アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

フリッパーズ・ギター 小沢と小山田(9)小沢健二「犬は吠えるがキャラバンは進む」

特集「フリッパーズ・ギター・小沢と小山田」、今回からフリッパーズ解散後の小沢健二と小山田圭吾、両君のソロ活動に関する内容へ移ろう。

「フリッパーズ・ギター」(FIippers・Guitar)解散の引き金を引いたラスト・アルバム「ヘッド博士」までの内容を振り返り確認しておくと以下のようになる。フリッパーズ・ギターの最終作「ヘッド博士の世界塔」は、前作の「カメラ・トーク」とは明らかに異なる新機軸を打ち出したアルバムである。「カメラ・トーク」までは本来。世界は「―であるべきはず」なのに「─ではない」、小沢がいうところのNOT構文の文法アルバムであった。「─ではない」否定の欠落で世界と折り合いがつかない苛立(いらだ)ちだったり、他者と心の底から分かりあえない諦(あきら)めだったり、そういう「個人の気分的なもの」をモラトリアムの、はかなく美しい甘い青春な詞を書いてアルバム作っていた。

しかしながら「ヘッド博士」の頃になると、フリッパーズもそうしたNOT構文の「─ではない」否定の欠落のモラトリアムの甘い青春の季節はもはや過ぎ去ってしまって、「何か普遍的で真実的なものがある」、すなわち「何かがある!」存在を示唆するだけのBE動詞の第一文型的なアルバムになる。否定の欠落から「何かがある!」の存在示唆への転換を鮮(あざ)やかに遂げる。否定文の欠落から「何かがある!」の存在思考へのこの転換に際し、これまで無駄口の連発で散々周りをはぐらかしてきたフリッパーズの2人が「ヘッド博士」完成直後の雑誌インタビューにて、「最終的にポジティヴなものがないと、ダメですよ。…その辺で僕らはすごく誤解されてる。最終的にそういう救いのあるものは必要なのよ」と例外的に真面目に発言していたことは注目に値する。

そして、ここからが「ヘッド博士の世界塔」完成以後のフリッパーズ解散からソロへの話である。以下、小沢健二のソロ活動に話を絞って述べると、「ヘッド博士」の時点で「最終的に普遍的で真実的なもの、ポジティヴで救いのあるものがないとダメですよ」といった「何かがある!」の存在の思考があった。「形式と中身」でいうところの思考の外枠の「形式」がカチッと固まって確固としてあった。そうすると次やることは「中身」の具体性で「何かあることは分かったから、だったら、その『確かにある普遍的で真実的で救いのあるポジティヴなもの』の内容って一体何なのか?」当然ながら「次の攻めの一手」はそうなる。

それで、これは嫌味でも何でもなくて小沢健二という人は、実に賢明で誠実で正直で自身の音楽の方法論に相当の自信を持った天才だから。彼は「中身」の内容の突き詰めを「ヘッド博士」の続きでソロになっても放棄せず、極めて真面目に律儀に継続してやるのである。すなわち、ソロ第1作「犬は吠えるがキャラバンは進む」における「星座から遠く離れていって景色が変わらなくなら、本当はあるはず」(「天気読み」)とか、「意味なんてもう何も無いなんてのは、僕が飛ばしすぎたジョーク。神様がそばにいるような時間が続く」(「ローラースケート・パーク」)とか、「神様を信じる強さを僕に!生きることをあきらめてしまわぬように」(「天使たちのシーン」)といった内容の詞を、小沢はソロになって新たに書き出す。「何かがある!」の「普遍的で真実的なポジティヴな最終的な救い」を追究し続けて、それを「神様」という。ここでの「神様」とは「普遍的で真実的に存在する本当のもの」を単に言葉の上の例えで示しただけなのに、当時は小沢はひどく誤解されて「小沢健二、新興宗教にハマる。自己啓発セミナーに通う」みたいなことを週刊誌にさんざん書かれた。そのこと受けて、小沢本人は「神様って、ただの例で特定の宗教の神を指してるわけではなくて。神様というのは漠然とした言葉の使い方であって」という趣旨にて反論していた。

だから小沢も「何かがある!」という時の「何か」を歌う場合、「神様」のような言葉を使うと激しく誤解されるから、それに懲(こ)りて次のソロ第2弾の「ライフ」にて「何かがある!」の中身の内容をより具体的にはっきり示すようになる。そして結論を言ってしまうと、それが「愛し愛されて生きるのさ」や「ラブリー」にて体現される恋人や家族や友人たちとの人間的な深いつながり。

フリッパーズ時代の「ヘッド博士の世界塔」での「最終的にポジティヴで救いのあるものがないとダメですよ」から始まって、ソロ1作目の「犬は吠えるが」で、その「普遍的で真実的な本当のもの」を「神様」と言い、しかし「神様」の言葉遣いで激しく誤解を招いたからソロ2作目の「ライフ」にて、より具体的にはっきりと「最終的なポジティヴな救い」とは「恋人や家族や友人たちとの人間的な深いつながり」と明言するようになる。

このように時系列でアルバム作品ごとに小沢健二の思考深化の過程を見ていくと、フリッパーズの「ヘッド博士」から引っ張って案外、時間をかけてソロでの周り道までし迂回した割りには、たどり着いた究極的な「何かがある!」の内実の答えが、いざフタを開けてみたら「人とのつながりの大切さ」についての今更ながらの自覚とは。才能あふれる「天才」な小沢健二にしては、当たり前すぎる月並みな結論だ。余りにもどハマりなド真ん中ストライクの回答で拍子抜けで驚きな感じを正直、私は昔も今も禁じ得ない。「えっ、小沢君が言ってた究極的に存在するポジティヴな救いって、結局『誰もが誰か愛し愛されて生きるのさ』みたいなこと、そんなのでいいの?」という拍子抜けした驚きがあった。

この記事は次回へ続く。