アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

YMO伝説(6)「アフター・サーヴィス」

中期の傑作「BGM」と「テクノデリック」の2枚のアルバム出した後、「YMO」の音楽キャリアは一度途切れて活動休止になり、メンバー各自がソロ活動をやって、その後またYMO本体が復活して「浮気なぼくら」の歌謡曲路線や歌入りコントありのアルバム「サーヴィス」と、解散コンサート(正確には「散開」)のライヴ・アルバム「アフター・サーヴィス」を発表し、第一期のYMOは終わりを告げる。正直、私の感慨として「アルバム『浮気なぼくら』と『サーヴィス』の歌モノ路線は余計だった。『BGM』と『テクノデリック』作った後に即攻で電撃解散していたらYMOは今よりも、もっとレジェンド(伝説)なバンドになったろうな」とは思う。

YMOの御三方、細野晴臣も坂本龍一も高橋幸宏も各氏、常識ある大人な方なので、「YMOで出来ること、やることは全てやったから無責任に後先考えずに即解散」とは簡単にいかないわけだ。終わり近くのYMOは一般にかなりの人気で相当なメディア露出もあって、本業の音楽活動のアルファ・レコード以外にも、広告の電通や博報堂とか、放送のNHKやフジテレビとか、雑誌の学研や宝島出版など、業界各社がYMOプロジェクトに深く関わっていたのでハード・ランディングで電撃的に突然に辞めるわけにはいかない。ゆっくりソフト・ランディングで、大きくなりすぎたYMOプロジェクトを時間かけて徐々に終息させていくしかない。アルバム「BGM」や「テクノデリック」のテクノで前衛でトガったラディカルな音を出すYMOが好きだった当時の私は、「浮気なぼくら」でシングルの「君に胸キュン」とか「今さら歌謡曲とか何やってるの、ちょっとフザケ過ぎ」と正直思ったし、コントありのラストのオリジナル・アルバム「サーヴィス」も、「以前のスネークマン・ショーと同じようなギャグの内輪ノリで何だかつまらんな」と感じていた。即攻でYMOを辞められなくて身動きが取れず、「心ここにあらず」で迷いながらダラダラ続けている感じがあった。

さて、最後の方のYMOは「サーヴィス」や「アフター・サーヴィス」でやたら「サーヴィス連発」しているが、なぜこのように「サーヴィス過剰」になってしまうのかというと、当時の坂本龍一いわく、

「マインド・サーカスって僕は言ってるんですけど、僕たちはいわゆる芸人なの、マインド・サーカスの。そこでレコーディングやったり、歌うたったりして曲芸を見せればお客さんも喜んでくれる。…多分、空中ブランコの曲芸を観に行く人たちの感覚の中には、『ひょっとすると落っこちるんじゃないのかな』って大前提があると思うんですよね。その大前提を持って、キャー危ないハラハラハラ、あー終わった落っこちなかった面白かった、といって刺激を充分に受け、満足して帰っていくんじゃないかな。僕たちにとって、それはすごく過激なことなんですよね。そういうサーヴィス、きわどいところでのバランス感覚としてのサーヴィスが、サーヴィス精神を持つことも含んで、ものすごく過激なんだよ。今一番過激なのは、サーヴィスをしている事なんじゃないかな。血や暴力から完全に遠ざかったところでさ。お客さんに対して、自分なりの過激なサーヴィスをしてるんですよね」

1980年代当時、東京ではない地方都市に住んでいた学生だった私にとってYMOに関する情報収集源は、NHKのFM「サウンド・ストリート」坂本龍一が担当の火曜日と雑誌「宝島」の記事くらいだったが、終わりの方のYMOは「過激なサーヴィス」に関連づけてサーカスの空中ブランコ乗りの話を「宝島」のインタビューで熱心に繰り返しよくしていた。もともと芸能タレントで有名になりたくてYMOをやっていたわけではないのに、YMOで普通に音楽活動をやっていたら当初の予想と違って思いの他ミーハーな方向でYMOが売れて、世間の注目を浴びて皆からチヤホヤされるようになる。面が割れ顔が知られて普通に街中を歩いていても、皆に気付かれ追いかけられてサインや握手を求められる。自分のプライベートが無くなる、心が休まる暇がない、いつも自分をオープンにしてさらけ出して、自身をマスに捧げる「過激なサーヴィス」を絶えず強要され続ける。それが常に落下の危険性を匂わせ(「ひょっとすると落っこちるんじゃないのかな」)、自身の命の危険も何もかも全てを捧げ曲芸を見せて、お客さんに迎合・奉仕する「過激なサーヴィス」を強いられているサーカスの空中ブランコ乗りの姿と見事に重なる。

「YMOのメンバー、精神的に限界近くまで来ているな」と率直に私は思った。細野、高橋両氏と違い、YMOに参加するまで公的なバンド活動をしたことなかった坂本龍一は特にYMOで急に有名人になって、この「過激なサービス」強要に対し、精神的にダメージを受けて一時期神経症的に病(や)んでいたらしい。だから、またまた坂本龍一、当時のことを振り返っていわく、

「僕には有名になることへの反発というか、有名になりたくてYMOをやったわけじゃないし。先進的で面白いことをやりたかったから、YMOに参加したわけで。当時、六本木に住んでたんですけど、マンションを出て歩いてたら、中学生や高校生が『あ、YMOだ』って言ってるわけ。…本当に辛くて、それが嫌でね。10ヵ月くらい、自分のマンションから出ないくらいの葛藤があったんです」

だが、よくよく考えたらこの手の「過激なサーヴィス」強要の問題は実は初期YMOの頃から連続して一貫してあった。例えば「パブリック・プレッシャー」である。「パブリック・プレッシャー」といえば、言わずと知れた初期YMOのワールドツアーのライヴ・アルバムのタイトルだが、このタイトルに込められた真意に関し細野によると、「タイトルを自嘲気味に『パブリック・プレッシャー(公的抑圧)』と付けてますけど『ライディーン』のヒットというのが、僕たちにとって予想外だったんです。実はパブリックっていうよりは、アルファ・プレッシャーというか(笑)。…『ライディーン』が売れたから、次も『ライディーン』だろうという、当時そういうプレッシャーの渦の中にいたんですね」。

思えば、YMOというバンドは「YMOとして自分たちがやりたいこと・やりたくないこと」と「周囲の人達がYMOにやらせたいこと」との乖離(かいり)が常にあって、非常に気の毒な感じがしていた。そして、その乖離に細野も坂本も高橋も各氏いつも傷ついて悩んで内向しているような。三人とも才能あふれる天才だから常に自信に満ちあふれた傍若無人なタイプかと思いきや案外、見かけによらずナイーヴで傷つきやすい繊細な人達だった。ライヴ盤の「パブリック・プレッシャー」を出した頃には、すでにYMOは次の新しいステージに進みたくて、「BGM」のような非商業的で地味だけれど実験的でラディカルな音楽をやりたいと思っていた。確実にレコードの売り上げは落ちるし、人気も下がるだろうけれど、次のアルバムがかつての「ライディーン」や「テクノポリス」のような明るい分かりやすい楽曲が好きな「以前のYMOファンの壮大な切り離し作業」となることもある程度、覚悟して。 ところが、細野が言うように所属のアルファ・レコードから「『ライディーン』が売れたから、次も『ライディーン』だろう」という無言の「プレッシャー」、すなわち「アルファ・プレッシャー」が(笑)。同様にファンの人達からも「当然、次も『ライディーン』みたいな曲で」という強力な「パブリック・プレッシャー」、まさに世間一般からの「公的抑圧」が波のように押し寄せる。

最後の方のYMO解散の事情も同様で、細野談によると「『BGM』と『テクノデリック』を作ってウィンター・ライヴが終わったあたりで、ある種の達成感があって、その頃、僕が最初にYMOを辞めるって言い出したんです。ところが止められたんですね、当時のマネージャーに。率直に言ってYMOが売れたことで利権が発生してビジネスサイドの思惑が残ってましたから。だから、その時は解散じゃなくて活動休止で手を打って、とりあえずYMOは延命したんです」。

それから当人達以外の周囲の思惑で辞めたいけれど辞められなくて身動きが取れず、「心ここにあらず」で迷いながらダラダラな感じでYMOを続けて、ラストのオリジナル・アルバム「サーヴィス」を作るまでに行く。その「サーヴィス」に関しても、後日に振り返って高橋幸宏は「あれは惰性」とキッパリ言っている。すなわち、

「あのアルバムは『サーヴィス』って言ってるくらいだから、惰性ですよね、半分は。だいたいロックバンドの宿命って終わるときっていうのは、ああいう感じになって終わるんです、だいたい最後のアルバムは。…ビートルズですら最後のほうのアルバムはレコード会社主導で、アーティスト本位ではなかったですから」

音楽的に「BGM」と「テクノデリック」でやりたいことをやり尽くし「ある種の達成感」があって、もう辞めたいと思っていたけれど、「利権が発生してビジネスサイドの思惑が残って」、周囲の求めに応じて仕方なく解散せずに「半分は惰性」でYMOを続けていた。しかも、YMOで売れて世間一般に顔を知られ、はからずも芸能タレントのような有名人になってしまって街中で「あ、YMOだ」と指差されたりする。それら全てを含めたYMOをやり続ける限りにおいて自分たちに付いてくるマスに奉仕の不本意をメンバーは「過激なサーヴィス」と呼んで、常に落下の危険性を匂わせ、自身の命の危険も何もかも全てを捧げて曲芸を見せてお客さんに迎合・奉仕するサーカスの空中ブランコ乗りの姿に自分らを重ね合わせていた。だから最後の方のアルバムは、本心はやりたくないのに周りの要求に応えて奉仕して半分は惰性でやっているから「サーヴィス」や「アフター・サーヴィス」の、やたら「サーヴィス連発」の「サーヴィス過剰」になる。しかも本当は「過激なサーヴィス」「過激なアフター・サーヴィス」なのに、わざと「過激な」を省略して相当に強烈な皮肉を込めてメンバーは「サーヴィス」や「アフター・サーヴィス」のアルバム・タイトルにする。

だが、そうしたシリアスなYMO側の事情は無視して、ビジネス利権の業界関係者はYMOを解散せずに続けてくれて内心ホッとしているし、ファンの皆さんも「再びYMOの新譜が聴ける」で無邪気に喜んで無自覚に「過激なサーヴィス」をYMOに要求し続ける、「サーヴィス」や「アフター・サーヴィス」のタイトルに秘められたメンバーの悲壮、皮肉の本意も知らず気づかずに。また坂本龍一が言うように、この手の「過激なサービス」は「血や暴力から完全に遠ざかったころで」まさに見た目はソフトに穏(おだ)やかに、しかし内実は非常にエグく残酷に無言の強制の抑圧(プレッシャー)でYMOのメンバー各氏に襲いかかるわけで相当にヤバい状況だ。

結局、YMOの皆さん個性が強くてアクがあって強烈で、いくら個性を隠してもどうしても目立ってしまうから(笑)。最初のYMOの構想は「匿名の謎の芸術家集団」のような、元々メンバーも細野・坂本・高橋の3人に限定しないで自由なプロジェクトでやるつもりだった。だから、最初に細野晴臣は横尾忠則をメンバーに入れようと思って「演奏しない作詞家の第4のメンバーとしてYMOに参加して下さい」「とりあえずYMO結成の記者会見をやりますから来て下さい」と横尾に伝えたけれど、当日たまたま横尾忠則が来なかった。それで自然とYMOは細野・坂本・高橋の固定メンバーになってしまった。やはり2枚目の「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」のアルバム・ジャケットに3人の写真が載ったことが大きかったと思う。あれで「YMOは細野と坂本と高橋」と世間一般に強く印象づけられたから。しかし今改めて考えてみると、初期に歌詞を提供していたクリス・モズデル(Chris・Mosdell)も、機材関係の裏方をやっていた松武秀樹も「YMO第4のメンバー」といわれれば確かにそうだと思うけれど、なぜか異常に目立って本人達の希望とは裏腹に不本意ながら知らず知らずのうちに人気者になってしまう、あまりにも自我の個性が強烈すぎる細野と坂本と高橋の三人トリオである。

初期のYMOは北京交響楽団が元ネタの共産圏の均質な人民で(だから中国の人民服を着ていたりするわけだ)、「交響楽団のいかにも整然とした均質な顔つきで匿名の没個性で汗をかかずクールに黙々とシンセサイザーで演奏する」というコンセプトから始まったはずだった。しかし、解散間際のYMOは隠しても隠しきれない程に異常にメンバー各自のキャラクターが表ににじみ出て、ナチス親衛隊の宣伝省の役人のような若者を熱狂させて引きずりこんで思想煽動するカリスマ将校の風貌に、いつの間にかなっていて笑える。しかも、散開コンサートを収めた映像作品のタイトルが「プロパガンダ」=政治的煽動で、そのまんま(笑)。細野も坂本も高橋も3人ともキャラクターが濃すぎるがゆえに、初期の共産圏の赤い人民服を着ていた匿名左翼が、最後はナチの軍服に身を包んだファシストのカリスマ右翼に「転向」してしまうというシャレにならない悪夢だ。

さて、ライヴ盤の「アフター・サーヴィス」は、最初の方の「東風」や「ビハインド・ザ・マスク」の坂本曲がよいと思う。その他にも「音楽」など、「アフター・サーヴィス」は坂本曲の出来のよさが私には強く印象に残る。初期のライヴ盤「パブリック・プレッシャー」と比べると、最後の「アフター・サーヴィス」はライヴの機材や音響技術が格段に進歩していて安心して聴ける。もっとも「アフター・サーヴィス」のライヴは事前録音のテープを流して当日メンバーは、ほとんど演奏していないが。

最後の方のYMOは歌モノが多くてYMOで声を出して歌う人は主に高橋幸宏だったので、「後期YMOの中心は高橋さん」という感じが私はする。後に坂本龍一による「YMOを解散させたくなくて、YMOに一番未練があったのは幸宏だったと思う。彼は解散直前のギリギリまでバンド継続のためのアイディアを出して努力を重ねていた」旨の発言もあった。ただ高橋幸宏に関しては、彼のあの独特のねちっこい粘着質な歌い方が好きかどうかで、いわゆる「高橋幸宏評価」は人によって別れる所だとは思う。高橋幸宏はピーター・バラカン(Peter・Barakan)に会うと、「相変わらずねちねち歌ってる?」といつも聞かれるらしい(笑)。私は高橋幸宏のねちっこい歌い方が正直苦手なのだが、しかしそれでも好きなのは高橋ソロのアルバム「音楽殺人」あたりだ。

高橋幸宏に関しては、むしろ彼がやる音楽よりも高橋の人柄や人間性そのものが私は好きだ。YMOでも我(エゴ)の強い細野晴臣と坂本龍一の間に入って(笑)、二人を調停する高橋幸宏の人当たりのよさや、後輩ミュージシャンへの思いやり、面倒見のよさ。例えば「東京スカパラダイスオーケストラ」の元ドラマー青木達之と高橋幸宏の「ニュー・ウェーヴ系ドラマーの師弟愛」、高橋幸宏と青木達之の二人のドラマーのコンビが私は昔から大好きだった。

高橋幸宏、あの人は裕福でハイソな家庭生まれの方で日本人にしては珍しいくらいのヨーロッパ志向、本当に洗練されたロマンチックでお洒落な人だから。「生まれもっての高貴さ、洗練された感じ、ナイーヴな繊細さを兼ね備えた人が日本にもいるのだな」と高橋幸宏を見ていると、いつもつくづく思う。そういったわけで最後に高橋幸宏に関しては、彼が主演で大林宣彦が監督をやった日本映画にして希(まれ)に見る大人のロマンチック・コメディ「四月の魚」を私はYMOファンの方々に強くお薦めしたい。