アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(51)「刺青された男」

昔の角川書店は「横溝正史全集」の完全版を期して、横溝が過去に執筆した作品は、ほぼ漏(も)れなく文庫にして出していた。そこで横溝の短編群を所収した短編集も数冊、編(あ)んでいた。横溝のデビュー作を含む大正期の横溝短編集「恐ろしき四月馬鹿」(1977年)、続く戦前昭和の短編を収録した「山名耕作の不思議な生活」(1977年)、それから戦後に発表の諸短編を集めた「刺青(いれずみ)された男」(1977年)と、その続編となる戦後第二の短編集「ペルシャ猫を抱く女」(1977年)である。これら4冊の書籍がいずれも1977年初版である。当時は横溝正史の小説は出せば相当に売れる、時代はまさに「昭和の横溝ブーム」過熱の真っ只中にあったのだ。

戦時中には「探偵小説は英米の敵国の文学」とされ国家当局からの検閲が厳しく、日本的な時代物の「人形佐七捕物帳」シリーズらに執筆が制限されていたこともあり、戦後になって「さあ、これからだ。思いっきり思う存分に本格の探偵小説を書いてやろう」の横溝の創作の再出発に当たる、横溝正史「刺青された男」は1945年以降の短編を全10作収めている。
 
(以下、犯人やトリックの詳細は直接に明らかにしていませんが、本書収録短編にて使われているトリックの型や伏線に軽く触れた「ネタばれ」です。横溝の短編集「刺青された男」を未読な方は、これから新たに本書を読む楽しみがなくなりますので、ご注意ください)

本書に掲載順の時系列からして、戦後に発表の第一弾短編は「神楽太夫(かぐら・だゆう)」(1946年)になっているが、本当は戦後に最初に書かれたのは本書に七番目に掲載の「探偵小説」(1946年)の作品の方であった。敗戦後に週刊誌からの依頼を受け戦後第一弾の復帰作として「探偵小説」を書き始めたが、これが思いのほか原稿量が多くなって指定枚数内にまとめきれなかったため、急遽(きゅうきょ)枚数が少ない「神楽太夫」を書いて、それを当初の原稿依頼の先方に渡し、「探偵小説」の方は枚数が多くても掲載の我儘(わがまま)がきく、かつて自身が編集者を務めていた雑誌「新青年」に後日に回したという事情があったようである。

実質は戦後の横溝復帰作の第一弾に当たる「探偵小説」には、「さあ、これからだ。思いっきり思い存分に本格の探偵小説を書いてやろう」の論理的な本格トリック重視の、戦後の再出発にかける横溝正史の探偵小説に対する並々ならぬ意欲が満ちあふれている。事実、横溝は敗戦の当時を振り返り、以下のように述べている。

「八月十五日終戦の詔勅(しょうちょく)がくだって以来、私は意気軒昂(いきけんこう)たるものがあった。来たるべき文芸復興にそなえて、さまざまなトリックを温めはじめていた。今後探偵小説を書くばあい、できるだけ本格を書こうと決心していた私は、大小さまざまなトリックを考案しては悦(えつ)に入っていた」

「探偵小説」とは、そのまま何のヒネリもない平凡タイトルだが(笑)、中身はアリバイ・トリックの本格物で、横溝正史「探偵小説」の元ネタは、ドイルのシャーロック・ホームズ短編「ブルース・パティントン設計書」(1917年)と江戸川乱歩の「鬼」(1931年)である。それら元ネタにあるトリックを横溝が改良し、さらに上手い具合にまとめている。本作「探偵小説」は、創元推理文庫「日本探偵小説全集9・横溝正史集」(1986年)にも収録されている。このことから横溝の「探偵小説」は、探偵小説評論家や同業の作家や編集者から発表当時より、それなりの高評価な作品であったに違いない。

横溝正史のような多作の量産作家は、その時期に自身が気に入っているトリックや設定を自作にて何度も連投で使い倒すことが多い。そのため横溝の作品を連続して読んでいると「この時期の横溝さんは、こういうプロットやトリックが好きでハマって、かなり入れ込んで自作に連投しているな」と分かってしまうことがある。本書「刺青された男」の収録作品を書いていた時期の敗戦直後の横溝が気に入ってハマっていたのは「叙述トリック」で、それをどの作品にもよく使っている。

叙述トリックとは、話の内容ではなく話の語りの記述そのものに錯覚があるトリックで、「事件を記述する語り手が実は犯人」という「信頼できない語り手」と呼ばれるものだ。探偵小説における通常の語りは、三人称で公正で客観的な語り記述なため、多くの読者は、たとえ事件関係者の一人称な説明語りの記述でも警戒なく「公正で客観的」と思い込んでおり、そこであえてその裏をかいて「実は記述者の語り手が犯人で、これまでの記述は全く信頼できない叙述であった」というので、読者の驚きを最後に引き出す意外性が叙述トリックの面白さの醍醐味である。

本書の巻頭掲載となっている「神楽太夫」も当然、叙述トリックだ。厳密には「叙述トリックもどき」で、作中にて事件の概要を語る人物の意外な正体(作中の語り手が必ずしも犯人というわけではなく、その事件に関係した重要人物の内の一人であったというパターン)の暴露をラストに持ってきて読者を驚かせる趣向である。あと「神楽太夫」には「顔のない死体」のトリックも使われている。

「顔のない死体」トリックとは、顔面毀損(きそん)や首上切断などで身元判別不能な、いわゆる「顔のない死体」があって、その死体の正体は遺体の着衣や所持品から推定される通常被害者と目される人物そのままなのか、それとも事件の被害者と目される死体は実は事件の加害者として手配されている人物で、逆に殺害されたと思われている被害者が加害者であり、「顔のない死体」の被害者を装った本当の加害者は合法的に社会的抹殺の蒸発を遂げ、すでに上手いこと逃亡してしまっているのか。「顔のない死体」における被害者と加害者の入れ替わりはあるのかないのか、そのことが焦点となるトリックである。

ただし「神楽太夫」では、従来ありがちな「顔のない死体」にて「被害者と加害者の入れ替わりはあるのかないのか」以上の、さらに入り組んだ変則パターンを用いており、これは横溝の後の作品「黒猫亭事件」(1947年)での「顔のない死体」の変則のそれに一部よく似ている。おそらく戦中か戦後のかなり早い時期に、すでに横溝は「顔のない死体」トリックの様々な変則パターンを研究し考え尽くしていて、そのトリック研究の成果を今般の「神楽太夫」と後の「黒猫亭事件」に新たに書き下ろし使ったのであろうと推測される。

短編集「刺青された男」にて読むべき良作は「靨(えくぼ)」(1946年)であり、当作は世間一般にはあまり知られていない横溝の短編ではあるけれども、なかなかよく出来ている。あまり詳しく書くと「ネタばれ」になるので書けないが、本作はアリバイ・トリック(犯人が犯行時刻に殺人現場にいないことの現場不在証明のトリックが、元々のトリック構想仕掛人側のミスという、たまたまの「幸運」で成立する昔からよく使われる探偵小説にありがちな有名な定番パターンのあれ)。それに前述のような横溝正史が、この時期にハマって好んで多用していた叙述トリックもどきの作中での事件の語り手の意外な正体。それから本作タイトル「靨(えくぼ)」が読む前には唐突な印象を読み手に与えるが、本作を読み終わると「なるほど」と読者は納得させられる、タイトルの「靨(えくぼ)」が犯人の犯行動機に深く関係していることを明かすラストのオチである。以上の3点セットにて横溝正史「靨(えくぼ)」は短編ながら重厚な読み味がある。まさに秀作の良作だ。

本書に収録の作品一覧を目次で見ていると、本文庫全体の冠(かんむり)にする良タイトルの収録短編がこれ以外になかったのだろう。本書は「刺青された男」(1946年)の短編からタイトルを取って文庫本の表題としている。しかしながら、書籍全体の代表タイトルとなっている表題作の「刺味された男」は、少なくとも私には大して優れているとは思えず全くの凡作で読んで、がっかりする。そういえば「刺青された男」の短編も、作中にて過去の事件概要を語る人物の意外な正体をラストで明かす叙述トリックに類するパターンであった。横溝正史、敗戦直後は作中語り手の意外な正体の「叙述トリックもどき」を自作に連投で使い過ぎだ(笑)。