問を出すから、その都度自分で主体的に考えてやっていかないと難関大学には合格しない」「ましてや試験問題は出題者が、あらかじめ作成した必ず正解がある箱庭だけれど、学校を卒業して社会に出たら誰も正解を知らない未知の世界だから、試験勉強を通して自力で主体的に考える訓練をやっておくと先々も役立つ生きる糧(かて)となる。人として豊かな人生を送れる」といった旨、そこまで「試験勉強」を「知的冒険」と目して掘り下げ深く考えている。

それが実際に英文を読んでいて、「意味が分からない未知の単語が出てきてもパニックにならず途方に暮れず諦(あきら)めずに前後の文脈で類推する」や、選択肢の取捨でも「あえて意味を取らず無理やり日本語に訳さずに、例えば名詞か否かの品詞の特定をやって消去法を使って正解を絞り込んで行く」や「視点を変えて全文の広い視野から類似の反復パターンを見つけ出す」の工夫につながる。未知の問題にその場で臨機応変に対応して、自分の中に限られてある知識をフルに活用動員して何とか自力で正解にまでたどり着く。実は難関大学の出題者も、そうした良質な学生を求めてあらかじめ試験問題を作問しているフシがある。

そういうのが本書でいう「知識ではなく知恵を」における「知恵」の具体的内容(コンパクトで統一されてる、例外少なく対処しやすい、融通が利く)、「やじろべえの精神」(ゆるやかだが常に一定の範囲にある柔軟な知性)、「観察力」(目の前の現象を正直に見る、答えではなくまずは手がかりを探す、ほかの何かと比べる)で集約され具体的に示される。おそらくは思想史研究でよく言われるところの、「刻々と変わり移りゆく状況の中で、その場限りで場当たり的に対処せず、知性を持って粘り強く試行錯誤を繰り返しながら一貫した思考で対応していく強靭な主体的精神」と同義なはずだ。

富田一彦は「試験勉強という名の知的冒険」を通して、試験にて高得点獲得で合格の目先の利益にのみ捕らわれない、「単なる小手先の合格テクニックを切り売りする既存の予備校講師ではないから、問題を解いて人間が抽象能力を遺憾なく発揮し物事を考えることの根本本質まで掘り下げているから、この人は他の予備校講師や高校教師とは違って頭ひとつ抜けている、いや頭ふたつかみっつは軽く抜いている」といった感慨を私は持つ。

加えて「試験勉強」を「知識ではなく知恵へ」の転換契機と捉えるため、「受験勉強は知識の詰め込み」と否定する従来のステレオタイプな受験勉強批判に反論する富田であるが、その際に「もちろん、私が受験勉強の世界で生きている人間だから受験勉強を擁護したいというバイアスを持っていることは認める」といった旨、予備校講師で受験産業に従事している自身の所属立場から来る偏向(バイアス)を外部から客観的に押さえる一文をソツなく挿入するバランス感覚である。「この人は相当にデキる人だ」と率直に私は思う。

これを読んでる大学受験生や学生さんは、まだピンとこないかもしれないが、学校を卒業して社会に出ると、例えば氏が言っているような「観察力」=「目の前の現象を正直に見る、答えではなくまずは手がかりを探す、ほかの何かと比べる」の大切さを今さらながら私は身に染みて感じる。世の中には「目の前の現象を正直に見る」ことができず、自身の願望や希望的観測を織り交ぜて物事を見る人、「答えではなくまずは手がかりを探す」苦痛が受け入れられず、すぐに答えを探して、だが見つからなくて諦めて簡単に堕落する人、「ほかの何かと比べる」相対的判断ができず、独我論の独善論に陥って勝手に自滅する人などザラにいる。

大学受験生、学生さん、がんばれ。

太宰治を読む(8)「兄たち」

太宰治の本名は津島修治である。太宰は⻘森県北津軽郡⾦⽊村の出⾝である。太宰の⽣家は県下有数の⼤地主であった。津島家は「⾦⽊の殿様」と呼ばれていた。⽗は県議会議員も務めた地元の名⼠であり、多額の納税により貴族議員にもなった。津島家は七男四⼥で、太宰の上には⻑兄と次兄と三兄の三⼈の兄がいた。

太宰の⽗は、彼が学⽣の時に早くに亡くなっている。太宰治は七⼈いる男兄弟の六男である。太宰の上には本当は五⼈の兄がいた。だが⻑男と次男が早世したため、三男の兄・⽂治が実質上の⻑兄となり、津島家の家督を継いで家⻑となった。⽗と同様、⻑兄も地元の名⼠であった。⻑兄は家⻑として津島家を継いで⽴派に切り盛りした。太宰の上の三兄と下の弟は若くして病死しており、残された男兄弟は⻑兄と次兄と太宰の三⼈のみであった。太宰は家⻑である⻑兄を特に頼りにしていた。

太宰治が⽣前、誰よりも畏(おそ)れていた⻑兄・津島⽂治が弟・太宰治への⼼情を⽣涯に⼀度だけ告⽩した。津島⽂治は元⻘森県知事、元参議院議員(⾃⺠党)。昭和48年、参議院議員当時の談話である。

「太宰が死んでから、もう25年にもなりますか。これまでは随分と多くの⼈から太宰についての取材の申し込みがありましたが、全てお断りし、ノーコメントで終始させていただきました。実際、彼について話をするのが嫌だったのです。ほんとうに世間に多⼤のご迷惑をお掛けして申し訳ない、というのが私の偽らざる気持ちであり、とにかく、ああいう⼤将が⼀家から出てしまいますと⼀族の者は弱ってしまいます。仮に今、私が『おれの弟は⼤⽂学者で』などということを語りますと、さらに世間に迷惑を及ぼすことになると思うのです。かといって『おれの弟はとんでもない⼤バカ者で』と⾔ったところではじまりません。私が覚えていることをポツポツお話いたします」

「私⾃⾝は弟・修治の⼩説は、ほとんど読んでいません。読んだのは『津軽』と『右⼤⾂実朝』くらいです。いくら何でも『右⼤⾂実朝』には家のことや私のことは出てこないだろう、と思って読んでおりましたら、やっぱり出てきて閉⼝した記憶があります。私には修治のものを読んで家のことに触れた箇所が来ると、『あーまたここで弟にやられてしまった』などと思っていたものです。私個⼈といたしましては、⽇本の⼩説家で⼀番好きなのは⾕崎潤⼀郎さんで、とくにあの⽅の随筆は⽇本⼀では、と思っています。もちろん⼩説も繰り返し読みました。こう申し上げると⼈さまは、『⾃分の末弟を不良といったり、その作品を不良の⽂学というなら、⾕崎だって不良じゃないか』と、あるいはおっしゃられるかもしれません。しかし、実際に⾃分の⾝内から不良が出たとなると、⾃ずから話はちがってきますよ」

「とは申せ、修治とて何も最初から不良であったわけではありません。正直、私の五⼈の兄弟の中で、修治は学業は⼀番優秀でした。ですから親にしてみれば憎かろうはずはなく、とくに⽗の源右衛⾨は『修治、修治』といって、かわいがっていました。修治は⼩学校は無⽋席、成績優秀でとおし、⻘森中学でも成績はよく、弘前⾼校に⼊ったのですが、そこで何やら不良性が芽⽣えたようで、左翼運動にはしったり、『桃⾊』に狂ったりしたのです。でも⼤学に⼊るまでは体は丈夫で健康でした。それが⼤学に進んで、おおいに本格的な不良性を発揮し、胸の病気や、俗にいうところの『親不孝病』になったわけです」

「⾃分の⽣家のことを、ことさら⼤げさに⾔うつもりはないのですが、あの地⽅ではかなり名の知れた私の家から⼩説家というか、⼩説家という冠(かんむり)をいただいた極道者が出てしまったことは本当につらいことです。申し上げておきますが、私は何も⼩説家そのものや⽂芸⾃体が悪いなどというのではないのです。これでも当時の家⻑としては、かなり理解を持っていたと思います。しかし修治という男は、その理解をはるかに超えたところで⾏動してしまい、事件を起こし続けたのです。⾼等学校時代の修治は、幼い左翼思想に⼈並みにかぶれ、茶屋酒の味を覚え、戯作の世界にのめりこんでいったとはいえ、とにかく卒業はしてくれました。私は不明のいたすところで、そんな修治でも東京に出たら⾃分を修正し、真⾯⽬に⽂学なら勉強をしてくれると考えていました。結果は、もう皆さんのご存知のとおりの体たらくで、まことに若い家⻑の⼿に余る存在でした」

「左翼運動といい、初代のことといい、鎌倉の情死騒ぎといい、⼼配をかけっぱなしだった太宰でしたが、なんといっても驚いたのは⿇薬常習のときでした。誰からか修治が⿇薬中毒になっていると聞いたのかどうかは忘れましたが、仰天しました。あのときは、私は修治の⼊院の際に初めて脳病院というところに⾏って、その悲惨な患者の状態を⾒て、これは⼤変なことになったと慌てました。えーと、なんというか…看護⼈ですね、暴れる患者を取り押さえる⼈たちに修治を引き渡してきた⽇のことは忘れられない印象として残っています。以後も、まだまだいろいろな事件が修治に付随して起こり、その都度、周囲の⽅々に多⼤の迷惑をかけてまいりましたが、私はいつしか『修治は結局、畳の上では往⽣しない』と思い込むようになりました」

「太宰は私には⼿紙も⾃分の本も送っては寄こさないのですが、姉の『きょう』には、よく便りを送ったそうです。きょうと中畑君と私の三⼈が集まっては彼の⼿紙を読んで笑いあったものです。というのは、太宰の⼿紙というのは、『反省している』とか『⽴派にやっている』とか、まるで聖⼈君⼦にでもなったような⽂句が多いのです。ですから『修ちゃんの⼿紙は⼿紙じゃなくて⼩説だ』といって笑いました」

「きょうが嫁に⾏った先は私の家と四、五軒ほどしか離れていませんでした。修治はよくここへ遊びにいったそうですよ。私の家で⼀杯ひっかけていい気分になって出かけて⾏き、笑いながら話してくるらしいのです。きょうの話によればですねえ、ご機嫌になった修治は『紙ないかな』と⾔って、何か書くものを借りて字を書くらしいのです。そして『あと⼆⼗年もたてば⼤変な値打ちが出るから⼤事にしまっておけ』なんてホラを吹くそうです。彼⼥は、『今⽇は修ちゃんが来て、えらくホラを吹いて帰っていった。でも上機嫌でした』なんてよく話していましたね。よく⼈から、太宰の関係したもので何か残っていないか?と訊ねられますが、そのようにして書き散らしたものなら、まだ出てくるかもしれません」

「修治の疎開中のことで印象に残っているのは、よく印刷物がきていたことかな。なんといいますか、ファンの⽅からとか、雑誌社とか出版社からの連絡とか、まあ、毎⽇、驚くほど舞い込んでいました。『修治のやつ、えらくもてるんだな』と思っていましたよ。それともう⼀つ、若い頃はめったに⼈前で本を読まなかった修治が⾷事の前などに、⼀⼼不乱に、それもものすごい勢いで読書していましたな。必ず読んでいましたよ。私達が本を読む速度なんか⽐較にならないのではないでしょうかね。私が早稲⽥に⾏っている頃、兄弟中で⼀番読書好きだった修治に本を送ってやった記憶がありますな。修治からも、いつだったか、私宛に佐藤春夫先⽣の本を送ってくれたことがあったけねえ」

「太宰が死んでから⼆⼗五年間、私は沈黙してきました。桜桃忌も⾏かなければ記念碑も⾒に⾏っていません。墓にも⾏ってないです。太宰について⼈さまになにか申し上げるのが本当にイヤでした。そういう私が今になって弟は偉い奴だったというのも変だし、バカな奴だったといってもお答えにはならんでしょう。修治が⽟川上⽔に⼊⽔して⾏⽅不明になったと聞いた時、私はかねて覚悟していた『畳以外での往⽣』にいよいよなるんだな、とこう申し上げるのもなんですが、感慨ひとしおであったと告⽩しなければなりません」

「⾊々お話はしましたが、太宰の⼩説はやはり⾁親が読んで楽しいものでは決してないと思います。話を終わらせていただくにあたりまして、あらためて修治が世間さまに与えたご迷惑を深くお詫び申し上げます。また尊い命を失われた⽅のご冥福を⼼よりお祈り申し上げます。また修治が⽣前、お世話にな った幾多の⽅々へ、厚く御礼を申しあげたいと存じます」

太宰治を読む(7)「兄たち」「鉄面皮」

「太宰治全集」にて私には⼀時期、太宰と⻑兄で家⻑たる兄・⽂治とのやりとりがある作品箇所だけ、わざと選んで読み返す楽しみの趣向があった。太宰治の本名は津島修治である。太宰は⻘森県北津軽郡⾦⽊村の出⾝である。太宰の⽣家は県下有数の⼤地主であった。津島家は「⾦⽊の殿様」と呼ばれていた。⽗は県議会議員も務めた地元の名⼠であり、多額の納税により貴族議員にもなった。津島家は七男四⼥で、太宰の上には⻑兄と次兄と三兄の三⼈の兄がいた。太宰の⽗は、彼が学⽣の時に早くに亡くなっている。

「⽗がなくなったときは、⻑兄は⼤学を出たばかりの⼆⼗五歳、次兄は⼆⼗三歳、三男は⼆⼗歳、私が⼗四歳でありました。兄たちは、みんな優しく、そうして⼤⼈びていましたので、私は、⽗に死なれても、少しも⼼細く感じませんでした。⻑兄を、⽗と全く同じことに思い、次兄を苦労した伯⽗さんの様に思い、⽢えてばかりいました。私が、どんなひねこびた我儘(わがまま)いっても、兄たちは、いつも笑って許してくれました」(「兄たち」1940年)

太宰治は七⼈いる男兄弟の六男である。太宰の上には本当は五⼈の兄がいた。だが⻑男と次男が早世したため、三男の兄・⽂治が実質上の⻑兄となり、津島家の家督を継いで家⻑となった。⾦⽊町⻑、県会議員、⻘森県知事、地元選出の国会議員を歴任し、⽗と同様に⻑兄も地元の名⼠であった。⻑兄・⽂治は本当は⻑男ではないのに、⼈には⽣まれながらの資質とともに当⼈が置かれた環境ならびに知らぬ間に背負わされた周囲からの期待と責務に応(こた)えるべく、⼈は⾃然とそのように成⻑していくものである。⻑兄は家⻑として津島家を継いで⽴派に切り盛りした。太宰の上の三兄と下の弟は若くして病死しており、残された男兄弟は⻑兄と次兄と太宰の三⼈のみであった。太宰は家⻑である⻑兄を特に頼りにしていた。

「私には、なんにも知らせず、それこそ私の好きなように振舞わせて置いてくれましたが、兄たちは、なかなか、それどころでは無く、きっと、百万以上はあったのでしょう。その遺産と、亡⽗の政治上の諸勢⼒とを守るのに、眼に⾒えぬ努⼒をしていたにちがいありませぬ。たよりにする伯⽗さんというような⼈も無かったし、すべては、⼆⼗五歳の⻑兄と、⼆⼗三歳の次兄と、⼒を合せてやって⾏くより他に仕⽅がなかったのでした。⻑兄は、⼆⼗五歳で町⻑さんになり、少し政治の実際を練習して、それから三⼗⼀歳で、県会議員になりました。全国で⼀ばん若年の県会議員だったそうで、新聞には、A県の近衛公とされて、漫画なども出てたいへん⼈気がありました。⻑兄は、それでも、いつも暗い気持のようでした。⻑兄の望みは、そんなところに無かったのです。⻑兄の書棚には、ワイルド全集、イプセン全集、それから⽇本の戯曲家の著書が、いっぱい、つまって在りました。⻑兄⾃⾝も、戯曲を書いて、ときどき弟妹たちを⼀室に呼び集め、読んで聞かせてくれることがあって、そんな時の⻑兄の顔は、しんから嬉しそうに⾒えました。私は幼く、よくわかりませんでしたけれど、⻑兄の戯曲は、たいてい、宿命の悲しさをテエマにしているような気がいたしました」(「兄たち」)

⻑兄・⽂治とは違い、弟の太宰は⽂学者に憧れ作家を⽬指し上京して、⼩説家として⽣活できるまで⻘森の実家からの仕送りや津島家の財産分与を常にアテにしていた。また⾃⾝の薬物中毒や結婚や⼼中と⾃殺未遂の後始末にその都度、⻘森の実家は奔⾛した。⻑兄の⽂治が弟・修治の⽗親代わりであったのだ。左翼の⾮合法運動に⾜を突っ込んで学校を退学されそうになると退学処分回避のために実家の兄が裏から学校に⼿をまわす。薬物中毒になり、いよいよ⼿がつけられなくなると実家の兄が精神病院への⼊院を⼿配する。⼥性と⼼中の⾃殺未遂をやり太宰は助かり、しかし相⼿の⼥性は亡くなって修治が⾃殺幇助の罪に問われそうになると実家の兄が官権の警察と⼥性の遺族とに裏から⼿をまわして、またもや太宰の⾃殺幇助罪の起訴猶予に尽⼒する。太宰治は⽗親代わりの実家の兄・⽂治にさんざん迷惑をかけている。太宰は⻑兄に頭が上がらないのである。

そんな弟・修治と⻑兄・⽂治とのやりとりを描いた太宰治の短編に「鉄⾯⽪(てつめんぴ)」(1943年)という作品がある。「鉄⾯⽪」とは「恥知らずで厚かましい」という意味だ。太宰は兄の前では「鉄⾯⽪」である。⾃分からそう申告している。「この作品に題して⽈(いわ)く『鉄⾯⽪』。どうせ私は、つらの⽪が厚いよ」の太宰のボヤキである。以下、恥知らずで厚かましい「鉄⾯⽪」たる太宰と⻑兄・⽂治とのやりとり。

「⼩説家というものは恥知らずの愚者だという事だけは、考えるまでもなく、まず決定的なものらしい。昨年の暮に故郷の⽼⺟が死んだので、私は⼗年振りに帰郷して、その時、故郷の⻑兄に、死ぬまで駄⽬だと思え、と⼤声叱咤(しった)されて、⼀つ、ものを覚えた次第であるが、『兄さん、』と私はいやになれなれしく、『僕はいまは、まるで、てんで駄⽬だけれども、でも、もう五年、いや⼗年かな、⼗年くらい経(た)ったら何か⼀つ兄さんに、うむと⾸肯(しゅこう)させるくらいのものが書けるような気がするんだけど。』兄は眼を丸くして、『お前は、よその⼈にもそんなばかな事を⾔っているのか。よしてくれよ。いい恥さらしだ。⼀⽣お前は駄⽬なんだ。どうしたって駄⽬なんだ。五年?⼗年?俺にうむと⾔わせたいなんて、やめろ、やめろ、お前はまあ、なんという⾺⿅な事を考えているんだ。死ぬまで駄⽬さ。きまっているんだ。よく覚えて置けよ。』『だって、』何が、だってだ、そんなに強く叱咤されても、⼀向に感じないみたいにニタニタと醜怪に笑って、さながら、蹴(け)られた⾜にまたも縋(すが)りつく婦⼥⼦の如く、『それでは希望が無くなりますもの。』男だか⼥だか、わかりやしない。『いったい私は、どうしたらいいのかなあ。』いつか⽔上(みなかみ)温泉で⽥舎まわりの宝船団とかいう⼀座の芝居を⾒たことがあるけれど、その時、額のあくまでも狭い⾊男が、舞台の端にうなだれて⽴って、いったい私は、どうしたらいいのかなあ、と⾔った。それは『⾎染(ちぞめ)の名⽉』というひどく無理な題⽬の芝居であった。 兄も呆れて、うんざりして来たらしく、『それは、何も書かない事です。なんにも書くな。以上、終り。』と⾔って座を⽴ってしまった」(「鉄⾯⽪」)

これはヒドい(笑)。まさに「売り⾔葉に買い⾔葉」である。そして最後は兄からの痛烈な罵倒の連続だ。「よしてくれよ。いい恥さらしだ。⼀⽣お前は駄⽬なんだ。どうしたって駄⽬なんだ。…やめろ、やめろ、お前はまあ、なんという⾺⿅な事を考えているんだ。死ぬまで駄⽬さ。きまっているんだ。よく覚えて置けよ」など、もう破れかぶれである(笑)。そうして「兄も呆れて、うんざりして来たらしく、『それは、何も書かない事です。なんにも書くな。以上、終り。』と⾔って座を⽴ってしまった」とまである。⻘森の実家に⺟の葬儀で帰郷の折りに実際に太宰と⻑兄との間で、こうした応答が本当にあったかどうかは問題ではない。たとえ、それが誇張の創作であっても構わない。ただ太宰が⻑兄との、こうした会話のやりとりを作品に書いて世間に公表することが重要なのであって、「鉄⾯⽪」という作品を介して、そこに込められた太宰治から⻑兄・⽂治への伝⾔たる裏メッセージが明らかにあるのだ。

太宰治、この男は実⽣活に無能で恐ろしく破綻しているが、しかし⼩説を書くのが案外、上⼿い。なかなか達者な⼩説を書く誠に⽴派な⽇本近代⽂学の⽂学者である。ただし、太宰は⻑編⼩説と完全虚構のフィクションが書けない作家であった。これを疑う⼈は「太宰治全集」を無⼼に読んでみたまえ。収録作品はほとんどが短編、⻑くてもせいぜい中編⽌まりの枚数しか、この男は書けない。確かに⻑編も希(まれ)にあるが、だいたい失敗している。太宰治は⻑いものが書けない。しかも完全フィクションの虚構も書けないから作品の内容は古典⽂学の本歌取(ほんかどり)やパロディ、他⼈の⼿紙や⽇記や⼿記を元にしたもの、そして⼩説の素材がなく、いよいよ困った時は⾃⾝の家庭の⽇常や来客交友のエピソード、⾃分の過去の思い出話、時に恥ずかしい「恥の思い出」も⾃虐の覚悟で蔵出しする。まさに⽂字通り「⾃分の⾝を削って作品をひねり出す」⽂学者の鏡のような(?)、「⽂学⾺⿅⼀代」とでも称すべき、⾃分を削ってのたうち回りながら泥⽔をすすって⽂学創作を続けた満⾝創痍(まんしんそうい)な「傷だらけの天使」ならぬ「傷だらけの太宰治」である。

フィクションの完全創作が出来ないから結局のところ、そのように題材に⾏き詰まれば⾃⾝のことや近親の家族や親族や友⼈達のことを⼩説に書くしかなく、作品創作に⾃⾝の⾝も⼼も、最期は結果的に⾃分の命さえも捧げてしまった太宰治であったが、他⽅でこの男はギリギリの所で⾃⾝の⾯⼦(めんつ)や世間体のイメージを相当に気にする所もあった。例えば「⾃分の恥の⼈⽣遍歴」を題材に作品を書く⾃伝的作品の場合であっても、最後には「⾃⾝を救う」イメージ回復の余地を巧妙に残すような「最後の最後に⾃分を守る」、そうした技術(テクニック)も太宰治には⼩説家の⼒量として確かにあった。「⼈間失格」などと⾔いながらも最後は⾃分があまりにも救いきれないほど憐(あわ)れで、みじめにならないよう毎度、⼿加減して乗りきり終わらせるテクニックは持ち合わせていた。太宰治の全作品を連続して読んでいると、そうしたフシは⼀貫して感じられる。

しかしながら「鉄⾯⽪」の作品だけは違った。これは別格である。「いつもの太宰治とは明らかに違う」と(少なくとも私には)思えた。⾃⾝の⾯⼦もプライドも捨てて全⼒で「相当に⾃虐的」とも思えるほど、あからさまに書いている。「最後には『⾃⾝を救う』イメージ回復の余地を巧妙に残すような『最後の最後に⾃分を守る』そうしたテクニック」、いつものあれが、この「鉄⾯⽪」にはないのである。何しろ太宰治「鉄⾯⽪」は、「よしてくれよ。いい恥さらしだ。⼀⽣お前は駄⽬なんだ。どうしたって駄⽬なんだ。…やめろ、やめろ、…死ぬまで駄⽬さ。きまっているんだ。…何も書かない事です。なんにも書くな。以上、終り」などと実の兄から直に⾔われた「⾃⾝の恥」を何ら隠すことなく臆することなしに恥ずかしげもなく全⼒で披露し書き抜く⼩説だから(笑)。

「鉄⾯⽪」は太宰治の秀作「右⼤⾂実朝」(1943年)の執筆時に同時に書かれた。「右⼤⾂実朝」は、太宰が「来年は私も三⼗五歳ですから、⼀つ、中期の佳作をのこしたいと思います」と意気込んで相当に⼒を⼊れて書いた渾⾝(こんしん)の⼊魂の作である。この時期の太宰治は「実朝をわすれず」と⽇常でも絶えず呟(つぶや)いていたに違いない。それほどの献⾝の作であった、太宰にとって「右⼤⾂実朝」は。事実、太宰の「右⼤⾂実朝」を読むと⾮常に優れている。⼤変によく出来ている。太宰治の全⽣涯の書き仕事の中で確実に五本の指に⼊ると私は思う、太宰治「右⼤⾂実朝」は。

太宰は近⽇中に発表の次作「右⼤⾂実朝」に相当な⾃信があったに違いない。そう、まさに今までさんざん迷惑をかけてきた、内⼼では愛想を尽かされ⾒捨てられそうになりながらも⻘森の実家からの援助や救援でいつも奔⾛尽⼒してくれた⻑兄・⽂治に対して「兄さん、僕はいまは、まるで、てんで駄⽬だけれども、でも、もう五年、いや⼗年かな、⼗年くらい経ったら何か⼀つ兄さんに、うむと⾸肯させるくらいのものが書けるような気がする、否(いな)、そうした作品が今書けた。それが今般の『右⼤⾂実朝』だ」というような太宰の⼼持ちである。「右⼤⾂実朝」のイントロとなる作品「鉄⾯⽪」を介しての太宰から兄への伝⾔の裏メッセージである。太宰治は渾⾝の⾃信作であった「右⼤⾂実朝」を誰よりも⻘森の実家の⻑兄に、まずは読んでもらいたかったに相違ない。そして誰よりも⾃⾝の⽗親代わりであった兄・⽂治に⾸肯し認めてもらいたかったはずだ。

太宰治を読む(6)「パンドラの匣」

太宰治は、すぐに薬物中毒になったり何度も自殺未遂を繰り返したりで「生れて、すみません」の陰気な暗い男であり、よって彼の作品も「斜陽」(1947年)や「人間失格」(1948年)のような暗い陰気な小説が多いように一般に思われがちだが、実はそうではない。太宰治の作品には、さわやかで前向きな若者の青春文学もあるのであって、その系統の代表的な太宰文学として「太宰は暗くて陰気で堕落で無頼派」と未だ誤解している読者諸氏に向け、太宰の「正義と微笑」(1942年)と「パンドラの匣(はこ)」(1946年)の二編を私は激しくお薦めしたい。そして、今回は後者の「パンドラの匣」についての書評である。

太宰治「パンドラの匣」は、本当にさわやかで前向きな読後感が爽快な青春小説である。このことを読む前に確かめたいなら、とりあえず最後の結語文だけ最初にこっそり読んでみればよい。

「僕の周囲は、もう、僕と同じくらいに明るくなっている。全くこれまで、僕たちの現れるところ、つねにひとりでに明るく華やかになって行ったじゃないか。あとはもう何も言わず、早くもなく、おそくもなく、極めてあたりまえの歩調でまっすぐに歩いて行こう。この道は、どこへつづいているのか。それは、伸びて行く植物の蔓(つる)に聞いたほうがよい。蔓は答えるだろう。『私はなんにも知りません。しかし、伸びていく方向に陽が当るようです。』さようなら。十二月九日」

どこまでも、さわやかである(笑)。若者の青春文学の手本のような前向きの爽快さ。「この道は、どこへつづいているのか。それは、伸びて行く植物の蔓に聞いたほうがよい。蔓は答えるだろう。『私はなんにも知りません。しかし、伸びていく方向に陽が当るようです』」。青春小説にて模範的な締め括りの結語だ。

太宰治「パンドラの匣」は新聞連載小説である。以下は連載開始の際に太宰が読者に向けて書いた「作者の言葉」である。

「この小説は、『健康道場』と称する或(あ)る療養所で病いと闘っている二十歳の男の子から、その親友に宛(あ)てた手紙の形式になっている。手紙の形式の小説は、これまでの新聞小説には前例が少なかったのではなかろうかと思われる。だから、読者も、はじめの四、五回は少し勝手が違ってまごつくかも知れないが、しかし、手紙の形式はまた、現実感が濃いので、昔から外国に於(お)いても、多くの作者に依(よ)って試みられて来たものである。…甚(はなは)だぶあいそな前口上でいけないが、しかし、こんなぶあいそな挨拶(あいさつ)をする男の書く小説が案外面白い事がある」

次回新連載の自作広告として、これは文句のつけようがない満点の出来だ。「甚だぶあいそな前口上でいけないが、しかし、こんなぶあいそな挨拶をする男の書く小説が案外面白い事がある」など、読み手に期待させて新連載を読ませる誘導に長(た)けている。また、太宰自身も今度の「パンドラの匣」の作品内容に相当な手応えの自信があったに違いない。何しろ「しかし、こんなぶあいそな挨拶(あいさつ)をする男の書く小説が案外面白い事がある」とまで言い放っているのだから。太宰治、この男は現実の生活能力がなくて大人の社会人としては全くダメな人だが、案外文学仕事は優秀にこなす。そして当の太宰も自身の文学仕事の出来栄えやその能力に関しては密(ひそ)かに自信の自負を抱いているのであった。

太宰による「作者の言葉」通り、「パンドラの匣」は結核療養のための「『健康道場』と称する或る療養所で病いと闘っている二十歳の男の子から、その親友に宛てた手紙の形式」になっている。三人称による地の文ではなくて一人称の手紙形式である。しかも、書き手の青年と親友との往復書簡であり、あえて書き手の青年の手紙のみ、往復書簡の「往」だけを太宰が執筆して掲載の体(てい)である。だから、本小説にての青年の手紙は「さっそくの御返事、なつかしく拝読しました」や「昨日の御訪問、なんとも嬉(うれ)しく存じました」などの書き出しから毎回始まる、本当は相手の友人と相互のやり取りがあるはずだが、あえて「往」のみの書簡掲載になっている非常に凝(こ)った形式である。

結核療養所である「健康道場」では院長のことを「場長」と呼び、副院長以下の医師は「指導員」、看護師たちは「助手」、入院患者は「塾生」と呼ばれる。相部屋同室の入院患者の塾生と看護師の指導員らが共に生活する一つの大きな家のようなものだ。毎日、朝から晩まで屈伸鍛練や布摩擦や講話聴講などをやって過ごす。「やっとるか」「やっとるぞ」「がんばれよ」「ようし来た」など挨拶代わりの激励が道場の廊下ですれ違うたび互いに交わされる。そんな道場では小さな事件も、ちらほら。例えば「女性看護師の化粧が濃い」問題の道場患者有志らによる糾弾事件があったりする。そこで手紙の書き手であり、本作の主人公たる「ひばり」がそうした道場の日常を友人に書簡を通して語り、小説「パンドラの匣」の読者は、ひばりの手紙を読んで知る形式である。

道場にて日々起こる事件の中でも、二十歳の青年・ひばりにとっての「大事件」であり、最大の関心事は男女の恋愛だ。道場にて毎日、日常的に接する若い患者と年頃の看護師との間に自然と男女間の恋愛感情が芽生えてしまうことは何ら不思議ではない。毎日、顔を付き合わせていると情が通い、いつの間にか互いに気になり意識してしまう。ひばりと同室の「つくし」(三十五歳の、ひょろ長い「つくし」のような上品な紳士。既婚で妻帯者。おとなしそうな小柄の細君が時々、見舞いに来る)に、助手の「マア坊」(十八歳の東京の府立の女学校を中途退学して本道場に来た若い看護師)が密かに思いを寄せていた。また、ひばりも助手の「竹さん」に好意を寄せている。ひばりが思いを寄せると竹さんは、どういった女性なのか。ひばりの友人への手紙によれば、

「塾生たちに一ばん人気のあるのは、竹中静子の、竹さんだ。ちっとも美人ではない。丈(たけ)が五尺二寸くらいで、胸部のゆたかな、そうして色の浅黒い堂々たる女だ。二十五だとか、六だとか、とにかく相当としとっているらしい。けれども、このひとの笑い顔には特徴がある。これが人気の第一の原因かも知れない。…それから、たいへん働き者だという事も、人気の原因の一つになっているかも知れない。とにかく、よく気がきいて、きらきりしゃんと素早く仕事を片づける手際(てぎわ)は、『まったく、日本一のおかみさんだよ』。何しろ、たいへんな人気だ。…大阪の生まれだそうで、竹さんの言葉には、いくらか関西訛(なまり)が残っている。そこがまた塾生たちにとって、たまらぬいいところらしい」

そんな竹さんもどうやら人知れず、ひばりに思いを寄せている。しかし、竹さんは父親の勧めで道場の場長との縁談が決まってしまう。同僚看護師のマア坊によれば、「竹さんは二晩も三晩も泣いてたわ。お嫁に行くのは、いやだって。…竹さんはね、ひばりが恋しくて泣いたのよ、本当よ」。それから竹さんの結婚が決まった後、摩擦療法の後にひばりと竹さんが初めて言葉を交わす場面である。以下の記述が本作「パンドラの匣」の中でも最高潮(クライマックス)、最大の読み所といってよい。

「やはり、夢ではなかった。『竹さん、おめでとう。』と僕が言った。竹さんは返辞をしなかった。黙って、うしろから寝巻をかけてくれて、それから、寝巻の袖口(そでぐち)から手を入れて、僕の腕の附け根のところを、ぎゅっとかなり強く抓(つね)った。僕は歯を食いしばって痛さを堪えた。何事も無かったように寝巻に着換えて、僕は食事に取りかかり、竹さんは傍で僕の絣(かすり)の着物を畳(たた)んでいる。お互いに一ことも、ものを言わなかった。しばらくして竹さんが、極めて小さい声で、『かんにんね。』と囁(ささや)いた。その一言に、竹さんの、いっさいの思いがこめられてあるような気がした。『ひどいやつや。』と僕は、食事をしながら竹さんの言葉の訛(なまり)を真似(まね)てそっと呟(つぶや)いた。そうしてこの一言にも、僕のいっさいの思いがこもっているような気がした。竹さんはくすくす笑い出して、『おおきに。』と言った。和解が出来たのである。僕は竹さんの幸福を、しんから祈りたい気持になった。『いつまでここにいるの?』『今月一ぱい。』『送別会でもしようか。』『おお、いやらし!』竹さんは大袈裟(おおげさ)に身震いして、畳んだ着物をさっさと引出しにしまい込み、澄まして部屋から出て行った。どうして僕の周囲の人たちは、皆こんなにさっぱりした、いい人ばかりなのだろう」

当のひばり本人も含めて「どうして僕の周囲の人たちは、皆こんなにさっぱりした、いい人ばかりなのだろう」。太宰治「パンドラの匣」は、どこまでもさわやかで前向きな読後感が爽快な青春小説なのである。竹さんとの相思相愛な「ひばりの青春」の恋愛は少しだけほろ苦い、しかし後に引きずらない輝かしい恋愛のよい思い出だ。ひばりは今後とも、この往復書簡のやり取りが終わった後でも生きている限り、ずっと竹さんのことを忘れずに思い返して、末長く彼女の幸福をまっすぐな気持ちで願うだろう。

男女の恋愛とは殊更(ことさら)に大袈裟に告白したり、わざわざ一緒に出歩いたり、同棲して共に暮らしたり、結婚を前提にした交際をすることだけではない。毎日、顔を付き合わせて挨拶を交わすだけで自然と声が弾んで笑顔になる。互いに好意があることを知っていながら、あえて先へは進展しない。そして互いの恋愛感情は何ら具体的な形で成就せず、やがて二人の関係も自然と切れてしまう。それでも、それは男女の恋愛に相違ない。太宰治「パンドラの匣」は、そういった輝かしい男女の恋愛の話である。

太宰治を読む(5)「トカトントン」(中島敦「悟浄出世」)

特集「太宰治を読む」だが、今回は趣向を変えて中島敦「悟浄出世」(1942年)について。そして最後に少しだけ、本当に少しだけ太宰治「トカトントン」(1947年)のことなど。

中島敦は、かなりよい作家だと思う。この人は病気で三十代で若くして亡くなったため寡作であるが(ちくま文庫の「中島敦全集」は書簡や日記まで全て収録しても全三巻だ)、一つ一つの作品の密度が濃い。無駄に書き散らしてる感じがしない。丁寧で良質な仕事ぶりが一貫して感じられる。なかでも「わが西遊記」(1942年)として、まとめられた短編二編「悟浄出世」と「悟浄嘆異」は私は特に好みだ。

「悟浄出世」の主人公の悟浄は常に独りで考え込み、ウジウジ悩む性格である。「彼は自己に不安を感じ、身を切り刻む後悔に苛まれ、心の中で反芻される其の哀しい自己苛責が、つい独り言となって洩れる」。それで「一体、魂とは何だ?斯うした疑問を彼が洩らすと、妖怪共は『又、始まった』といって笑うのである。あるものは嘲弄するように、あるものは憐愍の面持ちを以て『病気なんだよ。悪い病気の所為なんだよ』と言うた」。

悟浄は「我は何者か」「魂とは何か」「世界とは、人生とは一体何であるか」日々悩んで悩んで苦しんで自己不安に襲われ、周りの妖怪仲間から馬鹿にされながらも、その答えを求めて求道の旅に出る。しかし、各地で先人の妖怪らに教えを乞うも一向に心の霧は晴れないし、不安は拭い去られない。なかには明らかにペテンの教えを悟浄に滔々(とうとう)と説教する怪しい、自称「悟りを開いた」妖怪にも面し悟浄自身は大変に失望する。

そんな求道の旅の中途で「悟浄の肉体は最早疲れ切っていた」。ある日、悟浄が疲労から道端にぶっ倒れうずくまっていると、どこからともなく声が聞こえる。「悟浄よ。先ずふさわしき場所に身を置き、ふさわしき働きに身を打込め、身の程知らぬ『何故』は、向後一切打ち捨てることじゃ。…悟浄よ、爾(なんじ)も玄奘に従うて西方に赴け。これ爾にふさわしき位置(ところ)にして、又、爾にふさわしき勤めじゃ。途は苦しかろうが、よく、疑わずして、ただ努めよ。玄奘の弟子の一人に悟空なるものがある。無知無識にして、唯、信じて疑わざるものじゃ。爾は特に此の者について学ぶ所が多かろうぞ」。

かくして悟浄は不思議な天の声に従って、玄奘の三蔵法師のお供をして悟空や八戒らと旅に出る。旅を続け、常に天真爛漫(てんしんらんまん)、考え悩む以前にまず行動の明朗活闥(めいろうかったつ)な悟空を見ているうち、「どうもへんだな。どうも腑(ふ)に落ちない。分からないことを強いて尋ねようとしなくなることが、結局、分かったということなのか?…とにかく以前程、苦にならなくなったのだけは、有難いが…」。つまりは以前のようにあれこれ悩み、自身や世界に疑いを持ち、独り勝手に不安になる悪い癖が消えた。これ、すなわち沙悟浄の開眼にして出世たる「悟浄出世」。

たまにいる、「自分とは何か。人生とは何か。私が存在してる意味は。人は何のために生きてるのか」など、やたらに考え、時に周りの人にまでそうした質問をしてくる、うっとうしい人が。「人は何のために生きてるのか」「人間が生きる意味とは何か」など、そんなの言葉で簡単に説明できるわけないだろう(怒)。だがウジウジ陰気に考える、作中の悟浄のように。それで作者の中島敦の答えは、「先ずふさわしき場所に身を置き、ふさわしき働きに身を打込め、身の程知らぬ『何故』は、向後一切打ち捨てること」。

結局、一生懸命に生きていないのである。そうした身の程知らずの「何故」が次から次へと噴出して日々不安に苛(さいな)まれ悩んでしまうというのは。まずは毎日を精一杯生きてみろ、そうしたら「自分とは一体何者か」「人が生きる意味とは何か」などは気にならなくなり考えなくなり、自身に信頼感が生まれ明朗活闥になって、すると不思議なことに「自分が生きる意味」を言葉でなく身に染みて感じ体得できるようになる。それこそ「悟浄出世」の中の天真爛漫、明朗快活な孫悟空のように。

泳ぎを覚えたいなら正しいフォームや効果的な息継ぎのやり方の方法理論以前に、とにかくまず水の中に飛び込め。苦しくて沈まないよう、もがいてる内に泳げるようになるよ。仕事でも勉強でもスポーツでも何でも「最初から失敗しないように上手くやろう」「工夫して最小限の努力で最大限の成果を上げるようにしよう」など事前にズル賢く考えずに、まずは素直な気持ちで無心にやってみることではないか。「よく、疑わずして、ただ努めよ」。そんな作者の思いが読む人に伝わるよい作品だ、中島敦「悟浄出世」は。

中島の「悟浄出世」を読むと、いつも私は太宰治「トカトントン」を思い出す。これも仕事や恋愛や政治運動など何かに熱意を持って本腰入れてやろうとすると、どこからともなく金づちで釘を打つ「トカトントン」という音の幻聴が聞こえて来て、たちまち気持ちが萎(な)えて無気力になる、何にもやりたくなくなる、どうしたらよいのでしょうか、という悩み相談の告白手紙の小説である。「行動する前から事前に勝手に悩んで憂鬱(ゆううつ)になって不安に苛まれる」。この悩み告白に対し、太宰は小説の最後で次のように答えている。

「拝復、気取った苦悩ですね。僕は、あまり同情してはいないんですよ。十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね。真の思想は、叡知よりも勇気を必要とするものです。マタイ十章、二八、『身を殺して霊魂(たましい)をころし得ぬ者どもを慴(おそ)るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅(ほろぼ)し得る者をおそれよ。』この場合の『慴る』は、『畏敬』の意に近いようです。このイエスの言に、霹靂(へきれき)を感ずる事が出来たら、君の幻聴は止む筈です。不尽」

「全く気取った苦悩だ。自身の醜態を避けず、畏れず、事前に余計な叡知を以て考え込まず、まずは勇気を持って無心に打ち込め、とにかく行動してみろ」と太宰治も奇(く)しくも中島敦と同様、言っている。

太宰治を読む(4)「畜犬談」

太宰治「畜犬談」(1939年)は基本、滑稽路線でおもしろい。しかし最後は「芸術の目的」をぽろっと白状して話を締める、よい小説だ。主人公(たぶん太宰)は犬嫌いである。先日、通りすがりの犬にガブッと咬まれた友人の災難を紹介した後、次のように「犬への憎悪」を披露する。

「もしこれが私だったら、その犬、生かして置かないだろう。私は、人の三倍も四倍も復讐心の強い男なのであるから、また、そうなると人の五倍も六倍も残忍性を発揮してしまう男なのであるから、たちどころにその犬の頭蓋骨を、めちゃめちゃに粉砕し、眼玉をくり抜き、ぐしゃぐしゃに噛(か)んで、べつと吐き捨て、それでも足りずに近所近所の飼い犬ことごとくを毒殺してしまうであろう」

これは面白い(笑)。後半の「頭蓋骨を、めちゃめちゃに粉砕」「眼玉をくり抜き」「ぐしゃぐしゃに噛んで、べつと吐き捨て」挙句の果てに「近所の飼い犬ことごとくを毒殺してしまうであろう」のあたり、太宰は完全に調子に乗っておもしろがって書いている。

ところで、この小説の題名は「畜犬談」だが、なぜ犬が「畜生」なのかというと、

「私は、犬をきらいなのである。早くからその狂暴の猛獣性を看破し、こころよからず思っているのである。たかだか日に一度や二度の残飯の投与にあずからんが為に、友を売り、妻を離別し、おのれの身ひとつ、その家の軒下に横たえ、忠義顔して、かつての友に吠え、兄弟、父母をも、けろりと忘却し、ただひたすらに飼主の顔色を伺い、阿諛(あゆ)追従てんとして恥じず、ぶたれても、きやんと言い尻尾まいて閉口して見せて家人を笑わせ、その精神の卑劣、醜怪、犬畜生とは、よくも言った。…思えば、思うほど、犬は不潔だ。犬はいやだ。なんだか自分に似ているところさえあるような気がして、いよいよ、いやだ。たまらないのである」

「たかだか日に一度や二度の残飯の投与にあずからんが為に、友を売り、妻を離別し、おのれの身ひとつ、その家の軒下に横たえ、忠義顔して、かつての友に吠え、兄弟、父母をも、けろりと忘却し、ただひたすらに飼主の顔色を伺い」云々で、この人、犬に対して人間倫理の面から真面目に説教たれて怒ってるよ(笑)。しかし、犬を「畜生」となじった後に「なんだか自分に似ているところさえあるような気がして」と自身のことを顧みる点に単に言いっぱなしではない、著者である太宰治の謙虚さが垣間見えて好感が持てる。

さて、主人公は「犬は不潔だ。犬はいやだ」といいながら散歩の途中、後からついてくる野良犬を飼うはめになる。しばらく何事もなく平穏無事に共に暮らしていたのだが、ある日、その犬が重い皮膚病にかかってしまう。そこで奥さんに「気持ち悪いから捨ててきて下さい」といわれ、犬を連れて遠方で薬を飲ませて捨てようとするのだが、道すがら犬と同伴して因縁のライバル犬との最後の決闘を見届けたりしているうちに、その犬に情が移ってしまい結局、捨てられず家にまた連れて帰ってくる。そして最後に奥さんにこう言う。

「だめだよ。薬が効かないのだ。ゆるしてやろうよ。あいつには、罪は無かったんだぜ。芸術家は、もともと弱い者の味方だった筈なんだ。…弱者の友なんだ。芸術家にとって、これが出発で、また最高の目的なんだ。こんな単純なこと、僕は忘れていた。僕だけじゃない。みんなが忘れているんだ」

最後のこのセリフ、単に犬を捨てられず連れて帰って来て奥さんに咎(とが)められないための、その場しのぎの言い訳口実のようにも思えるが、案外本音というか、真実がぽろっと出た感じがする。「芸術家は、もともと弱い者の味方だった筈なんだ。…弱者の友なんだ。芸術家にとって、これが出発で、また最高の目的なんだ」。私もそう思う。芸術の中でも特に「文学は弱い者の味方で弱者の友」だと私は思う。