アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

フリッパーズ・ギター 小沢と小山田(7)「ヘッド博士の世界塔」(その3)

(前回からの続き)「フリッパーズ・ギター」(FIippers・Guitar)の名作で名盤なラスト・アルバム「ヘッド博士の世界塔」にて「何かある!確かにある!」、しかしそのものの中身については、なかなか明言できず歯切れが悪いのだけれど、「最終的に何か普遍的な、真実な救いのポジティヴさがある」ことを聴き手に説得力を持って伝える方法論だけはかなり明確でフリッパーズの小沢と小山田、この2人は非常に手際(てぎわ)よく確信犯的にやる。

すなわち、これまでのNOT構文、本来は「─であるべきはず」なのに「─ではない」否定の欠落の世界に対する苛立(いらだ)ちといった「個人の気分的なもの」を脱し、全く思考形態の違う「何かがある!」のBE動詞の存在示唆の第1文型な曲「奈落のクイズマスター」を説得力を持って聴かせたいがために「ヘッド博士の世界塔」をトータルなコンセプト・アルバムにする。それでアルバム全体で一番のクライマックスな聴き所が「クイズマスター」に来るよう最初から計算して、せっせと準備の配置をする。

1曲目の「ドルフィン・ソング」でのやたら説明臭い始まり。「ほんとのことが知りたいから嘘っぱちのなか旅に出る」、嘘の虚構の圧倒的なフィクションであるアルバム「ヘッド博士の世界塔」のなかに、わずかながら本当の真実があることの示唆。そして2曲目の前半に早くもポップなシングルの「グルーヴ・チューブ」を持ってくる。後半の目玉曲「クイズマスター」のシリアスでハードな地味さに備えて。さらには4曲目の「ゴーイング・ゼロ」は、あらかじめの布石な楽曲であり、7曲目の「クイズマスター」がこれまでにない「不言実行」で、いわゆるBE動詞の文型思考な曲であり、今までのNOT構文の思考とは違う曲だから、小沢健二いわく

「この曲って(註─「奈落のクイズマスター」)本当に『不言実行』なんだけど、何しろ『不言』だから、実行してあってもよくわからんだろうなっていうのがあって。これをちゃんと『不言実行』だっていう風に聞こえるようにするためには色んなファンクションが必要だからね。『ゴーイング・ゼロ』が説教的な、すごい『有言』なのはそのためでもあるしね。トータルアルバムにしたのもそういう…『クイズマスター』の曲がポンと一曲だけあってもわからないだろうし」

確かに「ゴーイング・ゼロ」の歌詞は「有言」で、「何か普遍的な、真実的なものがある、もしくは何にもないこと」について過剰に直接的に言葉で説明する、まさに説教臭い「有言」な曲だ。「遠心力だけで逃げていく先なんてどこにもありゃしない」とか、「だんだん小さくなる世界で僕は無限にゼロをめざす」だとか。しかし、説教臭い「有言」の「ゴーイング・ゼロ」をアルバム前半に配置し、後半の説明なしの「不言実行」な新しいタイプの目玉曲「奈落のクイズマスター」と歌詞が説明的云々のコントラストを付けて説得力を持たせる、あらかじめの計算の用意周到さ、トータル・アルバムとしての手際よさ。やはりフリッパーズは早熟な天才で「恐るべき子供たち」(アンファン・テリブル)だなぁ。

「NOT構文をはぎ取るために色んな事が必要なの。『クイズマスター』からラストまでの3曲は…最後の3曲は、NOTじゃなくて、BE動詞的なんだけど。…(NOT構文からBE動詞への転換のつなぎ目)そのわからないとこが良くて。このアルバムはそれをすごく上手くやってるような気がする」

要するにアルバム全体の構成として最初の1曲目から「奈落のクイズマスター」直前の6曲目までが、前作「カメラ・トーク」での思考をいまだ引きずったいわゆるNOT構文の、本来世界は「─であるべきはず」なのに「─ではない」否定の欠落のいらだちなどの個人的気分が入った「有言」曲であり、かたや「クイズマスター」を含めた以後、最後の3曲が、いよいよ新しい新機軸なBE動詞の「何かある!」普遍的で真実のポジティヴな救いの存在をポンとダイレクトに軽々と示唆する「不言実行」な曲である。しかも、前作のNOT構文から今作のBE動詞への思考様式の変化の移行が断絶なく極めて自然な流れになるようトータルに計算してやっている。小沢からすれば、アルバム6曲目と7曲目の間のその移行のつなぎ目の「わからないとこが良くて。このアルバムはそれをすごく上手くやってるような気がする」。そして繰り返しになるが、フリッパーズ・ギターのアルバム「ヘッド博士の世界塔」は、クライマックスたる「奈落のクイズマスター」の革新的な詞に最大の力を込めて作られている。

以上のことを踏まえて、改めて「ヘッド博士」を最初から聴いて「クイズマスター」の詞をかみしめ味わうと何かしらの新たな感慨が湧き起こるのかもしれない。

さて「ヘッド博士の世界塔」はトータル・コンセプト・アルバムなので最後の終わり方が肝心だ。「奈落のクイズマスター」のシリアスでハードな地味さのままアルバムを終わらせるわけにはいかない。「クイズマスター」の「もっと何か普遍的な、真実な事がある!」で聴き手に何らかの非常に大きな人間的変化をきたしておいて、後に続けて「星の彼方へ」というマンチェ風味な高揚感のあるポップな軽い曲を持ってくる。この曲のさわやかさというか解放された高揚感が、前曲の「クイズマスター」のハードな重さが聴き手にまだ残っているから解放感の高揚感が尋常ではない。それで「星の彼方へ」のさわやかな解放の高揚でアルバム「ヘッド博士」を終わっておけば、万事が上手くいって問題なかったはずだった。ところが、この尋常ない解放の高揚で終わらず、最後の最後に10分以上のヘヴィーで虚無でニヒリスティックな名(迷)曲「世界塔よ永遠に」が来る。さわやかで高揚した気持ちはまたもや消え失せ、ただただ重いヘヴィーで殺伐とした感触を残して「ヘッド博士の世界塔」は終わる。この最後の終わり方に関し、フリッパーズの二人は当時のインタビューにて言っている。

「アルバムの出口、送り出す玄関に床がなかった!背中を突き飛ばして送り出す!…トータル・アルバムだからって、まとめりゃ終わるかって言えばそうじゃないし。…お前らもっともらしい結論ばっかり言ってるけど、そんなのが最終結論だと思ってるのかあーっ!…フリッパーズ聴いた人は無傷で帰しませんよ…ホント、とりあえずケガさして帰そうっていうのは決まってることだから。…最後の最後に毒まんじゅうを食らわせる。何てこったい、フリッパーズ(笑)」

やはり、一筋縄の予定調和では決して終わらせない、最後の土壇場で聴き手にケガを負わせ後味よくない混乱に落とし入れて迷わせる、どこまでも性格の悪いトホホな小沢と小山田のフリッパーズ・ギターなのであった。