アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

江戸川乱歩 礼賛(17)「群集の中のロビンソン・クルーソー」

「群集の中のロビンソン・クルーソー」(1935年)は江戸川乱歩の随筆選に必ずといってよいほど収録されている作品で、乱歩の代表的エッセイといってよい。本作タイトルの「群集の中のロビンソン・クルーソー」とは、どういう意味のどういった人物なのか。

「この『都会のロビンソン・クルーソー』は、下宿の一室での読書と、瞑想(めいそう)と、それから毎日の物云わぬ散歩とで、一年の長い月日を唖(おし)のように暮したのである。友達は無論なく、下宿のおかみさんともほとんど口を利かず、その一年の間にたった一度、行きずりの淫売婦から声をかけられ、短い返事をしたのが、他人との交渉の唯一のものだった。私はかつて下宿のおかみさんと口を利くのがいやさに、用事という用事は小さな紙切れに認めて、それを襖(ふすま)の隙間からソッと廊下へ出しておくという妙な男の話を聞いたことがある。…これは厭人病(えんじんびょう)の高じたものと云うことも出来よう。だが、厭人病こそはロビンソン・クルーソーへの不可思議な憧れではないだろうか」(「群集の中のロビンソン・クルーソー」)

乱歩に言わせれば、人嫌いの「厭人病こそはロビンソン・クルーソーへの不可思議な憧れ」である。都市生活者で「群集の中(に生きる)ロビンソン・クルーソー」の生活は、友人は無論なく隣人との会話もなく人とすれ違っても一言も交わさず人的な交渉は皆無で、ただただ己(おのれ)の夢と幻想の世界にのみ生きる人なのであった。そして乱歩は、そうした「ロビンソン型」とでも形容される人間の心の奥底にある厭人癖の深く孤独に憧れる潜在願望は、人間が他者と共同で生きざるを得ない社会的な群棲動物であるからこそ、他方で一部の人達において、他人と没交渉で全くの孤独に生きる「群集の中のロビンソン」に、ますます「郷愁」が募(つの)り激しくなっていく、ゆえに「ロビンソン・クルーソー」の物語は、このように広く永く人類に愛読されるのではないかしら、と述べている。

実はデフォーの「ロビンソン・クルーソー」(1791年)の物語は西洋の古典経済学にて昔からよく言及される格好の素材であった。人間は他者との関係性において生きる社会的存在である。日々の生活にて自給自足の人はいない。必ず誰かの労働成果を享受し、消費して人は生きている。しかも近代社会において、人は労働も分業協業になり機械も導入されて、利潤追求の合理的で計画的な見通しを立て勤勉の精神に従って高度で複雑な人間同士の社会的関係の中で他者と共に生きている。ところで、そうした近代社会の文明人たる、かのロビンソン・クルーソーが独り無人島に流され他者との人的交流なく、近代社会機構の外的構成なく孤独に生きる状況を強いられても、彼は無節操に自堕落にやりたい放題に生きず、日付記録のカレンダーを作成し計画的に勤勉な日常生活をこなし、簿記的な生活物資のバランスシートを作り物事の得失を考え、決して自身が窮乏しないように未開の無人島にて独り合理的に暮らし生きるのであった。

このような近代人の典型の雛型(ひながた)であり、ゆえに近代経済学にての定番トピックで、スミスやヴェーバーやマルクスらが好んで引用した「ロビンソン・クルーソー」の物語が探偵小説の幻想文学の旗手・江戸川乱歩の手にかかると、全くの別方向から「無人島にて孤独に生きるロビンソン・クルーソーこそは、人嫌いの厭人癖を隠し持ち今では他者と共同で生きざるを得ない社会的な群棲動物である人間が脱したい郷愁の憧れ、己の夢と幻想の世界にのみ生きる人逹にとっての不可思議な理想」と解釈されるのだから実に面白い。

そうして乱歩は、さらに続けていう。

「映画街の人込みの中には、なんと多くのロビンソン・クルーソーが歩いていることであろう。ああいう群集の中の同伴者のない人間というものは、彼等自身は意識しないまでも、皆『ロビンソン願望』にそそのかされて、群集の中の孤独を味いに来ているのではないであろうか。…独りぼっちの人逹の黙りこくった表情には、まざまざとロビンソン・クルーソーが現れているではないか。だが人ごとらしく云うことはない。私自身も都会の群集にまぎれ込んだ一人のロビンソン・クルーソーであったのだ。ロビンソンになりたくてこそ、何か人種の違う大群集の中へ漂流して行ったのではなかったか」(「群集の中のロビンソン・クルーソー」)

乱歩の、この文章に私は深く強く痛々しいほどに共感できる。まさにその通りだ。街中で周りに人は大勢いるのに群集の中で誰も自分を知っている人がいない、ゆえに誰も話しかけてこないし、自分も誰とも口を利かなくてよい。完全孤独で完全解放の自由の味、「群集の中のロビンソン・クルーソー」とは何と言い得て妙で素晴らしい発想なのだろう。家族や親族や友人など要らない。私も誰とも交際・交友せず一生涯、他人とは口を利かずに自分の中の価値観、内的世界だけを大切にして、それを心の拠り所に生きていけたら、そう切実に思ったものだ。

私は学生時代よく独りでいた。独りでフラりと街中の映画館に入り、それから独りで食事をして独りで書店とレコード店を覗き、独りで喫茶店に入って長時間、本を読んだり音楽を聴いたりして過ごした。交友や課外活動に全く興味がなかったのである。その際、気に入って独り愛読し、心の中で密(ひそ)かに大切にしていたのは主に日本の昔の探偵小説の人達、横溝正史を始め、小栗虫太郎、夢野久作、久生十蘭、中井英夫、大阪圭吉、蒼井雄ら、そして「群集の中のロビンソン・クルーソー」の江戸川乱歩であった。