アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

江戸川乱歩 礼賛(22)「ぺてん師と空気男」

江戸川乱歩の「ぺてん師と空気男」(1959年)は題名が素晴らしい。タイトルだけで言えば、乱歩の作品では「目羅博士の不思議な犯罪」(1931年)と双璧をなす名タイトルであるように思う。

本作は「ぺてん師と空気男」とそれぞれに、あだ名される二人の男の奇妙な交友の話である。まず「空気男」というのは本文によると、

「わたしは青年時代から、物忘れの大家であった。人間には忘れるという作用が必要なのだが、わたしのは、その必要の十倍ぐらい物忘れするのである。きのう、あんなにハッキリ話し合ったことを、きょうはもうケロリと忘れている。相手にとって、これほどたよりないことはない。ある時、友だちのひとりが、空気のようにたよりない男だと言い出して、それから『空気男』のあだ名が生まれた」

作中での本人談によれば、「物忘れの大家で空気のようにたよりない男」だから「空気男」とあだ名されたということだが、読み手の私としては更に「ぼんやりして頼りないことに加えて、大した特徴もなく、毒にもならないが薬にもならないような印象の薄い存在感のない男、まるで空気のような男」、だから「空気男」とあだ名されたとしたい所だ。

さて、もう片方の「ぺてん師」というのは、「プラクティカル・ジョーク」という一種のペテンをやる、いわゆる「プラクティカル・ジョーカー」のことである。本作でいうプラクティカル・ジョークとは、ナンセンスな冗談のいたずらで、相手を傷つけたり騙(だま)したりしない、決して犯罪や詐欺にはならない他愛もない、いたずらのことである。

江戸川乱歩「ぺてん師と空気男」の中で実演されている多くのプラクティカル・ジョークのうち、作中での乱歩の書き方にはこだわらずに、その概要を簡潔に示す形で以下にいくつか挙げてみる。

「空白の書籍」(ある男が汽車の座席でこれみよがしに本を開いて読書している。書籍の装丁は丁寧で表表紙も背表紙もしっかりした立派な本である。しかし書籍の中身のページが全て白紙なのである。何も書かれれていない白紙の本を男は熱心に実に面白そうに読んでいるのだ。隣席の客は驚き不思議でたまらず、後にその男につい尋ねてしまう、「あなたが先ほど熱心に読まれていた本は白紙で文字が一切書かれていませんでしたが…」。そこで男はさっきの書籍をカバンから取り出し、「そんなはずはありません」と不審な顔つきで本を開いて再び隣客に見せる。すると確かに先ほど白紙と思われていた本には、きちんと文字があって普通の書籍なのである。それで隣席の客は「さっき見た白紙の書籍は自分の勘違いだったのか…」とキツネにつままれたような気持ちで呆然(ぼうぜん)としてしまう。だが、本当は男は知り合いの印刷屋に頼んで、装丁表紙は立派で普通のものと何ら変わりないが、中身が白紙の書籍をあらかじめ作ってもらい、外装が全く同じ本を二冊持っていて、最初の読書時にはその特注の中身ページが「空白の書籍」を、次に隣客に尋ねられた際には文字がある普通の書籍を出してみせたのであった)

「重役と婦人会長」(街角に立っている重役タイプの立派な洋装の中年紳士に、作業員を装った男が巻き尺のケースを少しの間、持って立っていてほしいと頼み、その作業員の男は巻き尺の先を伸ばして曲がり角の向こうに忙しく消えていった。それから作業員の男は今度は巻き尺の先端をたまたま曲がり角の先にいた厚化粧の婦人に、同様に少しの間、巻き尺の先端を持って立っていてほしいと頼み、そのまま姿を消してしまう。時間がたっても一向に作業員の男が戻ってこないので、曲がり角の先で巻き尺ケースを持ったままの重役中年と、その先端を同様に持ったままの婦人会長がしびれを切らし不審に思って、共に巻き尺を手繰り寄せてみると、全く見知らぬ二人が巻き尺を両端に持たされたまま、つながり出会ってしまう。それで二人は作業員を装った男に「お互い一杯やられたらしい」と気づき,もはや苦笑いするしかない)

「公園のベンチ」(あらかじめ「公園のベンチ」と同じものを注文製作して、ある公園に置いておく。巡回の警察官がそこに来た時にわざと公園のベンチを二人の男が抱えて持って帰ろうとする。警官は公共物の公園ベンチの窃盗と思い、二人の男を止め注意して互いに口論になる。その騒ぎを聞きつけ、公園ベンチの周りに人だかりの山ができる。そこで初めて、男たちはこれは公共設置の公園ベンチではなくて自分たちが注文製作して、ここにに持ち込んだものだから持って帰っても問題ない旨を警官に伝え、ベンチ製作の際の注文書や領収書などを見せ、自分らの私物と明かした上で何食わぬ涼しい顔で自分たち私有の「公園ベンチ」を抱えて帰る。結果的に警官側の早とちりの勘違いとなってしまい、大勢の見物人の前で警察官は面目を失い、とんだ赤っ恥である)

乱歩の「ぺてん師と空気男」はタイトルが秀逸なので、本作は大変好印象なのだけれど、私はどういうわけか肝心の話の内容を何度読んでも、やがて忘れてしまう(笑)。それは本作「ぺてん師と空気男」に実は大した話の筋や目立った物語展開がなく一本調子で平板で、本作を通して乱歩がプラクティカル・ジョークの実例を割と数多く何個も連続して次々に紹介する案外、締(し)まりのないダラダラした構成になっているからだと思う。おそらく、乱歩は本作執筆時に海外の「プラクティカル・ジョーク集」のような資料文献のネタ本を持っていて、そこから面白そうなナンセンスなイタズラのジョークを選び、本作中にて「ぺてん師と空気男」に連続してやらせているだけなのである。

もっとも最後は、シャーロック・ホームズの「ぶな屋敷」(1892年)をわざと連想させる、妻の監禁、その後の彼女の行方不明を経て、「妻の美耶子は『ぺてん師』の伊東に遂には殺され、遺体も秘密裏に処理されたのでは!?」の完全犯罪の勘違いをさせる「マーダー・パーティー(殺人ごっこ)」の種類に属する悪質なプラクティカル・ジョークを、「空気男」である「私」は「ぺてん師」の伊東から仕掛けられ、そのため「ぺてん師と空気男」の二人の交友は破局を迎えてしまう。「ぺてん師」でプラクティカル・ジョーカーである伊東は、自らのジョークを「芸術」であると自認し、常日頃から「殺人芸術論」や「芸術としての殺人」などの本を愛読している探偵小説マニアの男でもあったのだ。

そうして本作のいよいよのラストでは、「ぺてん師」たる伊東はプラクティカル・ジョーカーである自身のでたらめな冗談気質を最大限に生かし、その才能を遺憾なく発揮し多くの信者を集める「宇宙神秘教」なる新興宗教を妻の美耶子と共に開いて、またまた「空気男」たる凡庸な「私」をあっといわせるのであった。そういったラストのオチである。