アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

東京スカパラダイスオーケストラ大百科(7)小林旭「アキラ節」(ASA-CHANG)

「東京スカパラダイスオーケストラ」は、これまで度々ゲスト・ボーカルを迎えてコラボで果敢に歌モノをやってきたが、スカパラのゲスト・ボーカルで最初にコラボしたのは誰なのだろう。椎名林檎「真夜中は純潔」か、はたまた小沢健二「しらけちまうぜ」か。いや、たぶん小林旭「ジーンときちゃうぜ」ではないか。

小林旭とコラボのライヴ盤「アキラ節」は、1曲目は普通にスカパラのインスト曲「バーニング・スケール」が入っているが、2曲目の冒頭から映画「仁義なき戦い」のテーマが流れ、いよいよ小林旭の登場だ。小林旭はスゴい。コラボといっても旭クラスになるとスカパラと対等など到底あり得ない。MCでも「ちょいとスカパラの若い奴等にアレンジをやらせて」と明らかに上から目線で(笑)、もはや「仁義なき戦い」の広島ヤクザ若頭の風格だ。旭はスカパラの面々に演奏をやらせて気持ちよく歌っている。特によいのは「自動車ショー歌」や「恋の山手線」のダジャレ歌だ。「ツーレロ節」では、よく聴くと谷中と川上あたりが「ツーツーレローレロー」と一生懸命にコーラスしている(笑)。

それにしても感心するのは小林旭の人間としての器(うつわ)の大きさ、カッコよさだ。普通「ツーレロ節」「ズンドコ節」「ダンチョネ節」のコミックな楽曲が来ても大スターなら断る。少なくとも石原裕次郎や高倉健なら断ると思う。しかし小林旭はこれを受けてしまう。しかも、そうした三枚目ソングを歌っても全然カッコ悪くならない、いや、カッコよさが変わらない「マイトガイ旭」はスゴすぎる。

小林旭は、そういう懐(ふところ)の深さと器の大きさが魅力な人だと思う。かくして私も酔っ払ったときには「自動車ショー歌」を口ずさみながら暗い夜道を独り帰ったりするのだが、この「自動車ショー歌」は歌詞が圧巻である。「ベンツ(ベンチ)にグロリア寝ころんで~ベレット(デレッと)するなよ、ヒルマン(昼間)から~それでは試験にクライスラー(暗い)~鐘がなるなるリンカーンと~ワーゲン(若い)うちだよ、色恋を~忘れて勉強セドリック~」。歌詞が全部、車名のダジャレになっている(笑)。昔の人は詞をひとつ作るにしても実に面白いことを考える。

ASA-CHANGさんのことなど。パーカッション担当。この人がスカパラのバンマス(バンド・マスターのリーダー)であり、バンドの発起人で「東京スカパラダイスオーケストラ」の名付け親だ。ASA-CHANGとクリーンヘッド・ギムラのことを思い起こすと「初期のスカパラだな」と、いつも私は思う。

スカパラ参加以前に冷牟田竜之が唯一プロ・ミュージシャンの経験があったのと同様、ASA-CHANGもヘアメイクで業界内で活動していたから、特に冷牟田とASA-CHANGの二人は「スカパラを客にどう見せて、どう売り出していくか」かなり綿密に事前に考えていたと思う。あとはライヴ・ステージ上でのASA-CHANGの「三枚目の面白ぶり」が印象深く、昔のライヴではスカパラ・スーツにシルクハットをかぶり、そのシルクハットと同柄の、高校野球の甲子園のアルプス席で応援団が使うような見た目わかりやすいデカい太鼓かついでステージ前に来たり、陽気ににこやかにマラカスを鳴らしたり、ここぞというときに派手にシンバルを叩いたりしていた(笑)。

しかし、そんな三枚目で陽気なASA-CHANGも、なぜか途中から鬱(うつ)に入って「スカパラ脱退します」「もうスカパラ解散しましょう」になってしまう。最初は「スカパラ脱退します」で、「そんなこと言わずに一緒にやろう、頑張ろう」とメンバーが説得して励ましていたらしいけれど、「スカパラ脱退してヘア・メイクの事務所も辞めて、収入源一切なくしたところからもう一度始めたい。事務所との契約切って今日、代々木公園行って売れるもん全部売ってきたよ」。それで川上つよしとか最後は止めるのが面倒くさくなって、「あーもう辞めるなら勝手に辞めろ、俺たちはスカパラを続けるから」。日比谷野音でのクリーンヘッド・ギムラの追悼ライヴもASA-CHANGは来なくて、会場前の路上でゲリラ・ライヴをやってすぐに帰ってしまう。当時スカパラのメンバーは、「せっかく近くにまで来たんだからステージ上がって一緒に追悼ライヴ参加すりゃいいのに」と言っていたけれど。脱退直後にはスカパラ本体とASA-CHANGとの間にわだかまりというか、そういう摩擦が少なからずあったと思う。後に解消されて互いに良好な関係に戻っているとは思うが。

結局、ASA-CHANGは王道や正統やメジャーではなくて、裏方のスーパーサブで身軽に少しハズれたことをアイデア満点にスカして狙ってやるセンスの良さが持ち味な人だったと思う。しかし、スカパラが活動を重ねメジャーになって人気が出て、バンド結成時の最初の目標だった「武道館ワンマン・ライヴ」も案外、短期間であっさり目標クリアしてしまって、バンドが売れ出して束縛される重苦しさを感じ始めていたのかも。スカパラのバンド・コンセプトたる「オーケストラ形式で、皆が揃(そろ)いのモッズ・スーツでキメて、当時はまだマイナーだったスカというジャンルの音楽を多人数でやる」を考えてメンバーを集めたのも、「東京スカパラダイスオーケストラ」という名前を考えたのも、もともとASA-CHANGだし。だからASA-CHANG在籍時の初期のスカパラは、場末のキャバレー専属バンドのような「いなたい感じ」の怪しい雰囲気が満載で、今のようにさわやかではない怪しさ満点の昔の初期のスカパラの方が私は好きなのだけれど。

ASA-CHANGは、そういった傍流でマイナー志向で身軽に自在にやることが根っから好きだった人のような気がする。だいいちバンド内でも前にグイグイ出るホーン・セクションや音の要(かなめ)のベースやドラムのリズム隊ではなくて、味があってクセのあるサブで自由で変な音を出す(笑)、パーカッション担当だったし。またバンド・マスターの「バンマス」でリーダーだったけれど、「先頭に立って責任を持ってバンドを引っ張っていく」という感じでは正直なかった。あくまでもチームや組織に束縛されたくない自由人タイプだった。だから、一時期ASA-CHANGがものスゴく太って「別人か!」と顔つきが変わるくらいの時があって、「彼なりに色々あって精神的に苦しかったんだろうな」と当時スカパラを追いかけていた私は率直に思った。

他方、そんなASA-CHANGに抜けられたスカパラ本体も彼の脱退当初、実は相当なダメージだった。バンドの発起人でバンマスのリーダーだったASA-CHANGが、なぜか率先して真っ先にスカパラを辞めて「リーダーが突然に辞めてしまって、だからスカパラってリーダー不在の不思議なバンドなんです」といったことを今でこそメンバーは冗談めかして軽く発言したりしているけれど、その当時のアルバム「パイオニアーズ」発表直後の公式の雑誌インタビューでは、「最近ほとんどライヴもやってないしスカパラこの先、どうなるんですかね。世間的には解散すると思われてるのかな」としたメンバーの弱気発言も実際にあった。「公式の雑誌インタビュー」といっても当時、スカパラが毎月連載をもっていた音楽雑誌「ロッキング・オン・ジャパン」誌上でのインタビューで、スカパラの面々はロッキング・オンの編集者と懇意だったから、そんなにシリアスではなく身内の冗談の与太話みたいな軽い感じではあったけれど。

ASA-CHANGの曲では「ウーハンの女」や「ワールド・フェイマス」が好きだ。初期ライヴにてASA-CHANGがよくやっていた例の定番口上、「東京スカパラダイスオーケストラ魅惑のリズム」のスカとマンボを合わせて「スカンボ」も新奇なアイディア満載で私は好みだ。やはり、この人の作曲はスローで昭和歌謡の味が入った変則的な「東京スカ」であり、わざと狙ってハズしてスカした感じが、いかにもASA-CHANGらしい。あとライヴにて、いつも「ホール・イン・ワン」の最初の決めせりふの前でゴルフボールが飛んでいく「ピュー」っていう擬音の笛を吹いていたASA-CHANGの姿、はたまた「スキャラバン」の最後の一番いいところで毎回、ステージ前に出てきて派手にシンバルをガシャーンと鳴らして一人目立って、おいしい所を持っていく陽気なASA-CHANGの姿を今でも私は懐かしく思い出す。