アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

大学受験参考書を読む(41)竹国友康「現代文と格闘する」

河合塾の河合出版から出ている竹国友康「現代文と格闘する」(2006年)は、安易な解法ルールや公式の提示、選択肢の見分け方などではなく、問題の現代文の文章そのものを正攻法で逃げることなく本質的に読解する、まさにタイトル通り「現代文と格闘する」本格派な参考書の印象だったので従前の周りの書評の高評価もあって、かなり期待して読んでみた。

しかし、内容的に「そこまで本格派で本当にひるむことなく正面から正々堂々と現代文と格闘しているか!?」といった物足りなさは正直、残った。少なくとも私の場合。「現代文と格闘する」というくらいだから、それこそ詳細な深い問題文の解読分析が幾重にもしつこく重層的かつ幅広く繰り広げられていて、一読した程度では精密すぎて到底説明内容を理解できず、何度も繰り返し読んでやっと理解に達するような文字通りゴリゴリの現代文との「格闘」を期待して鍛えてもらおうと思って臨んだのに、期待とは少し違った。

確かに入試現代文を解くマニュアルやテクニックのインスタントな公式ルール集の提示ではなく、きちんと問題文の読み解き解説をやってはいるけれど、その方法が「まず形式段落ごとに内容を要約して、次に意味段落にわけて、最後に文章全体の論旨をまとめる」という割合オーソドックスな方法論のみである。つまりは、主な読解の解説が「読みつなぎ方」と称する要約作業に終始する。その「読みつなぎ方」の中身とは形式段落ごとの要約たる「段落のまとめ」をその都度やり、段落どうしの関係を押さえ、最後に「全体の要旨」を載せて一通りの解説が終わるパターンだ。

「段落のまとめ」と「全体の要旨」からなる「読みつなぎ方」以外にも、例えば、抽象・具体の言い換えで同値の言葉のズレ方を一貫して押さえる、対立関係を抜き出し図式化して説明する、理由説明の内容の深まり記述を掘り下げて追跡する、この比喩では何を共通項の媒介にして成立しているか構造を見切るなど、その他、様々な本質的読解の方法があるはずである。もっと幅広くて深い読みの分析解釈ができるのではないか。全体を幅広く見渡して、しかもより精密に細部にまで迫った大胆で細かな読みの解説を行う余地があるのではないか。「現代文と格闘する」の問題演習をやって解説を読んで少なくとも私はそう思った。

あと気になったのは、「現代文と格闘する」を共同執筆の河合塾の講師の方々は日頃から現代思想の書物を読んだり思想の用語解説をしたりすることがよほど好きなのか、現代文の評論に出てくる背景知識の解説をやりすぎである。本書の第一章には「ことばをイメージする」の単元があって、「現象と本質」や「普遍と特殊」や「脱近代(ポストモダン)」など評論に出てくる術語をよく説明されている。その上さらに問題演習の解説でも先の「段落のまとめ」と「全体の要旨」の「読みつなぎ方」に加えて、毎回「語句の説明」を多くの紙面を割(さ)いてしつこくやる。おまけに各問題の解説の末尾には「知の扉」というコラム記事まであって、「都市論の現在」や「言語論をめぐって」のような、これまた評論テーマの背景知識の説明を非常にしつこく何度も繰り返しやる(笑)。

もちろん、大学入試の現代文の評論問題を解く際には、そういった評論によく出てくる独自の言い回しや抽象的な術語、議論のテーマについての背景知識の理解は最低限必要だとは思うけれど、どう考えてもやり過ぎだ。とりあえず背景知識を受験生に注入(インプット)して、「主にその知識に頼って現代文を解かせよう」という安易な印象すら受ける。

やはり現代文は元々「知識」があるか否か、つまりは「知識があるから解ける」ではなくて、知識よりはむしろ「思考」の訓練をやらせるのが現代文という教科の本領であり、それこそが文字通り「現代文と格闘する」ということであって普段、文章を読む際には皆が無意識にであれ必ずやっている、要約と背景知識以外の様々な読み解きの思考が本当はあるわけで。そういったことを受験勉強で教えてもらわないと受験生自身が後々に苦労して困る。仮に大学に受かったとしても、大学生は日々多くの学術書や研究論文を読まなければならないので、その際に要約と背景知識のみで本質的な現代文の読解力がなかったら学生本人が困る。

結局、私の読後の感想としては「読みつなぎ方」と称する要約・要旨のまとめと「語句の説明」と「知の扉」の背景知識の評論用語とテーマ解説が主で正直、物足りない。もっとその他、様々な入試現代文の読解アプローチが本当はあるはずなのに「要約と要旨のまとめ」と「用語とテーマの背景知識の解説」だけで主に処理されて、読んでいてごまかされている思いが一貫して拭(ぬぐ)えず、「現代文と格闘する」という本格的な「格闘」レベルにまで達しているとは私には思えなかった。

大学受験参考書を読む(40)有坂誠人「例の方法」

以前に、代々木ゼミナールに出講していた現代文講師、有坂誠人による「例の方法」というのがあった。課題現代文を読んで内容を理解しなくてもよい、事務的で形式的な作業をやるだけで正解が導き出せるという究極の「方法」である。有坂によれば、「あまりにも恐ろしいものをよく『例のもの』と言います。『例の方法』とはそういう意味です」というように、「例の方法」とは「あまりに恐ろしい究極の最終手段」のニュアンスを持つ、ある意味「究極の方法」である。

私は有坂誠人の予備校での「例の方法」の講義を実際に受講したことはない。よって以下、有坂誠人が執筆の「例の方法」(1987年)と「例の方法・Part2」(1988年)の大学受験参考書を読んでの書評になるのだが、最初に確認しておきたいことは、どうやら世間では有坂の「例の方法」といえば「課題文を読まなくても設問の選択肢を見ただけで正解が分かる」という面だけがあまりに強調されすぎて、有坂「例の方法」を胡散臭(うさんくさ)いペテンの方法と一方的に強く非難する人がいる。しかし「例の方法」の参考書を読む限り、「胡散臭いペテンの方法」云々というのは出題形式別(要約記述問題や段落整序問題など)に多くある有坂提唱の「例の方法」の中のごく一部に対する批判でしかないのであって、「例の方法」は決して一つだけではない。「問題文を読まなくても設問の選択肢を見ただけで正解が分かる」客観式の記号選択以外にも、実は様々なバリエーションがある「例の方法」である。なのに有坂の「例の方法」をして、「課題文を読まなくても設問の選択肢を見ただけで正解が分かるとは、正攻法ではない胡散臭い邪道のペテン」などと一方的に酷評するのは、今にして思えば有坂誠人当人に対し何とも気の毒な気も私はする。

課題の現代文を読んで内容を理解しなくてもよい、事務的で形式的な作業遂行だけで正解が導き出せる究極の「例の方法」、その具体的手法として多くある様々なバリエーション・メソッドのうち、ここでは有坂誠人の「例の方法」の根底にある特徴的な考え方と、やはり世間的に有名である、客観式の記号選択において「課題文を読まなくても設問の選択肢を見ただけで正解が分かる」の「例の方法」についてだけ述べてみる。

様々な手法がある「例の方法」の根底にある特徴的な基本の考えはこうだ。有坂いわく、「『例の方法』とは出題者の心理的要素を問題にしたもの」である。例えば択一式問題の場合、選択肢は一つの正解を除いてはすべてが不正解の選択肢である。そして、これら不正解の選択肢が作られるとき、出題者は何を基準にして作っていくか、つまりは、どうやって不正解の選択肢をデッチ上げたか、それを出題者の立場に立って心理的に逆算して考えるのである。出題者は受験生にひと目で正解と見破られないように、正解となんらかのつながりをもたせて、まぎらわしく不正解の誤選択肢を作っていくはずだ。よって、ここが一番大事な勘所(かんどころ)なのだが、最初に必ず正解選択肢がまずあって、その正解選択肢を基本にして出題者は、そこから表現語句の一部を改変したり少しだけ内容をズラして、しかし確実に不適切な誤選択肢になるよう表現や内容を変更・逸脱させた、まぎらわしい誤選択肢を混ぜて受験生を間違いの罠(トラップ)に落とそうとするわけであるから、この誤選択肢の作られ方を逆算すれば、最初から一つだけある正解の選択肢は、他の選択肢すべてと相当に強い共通や対照の関連性を持つことになる。つまりは、各選択肢相互の共通や対照の関連を探していき、全ての選択肢と出来るだけ多くの関連性を持つ選択肢が最初からあった正解選択肢と原理的に判断できることになる。

どうですか、分かりますか。分からない人にはよくよく、じっくり考えてもらうとして(笑)、以上が本文の課題現代文を読まなくても設問の選択肢だけを見て「各選択肢相互の共通や対照の関連を探していき、全ての選択肢と出来るだけ多くの関連性を持つ選択肢が正解」だと分かる仕組みの「例の方法」の概要である。そして、各選択肢相互の共通や対照の関連性を探すための前提作業として、それぞれの選択肢に対して「例の方法・5つの作業」を必ず遂行するよう有坂誠人は指導する。有坂が奨励する「5つの作業」とは以下だ。また氏は、この「5つの作業」を設問選択肢だけでなく、課題文中の傍線部や空欄前後、時には課題文全体にもやるよう勧めている。

(1)同語(同じ言葉)、同義語(同じ意味の言葉)、同義文(同じ意味の文章)を全てチェックする。(2)反意語、反意文、縁語(例えば、川・水・船・波など)を全てチェックする。(3)プラスイメージの言葉・主張、筆者の主張に近づこうとする言葉と、マイナスイメージの言葉・主張、筆者の主張から遠ざかろうとする言葉、完了形表現(「してしまった」)をそれぞれチェックする。(4)文章中の余計な言葉(味つけ語)を取り除いて主部・目的部・述部だけの単純な骨格だけにする。特に長い選択肢や本文中の傍線部に対し必ずやる。(5)否定語(「ない」「ず」「不」「ありません」など)、接続語(順接か逆説か)、強調語・限定語・主張語(「こそ」「だけ」「べき」「当然」「必要」など)、係助詞(「も」)、指示語(「これ」「こういう」「それ」「あの」など)、数詞(「第一に」「二つ」「最初に」「終りに」など)を全てチェックする。

言うまでもなく、この「5つの作業」は課題文を読まずに選択肢を見ただけで正解を見極める「各選択肢相互の関係や共通・対照を探す」ための前提作業なのであるから、「5つの作業」にてチェックした5つの観点を指標にして各選択肢同士の関連共通の度合いを探るべきとする。さらに、これら「5つの作業」にて得られた指標以外にも、ルビ(ふりがな)がある難解漢字、独特な言い回しの語尾や「意味ありげな」雰囲気(?)の有無も相互の共通性や対照性の関連を見定める指標になる、としている。

「例の方法」の根底にある特徴的な考え方は、出題者の心理的要素を推測し、問題作成の手順を逆算することである。「例の方法」において、もっぱら検討するのは出題者の作問の際の心理や問題作成作業の手順であるから、課題文を何ら詳しく読む必要はない。ゆえに「課題現代文を読んで内容を理解しなくてもよい。事務的で形式的な作業をやるだけでけで正解が導き出せる」のであった。「どんな出題者でも、最初に正解を作る。これは当然のことだ。次に、その正解を源(みなもと)として、できるだけ正解とまぎらわしい形で不正解を作っていく、というのが順序だ」と述べて出題者の作問の手順を見抜く有坂誠人は、「さすがにプロの予備校講師だ。優れた着眼であり鋭い眼力だ」と私は感心する。

ただ昔から「例の方法」の弱点として、よく指摘されるように、そもそも罠(トラップ)の誤選択肢を作り出す際に「正解となんらかのつながりをもたせて、まぎらわしく不正解の誤選択肢を作っていく」手順で作成された客観式の問題でなければ、この「例の方法」は通用しないわけである。仮に出題者が有坂の「例の方法」を知っていて、関連性の有無の「まぎらわしさ」以外の全くの別発想の別視点から誤選択肢を作り混ぜられた場合には対応できない。

「課題文を読まなくても設問の選択肢を見ただけで正解が分かる」以外にも、実は様々なバリエーションがある「例の方法」である。しかも現代文だけでなく、古文・漢文や英語のテストにも適用できると有坂誠人は言うが、他のバリエーションの「例の方法」を見るにつけ、相当に怪しくて胡散臭いペテンにスレスレの山師の方法も少なからず混じっており、有坂提唱の「例の方法」には確かに使える有用なものもあるが、玉石混交(ぎょくせきこんこう)といった残念な感想を正直、私は持つ。

例えば、その他の「例の方法」として、「暗いイメージの選択肢ほどあやしい。人生的な暗さ、哲学的な嘆き、悩み、不安、苦悩に結びつく選択肢ほど、正解である可能性が高い(大学入試で出題される現代文は暗さのあるものがテーマになることが多いから)」や、「2個以上の複数選択問題では選択肢1は正解でない(この設問形式では出題者の心理的傾向からして最初の選択肢は、圧倒的に不正解になりやすい)」がある。これらは「馬鹿野郎!大学入試の現代文でも前向きで明るい建設的な評論論旨や筆者の主張や論述文章もあるよ」とか、「嘘をつくな!俺は入試過去問の複数選択問題で選択肢1が正解だった問題を何度も見たことがある」で、「金返せ!この野郎」のヤジが飛ぶレベルのくだらない「方法」だ。

さらに記号選択の客観式問題以外にも、傍線解釈や内容要約の記述式問題にも対応できる「例の方法」もあるし、空欄補充や段落並べ替えや一文挿入問題を解ける「例の方法」も、有坂の参考書には実践演習を交え詳しく解説されてある。しかし、それらはいずれも客観式の記号選択問題に適用の「例の方法」ほど明解ではなく、また正解にたどり着ける正答率の効果も甚だ怪しく、しかも課題文の内容を理解して読まなくてはよい代わりに事前にやるべき事務的作業が非常に細かく、かなりの負担を強いられる面倒な「例の方法」である。少なくとも私はそのように感じた。「いっそのこと真面目に現代文の受験勉強をやって読解力をつけて、まっとうに正攻法で問題を解いた方が手っ取り早いのでは」と思わずにはいられない。確かに一部感心させられる使える「方法」もあるにはあるが、もし私が受験生だったら「例の方法」はやらない。むしろ、まっとうに受験勉強に励んで正攻法で現代文入試に臨むだろう。その方が着実に早道だと思える。そういった私の結論である。

最後に「課題文を読まなくても設問の選択肢を見ただけで正解が分かる」方法について、有坂誠人「例の方法」の著書に実際に記載されている実践演習の問題解説のくだりを参考までに載せておく。例えば以下のような選択肢群が設問中にあるとして、「a・具体的、b・社会的、c・抽象的、d・現象的、f・意識的」

「aとcがそれぞれ反意語の関係にあることはすぐにわかるだろう。どうもaかcが答えらしい。ではaとcのどっちだ。aとc以外の選択肢はaとcのどっちを見ながらデッチ上げられただろうかと考えてみる。fの『意識的』はaの『具体的』よりはcの『抽象的』のほうがイメージ的に近い。さらに、dの『現象的』はcの『抽象的』と視覚的・音感的に似ている。このように見ていくと、どうも、この選択肢群は、cを中心に作られたのではないか、ということが見えてくる。つまり正解はcだ」

大学受験参考書を読む(39)堀木博禮「入門編 現代文のトレーニング」

以前に代々木ゼミナールの現代文講師であった堀木博禮(ほりき・ひろのり)が、同じく元代ゼミ同僚の英語講師、西きょうじの書店売り参考書「ポレポレ英文読解プロセス50」(1993年)に関し、「人の参考書を読み通したのは初めてだ。英語は読めなかったが、説明の流れがとてもきれいで一つの文章を読んでいるようだった」と西に直接に伝え誉(ほ)めていた話を西きょうじが語っていた。西きょうじにしてみれば、「堀木先生からの、あのほめ言葉は、いまだに私の支えとなっています」ということになるらしいが、この話を聞いた時、私は「なるほど」という納得の心持ちがした。

ある人がある人を誉めるというのは、その誉める人の中に自身が常日頃から望ましいと思って「自分もこうありたい」と願っている要素を相手の内に発見するから人はその時に相手を誉めるのである。「人が自分以外の他者を誉める」というのは原理的に言えば、そういうことだ。このことを疑う人は、堀木博禮「入門編・現代文のトレーニング」(2003年)を無心に読んでみたまえ。他ならぬ堀木の「入門編・現代文のトレーニング」の参考書の中に、西の「ポレポレ英文読解プロセス50」への堀木の称賛たる「説明の流れがとてもきれいで一つの文章を読んでいるようだ」という参考書執筆の理想を発見できるから。

堀木「入門編・現代文のトレーニング」が絶版品切になっておらず、現在でも書店店頭にて比較的安価な定価の新刊本で購入できるのは誠に幸運である。あの参考書はZ会出版から出ているが、どうやら堀木が以前にZ会の問題を作問していたからであるらしい。堀木博禮は当時は代ゼミに在籍し、「東大現代文」を始めとする主に難関大学の上級者レベルの現代文指導をしていたが、その他にもZ会の添削問題作成や模試の出題、旺文社「大学受験ラジオ講座」(通称「ラ講」)の講師を幅広く務め活躍していた。堀木「入門編・現代文のトレーニング」を読むと分かるが、本書は、まさに「説明の流れがとてもきれいで一つの文章を読んでいるような」感触である。変に説教臭くなく説明過多でなく、安直で表面的な読解ルールや解法テクニックの連発・羅列にも走らない。大変に美しく丹念に精密に考え抜かれた良心的な現代文の大学受験参考書だ。本書に掲載の演習問題は、ほぼ堀木によるオリジナルの創作問題である。「入門編・現代文のトレーニング」に掲載の演習問題が実際の大学入試過去問ではなく、氏のオリジナルの創作問題であることに関し、堀木博禮は「はじめに」で次のように述べている。

「ほとんどの参考書・問題集は大学の入試問題を使っていますが、現代文のための学力を根本から養うためには入試問題は不適切です。目標に到達するための過程と目標そのものとを混同しては効果があがらないのです。このために本書は最後の総合問題を除いて、すべて著者の創作問題としました」

なるほど、「現代文のための学力を根本から養うためには入試問題は不適切」である。出題者の意図を加味した創作問題とその出題者の意図を踏まえた解答解説を堀木博禮は、こなれて周到にやるの好印象だ。この人は非常にオーソドックスな、ある意味、当たり前で正攻法で正統な現代文講義をやる。特異な方法論や解法のテクニック、公式ルールを連発しない所が良い。

堀木博禮は、講義の際に面白話の雑談の脱線や教壇上での突飛で派手なパフォーマンスは皆無で、独特の口調で堅実真面目に淡々と現代文講義をやっていた。そもそも「堀木の現代文」は、非常に細かなことを子細に時にクドいくらいまでに切々と口頭で説明する。板書やテキストを用いた図式解説などしない。また代ゼミでの最後の方は、高齢のため発声弱く教室の後ろまで声が通らなかったという。以上のことから聴講している学生が眠くなり、それで「堀木の子守唄」と一部の代ゼミの学生や同僚講師らから言われていたらしい。これは、あくまでも噂の話であり、事実なのか私は量(はか)りかねるが、もしそれが本当だったとして、確かに1980年から90年代に代々木ゼミナールが隆盛を極め絶好調だった時代には予備校講師のタレント化が進み、ただ講義をするだけでなく脱線の雑談を長々とやったり、教壇上でカラオケをやったりするような受験勉強を教える以外のことで受験生を笑わせたり楽しませたりするサーヴィス精神旺盛なカリスマ人気のタレント予備校講師が多くいた。特に代ゼミには、そうしたタレント講師が多数在籍していた。

また堀木の現代文は、課題文に記号を書き入れて「イイタイコト」を探したり(藤田修一)、具体例や対立にて何度も繰り返される抽象的な「作者の主張」を見極めたり(出口汪)、「論理とは分けることとつなぐこと」だから事柄を必ず二つに分けて対立展開図を順次板書していったりする(酒井敏行)ような、特異な読み方教授ではなかった。堀木の指導は「文章を読んでいって、ここで何に注目してどう思考するか」極めてオーソドックスで、ある意味、当たり前で正攻法な現代文講義であった。そういった予備校産業レジャー化と特異な読解の方法論が持てはやされる風潮の中で、真面目に熱心に大学受験指導をやっている教師が、例えば堀木博禮のような堅実で真面目な正統派の予備校の先生が、真面目さゆえに「堀木の子守唄」などと揶揄(やゆ)されるのは非常に残念だし、何よりも堀木博禮その人に対し大変に失礼であり、誠に気の毒な思いがする。

堀木の「入門編・現代文のトレーニング」は、設問形式別(段落、指示語、空欄補入、傍線部説明、内容判定、要約)の、ほぼ氏の独自のオリジナル創作問題からなるが、最後の問題だけはこれまでの設問形式別学習の成果を見極めるために実際の大学入試過去問が掲載され、力試しの総合演習となっている。その際に著者の堀木は読者に向け以下のように述べて、最後の総合問題演習に受験生を誘導するのであった。

「ここまでで現代文の主要な問題形式別の解説と問題は終わりです。次にあげるのは実際の大学入試問題を使っての総合的な学習です。また、同時に、ここまで学習してきたことで、どれくらいみなさんの実力がついたのかのテストでもあります。僕の予想ですとかなりできるようになっているのではないかと思います」

この文章を読んで、「学生に主に勉強を教える日常的に若い学生に接する学校の先生は性善説なのだなぁ」と、いつもしみじみと私は思う。もし私が現代文参考書を執筆するとして、もし私だったら、こうした文章は絶対に書かないし絶対に載せないだろう。「僕の予想ですとかなりできるようになっているのではないかと思います」など読み手の受験生に期待を持たせ、しかし、いい加減に本書を読んで最終問題の実力見極め演習にて完答から程遠く、その不本意な成績結果を他人のせいにして「著者の参考書記述の教え方が良くない」のクレームが読者から入る危険性があるからだ。また仮にクレームがなくとも、「結局は参考書を通しての著者の教え方が悪い」など、私の教師の力量が不当に軽く見積もられてしまうからだ。そうしたいい加減な読み手の学生は残念ながら少なからず必ずいる。だが、堀木博禮は参考書を読んで勉強している学生を信頼し、自身の保身を考えずに性善説の立場から「僕の予想ですとかなりできるようになっているのではないかと思います」などと書いてしまう。

学校の先生に対し、後に同窓会にて同席再会したり街中で偶然に久々に見かけた時、「私より先に生まれた年上の『先生』であるはずなのに、いつまでも若い。ある意味、幼い。妙に変に社会ズレしていない変わらない純真さ、人を信頼する性善説の善良さ」を人によっては感じてしまうことがある。学校の教師は明らかに私たち一般の社会人とは人間が違うと時に思える。普通の人は学校を卒業して社会に出たら多少は汚いこともやる。もちろん犯罪や不正行為はやらなくても、多少の狡猾(こうかつ)さは持つ。人間不信や性悪説に至らないまでも、他人に対して警戒するし、互いのリスクとコストを考えて自分(たち)が有利になるよう時に駆け引きもする。相手と不信や決裂に至る最悪状況も一応は想定して常に事に臨む。大人の社会人とはそういうものだ。しかし、若い学生に接する学校の先生は違う。教師が性悪説の立場で、学生を疑って信頼せず警戒して接するようでは困る。それは教育上、好ましくない。学校の教師は大人になっても、いつまでも性善説で人を信頼して理想主義的であり、私はそれが時に羨(うらや)ましく思う。堀木博禮はいかにも先生らしい先生であり、教師であるという印象を私は持つ。

実は私は、そもそも代々木ゼミナールの堀木博禮の現代文講義を実際に受講したこともないし、堀木博禮にお会いしたこともない。だがしかし、氏が執筆の大学受験参考書「入門編・現代文のトレーニング」を読んだり、氏の噂話を耳にする度になぜか堀木先生のことが気になってしまう。不思議なものである。

大学受験参考書を読む(38)今井健仁「現代文の解法 東京大学への道」

今井健仁「現代文の解法・東京大学への道」(2009年)は副題が長く、「東大法学部生が明かす読解力不問の論述パターン学習」というサブタイトルがついている。また「東京大学法学部・現役東大生が明かすパターン学習による完全現代文攻略本」ともあり、高校教師やプロ予備校講師ではなく、実際に東大に合格した現役東大生が自身の受験勉強の経験から「東京大学への道」として東大二次現代文の過去問を研究し、その攻略法を伝授する、本書は東大現代文対策の大学受験参考書である。

本書での現代文読解の主な方針は「意味内容のブロック化」であり、従来は文章の流れとして何となく曖昧(あいまい)に流して読んでいた課題文を意味ブロックの集合体として細かく単位分割し、各段落内での文章の集合をそれぞれ「問題提示、筆者の主張、対立意見、反論、まとめ」の5つの意味ブロックに随時振り分け、部分としてのブロックごとの内容把握を重ねていくことで結果、課題文全体の構成が理解できるようになるというものだ。課題の現代文を読む際に、例えば「この段落のこの部分は問題提示の意味ブロックである」とか「ここから対立意見の意味ブロックが始まって対立意見紹介の内容記述に移る」など、まさに「ブロック化」し各部分を意味要素に分けて常にメリハリをつけて読んでいく読解法である。

著者による、この意味ブロック分割の読み方は「なるほど」と思えて大変によいのだけれど、ただこの人の場合、その意味ブロック分割を用いた課題文読解の具体的手順や、それに基づく解答作成の方法を読者に詳しく教授する段階になると、公式ルールの連発羅列で著者が本書にて提示する「原則、鉄則、テクニック」の数提示が多すぎる。「論述パターン学習」として、本書では「大原則が3、鉄則が17、課題文解読のテクニック(課テク)が30、解答作成のテクニック(解テク)が40」それぞれ挙げられている。それら全90個の方針やルール、公式を覚えて実際の読解の読みにて使えるのか。少なくとも私はできない。単純にまず90もある公式ルールを覚えきれない(笑)。東大現代文の過去問演習にて解答解説の際、著者は「解答作成のポイント」で各設問ごとに「使用テクは解テク36と解テク15」など、その問題にて駆使すべき公式ルールを逐一書き出し解説している。しかし本書にて東大過去問を解き続けていると、この問題では「使用テク・なし」の場合も割合に相当な確率で頻繁に散見され、「原則や鉄則、公式ルールを90個も出してあるのにそれでも対応できない取りこぼしの問題を結構、残す定式化のパターン学習なのか」の不信の思いは正直、残る。

大学受験指導では例えば数研出版の「チャート式」シリーズなど、昔から公式ルール化の教授方法は定番であるけれど、それに際し「公式ルールは出来るだけコンパクトで簡潔で数少なく、しかしどんな問題にも例外少なく普遍的に適用できる。ゆえに使い勝手がよくて有用」という公式ルール化するにあたっての基本の意図を著者は分かっていない。初歩の段階から明らかに公式ルール化設定の根本の方針意図を踏み外しているような気がする。

文章を読む読解は一文字、一文章をその都度、目で追って読み続ける瞬間的な認知反応の連続作業ではあるけれど、その過程で一字や一文の部分を狭(せま)く細かに読んでいても、同時に段落全体や文章構成も広く大きく意識しているし、また一文を読んで前の既読内容を思い出し連想して結びつけ理解しながら、同時に先の未読内容をイメージし展開予測もつけて実は読んでいる。そういった瞬間的な認知から幾つもの思考を同時進行でやる、複雑で有機的な一連の連続的動作の組み合わせである読解に関し、いちいち公式ルール化して個々の課題や設問パターンに対する一方針で一対応の「1対1」提示で、ひとつの解法にてバラバラに分割して対応しようとする分割還元主義は、ある複雑な物事や有機的な実体を理解するのに、各所の関係性や相互浸透による変化の実態を全く勘案せず踏まえておらず、いたずらに「困難は分割せよ」で物事の相互の関係性を断ち部分要素にズタズタに分割し、それら部分を後に集め再構成すれば元の複雑有機的な物事や実体にそのまま戻ると素朴に信じて疑わない思考に他ならず、従来のマルクス主義の唯物論的弁証法講義にて定番で繰り返し指摘されるところの、弁証法的唯物論の立場からする機械論的唯物論に対する批判の議論が私には想起され、よりシリアスに誠実に考えて、複雑で有機的な認知思考動作の読解力に関し、安易で安直な公式ルール化の90個羅列は様々な問題をはらむと思われる。

だがこの著者の場合、「東大法学部生が明かす読解力不問の論述パターン学習」と副題にあるように「そもそも読解力とは何か」、そして「どうしたらその読解力が個人に身に付くのか」という本質的で重要な問いを完全に忌避し回避して、最初から「読解力不問」で、ゆえに読解力は不要だから「論述パターン学習」として原則、鉄則、課テク、解テクの公式ルール90個の連発羅列な対応を余儀なくされているわけである。読解力そのものを本格的に追究し受験生にじっくり教えようとすると袋小路の泥沼にはまり込みそうだし、かといって安易で安直な公式ルール化に徹したパターン学習では学習効果に疑問が出るし、現代文の教授指導は実際のところ難しいという思いが本参考書の読後に残る。

大学受験参考書を読む(37)青木裕司「世界史講義の実況中継」

語学春秋社の「××講義の実況中継」シリーズは、予備校での生の講義を(おそらくは)その場で録音し講師のしゃべりをそのままテープ起こしした大学受験参考書であり、私が学生の時にはすでにあった。

ところで、学校を卒業してからも授業中に先生が脱線して熱心に話してくれた雑談を異様に鮮明に、なぜかいつまでも印象深く覚えていたりすることがある。私の場合、学生時分に読んだ青木裕司の「世界史講義の実況中継」(1991年)がまさにそれだった。その中で青木裕司が中国近代史の、いわゆる「毛沢東の長征・大西遷」について語るところが昔から強く印象に残っている。非常に熱心に青木が語る。

毛沢東の共産党軍が「北上抗日」の方針を決め、南の根拠地・端金を放棄して北の延安まで行軍する。しかし、日本を含む欧米列強諸国が駐留支配の沿岸地域は避けねばならず、内陸アジアの険(けわ)しい山岳地帯を経て北上するしかない。中途は難所の連続で山あり谷ありの道なき道である。行軍の途中で同志が次々と谷底に落ち、大雪山でバタバタと凍え死に、大湿原の底なし沼にズブズブと足を取られ皆が脱落していく。1万2千キロを踏破し18の山脈を越え数百回に渡る国民党軍との戦闘を経て、いよいよ目的地の延安に到着。だがその時には、かなりの同志が死んで紅軍の数は大幅に減っていたという。

「世界史講義の実況中継」なので紙上の間接講義なのだが、なぜかこの話の部分がとても印象深かった。それで最近また青木裕司の改訂版「世界史講義の実況中継」を手に入れて読んでみたら昔と同じ(笑)、以前と変わらず青木先生は「毛沢東の長征」について熱く語っていた。

近年、改訂の「世界史講義の実況中継」(2005年)を数十年ぶりに読んでみた。講義内容の大枠は昔の版とは、あまり変わっていない。しかし少し気になる個所もあった。これまた中国近代史の「南京虐殺事件」に関する記述だ。改訂版には「補足」があって、偕行社「南京戦史」(1989年)と「南京戦史資料集」(1993年)の書籍紹介や、南京虐殺事件について「虐殺があった事実は動かしがたい。虐殺された人数など数の問題は関係ない」とした三笠宮崇仁(昭和天皇の弟)の発言引用がある。私が昔、数十年前に読んだ旧版にはなかった記述だ。

おそらく青木裕司は、版を重ねるうちに右派・保守や歴史修正主義な人達からしつこく言われ、またウンザリするほど耳にしたのだろう、「虐殺被害者の人数が事実と異なり多すぎる。30万人虐殺説は嘘…だから、南京虐殺はないに等しい事件」という類(たぐ)いの定番で強引な詭弁を(註)。だから改訂版にて「南京戦史」の史料紹介をしたり、わざわざ「虐殺の事実はあった。被害者の人数の問題ではない」とする皇族関係者の発言を「補足」で載せたりする。今や日本国内での「南京虐殺事件」に関する歴史認識も、そうした「量を質に転化させる」量質転化もどきな歴史修正主義のデタラメ議論の免責論が横行するほどの堕落ぶりである。そんな現在の堕落した歴史認識問題にいちいち律儀(りちぎ)に対応して、改訂版に新たな「補足」説明まで加える青木裕司は「非常に気の毒だ」。そういった感慨を正直、私は持った。

最後に数十年来、疑問に思っていることを。青木裕司の自己紹介文「1956年、スターリン批判の年に福岡県久留米市に生まれる」。あれは何なの?自分の生年に、あえて「スターリン批判の年」という文言をつけるのが意味不明で昔から訳が分からない。


(註)「南京虐殺事件の被害者の数が事実とは違い不当に多く報告されている」と被害人数の把握がデタラメなことに固執し、粘着に「数」を批判し続けることで論点をズラし、南京虐殺をやった加害国の日本の方が、むしろ被害人数を不当に水増しされ常に糾弾され続ける「被害国」であると主張して、結果、少なからずあった日本軍の戦時の市民暴力の「虐殺行為の事実」が見事うやむやになって、いつの間にか免責されるという歴史修正主義者が好んでよく使う「量質転化もどき」な、ごまかし詭弁(きべん)の強引な手口。

大学受験参考書を読む(36)荒巻豊志「荒巻の新 世界史の見取り図」

現在、世界史の大学受験参考書を出している予備校講師の方々は、どうして左翼の左寄りか、はたまた右翼の右寄りの極端な史観の持ち主が多く、中庸(ちゅうよう)を行く健全な歴史認識を持つ人がいないのか。

前者の左寄り史観の代表といえば、「世界史B講義の実況中継」(2005年)を出している河合塾の青木裕司だ。「1956年、スターリン批判の年に福岡県久留米市に生まれる」が、自身の紹介文句になっている「フルシチョフな」青木である(笑)。かたや、最近のネット右翼のような常套(じょうとう)ペテンの語り口、右寄りの保守で近現代の世界史、特に日本近代史の認識に大いに問題があると思えるのが、東進ハイスクールの「荒巻の新・世界史の見取り図」上中下(2010─11年)の参考書を執筆している荒巻豊志だ。

荒巻の「新・世界史の見取り図」全三巻は、地図や図解を多用した分かりやすい世界史の大学受験参考書だとは思うが、この人の近現代史、特に自国の日本を絡(から)めた近代史の歴史認識には首をかしげざるを得ない。旧版でもそうだし新版でも同様、どうしてこの人は、例えば「日露戦争での日本の勝利」や「日本の満州建国」に関して、ただ近代日本を肯定賞賛するようなプラス評価のみ、ないしはいい加減いい年した大人なのに素朴な子どもじみた歴史の感想しか述べられないのか。一応は歴史を学んでいるはずの大学受験世界史のプロの予備校講師であるにもかかわらず。例えば「日露戦争での日本の勝利」について、

「日露戦争における日本の勝利は白人国家に対する有色人種の勝利であり、かつ立憲政治の専制政治に対する勝利であったということです。これが、列強の従属下に置かれていた当時のアジア諸地域において、民族運動が高まるきっかけとなります」(「新・世界史の見取り図・下」281・282ページ)

明治以来の対外進出の膨張主義で一貫して欧米列強の側に立って欧米諸国と共に日本が朝鮮、中国のアジア諸国の帝国主義的領土分割の植民地争奪戦に積極参加した東アジア史、本筋の歴史の流れを看過して、日露戦争を「有色人種対白人国家」の対立図式のみで強引に捉え、日露での有色人種の日本が白人国家のロシアに勝利したことが他の被抑圧民族に強い衝撃(?)を与え結果、アジアのヨーロッパ支配の抵抗運動につながったという反帝国主義の民族独立運動を高めた事例のみを荒巻は主に強調して述べる。日本の国にとってプラス評価になる都合のよいことだけを選択して、わざと限定的に述べる。

日露戦争での勝利を契機にポーツマスでロシアに日本の朝鮮に対する優越を認めさせ、そのまま韓国併合して朝鮮への帝国主義的支配を日本は本格化させた。そのような世界史記述が荒巻の参考書をいくら探しても見当たらない。そうした重要な歴史事象を完全無視して、荒巻によれば「アジアの各地に反帝国主義運動を盛り上げた日露戦争」である(笑)。こんなのネット右翼、歴史修正主義者や保守のメディアが、日本の歴史全面肯定で自国を賞賛したいがために日常的に繰り返しやっている常套ペテンな語りの手口そのものではないか。

「イラン立憲革命と呼ばれる出来事が起こります。イギリスやロシアのいいなりになっている国王の力を弱めなければならない。憲法を作り、議会を開き、自分たちの国のことは自分たちで決める。…明らかに日露戦争における日本の勝利の影響が見られますね」(下・378ページ)

「有色人種対白人国家」という対立図式に依拠し無理矢理に強引に解釈すれば、「明らかに日露戦争における日本の勝利の影響が見られるイラン立憲革命」になるのかもしれないが、東アジアでは日露戦争に日本が勝利したおかけでロシアを排した日本の朝鮮支配が決定的になったこと、すなわち外交権を奪われ韓国軍隊は解散させられ韓国併合となり、朝鮮総督府を置かれ、おまけに武断政治で後に三・一独立運動を弾圧される、日本によってアジアの独立運動を力で封じ込められた同じアジアの朝鮮の独立自由・民族自決問題との整合性はどうなるのか。荒巻の世界史講義にて強調されるポイント力点が非常に恣意的で、お気楽すぎる。日露戦争を「有色人種対白人国家」の対立図式に無理矢理に強引に当てはめ解釈することで、東アジア史における日本の朝鮮に対する「有色人国家対有色人種」の帝国主義的支配の完遂という日露戦争の性格は見事に隠蔽(いんぺい)されてしまう。

「日本の満州建国」に関しても、以下のような素朴な子どもじみた感想に終始する。

「満州国には、多くの日本人が移民していました、のみならず、ロシア人やユダヤ人までもが移民していました。『満州国は単なる日本の支配地域だった』と表現してしまうのは、少し寂しい気がしますね。…日本人は日本列島にしか住んでいない。頭にこびりつくかのような『常識』ですね。ところが、満州国に多くの日本人が移り住んで、別の国として歴史を歩めば、日本人が日本列島以外の所にも存在しているという認識が、日本国の日本人の中に生まれていたはずです。…日本語を話す人は日本列島にしかいないという感覚を、現在の多くの日本人は持っているでしょう。でも、戦前は違った。日本語を話す人々が、朝鮮半島や台湾にもいたのです。…この事実を知ったとき、ぼくは軽い衝撃を受けました。戦前の日本はすごく世界(アジア)に開かれていた気がしたからです」(下・303・304ページ)

「『満州国は単なる日本の支配地域だった』と表現してしまうのは、少し寂しい気がしますね」など感傷的(センチメンタル)になる以前に「五族協和」や「王道楽土」といった満州国の統治の実態が一体どうであったのか、具体的に押さえ自身の世界史講義の内容充実に生かしてみよう。加えて、戦前に「日本語を話す人々が朝鮮半島や台湾にもいた」ことについて、「この事実を知ったとき、ぼくは軽い衝撃を受けました。戦前の日本はすごく世界(アジア)に開かれていた気がしたからです」といった素朴な驚き、衝撃の感性的理解ではなく、「なぜ戦前に朝鮮半島や台湾の人々が日本語を話すようになったのか」「近代において、ある民族や国民が自分たちの言語以外に他国の特定の言語を学んで話して使うようになる(時には使わざるをえない状況にまで追い込まれる)歴史的背景の理由」を世界史の文化帝国主義や、効率的な植民地支配の馴致(じゅんち)の文脈から、より具体的には日本の皇民化政策、同化政策、日本型「強制的同質化」の植民地政策の視点から、さらに踏み込んで深く掘り下げ一度は自分で主体的に考えてみよう。そして、そのことを学生に考えさせる説明記述が「世界史の見取り図」の参考書に当然あってもよいはずだ。少なくとも「日本語を話す人々が、朝鮮半島や台湾にもいたのです。…この事実を知ったとき、ぼくは軽い衝撃を受けました」といった、いい年をした大の大人がカマトトぶった素朴な感想に終始するよりは。物事の本質を突き詰めずに、素朴な驚きの感想を述べて許されるのは無邪気な子どもだけだ。

その他にも挙げるとキリがないが、「日本における第二次世界大戦の呼称」に関し「アジア・太平洋戦争」という呼び方はしたくないので、本書では「大東亜・太平洋戦争」と表現する(下・144ページ)云々の訳の分からない氏の持論のこだわり(?)もあり、至る所に疑問に感じる到底フェアな世界史講義とは思えない参考書記述が満載だ。「大東亜」というのは、かつての日本の大日本帝国が大陸侵出のアジア支配の正当化のために使った「大東亜共栄圏」の虚偽イデオロギーを含む言葉なので使うべきではない。「大東亜・太平洋戦争」は明らかに不適切であり、第二次大戦の東アジア戦線、日本が参戦の戦争呼称には、イデオロギーの価値判断を含まない場所概念か時間概念の「アジア・太平洋戦争」ないしは「十五年戦争」の語を用いるのが今日では一般的である。

江戸時代の長きわたる封建支配体制を幕府の支配が巧妙で単に反封建闘争が成果をあげず、市民革命の国内内乱がなかったというだけで、それを「平和な」時代、「パクス=トクガワーナ」(中・340ページ)と無理やり一面的に短絡的に高評価する。第一次世界大戦にて、ヨーロッパ戦線に全力のドイツの東アジアの拠点・青島を、どさくさにまぎれて日本が日英同盟でイギリスとともに攻略したことを「日本によるアジア解放」(?)の正義に勝手に暗に結びつけた上での、「日本にとっての第一次世界大戦はアジア・太平洋地域からドイツの勢力を追い出すものでした」(下・76ページ)の定番引用をやる。幕末に日本がやられた欧米列強からの不平等条約を同様に江華島事件で軍事挑発して、今度は日本がアジアの朝鮮に押しつける抑圧委譲な不平等の日朝修好条規締結に関し、日本がヨーロッパ諸国にやられた屈辱的外交と侵略を、そのまま近隣アジアに委譲して自国の優越利益のバランス確保に走る当時の明治国家の外交方針は明白であるのに、でも「『朝鮮とも中国とも手を組んで、何とか列強に立ち向かうべきだ!』という意見が存在した」(下・359ページ)と無理やり言い張る。

日本の国家の体裁が悪くなると、いつも必ずそれに反論の注をはさむアクロバティックな日本擁護論の炸裂である(笑)。どんな国家でも歴史を振り返ったら、必ず反省すべき誤謬(ごびゅう)はある。間違いのない完全無欠な完璧な国家など、この地球上にはそもそも存在しない。特に近代史にて日本がよくなかったことも認めて、フェアに参考書記述をすればよいだけのことだ。そんなに神経質に明らかに無理のある「アクロバティックな日本擁護論」をいちいち連発させなくても。「本当にこの人は歴史を知っている世界史のプロの予備校講師なのか」という不信の思いが率直にする。「いかん、この人の『愛国』は、おそらくマジだ」というイタい思いも正直する。荒巻豊志「荒巻の新・世界史の見取り図」全三巻を読んで、残念ながら私はそう思わずにはいられなかった。

大学受験参考書を読む(35)中谷臣「世界史論述練習帳 new」

中谷臣「世界史論述練習帳new」(2009年)の良さは、大学入試の世界史論述に挑む際に場当たり的でない一貫したアプローチからの論述作成方法を具体的に教えてくれる所にある。すなわち「書き出す前の事前の構想メモ作成」と「問題の問いかけパターンに応じた論述の答え方想定」の二点教授が、この論述参考書の特に優れている所だ。

前者の「書き出す前の事前の構想メモ作成」とは、すぐに書き出さずに、まずは構想メモを作成し論述へ盛り込むべき内容を事前にまとめる一貫手法である。論述問題にて高得点を狙う場合、出題者が望んでいる大学側が受験生に書かせたがっている加点要素を決して書き漏(も)らすことなく、解答論述の中に効率的にどれだけ多く盛り込めるか、作問者の意図に沿った論述作成が高得点のカギとなる。加点要素の書き漏らしを出来る限り避け、論述の各文・各所にて着実に点数を確保して結果、高得点に繋(つな)げたい。しかし構想メモを作らず、いきなり書き出すと書き漏らしが出て失点を誘う。

例えば時代的変遷の推移を論述する場合、仮に8世紀から10世紀の推移に限定して述べるとして、8世紀と10世紀に該当の歴史事項は思いついて書き出せるが、たまたま9世紀に当たる事柄が穴になって思い浮かばない。これでは連続的な推移の論述にて明らかに書き漏れになり減点になるから、どうしても9世紀に関する歴史事項を無理矢理にでも探し出し書き入れ、推移論述に欠落の穴ができないようにする。そうした自身の作成論述を客観視し、書き漏らしをさせない工夫のためには、事前に構想メモを作っておかないと気付かないことであり、あらかじめの構想メモ作成は論述問題に臨む際には必須の作業である。

後者の「問題の問いかけパターンに応じた論述の答え方想定」は、論述問題には問いかけパターンがあり、それに即応した答え方が実はあるので、それら問われ方のパターンを知って、あらかじめ答え方を想定しておくことが重要だ。

例えば「違いを述べよ」パターンであれば、事前に構想メモで対照表を作って、観点項目別に「Aは××だが、Bは××」というように「AとB」の観点別の対比(コントラスト)が常に明確となるよう必ず二つの対のセットで一貫して書き抜かなければならない。よく「違い」パターンの問題で片方のAの事柄のみ熱心に書いて、それに対立照応するBの事柄に関し対比の意識が希薄で、それとなく漠然と述べている論述があるが、あれは厳密に「違い」を述べた論述になっていないので減点される。そうなると完答や高得点は難しくなる。

例えば「歴史的意義について述べよ」の問いかけパターンに対しては、絶対に細かで具体的な歴史事項を書いてはいけない。「歴史的意義」といった場合には、ある程度、抽象化した前の時代からの継承・断絶・飛躍、そして後の時代に及ぼした影響・役割の時系列前後の二つの要素を書き入れなければならない。「歴史的意義」パターンの論述にて、細かに詳しく具体的な歴史的事柄を書き込んで記述内容は正しく大変よく書けているのだけれど、設問の問いかけに適切に対応しておらず「歴史的意義」の抽象記述に徹しきれていないため結果0点だった、という悲劇な話は割合よく聞く。

この参考書のウリの一つは、世界史論述に取り組むにあたり、漠然と何となく書き出すのではなく、常に事前に構想メモを作らせ必ず内容を決めてから学生に論述させるの徹底指導で、決して場当たり的ではない、どんな論述問題に対しても常に同じ手法で対処する一貫した方法論の提示であり、そうすると前述のように事前に自分の考えが客観視でき検討できて欠落の書き漏らしミスをなくすことが出来る。だから、本書での入試論述の過去問を使った問題演習では、まずは「構想メモを作ってみよう」、そして構想メモが完成したら、それを文章化して「添削しよう」の二段階作業の手順を必ず踏む指導になっている。

大学入試の世界史論述過去問をいくらか解いてみての私の感触では、世界史論述にて完答に近い答案を作るには、出題者が作問の際に想定し受験生に書かせたがっている加点要素(論述の核や柱となる歴史事件、歴史人物、歴史概念の用語)を限られた字数論述の中に漏れなく盛り込み書き入れること、そして、それら歴史事項の繋(つな)がりの連結(並列羅列、因果関係、対立対照、抽象・具体など)を適切に処理しメリハリを付けた論述にして採点者に良い読後感の好印象を与えることだ。論理的つながりや連結を意識せず、歴史的事実や意義をダラダラと書き連ねると散漫な論述印象を与えてしまい、採点者の読後感は確実に悪くなる。あとは正確でない間違い記述やあいまい記述、誤字脱字をなくして減点を避けることである。東大の世界史大論述のような使用語句指定がある問題の場合には、出題者が論述に盛り込むべき歴史用語を事前に提示してくれているので、あとは語句同士の論理的つながりに主に注意を払ってメリハリをつけて一気に書き抜けばよい。少なくとも以上の点をクリアしたら、自然と出題者が想定している模範解答に果てしなく近い高得点が出る、ほぼ完答に近い論述答案になるはずだ。

そういった点からして本書巻末にある別冊付録「基本60字」に掲載の、論述の構想メモ作成の際に役立つ世界史内容の具体的まとめ(歴史事項定番の因果関係や対照図式などの網羅)も、良い読後感の好印象を採点者から引き出すメリハリをつけた論述記述のために有用である。

結局のところ、察するに本書は「この本は、わたしの添削の成果です。毎年、受験生の答案を1000から1500枚も添削しています。4月から直前の2月まで馬鹿馬鹿しいくらいたくさんの答案を添削してきました」と著者自ら紙面にて述べているように、著者が受験生の世界史論述答案の添削を日常的にかなりの大量枚数こなし、その際の自身の経験的な添削作業の手続きの手際(てぎわ)を参考書にまとめ、「その添削作業の逆操作を受験生にそのままやらせれば、学生は独力で大学入試の世界史論述に自然と対応できるようになる」とする著者の考えから成立している。

何はともあれ、まずは「構想メモを作ってみよう」の構想メモ作成と、問題の問いかけパターンに対応した答え方想定の一貫した方法論の確立が肝要である。特に前者の「論述答案記述に挑むに当たり、どうしたら事前にムラなく安定して精度の高い正解な構想メモを毎回作成できるか」が、大学入試世界史の論述にて常に高得点をたたき出し果てしなく完答に近づけるカギとなるに違いない。

大学受験参考書を読む(34)菅野祐孝「日本史講義の実況中継」

菅野祐孝という人は日本史の予備校有名人気講師だが、「良くも悪くも予備校講師らしい人」だ。菅野本人や氏の日本史講義をかつて受けた人には申し訳ないけれど、私はこの人は、いわゆる「カリスマ人気予備校講師」として功罪両面あると思う。

まず「功」から言うと、この人の網羅的な入試過去問研究が挙げられる。「日本史講義の実況中継」(1989年)を読むと分かる。氏は難関私立を意識した、かなり詳細な授業をやる。特に私立の難関校は山川出版「日本史用語集」の「頻度1」(十何社ある教科書のうち1社の教科書にしか書いてないような非常に細かい明らかに高校生レベルを超える専門的知識・用語)を普通に出すが、そういった難問にも対応できるように教える。それで、例えば「これは昔に慶応で出ました」「早稲田ではこんな細かい所まで聞かれます」と大人の菅野先生が言うと、10代の若い受験生は無知で純真だから「おーっ」と感嘆するわけだ(笑)。

私は高校を卒業して、しばらく経ったら分かったけれど、入試の過去問の研究分析をやって傾向をつかんで結果「××大学ではココが出る」と言えるのは、そこまで大したことではない。大人で並の能力があって時間がある人は普通にできる。ただ高校生や浪人生の受験生は時間がないから。高校や予備校の先生のように一科目だけ特化して出来ても大学には受からないから、複数科目を平行して勉強しないといけないので、特定科目をさかのぼって詳しく過去問研究をやる暇(ひま)がない。だから、大人の予備校の先生が過去問研究をやって情報提供してくれると、自然「おーっ」となる。

高校の先生が予備校講師のように入試過去問研究をやって、傾向対策を教えてくれない。これは私の偏見かもしれないが、標準的で一般的な高校教師は残念ながら教材研究の勉強を普段から研鑽(けんさん)してやっていない。生活指導の取り締まりや学校行事の遂行や部活動の指導などに多忙で、毎年お決まりの同じ授業をやっている。日本史の高校教師なら教科書の重要用語を羅列して、ただ板書するだけの明らかな手抜き授業だ。別に高校の先生など授業が下手でも、飲酒運転や重大犯罪をやらかさない限り、クビにならず終身雇用で定年まで勤続できる。だから、そういうダレた普段からの高校の授業があって、所変わって予備校に行くと予備校講師が「ズバリここが出る!」などと言ってくれるので受験生が非常に新鮮に感じて変に無駄に感動する。

他方、もちろん「罪」もある。特に菅野祐孝に関する限り、あの有名な「立体パネル」である。氏が「立体パネル」という日本史のまとめノートを作れという。一時代を見開き2ページに集約した、まとめのノートを。しかも教科書の地図やら図版や写真をコピーして貼ってまとめる作成に非常に手間のかかるノートをである。ノートを作っている間、受験生は手間と時間かかって工作のようで楽しいのである。しかも苦労してだんだん「立体パネル」のノートが完成してくると勉強の成果が目に見えて形になるようで。しかし「立体パネル」のノート作りは時間を費やす作業の労力の割には成果はない。結局、ノートを作る「図画工作」に夢中になって、肝心の歴史事項を覚えて理解する、時には苦痛を伴う暗記の作業や反復継続で問題に接し慣れていく問題演習をやっていないから、実際の入試問題を解けない。いくらキレイで精密なノートを作っても、大学側はそんなことは知らない(笑)。とりあえず入試当日に試験をやって合格ライン以上を得点した学生にしか入学許可は出さない。「菅野先生、受験生に立体パネル作れとか本当にヒドいな。仮にあれでうまくいって学習できたとしても点数が取れるのはセンター試験と私大入試くらいで、国立二次の論述問題には対応できないだろうな」と私は思う。

また、例えば「菅野先生は手ぶらでチョークのみ持参で教室に入ってきて、前もって細かな歴史用語や指導のポイント事項を全て正確に把握していて一切、講義ノートを参照せず淀(よど)みなくスラスラと立体パネルの板書をやるので感動した」ようなことを懐かしんで回顧される、菅野日本史講義の元受講者の方が今でもおられるが、ああいうのは日本史教科の内容を教える本質以外での案外、枝葉末節な単に「菅野氏の予備校講師としての自分の見せ方、ショービジネス的な人気予備校講師の自身の売り方」みたいなものであって。おそらく、以下のような正論本筋を書くと菅野の日本史元受講生や熱烈な菅野「信者」の方に激しく恨(うら)まれて、お叱(しか)りを受けそうだが、「菅野先生の立体パネルの板書が素晴らしくて感動した」などという無邪気さは、大学に入って本格的に学問をやるために「まずは大学入試対策の受験勉強をやって日本史の基礎学力をつけて、大学に入ってからも支障なく脱落せずに学問ができるよう、あらかじめ歴史の基本を学んでおく」という受験勉強の本筋から明らかに逸脱していると私は思う。

結局のところ、日本史を教えていないのである。これまでの入試過去問で問われた用語や知識を効率的に網羅で挙げて、受験生に覚えるよう指導するのみである。菅野祐孝という人には日本史の歴史(学)そのものを教えるというよりは、大学受験日本史を素材にして情報知識のまとめ方・覚え方を単に教える人といった悪印象が残念ながら私には残る。

大学受験参考書を読む(33)八柏龍紀「日本史論述明快講義」

八柏龍紀(やがしわ・たつのり)「日本史論述明快講義」(2006年)は、東京大学や一橋大学の難関国立二次の論述過去問を主に扱った大学受験参考書であり、一読して日本史論述の背景知識や解答アプローチ、模範解答など節々に「明快」な読後感の好印象が鮮(あざ)やかに残る良著だ。

著者の八柏龍紀は、元は代々木ゼミナールの日本史講師で、以前に「この指とまれ!日本史」のタイトルにてサブノート式のオリジナル・テキストで解説する日本通史の講義映像を代ゼミの衛星講座「サテライン・ゼミ」にて代々木本校から全国支店の代ゼミ各校舎に生中継で飛ばしたり、また「この指とまれ!日本史」(1995年)の一般書店売り参考書を代々木ライブラリーから出したりしていた。

昔から氏のことは、それとなく私は知っていた。秋田出身の方で代ゼミに移籍する以前は秋田で高校教師をやっていたとか、進学の受験指導以外にも定時制高校で仕事帰りに酒を呑(の)んで酔っぱらって学校に来る(笑)、社会人に勉強を教えていた、高校で元は紀元節に当たる「建国記念の日」の祝日に戦前の天皇制教育復活の反動を感じ反対して学校内で気まずくなったといった話だ。というのも、この人は予備校で日本史の受験指導をやるのと同時にエッセイや日本の戦後史、現代批評の一般書を数多く出しており(「セビアの時代」「戦後史を歩く」など)、私は八柏龍紀の著作を一時期よく読んでいたので直接の面識はないが、著書を介して昔からそれとなく知ってはいた。また氏の書籍の帯に「思想の科学」の鶴見俊輔が推薦文を書いていたり、氏の執筆の書籍が、九州が生んだ偉大な哲学者で東大でマルクス研究をやった廣松渉が資金を出して設立した共産主義者同盟(ブント)の「情況出版」から出ていたりで、八柏龍紀の思想背景が、鶴見の「思想の科学」や雑誌「情況」を愛読していた私の思想的好みに不思議と合うことから氏に親近を感じていた。

「この本は、東京大学や一橋大学など、受験科目に日本史の論述を課している大学に合格するための手引き書です。いわゆる受験参考書として出版されるものですが、わたしとしては、この本を『歴史を学ぶための入門書』と位置づけています。その意味で一般の読者の方にもお読みいただければ幸いと思っています」

以上は「日本論述明快講義」の「はじめに」の文章の一部だが、「いわゆる受験参考書として出版されるものですが、わたしとしては、この本を『歴史を学ぶための入門書』と位置づけています」と氏みずから書いて、大学受験生のみならず「一般の読者の方にもお読みいただければ幸い」とあるように、この人は単に受験生への入試対策で日本史を教えるだけでなく、現代批評の思想論壇にまで踏み込んだ明らかに大学受験指導の日本史を逸脱した歴史を教えたい、時に大学受験生以外の一般の人に向けて日本史を本格的に幅広く教えたい志向がもともと氏の中に一貫して強くあるため、巻末の「読書案内」にて、まだ10代の大学受験生に時事的で政治的な思想論壇著作を前のめりでお薦めしてしまう。大学受験の若い学生を高度に政治的で党派性ある歴史認識問題や思想論争の類(たぐ)いに安易に誘導し動員しようとする。

「歴史をイデオロギーの道具のように用いている歴史家や評論家もいます。しかし、歴史とは、そうしたものを跳びこえて、なぜそんなことがおこったのか考えることで、今の自分自身の立っている地点を考える。そして、自分自身の水脈がどこから流れているか、…つまり、かつての飢えや戦争のなかで苦しんできた人びとがいるわけで、そうした人びとと現在のわたしたちが時間という流れのなかでつながっていること、それを意識することにこそ歴史を学ぶ意味があるのではないかと思われるのです。その地点から考えると、…単純な謀略史観にとらわれて歴史的事件をおもしろ可笑しく、あるいはいくつかの歴史事象をつなげて、こうなんだと断言してしまう歴史観もよくないと思います。まずは、どうしてなのかと疑問を持つ、そのうえで考える、あるいはさまざまな読書などの体験を通じて社会を見る眼を養う。歴史を学ぶとは、そうした真摯な態度を身につけることにつながるように思います」

以上は巻末での氏による「読書案内・あとがきにかえて」の文章の一部である。なるほど、情況出版から「戦後史を歩く」(1999年)といった時事的で政治的な著作を出している八柏龍紀だけあって、特に「単純な謀略史観にとらわれて歴史的事件をおもしろ可笑しく、あるいはいくつかの歴史事象をつなげて、こうなんだと断言してしまう歴史観」に対する氏の警戒心は相当に強く、ゆえに学生に推薦する「読書案内」の書籍も見事にことごとく、そういった国家主義者や復古の保守右派反動や歴史修正主義者らの単純な謀略史観(近代日本は欧米列強や中国共産党の謀略に見事はめられて戦争遂行を余儀なくされた。だから日本側には反省すべき近代史などないとする類いの歴史観)に対する、高度で時事的・政治的な対抗言説の歴史研究や思想論壇の著作群になってしまう。

例えば、テッサ・モリス=スズキ「批判的想像力のために」(2002年)、ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」(2001年)、本橋哲也「ポストコロニアリズム」(2005年)、野田正彰「戦争と罪責」(1998年)を八柏は「読書案内」書籍に挙げる。その他、時事的思想論壇的なもの以外でも中世社会史研究の網野善彦や近世思想史研究の尾藤正英を氏は、よほど気に入っているようで、特に尾藤正英に関しては、本論の論述解説にて「職(しき)の構造」に対置される、必ずしも日本史研究の場では未だ定着しているとは言い難い尾藤が提唱の「役の構造」に何度もしつこく言及しており、八柏の個人的な歴史研究嗜好が前面に出過ぎる。

私の感慨として、これから大学入試を控え日本史論述の勉強をやっているまだ10代の受験生に、そうした時事的で政治的な日本史著作を読むよう前のめりに勧めたり、自身の歴史研究の好みを前面に押し出したりするのは「とりあえずは自身の中にある知識や嗜好を総動員して、学生に対し自分が教えたいことを自由奔放に無闇に教えたがる年長者のはた迷惑な無邪気さ」であり、成熟した大人の教育者たる教師としての「禁欲」が足りない、早計で軽薄で無責任な印象が強く残る。10代の若い学生には、もっと堅実な歴史の古典の基本な名著を読むよう促すべきで、例えばテッサ・モリス=スズキの「批判的想像力のために」など、あのような左派論壇の飛び道具的(?)刺激の強い書物は無事に志望校に合格して、めでたく大学生になってから、もしくは学校を卒業して社会人になって手にして読んでも十分に間に合う。

昨今の世間一般や私の周りでは、若い時期に日本史の歴史学の古典の基本をじっくり学ぶ修練を積んでおらず、時事的・政治的な歴史解釈書や論争の思想論壇書に安易に手を出し、歴史認識に関し結局は学問的基礎が全くなっていないのに歴史論争的言辞をやたら周りに振りまく好戦的で恥ずかしい大人、現代風の俗な言い方をすれば「トンデモ歴史」語りの見るに耐えないヒドい有り様な人が多いので。若い高校生や大学受験生には、せめて学生時代には時事問題や政治的党派に左右されない基本の基礎の歴史学研究の古典(日本史概説、史学概論、比較文化論、伝記・評伝など)を腰を据(す)えて、じっくり読んでほしいと私は思う。

そうしたほろ苦い思いが去来する、若い高校生や受験生に対する適切な歴史教育の難しさを改めて痛感させられる八柏龍紀「日本史論述明快講義」読後の感想である。

大学受験参考書を読む(32)石井貴士「本当に頭がよくなる1分間勉強法」

(「大学受験参考書を読む」のシリーズだが、今回は大学受験参考書ではなく、例外的に一般の自己啓発本についての書評を載せます。)

私は普段、自己啓発や能力開発や速読術の勉強法の類(たぐ)いの書籍はほとんど読まないのだが、石井貴士「本当に頭がよくなる1分間勉強法」(2008年)は、「本1冊が1分で読める」など、あまりに荒唐無稽なことを表紙や帯に書いてあるのでついつい手が伸びて読んでしまった。

本書では「本1冊が1分で読めるスピード学習法」と「60冊分を1分で復習する右脳学習法」の二つが紹介されている。特に前者について「本1冊が1分で読める」、そんなことが本当に可能なのか!?半信半疑ながら本書を開いて読んでみると、「本1冊を1分で読む方法」は138ページから具体的に説明されている。「いいですか?お教えしますよ」。著者も、なかなかもったいつける(笑)。「そのスキルとは、一瞬で感覚的に感じ取る(場の空気をよんだり、場の状況をよんだり、相手の状態を直感でよんだり)という、人間がそもそももっている能力を使うのです。…よくあの人は人の心をよむのがうまいとか、キーパーがシュートのコースをよむとかの、いわゆる、よむ、感じ取る能力を本に生かすのです」(138・139ページ)。「見開き2ページを1秒で見た瞬間に、直感でリーディングしてよみとれた情報こそ、実は、もっとも価値のある情報なのです」(143ページ)。だから「文字を読もうとしてはいけない」「大切なのは内容を理解しようとしないこと」(151ページ)。つまり「人間の直感は重要な部分に反応するようにできてい」るので、「実は0.5秒でただページをめくるだけということが、ワンミニッツ・リーディングにおいては究極のノウハウなのです」(166・172ページ)。

正直、これは参った。「本1冊を1分で読む」という場合の「読む」を「場の空気をよむ」「相手の状態を直感でよむ」の「よむ」にわざとズラして置き換えて、文字を読まずに一瞬で感覚的に感じ取る人間の直感本能に頼って1ページを0.5秒でひたすらめくることの読書指南だ。確かに1ページを0.5秒でめくっていけば、形式的には「本1冊が1分で読める」ことにはなる。かなりの荒業だ。というより明らかに詐欺、ペテンな気がする。「本を読む=空気をよむ」、それはダジャレではないのか(笑)。ここでまず「これはイタい、この本は詐欺だ」と思えてくる。

人間は膨大な情報をいっぺんに与えられた場合、とりあえず既知なものを優先的に拾って、未知なものや分からない事柄は捨象して自身の安定を保とうとする「認識の防衛本能」が働くから、文字を読んで内容を理解するのではなく人間の直感本能に頼って本の印象、空気、雰囲気を「よむ」、それでも「人間の直感は重要な部分に反応するようにできているので大丈夫」といったことには、おそらくはならない。この方法でいけば、ページをめくって自分が既知な内容部分だけを拾い、再確認して1分間で本を1冊めくる作業が終了するだけだ。この意味において、後者の「60冊分を1分で復習する右脳学習法」の既知な項目確認の復習法には知識記憶定着の一定の理があり、成果は見込めそうではある。だがしかし、自身が全く分からない未知な分野を新たに知ろうとし勉強する目的で本を手に取る人には、感覚の本能で大切なことを1ページ0.5秒のうちに感じ取る、つまりは場の空気をよんだり相手の状態を直感でよむという「よみ」では、到底内容を理解して自分のものにすることなどできないだろう。

しかしながら著者はどこまでも強気だ。「文字を読もうとしてはいけない」「一瞬で感覚的に感じ取るという、人間がそもそももっている能力を使う」という1分間リーディングの「よみ」方を力説した上で、「Don't think,feel!」(考えるんじゃない、感じるんだ!)、ブルース・リーの名言を引用する(笑)。ブルース・リーのジークンドーとは明らかに引用の力点が違うような気がする。ここまで来ると、著者は「1分間読書法」を最良の方法と本気で信じきって完全善意で勧めているのか、半分は詐欺で確信犯的にやって悪意が混じり、さらにワル乗りしてブルース・リーの引用などをしてフザけているのか彼の本意が分からなくなる。

あと、福沢諭吉の「学問のすすめ」(1880年)を引用した箇所もある(197ページ)。「とにかく人間は徹底しなければダメです。もし徹底することができなければ、普通の人間です」。これは現代訳をして、さらに意訳して分かりやすくした文章だと思うが、本当に福沢はこんなことを書いているのか!?私は福沢諭吉の著作をよく読むが、「学問のすすめ」にこのような文章があって実際に読んだ記憶がない。「学問のすすめ」の第何編にこの文章があるのか、ぜひとも教えてもらいたい。

著者にも毎日の生活の支払いとか養うべき家族とか老後の人生設計のための貯蓄とか様々な事情があると思うので同情はするが、しかし、それにしても「本1冊が1分で読める」の「読む」の意味をダジャレのような言葉遊びでズラして置き換えて、あのようなキワどいスレスレな方法で「1分間読書法」と言って本を出して、たくさん売って手っ取り早くお金を稼ぐ。あげくは「1分間勉強法」の著者が主催の集中セミナーに参加した体験者の感謝と絶賛の声を各章ごとに何度も入れて、「人としてどうなのか」という思いが正直、私には残る。

結局、この著者は「本当に頭がよくなる1分間勉強法」という書籍を売る以外に、この本の読者からさらに自分が主催の週末セミナーや泊りがけの勉強会に人を集め参加誘導して、それで荒利益を上げたい人なのだと思う。だから「本当に頭がよくなる1分間勉強法」に、しつこく掲載されているセミナー参加者の体験談では、やたらと「あの時に教えてもらった方法を今でも続けてます、ばっちり効果ありました」というような「1分間勉強法」本に掲載されている以外の特別で必殺な速読法や勉強法の秘法(?)が実はまだあって、それはさらにお金を払ってセミナーに参加した人しか知ることができないし、手に入れられないとする非常に思わせぶりで巧妙な勧誘・誘導の手口になっている。

速読法や勉強法のセミナーで生徒を集める一般的起業モデルならば、まずセミナーが主商品で、そこでの参加費が主な売り上げだからセミナーや勉強会に多くの人を誘導するためにパンフレットやチラシ広告は、会社自らがある程度の出費を覚悟してとにかく人を集める。そういう出費は広告広報費としてセミナー主催側には折り込み済みの必要経費である。しかしながら「本当に頭がよくなる1分間勉強法」の著者は、普通は主催企業側は自費で、かなりの経費の出費を覚悟で生徒集めのパンフなどの広告を打つのに、この人は中経出版から「本当に頭がよくなる1分間勉強法」という本を出し、多くの人がこの本にお金を支払って購入して本購入をきっかけにさらに「1分間勉強法」のセミナーに参加した人も、そこそこいるはずだ。つまりはセミナー勧誘の広報広告の出費なく、逆にむしろ広告を打っているのに書籍の売り上げ印税で儲けて、しかもセミナー本体で生徒を集めてさらに収益がプラスである。

今の高度資本主義の世の中、いろいろ考えれば手っ取り早く楽して金儲けの方法は簡単だ。ただし特に勉強法や速読法、自己啓発や能力開発のメソッド云々で実態がつかみにくい分野のものに関し、「果たして、こういうものを本当に商品として客に売ってよいのか」の倫理的自己検閲規制や罪悪感のモードや良心のプライド制御が働かなければ、会社の利益アップや金儲けは実に簡単である。

結局、そうした「本1冊を1分で読む」山師の方法に安易に飛びつかず、また「本当に頭がよくなる1分間勉強法」をきっかけにセミナー参加をして余計な出費を重ねたりせず、やはり一字一句を丁寧に追って内容を理解し時間をかけて苦労して、しっかり書物と向き合って真っ当で堅実に読書したほうがよい。その方が一見は遠回りに見えるが、実は最短で確実な読書法だと私には思える。