アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

大学受験参考書を読む(3)富田一彦「富田の英文読解100の原則」(その2)

私が代々木ゼミナールの富田一彦を好きなのは、この人は学生が受験勉強を通じて実際に英語が話せて書けて使えるようになることを最初から笑ってしまうほど潔(いさぎよ)く断念しているフシがあるからだ。学生に英語を教える、英語の教師であるにもかかわらず(笑)。

そうした実用的で話せて書ける、いわゆる「使える英語」の線には行かないで、むしろ英語というのは世界で数多くある言語の中でも極めて筋の通った合理的で論理的な言語体系だから学生が初見で未知の英文に出くわした時に、自身の中に限られてある知識で推測して筋道立てて論理的に考え解釈する抽象思考の訓練に英文読解が大変よく適しているという観点から、割り切って英語を教えているフシが氏にはある。つまりは「思考訓練のための格好の素材としての英語」という捉え方である。このことは氏が執筆の参考書「富田の英文読解100の原則」(1994年)と「富田の英語長文問題解法のルール144」(2000年)両著における時に毒舌あふれる誠に傑作な、まえがきとあとがきでの例えば以下のような文章群を一読すれば明白だ。

「英語は『なんとなく』『勘で』分かるものなどではない。誰にでも完全に、正しく理解できるものである。…諸君に求められるのは、目に見える語句の配列に対して、常に『なぜ』を考えることである。英語は論理的な言語だから、語句の配列には必ずなんらかの理由がある。その理由を文法的に解明していけば意味は自ずから明らかになるのだ」(「富田の英文読解100の原則」)

「一般教育、中でも高等教育でもっとも重視されるべきは論理的思考力である。…そのためには、まず知識体系を誤りなく吸収し、自分のものとして利用できるようにする訓練が必要となる。英語であれ、数学であれ、古文であれ、いわゆる社会人になってから全く必要のない知識体系を高校で学習するのはそのような論理思考の素材としてに過ぎない。本当のことを言えば、ネタは何でもよいのだ」(「富田の英文読解100の原則」」)

「注意力を持って現象を観察し、筋道立ててものを考え、一つの結論に達するという訓練は、若い諸君が将来知的に生きていくために是非とも必要なことだし、その意味では受験勉強は、うまくやれば先々も役立つ生きる糧になりうる、と思うのである」(「富田の英語長文問題解法のルール144」)

なるほど、確かに数ある言語の中で英語は比較的筋が通っていて例外が少ない普遍的な共通ルールが明確にあり、合理的で学びやすい非常に良くできた論理的な言語である。ここでその論理的思考の主なものを定式化していえば、(1)抽象と具体。(2)対立構造。(3)因果関係の3つになる。英語には、この3つの代表的論理が時に本当に目に見えて分かりやすいほど文章内にてしばしば見受けられる。

「抽象と具体」なら英文は普通、左から右へと文章が流れるから、例えば「S+V+C」の第2文型があった場合、「S=C」でSが抽象でVを経て文章が右へ流れ内容が開いて展開してCがSの具体化になる。だから常に右展開の具体化を予測しながら人は「S+V+C」の英文を読むはずだ。また「対立構造」で典型的なのは「not・A・but・B」の呼応である。この型が出たら、とりあえず「AとBの意味内容が同資格であり、かつ対立であるか否か」をまずは確認するのが定石(じょうせき)だ。さらに「因果関係」ならは、例えば「A・result・from・B」の文があれば厳密な日本誤訳を組み立てる以前に「Aは結果でBは原因」と思いながら普通に英文を読むに違いない。

このように英語そのものが非常に筋道の通った合理的で論理的な言語であるから、英語学習は学ぶ人の抽象的思考を高める訓練の場として確かに適しており、非常に優れている。しかしながら現代社会において、なぜ英語がかくも広範な地域で多くの人々によって話され書かれ、政治や経済や教育や国際交流の場にて英語が国際共通の公用語の扱いで広く使われるのか。もちろん、英語という言語そのものの合理性や論理性から来る学びやすさ、使い勝手の良さもあるが、それは英語が母国語のイギリスとアメリカの19世紀から現在に至るまでの覇権国家の帝国主義的繁栄があるからだ。いわゆる「英語帝国主義論」である。

現在ではアメリカ覇権の一極突出で、国際通貨といえばアメリカの「ドル」が世界市場で信用され、国際通貨として流通しているのと同様、現代の英語隆盛の一因も実は米国の国家的強さに由来している。日本国内で語学といえば、まずは英語であり、その他の言語(例えばフランス語やスペイン語や中国語など)は学習も使用も比較的傍流である。義務教育の小・中学校の早い時期から子どもに英語を習わせようとしたり、「これからの国際社会では英語が必須。英語が出来て当たり前」というような、やたらに英語学習を強要させられるのは、それは現在の日本が紛(まぎ)れもなく英語圏のアメリカの同盟国であり、アメリカによる帝国主義的な覇権秩序、グローバル化の体制を日本が(少なくとも日本の国家や日本の企業資本が)積極的に容認し、その体制秩序に乗っかっているからに他ならない。

特に近現代史の帝国主義、植民地支配の文脈に重ねて外国語の習得使用や外国語学習の意味を考えると、「人々が自民族・自国の言葉以外の外国の言語を話せるようになること」の由来には、かなり胡散臭(うさんくさ)い側面があることも確かだ。とある南国諸島に旅行に行って現地の言葉を話せないから英語で話したら、「英語でなくフランス語で頼む」と地元の人に言われ「なぜ?」と考えてみたら、その地域は以前に帝国主義時代の英仏の激烈な植民地争奪戦があって結果、フランスが勝利してフランス人が長いこと現地支配していたから。そのため現地の人々は英語がダメで、代わりに旧宗主国の公用語であるフランス語を極めて流暢(りゅうちょう)に話す。とあるアジア・太平洋地域に行ったら、地元の高齢な方がいきなり日本語でスラスラと話しかけてきて「なぜ?」と尋ねてみたら、これまた戦時中この地域に日本の軍隊がやって来て軍政を敷いて日本人が現地支配をして、皆が日本語を習わさせられた、当時は日本語を話せた人の方が現地の日本人軍閥にうまく取り込め重用されて見返りが多かった、といった話である。

結局のところ、帝国主義下の植民地政策にて言語は強国による現地人支配ための馴致(じゅんち)の有用な道具の一つだから、その点からして現在にまで至る外国語学習や外国語習得の奨励に実は相当に胡散臭い面があることは否定できない。「国際交流」とか「国際教養」とか「国境を越えた地球市民」とか「世界のグローバル化に対応」など、この手の美辞麗句は英語を主とした外国語学習の奨励・強迫につきまとうけれども。この辺りのことだ、英語という言語そのものを学習する以前に、なぜ外国語を学ばなければならないのか。しかも今や語学の外国語学習の王道は英語であり、なぜフランス語やスペイン語や中国語など、その他の言語であっては駄目なのか。

純粋に英語が好きで、将来は英語に関係する仕事や英語圏にて生活がしたいから英語科系の大学進学のために現在必死に受験勉強をしている、未来への夢と希望にあふれた純真な(?)大学受験生に、この辺りの「英語帝国主義」のことは、さすがに残酷すぎて追及する気には私はなれないが、しかし大学に入学した後や、すでに卒業して社会人になっても英語の学習を続けている人、もしくは日常的に英語を使ったり、積極的に英語に関わって特に英語を人に教えて、それでお金を稼いでご飯食べてる人達、例えば予備校の英語講師や中学・高校の英語教師、英会話学校の経営者、TOEICや英検など各種の検定試験・資格制度に携わる人々へ、問いたい。

「なぜ外国語学習を推進・奨励なのか?」しかも学習するのに「数ある外国の言語の中でフランス語でもスペイン語でも中国語でもなく、なぜ他ならぬ英語なのか?」単に「英語は合理的で論理的で学びやすい素晴らしい言語だから」といった英語翼賛以外での、「英語帝国主義」の文脈から考えた少しはシニカルで醒(さ)めた英語学習の動機づけに関する深められた認識を持つことも必要ではないか。余計なお世話だが常々、私はそう思う。