アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

フリッパーズ・ギター 小沢と小山田(8)「ヘッド博士の世界塔」(その4)

いわゆる「ポストモダン議論」が1970年代の後半から起きて現在に至るまで一貫してあるが、そもそも「ポストモダンとは何か」の厳密な定義は置いておいて、そういう細かな作業はプロの専門家の東浩紀あたりにやらせておけばよい。

ポストモダンなものの功罪、イメージの記号を消費する洗練された情報化社会の高度資本主義礼賛や、画一化された近代マスから解放の個性の重視、さらには近代的な主体の確立が実は他者への抑圧・搾取と裏返しの構造になっているヨーロッパ中心主義を告発する近代批判、はたまた人間が完全にシステムに囲い込まれて主体的な思考、選択、行為の全てがゲーム理論の全体構造にあらかじめ組入れられ回収される、どうしてもシステムからはみ出せない予定調和な支配に対するポストモダンの虚(むな)しさの嘆きであれ、そういった功罪の両方を併せ持つポストモダンなものに対しての最終的な態度表明の姿勢が、私にはかなり重要だと思える。

時代は常に進んで不可逆で後戻りできないので、今さら「前近代の素朴さに帰れ」というのは不可能だし、特に「罪」の側面に関し現代社会に私たちが生きる限り、おそらくは今後さらに激烈に全てを覆い尽くすであろう経済の市場論理への回収が自明な社会システムに逆らって生きてくことは、もはやできない。特に雇用の場や日々の消費生活において。だから、そういった逃れられない八方塞がりなシステム、ポストモダンなものにどういう態度の姿勢スタンスをとって生きていくか。

「フリッパーズ・ギター」(FIippers・Guitar)の「ヘッド博士の世界塔」は1990年代初頭に発表された名アルバムだが、そこに収録の最後の楽曲「世界塔よ永遠に」は、そういうもはや現代社会に生きている限り、私たちが絶対に外部に逃れることのできなないポストモダンなシステムに対し、とても賢明にスマートにウイットあるやり方で対処し、ある意味、凌駕(りょうが)しているような気がする。それらシステムに対し無批判に受け入れ簡単に乗っかって礼賛したり、はたまた強く批判し攻撃して頑(かたく)なに拒絶したりする硬直態度ではなく、ただそのシステムの中に囲い込まれてある身動きのとれない自分を笑う。もちろん心の底から、うれしくて喜んで笑っているのではなく、トーン下がりまくりの調子はずれ、虚しさの虚無でニヒリスティックにひたすら笑う。八方塞がりな状況だが、全体を冷静に見透かせるがゆえに発することのできる力のない不健康な虚無の笑いが、かえって健全な批判精神の体現になっているという逆説である。

「逆巻く波間の小舟の上で1000年…一度乗り込めば二度とは降りれない!運命は、まるで転がる玉のよう…行き当たりばったり止まることがない…胡蝶(こちょう)の夢すべては」。いきなり「逆巻く波間の小舟の上で1000年、一度乗り込めば二度とは降りれない」というのは、かなりツラい状況だ。果たして、これは「胡蝶の夢」いわゆる夢幻(ゆめまぼろし)なのだろうか。

「ところが全てが夢なわけでもないし…」、どうやら夢ではないようだ。「そもそも全てと呼べるものなど無い!」。このあたり完全な不可知論である。「ある命題矛盾は自らの公理系内部では完全証明できず、絶えず外部に証明を求めなければならないので自身の命題矛盾は永遠に解決できない」というゲーデルの不完全性理論を思い起こさせる。しかも「全てを笑うのさ、さぁah‐ah‐ah…」=「アッハハッハアッハッハー」。これは、うれしくて心の底から笑っているわけではない。笑い声のトーン下がりまくりで、やけくそで笑っている。そして試練は続く。

「逆巻く波間の小舟で更に1000年…ジョークのつもりが本当に降りれない!制御不可能で自爆もままならず、徹頭徹尾、非合理な現実よ」。あーあ、最初の「逆巻く波間の小舟の上で1000年」に加えて、「逆巻く波間の小舟で更に1000年」で不安定な小舟の上に揺られ続けて通算2000年、西暦2000年代初頭の現在の人類に限りなく近づいてきましたよ!文明の歴史が始まって、わずか2000年足らず。冗談で偶然に始まった人間社会、でも「ジョークのつもりが、ほんとに降りれない!制御不可能で自爆もままならず、徹頭徹尾、非合理な現実よ」。まさに「非合理な現実」とは、この事だ。「この際だ、笑うのさ、さぁah‐ah‐ah…」=「アッハハッハアッハッハー」。ここでも、やけくそで笑い続けるしかない。

「頭を開け、手を高くかざせよ。死にそして生まれ色彩を迎えろ!ゲームの名前はコントロールと言って、ルールは全部が君の思うがまま」。これ「ルールは全部が君(自分)の思うがまま」で自分で主体的に判断選択して行動しているつもりなのに、結局はルールのあるゲームなのである。いつの間にか見えないルールに縛られて「コントロール」、つまりは「他者からの誘導」という名前のゲームの一駒に人間主体が堕落している。自身の一回限りの「生」が全体のなかの部品として他と代替可能である。「支配と服従」という関係ゲームである「コントロール」という強大なシステムを前に、人間の「生」がことごとくゲーム理論に回収されてしまう。まさに虚無、ポストモダンな世界だ。「world・is・yours・yeah!world・is・just・yours・yeah!」で「世界は君のもの、まさに世界は君のものだ!」と、いくら言われても虚しさが募(つの)るばかり。「火の海で叫べよ!さぁah‐ah‐ah…」=「アッハハッハアッハッハー」で、最期まで脱力して笑い続けるしかない。

フリッパーズ・ギターの「ヘッド博士の世界塔」は、アルバム完成直後のインタビューにて「縦1万列、横1万列のクロスワード」とか「死体収集」と当時から言われていた。要するに難解で虚無的なアルバムということだ。だが、ここまでニヒリスティックで暗黒で奈落な突き詰めた作品を作ってしまったら小沢と小山田に当然、次はない。フリッパーズ・ギターはもう解散するしかない。やっちまったな、フリッパーズ(笑)。