アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

大学受験参考書を読む(33)八柏龍紀「日本史論述明快講義」

八柏龍紀(やがしわ・たつのり)「日本史論述明快講義」(2006年)は、東京大学や一橋大学の難関国立二次の論述過去問を主に扱った大学受験参考書であり、一読して日本史論述の背景知識や解答アプローチ、模範解答など節々に「明快」な読後感の好印象が鮮(あざ)やかに残る良著だ。

著者の八柏龍紀は、元は代々木ゼミナールの日本史講師で、以前に「この指とまれ!日本史」のタイトルにてサブノート式のオリジナル・テキストで解説する日本通史の講義映像を代ゼミの衛星講座「サテライン・ゼミ」にて代々木本校から全国支店の代ゼミ各校舎に生中継で飛ばしたり、また「この指とまれ!日本史」(1995年)の一般書店売り参考書を代々木ライブラリーから出したりしていた。

昔から氏のことは、それとなく私は知っていた。秋田出身の方で代ゼミに移籍する以前は秋田で高校教師をやっていたとか、進学の受験指導以外にも定時制高校で仕事帰りに酒を呑(の)んで酔っぱらって学校に来る(笑)、社会人に勉強を教えていた、高校で元は紀元節に当たる「建国記念の日」の祝日に戦前の天皇制教育復活の反動を感じ反対して学校内で気まずくなったといった話だ。というのも、この人は予備校で日本史の受験指導をやるのと同時にエッセイや日本の戦後史、現代批評の一般書を数多く出しており(「セビアの時代」「戦後史を歩く」など)、私は八柏龍紀の著作を一時期よく読んでいたので直接の面識はないが、著書を介して昔からそれとなく知ってはいた。また氏の書籍の帯に「思想の科学」の鶴見俊輔が推薦文を書いていたり、氏の執筆の書籍が、九州が生んだ偉大な哲学者で東大でマルクス研究をやった廣松渉が資金を出して設立した共産主義者同盟(ブント)の「情況出版」から出ていたりで、八柏龍紀の思想背景が、鶴見の「思想の科学」や雑誌「情況」を愛読していた私の思想的好みに不思議と合うことから氏に親近を感じていた。

「この本は、東京大学や一橋大学など、受験科目に日本史の論述を課している大学に合格するための手引き書です。いわゆる受験参考書として出版されるものですが、わたしとしては、この本を『歴史を学ぶための入門書』と位置づけています。その意味で一般の読者の方にもお読みいただければ幸いと思っています」

以上は「日本論述明快講義」の「はじめに」の文章の一部だが、「いわゆる受験参考書として出版されるものですが、わたしとしては、この本を『歴史を学ぶための入門書』と位置づけています」と氏みずから書いて、大学受験生のみならず「一般の読者の方にもお読みいただければ幸い」とあるように、この人は単に受験生への入試対策で日本史を教えるだけでなく、現代批評の思想論壇にまで踏み込んだ明らかに大学受験指導の日本史を逸脱した歴史を教えたい、時に大学受験生以外の一般の人に向けて日本史を本格的に幅広く教えたい志向がもともと氏の中に一貫して強くあるため、巻末の「読書案内」にて、まだ10代の大学受験生に時事的で政治的な思想論壇著作を前のめりでお薦めしてしまう。大学受験の若い学生を高度に政治的で党派性ある歴史認識問題や思想論争の類(たぐ)いに安易に誘導し動員しようとする。

「歴史をイデオロギーの道具のように用いている歴史家や評論家もいます。しかし、歴史とは、そうしたものを跳びこえて、なぜそんなことがおこったのか考えることで、今の自分自身の立っている地点を考える。そして、自分自身の水脈がどこから流れているか、…つまり、かつての飢えや戦争のなかで苦しんできた人びとがいるわけで、そうした人びとと現在のわたしたちが時間という流れのなかでつながっていること、それを意識することにこそ歴史を学ぶ意味があるのではないかと思われるのです。その地点から考えると、…単純な謀略史観にとらわれて歴史的事件をおもしろ可笑しく、あるいはいくつかの歴史事象をつなげて、こうなんだと断言してしまう歴史観もよくないと思います。まずは、どうしてなのかと疑問を持つ、そのうえで考える、あるいはさまざまな読書などの体験を通じて社会を見る眼を養う。歴史を学ぶとは、そうした真摯な態度を身につけることにつながるように思います」

以上は巻末での氏による「読書案内・あとがきにかえて」の文章の一部である。なるほど、情況出版から「戦後史を歩く」(1999年)といった時事的で政治的な著作を出している八柏龍紀だけあって、特に「単純な謀略史観にとらわれて歴史的事件をおもしろ可笑しく、あるいはいくつかの歴史事象をつなげて、こうなんだと断言してしまう歴史観」に対する氏の警戒心は相当に強く、ゆえに学生に推薦する「読書案内」の書籍も見事にことごとく、そういった国家主義者や復古の保守右派反動や歴史修正主義者らの単純な謀略史観(近代日本は欧米列強や中国共産党の謀略に見事はめられて戦争遂行を余儀なくされた。だから日本側には反省すべき近代史などないとする類いの歴史観)に対する、高度で時事的・政治的な対抗言説の歴史研究や思想論壇の著作群になってしまう。

例えば、テッサ・モリス=スズキ「批判的想像力のために」(2002年)、ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」(2001年)、本橋哲也「ポストコロニアリズム」(2005年)、野田正彰「戦争と罪責」(1998年)を八柏は「読書案内」書籍に挙げる。その他、時事的思想論壇的なもの以外でも中世社会史研究の網野善彦や近世思想史研究の尾藤正英を氏は、よほど気に入っているようで、特に尾藤正英に関しては、本論の論述解説にて「職(しき)の構造」に対置される、必ずしも日本史研究の場では未だ定着しているとは言い難い尾藤が提唱の「役の構造」に何度もしつこく言及しており、八柏の個人的な歴史研究嗜好が前面に出過ぎる。

私の感慨として、これから大学入試を控え日本史論述の勉強をやっているまだ10代の受験生に、そうした時事的で政治的な日本史著作を読むよう前のめりに勧めたり、自身の歴史研究の好みを前面に押し出したりするのは「とりあえずは自身の中にある知識や嗜好を総動員して、学生に対し自分が教えたいことを自由奔放に無闇に教えたがる年長者のはた迷惑な無邪気さ」であり、成熟した大人の教育者たる教師としての「禁欲」が足りない、早計で軽薄で無責任な印象が強く残る。10代の若い学生には、もっと堅実な歴史の古典の基本な名著を読むよう促すべきで、例えばテッサ・モリス=スズキの「批判的想像力のために」など、あのような左派論壇の飛び道具的(?)刺激の強い書物は無事に志望校に合格して、めでたく大学生になってから、もしくは学校を卒業して社会人になって手にして読んでも十分に間に合う。

昨今の世間一般や私の周りでは、若い時期に日本史の歴史学の古典の基本をじっくり学ぶ修練を積んでおらず、時事的・政治的な歴史解釈書や論争の思想論壇書に安易に手を出し、歴史認識に関し結局は学問的基礎が全くなっていないのに歴史論争的言辞をやたら周りに振りまく好戦的で恥ずかしい大人、現代風の俗な言い方をすれば「トンデモ歴史」語りの見るに耐えないヒドい有り様な人が多いので。若い高校生や大学受験生には、せめて学生時代には時事問題や政治的党派に左右されない基本の基礎の歴史学研究の古典(日本史概説、史学概論、比較文化論、伝記・評伝など)を腰を据(す)えて、じっくり読んでほしいと私は思う。

そうしたほろ苦い思いが去来する、若い高校生や受験生に対する適切な歴史教育の難しさを改めて痛感させられる八柏龍紀「日本史論述明快講義」読後の感想である。