アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

YMO伝説(7)「テクノドン」

今にして思えば、1990年代は現在のようにインターネット環境が整備されていなくてネット通販やダウンロード音源販売もなく、皆が街の輸入盤屋でCDやレコードを普通に購入していたし週末はクラブに行って、ゆえに90年代はCDやレコードが異常に売れてクラブでDJが回すテクノのダンス・ミュージックも絶好調だった。そんなテクノ隆盛の時代状況を背景に1990年代に、いよいよ「YMO」が再結成する。すなわち「再生」YMOの新アルバム「テクノドン」である。このYMO再結成を受けて当時は、まるでお祭りのような騒ぎで新聞一面を使った「私は反対でした。矢野顕子」のコピー広告があった(笑)。

アルバム「テクノドン」は皆さんよく言われるように収録曲が全体に地味だが、私はトータルでアルバムそのものが好きだ。とにかくアナログ・シンセの音色が良くて無防備に油断して聴いていると、アナログ・シンセの音色の良さに自然と身体が反応してしまう瞬間が多々ある。曲としては「ビー・ア・スーパーマン」と「OK」が特に好きだ。

坂本龍一が呼んだ、いわゆる「坂本人脈」なのだろうけれど、「ニューロマンサー」のウィリアム・ギブソン(William・Gibson)と「裸のランチ」のウィリアム・バロウズ(William・Burroughs) を連れてきて朗読させたり作詞させたりでYMOのアルバムに参加させるアイデアに正直シビれた。1990年代、私はハヤカワのSF文庫を愛読していてサイバーパンクの「ニューロマンサー」が大好きだったから。あと巽孝之のSF評論も。YMOが好きな方は普通にSF好きの素養があるというか、例えば80年代SFの名作映画「ブレードランナー」はYMOファンな方なら絶対に好きなはずだ。坂本龍一の傑作アルバム「未来派野郎」の1曲目で「ブレードランナー」のデッカードとレイチェルの劇中会話を坂本がサンプリングしていて、1980年代これまた私はシビれていた。

さて「再生」YMOの「テクノドン」に関してはその制作過程で、もはやYMO名物(笑)、アルバム「BGM」以来の坂本龍一と細野晴臣とのバンド内対立・遺恨のバトルがまたまた勃発する。「テクノドン」における坂本と細野の対立抗争の全貌については、おそらくは以下のようなことである。

「再生」YMOの以前に坂本龍一は東京からニューヨークに拠点を移して音楽活動をしていた。なぜかといえば、坂本龍一には当時から世界進出の念願があって(だからニューヨークに住んでいる)、確かに坂本は「ラストエンペラー」の映画音楽でアカデミー賞を獲って「世界のサカモト」と呼ばれてはいたが、実は海外での実績はイマイチだった。例えば、ビル・ラズウェル(Bill・Laswell)と一緒にやったアルバム「NEO・GEO」や、アカデミーの作曲賞を受賞したサントラ「ラストエンペラー」は世界発売していたけれども、セールス的に伸び悩み、また海外での単発ライヴは出来たけれど、長期で各国をまわるワールドツアーは実現できず、国内人気はともかく海外進出に関しては数回トライしたが結果を出せず、坂本龍一は連戦連敗の敗北続きで負けが混んでいた。そうした状況の中、出てきた何度目かの毎度のYMOの再結成話で今度は本当に実現するらしい。そこで坂本は「三度目の正直」くらいの再々チャレンジの「背水の陣」で再結成のYMOに乗っかって、つまりはかつての自身のキャリアであるYMOのネーム・バリューを再利用する、なりふり構わずの執念を見せて世界のマーケットに再度殴り込みをかけて再び勝負に出る。だから「再生」YMOは、坂本龍一がいるニューヨークに細野晴臣と高橋幸宏をわざわざ呼び寄せて坂本中心の坂本主導のプロジェクトになるわけである。

それで坂本以外のYMOメンバーの細野と高橋、特に細野晴臣には「再生」YMO以前に坂本みたいに世界進出をやろうとして、いずれも失敗して挫折の焦燥や今度こそ世界規模で売れる悲願など元々ないから。再結成YMOでアルバム「テクノドン」制作のためにニューヨークに行って、念願の世界進出のリベンジに燃えて異常にギラギラしている坂本に思いもかけず細野は再会するわけだ。そして案の定、世界のマーケットを強烈に意識して異様にギラギラした坂本龍一と、そんな再結成YMOを世界的に売り出す意識がもともと希薄な細野晴臣との間の精神的落差の温度差が激しくて結局、アルバム「BGM」以来の例の坂本と細野とのバンド内対立・遺恨のバトル再勃発となる。だから「再生」YMOの「テクノドン」制作時を後に振り返って坂本は機材の使い方一つにしても細野に対し、もうボロクソである。

「僕がニューヨークにいて、細野さんはドイツのテクノが基準になっていて、その擦り合わせがあまりうまくいかなかったと思いますね。…僕はけっこう言ったんです、フランクに。例えば細かい話、テクノとかハウスの様式だったら、あの91、92年っていう時点だと、絶対にヤオヤ(TRー808)は使わないんです。ヤオヤを使ったらR&Rになっちゃうから。でも、平気で使うんですよ、ヤオヤを。ちょうどニューヨークに引っ越してきて2、3年のころでね。誰に聞かせるのか、どこで聞かせるのかって、マーケットの対象が、ニューヨークだとハッキリ見えるわけですよ。ハウスとかテクノっていうのも極端な話、例えばBPMをちょっとずらすだけで、別の名前が付くような音楽ですから。それをマーケットにいる普通の人々は、普通に聞いてわかるわけだから。…テクノ、ハウス、ドラムンベースもそうですけど、雰囲気じゃないんです。コンガひとつとっても、このパターンだったら黒人マーケット、このパターンならプエルトリカンってマーケットがハッキリ決まっちゃうわけですから。…本当にニューヨークのクラブシーンで売ろうと思ったら、そういうことが必要なわけでしょ。そういう思考回路は、なかった感じでしたね」

「再生」YMOの前に細野は「メディスン・コンピレーション」というアンビエント・テクノのアルバムを作っていて、「ニューヨークのクラブシーンでウケるかどうか」とは関係なく、それとは全く無縁な所で、再結成YMOの「テクノドン」にアンビエントの新しい要素を持ち込みたい意識でやっていた。細野晴臣の「メディスン・コンピレーション」は、アンビエント・テクノの良作だとは確かに思う。囁(ささや)くような過剰な静寂の、いかにも細野らしい本当に細野が好きそうなテクノだ(笑)。ただ、あれがアメリカのマーケットで世界規模で売れるかといえば果てしなく危うくて、まさに「ドイツのテクノが基準になって」いてヨーロッパのマニアな玄人筋をうならせるテクノだと私は思う。ゆえに「本当にニューヨークのクラブシーンで売ろうと思ったら」の坂本から、「細野さんが『テクノドン』用に上げてくる楽曲はアメリカのマーケットに乗せる商品テクノとして、ちょっと地味で病的過ぎやしませんか」といった細野に対する「忠告」も出てくる。

「実は、僕が『OK』のオケを作ってたときなんですが、教授からコミュニケーションがあったんですね。そのオケに関して忠告を受けたんです。…病的過ぎないかと言われました。ちょっと健全さに欠けるみたいなことを言われまして。教授は健康になっちゃったからね、ニューヨークで」

ところでYMOの三人で「細野と高橋」「高橋と坂本」の場合は摩擦が少なく比較的関係が安定しているのに、「細野と坂本」の組み合わせの時だけ、アルバム「BGM」や「テクノドン」制作時におけるような対立抗争が際立ってしまうのはなぜなのか。確かに対立の表層は「レコーディングの方法論をめぐって」とか「ここでヤオヤの機材を使うかどうか」のような音楽的な枝葉末節な事柄だが、よくよく掘り下げて考えてみると、二人の対立の根本には「細野晴臣と坂本龍一の人間的資質の相違」の問題があると私は思う。

昔から何となくYMOを見てきて私が気になるのは、坂本が細野の「オカルト好き」に嫌悪を露(あらわ)にする発言をいつの時代でも一貫してかなりの頻度で繰り返していたことである。「そこでまた細野さんのオカルト好きの、例の悪い癖が出てきちゃうんです」のような。例えば中期YMOの「ウィンター・ライヴ」に関し、「あの時は細野さんが奥村靫正(ゆきまさ)さんを連れてきて、美術セットを組んで火の玉を飛ばそうとか、またまたオカルトなことを言い出して、もう勝手にしろ」云々というような。なるほど、坂本龍一という人は政治や現代思想や環境問題への嗜好に示されるように、ある意味、合理的で可視的なものに信頼を置く方で、かたや細野晴臣というのは宗教や精神世界のスピリチュアルや宇宙など、安易に合理の理では割り切れない目には見えない精神の深みに傾倒してハマる人だ。近年でも細野は往時のYMOを振り返り、当時ドイツにいたYMOのファンがアルバム「BGM」を繰り返し聴いていたら精神的に病(や)んで、ついには精神病院に入院したとか、YMOを辞める間際に一部のファン有志らの間でYMOを宗教法人として登録しようとする動きがあったエピソードを、細野本人はよほど嬉しかったのか何度も重複して話す。細野にとってYMOが精神世界のスピリチュアルや宗教の文脈にて聴かれ扱われるのは、坂本とは対照的に最高であり感激の絶頂であったに違いない。

そんな細野晴臣、彼は「テクノドン」制作のためニューヨークへ行って現地で改めてYMOで付き合いが長いはずの坂本龍一と自らとの人間的資質の相違に今更ながらに気付き、「お互い人間的に異質であること」を痛感する。

「ニューヨークで3人で話したとき、『怖いものは何だ?』という話になったんですよ。例えば『怖い映画は何だろう』と僕が教授に尋ねたら、彼はいちばん怖いのは『エルム街の悪夢』だと言うんです。僕はそのとき、笑ってしまったんです。あれを本当に怖がるのは子供なんじゃないかと。よく言えばイノセントというか。無垢な教授のそういうところをそのとき垣間見て、やっぱりこの人は脅かしてはいけないと思いましたね」

細野からすれば「坂本君、いちばん怖い映画が『エルム街の悪夢』だなんて。あんな可視的で平板なアメリカン・コミック・ホラー的なものを怖いだなんて、あまりにも子供でイノセント(無垢)すぎるだろ!例えば、表面上は平和で穏(おだ)やかなのに、その裏に隠された人間の底知れない不健全さに満ちた悪意だとか(ちなみにこの時、細野が『怖い映画』として挙げたのは、描写は明るいが内容は不条理で病的な『ペアレンツ』という日本未公開の作品である)、目には見えない精神的な深みにハマる恐怖だとか思い至らないのか。やっぱり、教授と自分とは人間が違うんだな」。この時、おそらくは細野晴臣はそういったことを心底思い知らされたはずだ。

とにかく坂本龍一という人は音楽的には才能にあふれ、「B-2ユニット」や「音楽図鑑」や「戦場のメリークリスマス」や「未来派野郎」など特に1980年代の坂本龍一は作る音楽、出すアルバムが悉(ことごと)く全て名盤の傑作連発で神がかっていて正直、恐ろしい程であるが、しかしこの人は音楽以外の所では実に野蛮で人格的に破綻した最悪な男なのである(笑)。アルバム「BGM」制作時には坂本と細野の不和が決定的になり、坂本は細野となるべく顔を合わせないよう別々にスタジオ入りしていた。だが、たまたま運悪く(?)、細野と同席となり細野がスタジオに入ってくると坂本は近くにある椅子や机を手当たり次第、片っ端から蹴り倒す。周りのスタッフの空気は一瞬にして凍りつく。坂本龍一はアルファ・スタジオにて反抗期の中学生が親に対してやるような家庭内暴力的愚行に走る。それでも大人な細野晴臣は、そんな坂本の挑発には乗らずに黙認無視して、表面上は何事もなかったかのように穏やかに振る舞う。1980年代の坂本との不仲を後に細野が振り返って言うには、「だって教授の方から突っかかって来るんだもん」。

「テクノドン」の「再生」YMOの際の坂本による細野に対する仕打ちも結構ヒドい。1990年代の「再生」YMO以前にも、それまで何度となく再結成の話はあったが最後に細野が了承しなくて、いつも話は流れていた。それで今度は「再結成のYMOの仕切りは細野さんで。単独プロデュースで是非とも細野さんにお願いしたい」旨の進言が再結成をやり遂げたい坂本と他スタッフらからあって、前述のように「メディスン・コンピレーション」を作って「YMOにアンビエント・テクノの要素を新たに取り入れたい。そうした模索の可能性があるならYMOの再結成もあり」と考えて、細野が「再生」YMOを了承してニューヨークに行く。そうしたら「今度の再生YMOは細野の仕切りで単独プロデュース」のプランが外されて、いつの間にかメンバー3人の共同プロデュースに話が変わっていた。しかも新アルバム制作の実質の主導権は細野晴臣と高橋幸宏をニューヨークに呼び寄せた坂本龍一であった。そして、もともと「再生YMOにアンビエントの過剰静寂な新要素を取り入れてYMOの新たな可能性を極めたい」としていた細野に対し、これまた前述のような細野の制作楽曲に関して「病的過ぎないか、ちょっと健全さに欠ける」という例の坂本による「忠告」の過酷な仕打ちである。

この辺りの一連の事情について、「最初に単独プロデュースの形で僕に再生YMOを任せる案は明らかに僕を再結成に引きずり込むための政略で、ニューヨークに行ったら現地でハシゴを外されて後戻りも出来ず、見事にしてヤラれた。そうした政治的な不穏なものが90年代の最初の再結成時にはYMO周辺に確かにあった」旨を後に細野は、今では許して静かに語っている。

細野晴臣の経歴を見ても、これまで接してきた仲間や後輩らは松本隆や大瀧詠一ら、松任谷由実や矢野顕子や高橋幸宏など人間的に穏やかで人格的にも出来た人が多かったのに、細野もYMOの結成で坂本龍一のような今までにない新タイプの野卑で野蛮なタチの悪い男に引っ掛かって(笑)、それ以後、一緒に長く共同で仕事をするようになるので端から見て細野晴臣はとても気の毒な感じが正直、私はする。しかしながら、近年の坂本龍一は以前とは違って、細野晴臣と二人きりの対談やラジオの時でも非常に気を使って細やかに礼の限りを尽くすし、細野を尊敬している旨をよく語ったりする。坂本は細野と高橋同席の3人のインタビューや座談にてYMO時代の自身を振り返り、「あの頃のワガママな自分を殴ってやりたい」と昔の自分に今では反省しきりで、それを聞いた高橋が「坂本君も大人になったね。ねぇ細野さん」と、にこやかに細野に振って細野も笑顔で返したりするのだけれど、細野は目が笑っていない。細野の目は坂本を絶対に許していない(笑)。細野晴臣は本心から坂本龍一に、いまだ心を開いていない(と私は思う)。

ただYMOは「細野が年の離れた相当に老成した落ち着いた長兄で、高橋が兄の細野と弟の坂本の間に入って、いつも二人にオロオロと気遣う気弱な次兄で、坂本は常に自由奔放でやりたい放題の、やんちゃな末弟」だから(笑)。長兄の細野は余裕を持って年の離れた末弟の坂本に接することができるし、例えば先のニューヨークでの「怖い映画は何だろう」トピックの回答に関しても、細野は坂本に対し「子供でイノセント(無垢)だなぁ」で笑って済ませられる。また末弟の坂本も意外に(?)常識的で、長兄の細野との間に摩擦があっても修復不可能な決定的な亀裂になる以前に自分から上手いこと衝突回避したりするから、例えば殴り合いで掴(つか)み合いのケンカや、絶縁してもう一生口をきかないなどの破滅的領域の水域突入には絶対にならない。加えて、坂本と細野両氏の毎度の対立不和の直接的な原因はあくまで音楽的なことであり、いわば「ミュージシャン同士のエゴ(自我)のぶつかり合い」であって、世間一般のロックバンドにありがちなギャラの配分をめぐる金銭的なことで揉(も)める衝突などではない。やはりYMOの坂本と細野、お二人とも、とても健全で常識人な感じが私はする。

さて、「テクノドン」を作り上げて「再生」YMOのプロジェクトを終えた後の3人といえば、YMO再結成を後日に振り返って高橋幸宏いわく、「再生YMOはメンバーが楽しくなかった。『テクノドン』のCD自体は好きなんです、結構僕は。ただ、あの雰囲気を思い出すのがつらかったり、嫌だったりするんですけど。…お金は使いたい放題なんだけど、なんか虚(むな)しいっていうような。もっと小規模なところからやれたらよかったなっていう反省が、はっきりスケッチ・ショウに反映されてますからね」。「お金は使いたい放題なんだけど」アメリカのマーケットでウケて世界規模で売れるテクノを作れだとか、東京ドームでの大規模ライヴのお祭り騒ぎだとかに高橋と細野の二人はさすがに精神的に疲弊したのか、「なんか虚しいっていうような。もっと小規模な所からやれたらよかったなっていう反省」から2人で新しく「スケッチ・ショウ」(Sketch・Show)のプロジェクトを始める。

そして他方、坂本は「再生」YMOの「テクノドン」は日本国内では好評だったが、やはり世界的な売り出しには失敗し、またまた坂本龍一は世界進出に挫折して、それ以降、坂本はあまり「世界のマーケットが」などと言わなくなる。むしろ一気に脱力して以前の野望満載のギラギラ感がなくなり普通に自然体になって、細野と高橋のスケッチ・ショウのレコーディングに飛び入り参加したりして、坂本龍一の以下のような驚くべき変わりようである。

「細野さんも幸宏も、やっぱり尊敬してるし、3人の関係もとても大事だし、3人それぞれ才能があって、それを持ち寄ったときに、自分たちが楽しめる、いいものができるという期待がありますから。…スケッチ・ショウのレコーディングに参加してる最中も、3人でご飯食べたりしていて、すごく和(なご)んで、いい感じでね。『いいね、もう1回、再結成しちゃおうか』って。…ただし、音楽を作らない再結成。並んで、ただいるだけの再結成。それ、いいねって」

かつてニューヨークにいて「テクノドン」制作時には、「テクノとかハウスの様式だったら、絶対にヤオヤは使わないんです。でも細野さんは平気で使うんですよ、ヤオヤを」と荒ぶって言っていた人と同一人物とは思えないほどの変貌ぶりだ(笑)。かくしてYMOは初期のワールドツアーから帰国しての「パブリック・プレッシャー」の公的抑圧、アルバム「BGM」での細野と坂本の音楽的対立の不和、解散前の「過激なサーヴィス」強要問題、そして「再生」YMOでの再度の細野と坂本の音楽的対立の不和といった葛藤の激動の長い年月を経て、ようやく最後に「別に音楽なんか作らなくても3人で並んで、ただ一緒にいるだけですごく和んで、いい感じでね」の穏和なハッピーエンドにたどり着く。文字通り「仲良し三人組」のYMOになるのであった。

シリーズ「YMO伝説」、これにて終了の完結。