アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(42)「探偵小説」

横溝正史の短編「探偵小説」(1946年)は、そのまま「探偵小説」という何となく締(し)まらない捻(ひね)りのない凡タイトルではあるが、この平凡タイトルは本作の語られ方の叙述設定に由来している。

ある東北地方の温泉地へスキーシーズンに探偵小説家の一同が訪れるも、付近の雪崩(なだれ)の影響により汽車が遅延する。そこで列車が来るまで探偵小説家が仲間と駅の待合室のストーブを囲んで当温泉町にて1ヶ月前に発生した当時、人々を騒がせた未解決の女学生殺人事件のトリックを予想する。それを事件被害の女学生の関係者が同待合室の隅にいて密(ひそ)かに聞いていて、その探偵小説家のトリック話が、はからずも当たっていた。フィクションの「探偵小説」の創作話が、現実の殺人事件の真相を見事に言い当てていた。ゆえに本作は「探偵小説」のタイトルなのであった。

横溝正史「探偵小説」はアリバイ崩しの話であり、本作品は、ある種の「鉄道ミステリー」と言えなくもない。女学生は絞殺されて神社の境内にて遺体で発見された。関係者の中でも重要容疑者として彼女が通う女学校の教師が一番怪しいのだが、遺体の死亡推定時から判断される当日の犯行時刻に、その教師は汽車で一駅離れた隣町にいて、彼には確固とした現場不在証明(アリバイ)があった。どう考えても隣町にいた教師が、犯行時刻に一駅離れた町の神社の境内にて女学生殺しの殺害現場に居合わせることは物理的に不可能なのである。果たして、その教師が女学生殺しの犯人なのか。もしそうだとすれば、アリバイ証明されている教師は、どうやって不可能犯罪を成し遂げたのか!?

(以下、トリックを明かした「ネタばれ」です。横溝の「探偵小説」を未読の方は、これから新たに本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

女学生殺しの犯人は、やはり彼女が通う女学校の教師なのであった。その際に使われたのは「遺体の移動にともなう犯行現場の錯覚」によるアリバイ・トリックである。遺体が故意に移動されて殺害現場が別の場所と錯覚されているため、錯覚させた殺人現場の犯行同時刻に犯人は物理的に存在し得ないという偽のアリバイが成立するわけである。

当日の犯行推定時刻に、その教師は汽車で一駅離れた隣町にいて、女学生殺しの犯人たる教師には確固とした現場不在証明(アリバイ)があり、普通に考えれば隣町にいた教師が、遺体の死亡推定時から判断される犯行時刻に一駅離れた町の神社の境内にて女学生殺しの現場に居合わせることは物理的に不可能である。ところが、隣町にいた教師は自宅で女学生を絞殺した後、教師宅の近所にて徐行通過する列車の屋根に彼女の遺体を乗せ、人知れず遠くの隣町まで運ばせていた。遺体が落下するのは、殺害現場から遠く離れた隣町の急カーブで車体が大きく傾く地点である。しかも、大雪の季節で急カーブ地点に落下した遺体に後続列車からの屋根上の雪が落ちて何度となく降りかかるので、雪に埋もれて遺体は一時的に隠される。それで翌日に教師は、線路脇急カーブにて列車の屋根から振り落とされて雪に埋もれている女学生の遺体を掘り起こし、近くの神社境内に移動させて、あたかも彼女が前日に隣町の神社にて絞殺されたように細工したのだった。

「遺体を移動させて殺害現場を錯覚させる」というのは、探偵小説ではよくある。いわゆるアリバイ(現場不在証明)工作の一環として利用される。要するに殺人犯からすれば、時間的・空間的に遺体を自身から出来る限り遠ざけたいわけで、だから遺体を殺害現場以外の場所に運んで移動させる。しかし、その際に自分が遺体を運んでいる所を目撃されたら、もうアウトなわけだから周囲の人々に気づかれず、労力をなるべく使わずに人知れず効率的に死体を自身から遠ざけ遠くに運ぶ方法を考える。「列車の屋根に乗せて遺体移動」というのは、かなり大胆で理にかなった効率的な労力の少ない省エネ安全なやり方だ。

「列車の屋根に遺体を乗せて移動させる」というのは、実はコナン・ドイルのシャーロック・ホームズ短編「ブルース・パティントン設計書」(1917年)が元ネタである。同様に江戸川乱歩も「鬼」(1931年)という作品で、このトリックをドイルから流用し自作品に使っている。ただ本作「探偵小説」の登場人物の探偵小説家の口上によれば、ドイルも乱歩も「列車の屋根に遺体を乗せて移動させる」トリックに難点があった。本作品内の探偵小説家によるドイルと乱歩の先行作品に対するトリック難点の指摘批評は、他ならぬ著者の横溝の意見であるわけだが、ドイル「ブルース・パティントン設計書」の場合、「このトリックの難点は、死体が線路のすぐそばにあると読者は列車の屋根から遺体が振り落とされたこと」にすぐに気づいてしまう。そうして、この弱点を補うために出来たのが後の江戸川乱歩「鬼」であり、乱歩の場合、死体は線路脇に振り落とされるのだが、そこへ山犬が現れて死体を林の中に引きずり込む。つまりは、「死体は線路から離れた林の中で発見されるので作中の探偵も作品を読んでいる読者もひっかかる」ということになる。しかし、それは僥倖(ぎょうこう)でしかなく、「そう都合よく山犬が現れて死体をわざわざ遠方に引きずっていくか」の不自然さが残る。

そこで横溝はドイルと乱歩の双方のトリック難点を克服すべく、本作「探偵小説」にて、あえて雪国の舞台設定にして、遺体が落下するのは急カーブ地点で、後続列車からの屋根上の雪が落ちて何度となく降りかかるので線路脇に降り落とされた死体は雪に埋もれて一時的に隠される。それで後日に犯人は、線路脇急カーブにて列車の屋根から振り落とされて雪に埋もれている死体を掘り起こし、線路から離れた場所に移動させればよいわけである。結果として横溝の「探偵小説」は、「降り落とされた遺体が線路近くにそのままある」というドイルの「ブルース・パティントン設計書」の難点と、「遺体は線路のすぐそばから離されてあるが、線路脇からの遺体の移動が偶然の幸運に頼っている」という江戸川乱歩の「鬼」の難点の双方を合理的に克服するものであった。

横溝正史「探偵小説」は、あらかじめある過去作のトリック難点を改良・克服しようとする発想が最初にあって、そのトリック改善を果たすような形で横溝は探偵推理の骨格をまず考え、それから人物関係や舞台設定の細部を後に継ぎ足す順序で創作されている。そうした「探偵小説の創作順序の仕組み」が分かりやすく本作から読み取ることができ、探偵小説の創作の手順がよく分かる。横溝の短編「探偵小説」は、ある意味、清々(すがすが)しいタイトル通りの「探偵小説」だと私は思う。

再読 横溝正史(41)「七つの仮面」

横溝正史「七つの仮面」(1956年)は、同じく横溝の「三つ首塔」(1955年)と読み味が似ている。いずれも女性の扇情的な性癖に絡(から)めたメロドラマ調の作りだ。それに殺人事件の探偵推理の要素が加わる。両作品ともに私立探偵の金田一耕助が登場する。

本作は主人公女性の一人告白語り(モノローグ)の手記にて、「聖女」とされた良家令嬢が性的に女性として果てしなく堕(お)ちていく話である。女性同士の同性愛あり、男女の変態嗜好あり、読んで誠に派手で通俗な風俗小説ではある。それに探偵推理として二つの殺人事件があり、そのうちひとつは密室殺人である。探偵の金田一耕助は本当に最後近くで少し出てくるのみだ。

タイトルの「七つの仮面」とは、この主人公の「聖女」と交際していた佝僂病(くるびょう)ぽい老彫刻家が彼女の裏の本性を見抜き、「聖女の首」と称する胸像作品、「聖女の首」「接吻(せっぷん)する聖女」「抱擁する聖女」「法悦する聖女」「悪企(わるだく)みする聖女」「血ぬられた聖女」の六つの仮面彫刻を極秘に作成する。そうして最後に「七つの仮面」たる「縊(くび)れたる聖女」の胸像を前に、彼女はいくつかの殺人を犯した末、縊死にて自死するというプロットである。本作「七つの仮面」は、横溝が以前に手掛けた「聖女の首」(1947年)のリメイクであった。

横溝正史「七つの仮面」を読むと、夢野久作「火星の女」(1936年)や昔の東映映画、多岐川裕美主演「聖獣学園」(1974年)を私はいつも思い出してしまう(笑)。

「あたしが聖女ですって?今は娼婦になり下がった、それも殺人犯の烙印を押されたこのあたしが?でも、あたしが聖女と呼ばれるにふさわしい時期もあったのだ。ミッション・スクール時代の気品に満ち、美しく清らかだったあの頃。だが、醜い上級生、山内りん子に迫られて結んだ忌まわしい関係があたしの一生を狂わせた。卒業してからも、りん子はあたしに執拗に付きまとい、やがて、あの恐ろしい事件が起きてしまった。あたしが恋人の伊東慎策を訪ねた直後、彼が五階の自室から転落死したのである」(角川文庫版、表紙カバー裏解説)

再読 横溝正史(40)「車井戸はなぜ軋る」

横溝正史「車井戸はなぜ軋(きし)る」(1949年)の大まかな話はこうだ。

「ある日、探偵小説家である私S・Y(言わずと知れた横溝正史の匿名イニシャル表記)は、友人の私立探偵・金田一耕助から、ある事件に関する手紙一束と新聞記事の切り抜きと故人の手記を提供してもらった。そこには1946年5月から10月まで繰り広げられた、本位田(ほんいでん)家の中で起きた異変および事件についての全貌が記されていた。

本位田家、秋月家、小野家は、かつてはK村の三名(さんみょう)といわれてきたが、秋月家と小野家が零落する一方、本位田家のみが昔以上に栄えていた。その本位田家の長男・大助と秋月家の長男・伍一はよく似た顔立ちで、見分ける手立ては伍一の二重(ふたえ)の瞳孔のみであった。伍一の二重瞳孔は大助の父・本位田大三郎と同じもので、伍一は母・秋月お柳と本位田大三郎との間に生まれた子であり、お柳の夫・秋月善太郎は伍一が生まれた日に車井戸に身を投げて死んだ。没落した秋月家の善太郎は、繁栄を極める本位田家の大三郎に妻を盗られた形となり、その屈辱で車井戸に身を投げて自死したのであった。ということは、秋月家の子息・伍一は本位田大三郎と秋月お柳との間の子だから、本位田家の子息・大助と秋月家の子息・伍一は、父親が同じ本位田大三郎の異母兄弟になる。ゆえに二人はよく似た顔立ちであり、見分ける手立ては秋月伍一の父親・本位田大三郎譲りの二重の瞳孔のみであったのだ。

そして異母兄弟であるにもかかわらず、それぞれ対立する本位家と秋月家の子息として、二人は終始憎しみ合う因縁の間柄であった。1941年に本位田大助は秋月伍一と恋仲の噂があった梨枝と結婚し、1942年に大助と伍一は戦地に応召され、同じ部隊に入隊する。それから終戦後の翌1946年、大助が復員し戻ってきたが、その両眼は戦傷により失われ義眼がはめ込まれていた。しかも大助は伍一の戦死の報も、もたらした。 かつては朗(ほが)らかで思いやりが深い気性であったのに、復員後は人が変わったように陰気で気性が荒くなった大助の様子に、妻の梨枝と大助の妹・鶴代は『本位田大助と秋月伍一とが入れ替わっているのではないか。復員してきた本位田大助は、本当は秋月伍一ではないのか』と疑惑を抱く。大助と伍一は異母兄弟でよく似た顔立ちであり、見分ける手立ては秋月伍一の二重の瞳孔のみであったが、復員した大助の両眼は戦傷により失われ義眼がはめ込まれていたため、本位田大助か秋月伍一かの見分けがつかないのだ。思い余った鶴代は、胸を病(や)んで結核療養所に入所している次兄の本位田慎吉に手紙で相談し、大助が戦争に行く前に右の手形を押して奉納した絵馬の指紋と、本位田家に戻ってきた大助の指紋を比べるようにとの助言を受ける。生まれつきの心臓弁膜症で一歩も家から出ることのできない病弱な鶴代は、下女のお杉に絵馬を取りに絵馬堂に向かわせるが、お杉は崖から落ちて死んでしまった。鶴代の疑惑がますます深まる中、本位田家に惨劇が起こる。

ある大風雨の夜、寝室で本位田大助の妻・梨枝が何者かによりズタズタに斬られて殺され、心臓をえぐられた主人の大助の死体が屋敷の裏庭の車井戸の中で発見されたのだ。まるで、以前に秋月善太郎が妻のお柳を本位田大三郎に盗られ、本位田大三郎の息子・秋月伍一が生まれ絶望して、みずから車井戸に身を投げて自殺したのと同様に。さらに本位田大助の死体からは右の義眼が失われていた。本位田大助と称して復員してきた男は本当に本位田大助だったのか。もしかしたら本位田大助と秋月伍一が入れ替わり、戦死したとされる秋月伍一が本位田大助に成りすましていたのではないか。因縁の異母兄弟たる本位田大助と秋月伍一との入れ替わりはあるか。また大助と妻・梨枝を殺害した犯人は誰なのか。本位田家の惨劇の真相とは一体!?」

横溝正史「車井戸はなぜ軋る」は、話の設定としては同じく横溝の「犬神家の一族」(1951年)に何となく似ている。ある村の有力家の跡取り息子が出征で戦地に赴き、顔面毀損(きそん)の大怪我をして復員。前よりガラリと性格が変わり、まるで戦地で人物が入れ替わり本人でないような疑い。当人かどうか外見容姿から直接に確かめる術(すべ)がない中、青年が出征前に村の神社に奉納した手形の絵馬があったことが判明。その絵馬にて指紋照合し本人確認しようとするも、照合前に殺人事件の惨劇が次々と起きて…といった一連の話が、「車井戸はなぜ軋る」は「犬神家の一族」に酷似している。また夫婦殺害の犯行動機の真相は「本陣殺人事件」(1946年)に似ている。

「果たして本位田大助と秋月伍一との入れ替わりはあるか否か」の結末も最後まで読者を惹(ひ)きつけ、それなりに面白いけれども、本作「車井戸はなぜ軋る」の真の面白さの作品魅力は犯人の意外性と殺害トリック、そのことに絡(から)めてタイトル「車井戸はなぜ軋る」における「車井戸が軋る」の「なぜ」の理由を作者の横溝正史が最後に明らかにしている、その記述の周到さにあると言ってよい。

(以下、トリックと犯人の正体を明かした「ネタばれ」です。横溝の「車井戸はなぜ軋る」を未読の方は、これから新たに本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

本位田大助と妻の梨枝の惨殺事件を受けて、本位田家と秋月家の関係人物が容疑者として浮かび上がり、各人の事件当夜のアリバイ(現場不在証明)が調べられた。その中でも被害者である本位田大助の弟・慎吉は病身で結核療養中であり、当日も生家から往復五時間かかる村より六里も離れた療養所に入院しており、犯行当夜の本位田慎吉のアリバイは完全証明された。そのため本位田家の次男・慎吉は捜査の犯人リストから真っ先に除外された。しかしながら、本位田大助殺害の真犯人は次男の本位田慎吉であったのだ!

確かに慎吉は結核療養中の身で、大風雨の事件当夜に遠く離れた療養所から本位田の生家に出向いて兄の大助を惨殺し、それから再び療養所に戻ってくるような体力はない。しかも慎吉が事件当夜、療養所敷地から出かけずにいた証言のアリバイは完全にあった。だが事の真相は、結果的に殺害された兄の本位田大助の方があの嵐の夜に下男の運転する自転車荷台に乗り、わざわざ村から出かけ診療所を訪問して弟に面会し、その際に兄の大助は弟の慎吉にその場で殺害されて、死骸となった本位田大助は連れてこられた自転車で再び下男に運ばれ村に連れ返されて、そのまま屋敷の裏庭の車井戸に投げ込まれた顛末(てんまつ)なのであった。

本作の話の肝(きも)は、「本位田大助と梨枝の夫婦が大風雨の嵐の夜に犯人に寝室に踏み込まれ惨殺されたのに、妻の梨枝の遺体は、そのまま屋内の寝室にあって、しかし、なぜ夫の大助の遺体だけが裏庭の車井戸の中に投げ込まれていたのか」の合理的理由にある。それは被害者の本位田大助は犯行当夜、屋敷の寝室で殺害されたのではなく、はるか離れた療養所に自ら出向き、そこで病身の弟に殺害されて死骸となった大助を再び自転車に乗せて大風雨のなか遠く離れた本位田の屋敷に運ぶ際に、どうしても大助の遺体は風雨にさらされ泥まみれになってしまう。そうすると、雨ざらしになった泥だらけの大助の遺体を妻の梨枝の傍らに置いて「屋内の寝室にて主人の大助も同時に殺害された」設定にできないので、本位田大助の遺体だけが裏庭の車井戸に投げ込まれたのである。

本位田大助の殺害犯人たる弟・慎吉のアリバイ証明トリックのために、このアリバイ・トリックは「遺体の移動に伴う殺害現場の錯覚」とされるタイプのものであるが、泥だらけになった大助の死骸から真の殺害現場が露見することを防ぐ目的で本位田大助の遺体だけ、あえて車井戸の中に投げ込まれたのだ。つまりは、このことこそが本作タイトル「車井戸はなぜ軋る」における「車井戸が軋る」の「なぜ」の理由、作者の横溝正史により最後に明らかにされる実に周到な回答なのであった。しかも、この車井戸での死をかつての秋月善太郎の車井戸での身投げの自死に暗に重ね、「これは本位田家と秋月家の両家にまつわる呪われた因縁なのか!?」のオカルト怪奇色を絶妙に醸(かも)し出す、横溝による筆の工夫である。

このように殺害された後、遺体が別の場所に移動させられ、あたかもその場所で実際に殺人が行われたように錯覚された結果、犯行現場のズレが生じ錯覚された殺害現場での同時刻のニセの犯人のアリバイ(現場不在証明)が工作として成就する、いわゆる「遺体の移動に伴う殺害現場の錯覚トリック」は、戦後の日本の探偵小説では鮎川哲也が得意とし、「アリバイ崩しもの」としてよく書いていた印象が私には強い。横溝作品を愛読している読者は分かると思うが、実は横溝は「遺体の移動に伴う殺害現場の錯覚」のような細かなアリバイのトリックはあまり得意ではない。横溝正史という人は、どちらかといえば「密室殺人、顔のない死体、一人二役」が三本柱の大味で大仕掛けなトリックを昔から好んで自作に使う人であった。そういった意味では、細かで精密な現場不在証明のアリバイ・トリックを用いた「車井戸はなぜ軋る」は、横溝作品の中でも割合に珍しく貴重な作品であるといえる。

「車井戸はなぜ軋る」は作者・横溝による客観的三人称記述ではなくて、殺害された本位田家の長男・大助、殺害犯人の次男・慎吉、末の一人娘の鶴代のうち、生まれつきの心臓弁膜症で一歩も家から出ることのできない病弱な鶴代、しかし病弱なため多感な少女であり、人一倍、強い感受性と鋭い観察眼とを備えていた妹の鶴代が、生家を離れ遠方の療養所で治療している次兄の慎吉の求めに応じて大助の復員から惨劇前夜の本位田家の不穏な空気、関係各人の異常な発言と行動を手紙にしてせっせと書き送る、そうした鶴代から慎吉への手紙文章や殺人事件の詳細を報じた新聞記事の引用抜粋にて作品が構成されている。しかし妻の梨枝はともかく、本位田大助を殺害した犯人は弟で次兄の本位田慎吉である。その犯人たる次兄・慎吉に向けて妹の鶴代が「長兄・大助を惨殺の犯人が次兄の慎吉であること」を最初は知らずに、今回の惨劇のすべてをあらかじめ知り犯行を行っている次兄・慎吉に、わざわざ手紙で報告し細かに伝えるわけである。この鶴代の手紙報告の「仕組まれた徒労」ともいうべき絶妙な読み味の余韻ときたら!

横溝正史「車井戸はなぜ軋る」は、おそらく一般にそこまで広く知られてはいない。本作は比較的マイナーな横溝作品の金田一耕助ものの中編であるが、横溝による随所での周到な書きぶりが読んで非常に清々(すがすが)しく、戦後の横溝正史の探偵小説家として乗りに乗った壮年期の傑作といえるのではないか。

再読 横溝正史(39)「迷路の花嫁」

横溝正史「迷路の花嫁」(1955年)は、金田一耕助が登場する長編推理ではあるものの全編に渡って金田一耕助は出てこない。金田一は話の幕間にたまに顔を出すのみである。

その代わりに事件解決には、第一の殺人発見に「偶然に」居合わせた駆け出しの小説家の松原浩三が終始出てきて活躍する。事件の発端は、閑静な住宅街に女性の叫び声が響き、往来の通行人が警ら中の警官と共に駆けつけ屋敷内を確認すると、全裸の女性が身体中をズタズタに突き刺され凄惨に殺されていた。戸口の番犬は毒殺されており、屋内で飼っていた多数の猫が殺害されて血の海になっている女性遺体の主人の周りに集まり不気味に血をすすって、いずれも鮮血に染まり怪しくうごめいていた。彼女は心霊術をやる女性霊媒師であった。彼女は独身であり、この屋敷にて唯一同居の女中はバラバラ死体となって地中に埋められているのを後日、発見された。

タイトルの「迷路の花嫁」というのは、女性霊媒師のパトロンであった呉服屋主人の良家の令嬢で、近日に婚礼を控えた美しい女性をさす。血染めの彼女の手袋がなぜか殺害現場にあり、そのため彼女はこの猟奇な殺人事件の被疑者として結婚式場から警察に連行され、後々まで疑惑の目にさらされる。まさしく彼女こそが「迷路の花嫁」なのであった。

女霊媒師殺害事件の第一発見者たる駆け出し小説家の男と、同じく発見現場に居合わせた足が不自由で手押し車を幼少の男児にいつも紐(ひも)で引かせている「子連れ狼」の逆バージョンのような(笑)、過去に因縁ありそうな中年の男、その他、殺害された女性霊媒師の弟子で「迷路の花嫁」と容姿が似ている美貌の女性、いかにも悪徳らしい女性霊媒師の師匠に当たる男性の心霊術大家、そしてその妻、殺された女性霊媒師と深い関係にあったと思われるパトロンの男性など、この薄気味悪い霊媒殺人事件の犯人は一体誰なのか!?

本作は400ページ近くの長編ではあるが、なかなか読者を飽きさせることなく、どんどん先を読ませるものがある。話の骨子は勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の復讐物で、殺人動機には犯人に同情の余地はある。本作にて探偵の金田一耕助が出ずっぱりでなく事件解決のために終始奔走せず活躍せず、要所での節目の場面で思い出したように出てきて捜査の適切なアドバイスをするに留(とど)まるのは、犯人の復讐劇の遂行を邪魔せず暗に見届けさせる作者・横溝正史による良心の筆の傾きか、と読後に思えなくもない。第一の女性霊媒師のズタズタな凄惨刺殺遺体にて、「不思議なんだが、どうしてあんなところを切られたんだろうと思われるようなところに傷があるんだ。たとえば内股などにね」といった検死の捜査医師の何気ないセリフで横溝の探偵小説を読み慣れている常連読者ならば、何となくラストの筋は読めてしまうかもしれない。そこが本作のポイントであり、不気味な話の内実であるように私には思えた。

横溝正史「迷路の花嫁」は昭和30年代の連載作品であり、この頃には社会派推理小説の台頭人気に押されて、横溝は金田一耕助が登場の小説は書くが、敗戦直後の「本陣殺人事件」(1946年)のような、もう練(ね)りに練ったトリック満載の本格の探偵小説は執筆しなくなっていた。本格推理にてマニアな一部の読者を唸(うな)らせるよりは、どちらかと言えば分かりやすく広く一般ウケするような通俗ミステリーに作風が傾いていた。この「迷路の花嫁」と同時進行で「吸血蛾」(1955年)と「三つ首塔」(1955年)も横溝は当時、執筆連載していたという。なるほど「迷路の花嫁」は、「吸血蛾」や「三つ首塔」と通俗長編のサスペンス・ロマンの点でどこか読み味が似ている。

「迷路の花嫁」角川文庫版の巻末解説は、探偵小説評論家の中島河太郎によるものである。以下のような中島の解説文は横溝「迷路の花嫁」に対する至言であり、簡潔で的確な紹介文であるといえる。だいたい何を読んでも中島河太郎の探偵小説評論は失策なく的確で、いつも上手い。

「昭和三十年といえば、著者は『吸血蛾』と『三つ首塔』を連載中であった。考え抜いたトリックを中核にして、本格物の醍醐味を提供するというより、物語性のふくらみを見せることに興味をもたれた時期の作品である」(中島河太郎、角川文庫版「迷路の花嫁・解説」)

再読 横溝正史(38)「悪霊島」

横溝正史「悪霊島」(1980年)は、横溝作品が次々に映像化され過去の小説も売れまくる「昭和の横溝ブーム」の最中、一度休筆していた横溝正史が復活を果たし、齢(よわい)70代にして新たに書き抜いた上下二巻、全700ページ近くの長編である。横溝は本作を角川書店の雑誌「野生時代」に1979年1月から1980年5月まで連載し、その後1981年12月に没している。横溝正史「悪霊島」は氏の最終作であり、事実上の絶筆であるといってよい。

本作の目玉のトピックは「シャム双生児」(身体がつながったまま生まれてきた双子、いわゆる結合双生児)である。この点に関し当の横溝いわく、

「(角川書店より雑誌『野生時代』)創刊以前から私は長編執筆を依頼されていた。書くならばシャム双生児をと、私の脳細胞はいよいよ活潑(かっぱつ)に動きはじめた。それにもかかわらずいざ『野生時代』に筆を執(と)った時、それはこの小説ではなく『病院坂の首縊りの家』であった。そのころこの小説はまだ私の脳細胞の中でほどよく発酵していなかったのであろう。それだけに『病院坂の首縊りの家』を書いているあいだ、私の脳裡(のうり)には常にこの小説があった。だから昭和五十三年の夏いよいよ執筆を開始したとき、この小説の結構は、そうとう細部にわたるまで、私の脳裡に形成していた。しかし、構想がまとまっているということと、それを文章によって表現するということはまた別の問題であるらしく、これを書いている間中、私は塗炭(とたん)の苦しみをなめなければならなかった」

シャム双生児を題材にしたものに従前、海外ミステリーでクィーン「シャム双生児の秘密」(1933年)や、国内の探偵小説にて江戸川乱歩「孤島の鬼」(1930年)があった。横溝の本作「悪霊島」も、シャム双生児が事件の鍵を握る話である。加えて横溝晩年の執筆であるためか、過去作品との設定重複、ネタの流用、場面の酷似が目立つ。私が読んで気付いた限りでも話の基本の構図は「蜃気楼島の情熱」(1954年)と「獄門島」(1948年)であって、あとの中身は「八つ墓村」(1951年)や「悪魔の手毬唄」(1959年)や「悪魔が来りて笛を吹く」(1953年)や「神の矢」(1949年)など、横溝の過去作品を思い起こさせる記述が幾つもある。また横溝「悪霊島」は、岡山の瀬戸内海の島を舞台にした、すでに殺害されている失踪人物をめぐる過去の因縁話であり、これと似た舞台設定の日本の探偵小説史における本格長編の古典名作、蒼井雄「瀬戸内海の惨劇」(1937年)のことも本作「悪霊島」から私は思い出したりしていた。

話は「悪霊島」たる刑部島(おさかべしま)に私立探偵の金田一耕助が依頼を受け、岡山県警の磯川警部と出向き滞在して、その島にて連続殺人に新たに出くわし事件の謎に挑む。その際、自身の父親が以前に島に訪れた形跡がありながら失踪し、そのまま行方不明になっているという青年、三津木五郎と同伴する。さらには磯川警部の過去も、その以前の失踪事件と今回の刑部島にての連続殺人事件とに複雑に密接に絡(から)み合っている、といった内容である。まず、今回の一連の事件の発端となる殺害被害者の「あの島には悪霊がとりついている、悪霊が…」、刑部島をして「悪霊島」と呼ぶ死の間際に吹き込まれた録音テープ、ダイイング・メッセージの不気味さがよい。なぜかの島が「悪霊島」であるのか、その謎が話のポイントではある。

ただ全体に、これは「悪霊島」のみならず横溝が復活して再び筆をとった最晩年の作品はいずれもそうなのだが、不必要に枚数多く無駄に話が長い。しかも長編話にテンポがなく中途で読むのにダレれて中だるみしてしまう。少なくとも私の場合はそうだ。本作「悪霊島」に関しても、確かに横溝は(おそらくは)あらかじめ綿密に結末まで考えてから書き出しており、前半から幾つも周到に伏線を張り巡らしてはいる。しかし、それが綿密に丁寧にやり過ぎてかえってクドく話の進行(テンポ)が遅いのが、あえて難点といえば難点か。この「悪霊島」にしても、例えば最晩年の作「迷路荘の惨劇」(1976年)にしても、とにかく話にリズムがなく進行が遅いので中途でダレてしまうのである。

私の経験からして身近な年寄りを見ていると分かるが、人は年をとるとなぜかクドくなる。思考の瞬発力がなくなって簡潔で的確な説明が出来ない自信喪失のためなのか、万全を期して丁寧に大切に自身の本意を漏(も)らすことなく相手に伝えたい思いが若い頃より強く働くからなのか、何度も念を押して執拗に繰り返したり、非常に回りクドい説明過多な会話を日常生活にてもよくやる。横溝正史も最晩年の探偵小説は例外なく長編で異常に長いし、重複もあり記述が丁寧すぎてクドい感じがする。この辺りのことは、横溝が働き盛りの壮年期に雑誌「新青年」や「宝石」に毎月のように執筆掲載していた昔の作品と読み比べてみると、よく分かる。

しかしながら、長くて時にクドいテンポの悪い金田一ものの長編探偵小説も晩年の横溝のコクの味だ。「悪霊島」を読み返す度に「この作品で金田一耕助も横溝正史も終わってしまうのだな」という非常に寂しい気持ちに毎回、私はなる。

角川文庫版「悪霊島」の巻末解説は、これまで角川文庫の横溝全集の多くの解説を書き重ねてきた探偵小説評論家の中島河太郎によるものだ。以下のような中島の巻末解説の語り、「著者に、天寿を恵まれるように祈りたい」という解説結語を読むと「やはり、この作品で金田一耕助も横溝正史も本当に終わってしまうのだな」といった「祭りの後」の喪失感のような寂しい思いを私はいつも痛感させられる。

「日本の推理作家では喜寿翁が、こういう大長編を完成した例はかつてなかった。年齢や枚数の記録を抜きにしても、これほど綿密周到な布置のもとに、愛憎の悲劇を仮借(かしゃく)なく掘り下げた大ロマンは、著者を措(お)いては創(つく)りえなかった。今後もまだまだ手のこんだ探偵小説を書いて行きたいと、意欲を示される著者に、天寿を恵まれるように祈りたい」(中島河太郎、角川文庫版「悪霊島・解説」)

再読 横溝正史(37)「死仮面」

いわゆる「昭和の横溝ブーム」にあって横溝作品が次々と映像化され社会での人気を極める中で、横溝ブームを強力に牽引(けんいん)したのは、角川春樹が社長だった昔の角川書店であった。当時から角川文庫が横溝作品をほとんど全作、漏(も)れなく完璧に出しまくっていた出版環境があり、しかも昔の角川文庫の横溝作品は表紙絵が杉本一文による上質イラストカバーに彩(いろど)られていた。

本当に昔の角川文庫はスゴいのである。横溝の代表作はもちろんのこと、まだ当時は横溝は存命だったから横溝本人にしてみれば今さら読み返されたくない過去の駄作・凡作も、角川は「横溝全集」の完全版を目指して容赦なく片っ端から復刻・再刊して出しまくる。出版社倒産の版元消失で原稿紛失な地方の雑誌に数回掲載のマイナーで傍流な作品でさえも、古書店でわずかに流通している古雑誌を発掘し、文字起こしをして角川文庫に強引に入れる。

膨大な再刊や映像化に関しほとんど許可していた温厚で誰に対しても偉ぶることのない人柄で知られた横溝正史であったが、多忙期に乱作した作品も含め片っ端から角川文庫に収録されるので、横溝の作家評価に傷がつくことを心配した友人らから忠告を受け、また横溝自身も気恥ずかしくなって、「ええ加減にしてくださいよ。これ以上出すとおたく(角川文庫)のコケンにかかわりますよ」と一時は怒りを露(あらわ)にしたらしい。だが最後は角川春樹に押し切られ、自身が最低と決めつけている作品でも再刊されると相当に売れたことから以後、過去の自作に対し自分で評価を決めることはせず、読者諸賢の審判を待つべきと割り切ることに決めたという。

さて、横溝正史「死仮面」(1949年)は、「横溝作品であれば作品内容や完成度の出来はどうあれ、何が何でも角川文庫に入れて復刊で出す。ともかく横溝ブームの最中、横溝作品は出せば必ず売れるから」の角川書店の狂気の沙汰が感じられる一冊である。

横溝の「死仮面」は敗戦直後に名古屋の雑誌に八回連載で掲載されたが、全八回の中の第四回の分が欠けていた。原稿が残っておらず、当時に流通した雑誌をできる限り手を尽くして探したけれど発見できず、連載の第四回原稿が欠落してどうしても見つからない。欠落分の載った雑誌を見つけ作品を「完成」させて角川文庫(最初はカドカワ・ノベルズに収められている)に収録したいが、それが叶(かな)わない。しかも、本作を再刊企画時には横溝正史は「悪霊島」(1980年)を完成させた後で静養につとめることになっていた。横溝自身の筆による欠落回の早急な書き直し復刻も残念ながら望めない。そこで角川編集部がとった強硬手段は、何と角川文庫の横溝作品巻末解説を毎回書いていた探偵小説評論家の中島河太郎が横溝の代わりに欠落回を創作して補い、とりあえずは「死仮面」を完成させ角川文庫に収録させるという強引極まる荒業(あらわざ)であった。そこまでして横溝の「死仮面」を自社文庫に入れたいのか、角川書店(笑)。

後の横溝の回想によれば、「死仮面」は「当時、私はなぜかこの作品を毛嫌いし、本にしなかった。話が陰惨すぎたせいであろう」ということである。

横溝正史「死仮面」の復刻時の売り出し文句のコピーは、「30年ぶりに発掘された巨匠幻の本格推理」であった。私は本作の初読は、旅先でフラりと入った古書店にて横溝「死仮面」の角川文庫を偶然に見つけ購入し、旅の中途で読んだ。そのため再読や再々読の機会に至るまで時に肝心な話の内容は忘れてしまうが、しかし「横溝の『死仮面』は、あの旅の途中に見知らぬ土地で面白く読んだなぁ」の初読時の楽しい思い出の感触だけは今でも忘れることなく、ずっと覚えている。

(※横溝正史「死仮面」は、後に欠落回掲載の雑誌が発見され、横溝オリジナルの完全版が春陽文庫(1998年)から出ています。)

再読 横溝正史(36)「人面瘡」

「人面瘡」とは、以下のようなものだと言われている。

「人面瘡(じんめんそう)は、妖怪・奇病の一種である。体の一部などに付いた傷が化膿し人の顔のようなものができ、話をしたり物を食べたりするとされる架空の病気。薬あるいは毒を食べさせると療治するとされる」

横溝正史「人面瘡」(1949年)の概要はこうである。「『わたしは、妹を二度殺しました』。ある事件解決の折りに岡山と鳥取の境にある田舎の山奥の湯治場・薬師の湯に金田一耕助が岡山県警の磯川警部と投宿した際、金田一が遭遇した夢遊病の女性が、奇怪な遺書を残して自殺を企てた。妹の呪いによって、彼女の腋(わき)の下にはおぞましい人面瘡が現われたというのだ。そして妹の溺死体が発見された。妖異譚に科学的な解決と深層心理の解明を加えた金田一探偵譚の中編」。

いわゆる「人面瘡」を題材にしたミステリーやホラー話は昔からよくある。実際に人面瘡なる病があるのかどうか、私は知らない。だが、人面瘡に対して呪いのオカルト・ホラーではない、科学的な合理解釈で話の辻褄を合わせて結末を落とすとなると、身体の一部にできた腫瘍やアザが、たまたま目鼻がある人間の顔のように見えただけであったとか、もしくは人面瘡が勝手に話し出したりする場合、当人の精神作用の多重人格によるもので決着をつける古今東西の人面瘡トピックの話が多いようである。

横溝の「人面瘡」は確かに殺人事件が起きて劇中のある女性が、しかも彼女は夢遊病の病歴を持ち本人は気づかないままに、しかし当人の深層心理下の無意識に従って夜中にフラフラと夢中歩行し、時に殺人まで犯す疑いの状況のなか、「わたしは、妹を二度殺しました」という「同一人物を二度も殺す?」といった誠に不思議な告白までして、山奥の湯治場にて金田一耕助らが事件の解明に乗り出す話である。

(以下、人面瘡の正体や殺人トリックを明かした「ネタばれ」です。横溝の「人面瘡」を未読の方は、これから本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

横溝正史「人面瘡」は100ページ弱の中編であり紙数は決して多くないが、そうしたなかでも「人面瘡」という病の正体を科学的根拠から横溝が全くごまかすことなく書いて説明しており、その点がまずは読み所である。本作での横溝による「人面瘡」の合理的解釈といえば金田一いわく、

「戦後こういう記事が新聞に出たことがあるんです。あるところのお嬢さん…そのひとのわきの下に原因不明のおできができた。それで、お医者さんに切開してもらったところが、人間の歯や髪の毛が出てきたんですね。そこであらためて鑑定を請うたところが、そのお嬢さん、双生児にうまれるべきひとだったんですね。ところが、摂理の神のいたずらで、双生児のひとりがそのお嬢さんの胎内に吸収されていたんだそうです。それが生後二十何年かたって、歯となり、髪の毛となって、お嬢さんの体の一部から出てきたというんです」

つまりは、女性の腋(わき)の下に不気味に現れた人面瘡は、「本来は双生児にうまれるべき人で、双生児の一人が片方の胎内に吸収され結果、それが生後何十年か経って、歯となり髪の毛となって体の一部から出てきたもの」という実に科学的根拠に基づいた合理的なものであった。そうして自身は妹を殺害していないのに、あたかも「夢遊病中の無意識下にて、もしかしたら私が妹を殺したのかも」と不思議なほど強い罪悪感に彼女が苛(さいな)まれてしまうのは、実際に今回の事件で殺害された妹に対する罪の意識ではなくて、実は「人面瘡」として自身の腋下に現れた、本来は別々に生まれてくるはずであった自分の身体に吸収されたもう一人の、まだ見ぬ双子の妹に対する彼女の深層心理下の罪悪感に由来するものであったのだ。

また「人面瘡」での殺人の方法や現場不在証明(アリバイ)のトリックも、犯人の意外性があって面白い。女性殺害の犯人は老齢で身体が不自由で動けない宿の大女将(おおおかみ)の御隠居なのだが、金田一が指摘するように「人間を溺死させるには、なにも大海の水を必要としないのです。そこにある盥(たらい)いっぱいの水でも、十分に目的を達することはできる」のであり、川淵での溺死に見せかけて、実はたった一杯の盥(たらい)の水に顔を押しつけて室内にて溺死させ殺した。それから窓外の川に遺体を投棄し、川の激流に任せて遺体は遥か下流まで勝手に流され、ついには川渕にて溺死体となって発見される。当然「死体の移動」により犯行現場がズレて錯覚されているから殺害推定時刻に犯人の大女将の御隠居は遠方の屋内におり、しかも彼女は老齢で体力なく身体が一部不自由なため「まさか御隠居が犯人であったとは!」の驚きの意外性があるわけである。

そうした老齢で身体が不自由な大女将が若い被害者の女性の顔を耳盥(みみだらい)に不意に背後から押しつけ溺死させる絶好な犯行機会に恵まれたのは、被害者女性が眼病で眼を患(わずら)っており、日常的に盥に顔をつけ洗眼する習慣があったことによる。それは何よりも、「当地の山奥の湯治場が昔から眼病によく効くことで定評がある」の舞台設定にて、話の冒頭から丁寧に伏線を張る横溝正史の周到さによるものであった。

再読 横溝正史(35)「貸しボート十三号」

横溝正史「貸しボート十三号」(1957年)は、基本は陰惨・猟奇な殺人事件なのだけれど、なぜか読後にはさわやかな(?)読み味の余韻が残る不思議な探偵小説である。本作は名門大学ボート部を舞台にした金田一耕助が活躍する探偵推理であり、「学園もののカレッジ(大学)青春小説」といった感がある。話の概要はこうだ。

「隅田川の河口に浮いていた貸しボートの中で、豊満な肉体をレインコートに包んだ女性と裸の男の死体が発見された。女は絞殺された上で左の乳房を鋭利な刃物で抉(えぐ)られ、男は逆に首に紐(ひも)の跡を残しながらも心臓をひと突きされているのが致命傷であった。しかも、不審なことに二つの死体の首が、どちらも半分切られていたのだった。女は某省某課に勤める大木健造の妻の藤子、男はX大学ボート部のチャンピオン・駿河譲治ということが分かった。そして殺害現場が合宿のボート・ハウスであることも判明した。ボート部員を巻き込んだ『生首半切り擬装心中事件』と称される、この連続殺人の謎に金田一耕助が挑む」

貸しボートの中で男女の惨死体が別時刻にそれぞれ殺害されたにもかかわらず、あたかも同時に心中したように見せかけた殺人事件である。ボートの中はおびただしい血の海、しかも男女ともに生首を半分だけ切りかけの状態にて放置するという誠に陰惨・猟奇な殺人事件であった。本作タイトル通り、死体発見現場の「貸しボート」が「十三号」という不吉な数字であるのも、なるほど納得だ。

書き手の横溝は、「なぜか遺体の生首が半切り状態であること」の謎を本編記述にて異常に煽(あお)る。探偵推理小説の常識からして、おそらく犯人は遺体の身元を隠すために首を切り落として首なし死体にしようとしたのだが、何らかの事情で首切断作業を中止せざるを得なかっただけのことだろうと予測される。しかし、その事情が微妙に異なる所が何よりも本作の読み所である。実のところ「半分首を切断されかけた死体、頸部(けいぶ)をノコギリかなにかで引かれて、しかもまだわずかに胴体とつながっている男女ふたりの死体」というのは、「被害者の身元を隠すためではなくて、むしろ…」云々の殺害現場発見時を見越しての犯人による、あらかじめの誤誘導(ミスディレクション)策略という点が「貸しボート十三号」という作品の肝(きも)であり、話の面白さの源泉といえる。

そして、その複雑操作の死体処理の背後には「伝統ある大学ボート部の母校の名誉を守るため、同じ合宿所にて共同生活を送るボート部学生同士の友情やボート部員のある若者の挫折、部員の皆が好意を寄せる令嬢ヒロインへの献身」の青春群像が幾重にも絡(から)んである。実はこの点こそが、前述の「基本は陰惨・猟奇な殺人事件なのだけれど、なぜか読後にはさわやかな(?)読み味の余韻が残る不思議な探偵小説」に本作をするに至るのである。ゆえに探偵の金田一耕助が、事件関係者の皆が招かれた夕食会の席上にて、事件の全容を語って犯人が明らかにされる「最後の晩餐(ばんさん)」たるラストの場面は陰惨な「生首半切り擬装心中事件」の見かけにもかかわらず、どこまでも明るくさわやかで救いのある希望に満ちた結末なのであった。

このように事件の犯人が明かされても不思議とさわやかで明るい救いの希望があるのは原理的に言って、つまりは殺害された被害者の男女の方に大いに問題があるからであって、いわば「勧善懲悪」の筋書きだからである。実際、殺害したり生首を切り落とそうとした犯人よりも、殺害された男女二人の方が断然に「悪」であり、殺害した犯人の方は比較的「善」である。被害者には殺害されても致し方ない「身から出たサビ」の自業自得な印象が読んで私には正直、強く残った。

再読 横溝正史(34)「悪魔の降誕祭」

横溝正史の探偵小説には「悪魔」の冠(かんむり)がつく作品が多い。例えば「悪魔が来りて笛を吹く」(1953年)や「悪魔の手毬唄」(1959年)や「悪魔の設計図」(1938年)や「悪魔の家」(1938年)といった具合だ。そして本作「悪魔の降誕祭」(1958年)である。「降誕祭」とはクリスマス祭典のことだから、より平易に「悪魔の降誕祭」は「悪魔のクリスマス・パーティー」ともいえる。

「悪魔」と名がつく横溝作品にあって横溝正史が優れているのは「悪魔」に関し、物語中で誰が真の「悪魔」であるのか連続殺人事件の犯人や、さらにその犯人を背後で巧妙に操る黒幕人物たる「悪魔」の正体の意外性と、なぜその人物が「悪魔」たりうるのか「悪魔が他ならぬ悪魔である」理由の明確な説明が毎回あることだ。特に後者の「悪魔の理由についての説明」に関し、横溝は非常に優れている。探偵小説にて「悪魔」といっても横溝の場合、ただ単に何となく漠然と恐ろしい戦慄な「悪魔」のオカルト演出ではないのである。作中に出てくる「悪魔」は何となくの雰囲気演出ではなくて、反倫理的な出生の秘密や隠されていた悪徳罪業(あくとく・ざいごう)の過去、実は事件全体を背後にて操(あやつ)る黒幕的役割遂行や世間の人には知られていない人知れずの裏の性癖など、明白に「その人物が悪魔に他ならない」理由まで横溝は毎作、考えて律儀(りちぎ)に書いている。横溝正史は非常に優れており、優秀である。

人はあらかじめ自身の中で強く意識していないと、いざ実際にそのことを実践し遂行できない。横溝正史は「悪魔」のタイトルがつく作品を執筆する際には、いつも「悪魔の正体の意外性」と「なぜその人物が悪魔たりうるのかの理由」の二つの要訣を必ず押さえ事前に構想して意識的に毎回、書き抜いているに違いない。よって私たち読者は、横溝の「悪魔」のタイトル・シリーズを読む際には書き手の横溝の意図に沿って、作中にて「一体、誰が悪魔であるのか」と「その人物がなぜ悪魔といえるのか」の二つのポイントを意識して読み進めるべきであり、「悪魔」に関するそれら二点の要訣を味わって読むべきだ。

横溝正史「悪魔の降誕祭」のあらすじは以下である。

「昭和32年12月20日、金田一耕助が等々力警部の持ってきた事件の関係で外出しようとした刹那(せつな)、小山順子と名のる女性から相談の電話が入った。等々力警部の件を優先することにした金田一は、彼女に夜9時までに緑ヶ丘荘の自分のフラットに来るように伝える。しかし、等々力警部の件にだいたい目鼻をつけて、ジャスト9時にフラットへ戻ってきた金田一を待っていたのは、地味なスーツを着た女性の死体であった。自分に事件の相談に来た依頼人が自身の探偵事務所にて殺害されるとは私立探偵・金田一耕助にとって全くの手落ちであり、激しい屈辱である。それは犯人の『悪魔』からの堂々たる挑戦であったのだ。 緑ヶ丘荘管理人から女性が小山順子と名乗ったことや、所持品から小山順子は偽名で本名は志賀葉子であり、ジャズシンガー・関口たまきのマネージャーであること、さらに死因は青酸カリによる毒殺であることなどが判明する。彼女のバッグには新聞記事の切り抜き写真が残されており、その写真には関口たまき(本名は服部キヨ子)とその夫・服部徹也、ピアニストの道明寺修二、道明寺の知人である未亡人、上半身が切られた柚木繁子が写っていた。さらに殺害現場の壁の日めくりカレンダーは5日分が剥(は)ぎ取られて25日を示していた。つまり、それは犯人の『悪魔』による12月25日の『降誕祭』(クリスマス会)の殺人予告であった。また、その後の調査で服部徹也の前妻の加奈子も以前に青酸カリを飲んで死んでいたことが判明した。

そして25日当日、西荻窪の服部夫妻の家で新居披露のクリスマス・パーティーの最中に、たまきの夫・服部徹也が彼女の部屋で刺殺体となって発見される。発見したのは、たまきと道明寺修二で、二人はお互いを名乗るにせ手紙で、たまきの部屋におびき寄せられたこと、徹也はたまきの部屋と浴室の脱衣場に通ずる小廊下で背後から不意にナイフで刺され、絶命していたことが判明する。当初は、たまきと道明寺が疑われたが、脱衣場で徹也と話をしたという徹也の娘・由紀子とそれを目撃した女中の浜田とよ子の証言、たまきと道明寺の仲を嫉妬し疑って二人を監視していた柚木繁子の証言などから、たまきと道明寺の二人に犯行機会がないことが判明し、捜査は行き詰まる。それから一ヶ月後の1月下旬、たまきの家で彼女と道明寺の婚約披露の宴が催されたその席で、最後の惨劇とともに事件は一挙に解決する」。

「悪魔の降誕祭」の登場人物のうち、事件の捜査に当たる探偵の金田一耕助や等々力警部ら警察関係者、二つの連続殺人の被害者以外で、誰が事件の犯人たる「悪魔」であるのか。犯人の「悪魔」の可能性がある怪しい人物をすべて書き出してみると、 関口たまき(ジャズシンガー)、服部徹也(たまきの夫、第二の殺人にて刺殺)、服部可奈子(徹也の先妻、すでに故人)、服部由紀子(徹也と可奈子の娘)、関口梅子(たまきの伯母)、志賀葉子(たまきのマネージャー、第一の殺人にて毒殺)、浜田とよ子(たまきの弟子兼女中)、道明寺修二( ピアニスト、たまきの恋人)、柚木繁子(未亡人で道明寺の知人)

まず関口たまきが怪しい。たまきのマネージャー・志賀葉子が殺害される第一の殺人は青酸カリによる毒殺だが、たまきが現夫の服部徹也と以前に交際時には、徹也は既婚者で可奈子という妻がいた。だが、妻の可奈子は関口たまきに誠に都合がよい具合に、やがて青酸カリによる服毒「自殺」を遂げている。世間的には可奈子の「自殺」で処理されたが、服部徹也を自分のものにしたい関口たまきが青酸カリを混入して可奈子を毒殺した疑いも実は拭(ぬぐ)えないのだ。よって、志賀葉子の第一の殺人の犯人は関口たまきか!?加えて、今は服部徹也と夫婦になっていたが、ジャズシンガーの関口たまきは夫・徹也に内緒でピアニストの道明寺修二と陰で交際している。たまきにとって第二の殺人の被害者である徹也も、今では邪魔な存在であった。

服部徹也が邪魔な存在であることは、既婚者の関口たまきと極秘に交際している道明寺修二にとっても同様だ。道明寺修二にも殺害動機はある。第二の殺人にて、たまきと道明寺は、にせ手紙で殺害現場に呼び寄せられたことになっているが、関口たまきないしは道明寺修二が、にせ手紙を自分で書いて呼び出されたふりをした自作自演の可能性も否定できない。また未亡人であり、道明寺修二の知人である柚木繁子は密(ひそ)かに道明寺に思いを寄せている。彼女は、たまきと道明寺の交際に激しく嫉妬していた。何よりも第一の殺人で殺害された関口たまきのマネージャー・志賀葉子の所持品の中に上半身が切られた柚木繁子が写った新聞記事の切り抜き写真があった。柚木繁子は関口たまきのマネージャー・志賀葉子に何らかの秘密を握られ結果、彼女を殺害したとも考えられる。よって、殺人動機と状況証拠からして柚木繁子も怪しい。

その他の関係者、徹也と前妻・可奈子の娘であり、関口たまきと義理の母子関係にある一人娘の服部由紀子、たまきの伯母である関口梅子、たまきの弟子兼女中である浜田とよ子に関しても、殺害時刻に確固としたアリバイ(現場不在証明)がなかったり、彼女らの所持品がなぜか殺人現場近くに不自然に落ちていたりで、彼女らも疑おうと思えば果てしなく疑えるのである。連続殺人の犯人である「悪魔」は一体、誰なのか!?

(以下、犯人の正体を明かした「ネタばれ」です。横溝の「悪魔の降誕祭」を未読の方は、これから新たに本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

さて、二つの連続殺人にて実際に殺害された志賀葉子と服部徹也以外、全ての関係人物が犯人の「悪魔」の可能性がある非常に錯綜(さくそう)した事件である。真の「悪魔」は誰なのか。実は犯人の「悪魔」は何と、やがて十六歳になる可憐な娘の服部由紀子だった!ことし十六歳を迎える由紀子は、軽い顔面神経痛がある神経質で繊細な性格で、普段より演劇舞台のシナリオ執筆に熱中するなど文学的才能ある早熟な娘である。彼女は、実母・可奈子を捨てて関口たまきに走った派手な男女交際を繰り返す実父の徹也を嫌悪していた。徹也の新しいパートナー関口たまきも嫌悪していた。そろそろ思春期へ入っている由紀子にとって、父も母も憎悪の対象以外の何物でもなかったのである。かつ娘の由紀子は、たまきの財産を狙っていた。仮に事態がこのまま推移して、道明寺修二と交際中の義母の関口たまきは実父の服部徹也と離婚し、やがて道明寺と再婚するだろう。そうすれば自分は継母・たまきの財産を相続できなくなる。特に第二の服部徹也の殺人事件は巧妙な奸智(かんち)に長(た)けて、関口たまきに夫・徹也殺害の罪をなすりつけようとする由紀子による策略だったのだ。由紀子は金田一に「どの点からみても一点も同情する余地のない鬼畜性」をはっきり有していると言わしめる、「悪魔」たるに十分であった。

この見た目は「可憐な」十六歳の少女、服部由紀子が連続殺人の犯人というのは、後々「悪魔の降誕祭」の殺人事件の概要を振り返ってみると「なるほど」と合点(がてん)がいく。毎回、絞殺や撲殺や遺体がバラバラや遺体の顔面が毀損(きそん)など出来るかぎり派手な殺害を好む横溝正史の探偵小説である、時に華美な見立て殺人の趣向まで凝らして。それがどうしたわけか、今回の「悪魔の降誕祭」に限って青酸カリによる毒殺とか背後から不意討ちのナイフによる刺殺など、如何せん地味な殺害方法に終始している。これもまだ十六歳の「悪魔」、少女で力の弱い服部由紀子が実は犯人であることを遠回しに示唆する事件解明の伏線であったと読後には思えなくもない。

また第一の殺人の被害者、金田一耕助に事件の相談に行き、金田一の探偵事務所内で殺害された関口たまきのマネージャー・志賀葉子が所持していた新聞の切り抜きは、関口たまきや服部徹也、道明寺修二、上半身の切られた柚木繁子の新聞写真を金田一に見せたかったのではなく、実はその裏面にある「世田谷松原方面一体で犬の奇怪な集団中毒が発生」の新聞記事を金田一に読ませて志賀葉子は、今から起こるであろう殺人事件の相談をしようとしていたのであった。すなわち「犬の奇怪な集団中毒」というのが、服毒自殺を遂げた亡き実母・可奈子から「かたみ」として毒物を密かに譲り受けた娘の由紀子が、父の徹也と義母のたまきを近々毒殺しようとして、その予行演習のために近所の犬に青酸カリを飲ませ中毒にさせていたことに関口たまきのマネージャー・志賀葉子は気づいていたのである。近日中に徹也とたまき夫婦は娘の由紀子に毒殺される。その相談のために金田一の事務所に赴いた志賀葉子は、これまた葉子の行動を事前に察知した服部由紀子により金田一の事務所にて、葉子が常用の薬に由紀子が混入した青酸カリで毒殺されたのであった。

金田一耕助の推理によって連続殺人事件の犯人と指摘され悪行が露見した由紀子は、金田一ら衆人環視のなか自ら毒を飲んで自害した。「まったく恐るべき少女」であり、「悪魔の申し子」たる服部由紀子の最期は以下である。まさに「悪魔の断末魔」に相応(ふさわ)しい壮絶なラストの幕切れであった。

「由紀子はねじれた顔をいよいよひきつらせ、口からあぶくを吐きながら、『だれが…だれが…おまえなんかにつかまるもんか。…おまえなんかに…おまえなんかに…おまえなんかに…』それから由紀子はまるで、害虫に食いあらされつくしていた木が倒れるように、音もなく、ふわりと床のうえに倒れていった。これが悪魔の申し子のようなこの娘の最期だったのである」

横溝正史「悪魔の降誕祭」は、そこまで有名な人気作というわけでもなく、金田一耕助の探偵譚として世間的にはあまり広く知られていない作品なのかもしれない。だが、横溝の「悪魔」のタイトル・シリーズたるに相応しく、「悪魔の正体の意外性」と「なぜその人物が悪魔たりうるのかの理由」の二つの要訣を押さえ上手く創作されている。特に本作にての「悪魔の正体の意外性」は、ほとんどの読者が予測できず、初読時には多くの人が驚くのではないだろうか。

再読 横溝正史(33)「三つ首塔」

横溝正史「三つ首塔」(1955年)は「横溝の暗黒時代」と目される1960年代間近の連載長編であり、しかも本格の探偵推理雑誌「宝石」に掲載の作品ではないため(戦後の横溝は「宝石」に連載のものは力を入れた本格推理をしっかり書くが、「宝石」以外の一般誌にはあからさまに力を抜いた案外いい加減な通俗物を執筆提供する悪い癖があった)、「どちらかといえば出来の良くない横溝作品」というのが昔からの私の率直な感想だ。

戦後に私立探偵・金田一耕助を創出し、謎解きトリックの本格の探偵小説の傑作を次々と果敢(かかん)に世に出したが、やがて1960年代になると戦後に新しく出てきた論理的な謎解きトリックよりも現代社会との接点のリアリティを重んじる「社会派」の推理小説に押され、横溝のような昔からの本格志向の探偵小説の書き手は不人気で干(ほ)されになっていく。後に多数の横溝作品の映像化にて1970年代に「昭和の横溝ブーム」が再び訪れる以前の、いわゆる「横溝の暗黒時代」である。

本作「三つ首塔」も、そうした横溝の人気の陰(かげ)りの暗黒時代に突入前夜に執筆連載されたものだけに、確かに探偵の金田一耕助と等々力警部のいつものコンビは登場するものの何だか横溝の筆の迷いが感じられる通俗長編の悪印象が一読して残る。この時代の横溝は、世間的には社会派の推理小説が大人気であり、自身が以前に書いてきた伝統的な本格の探偵小説が世間ウケしないことを(おそらくは)知っていて変に腰が引けて妙に遠慮して、もはや金田一ものであっても練りに練ったトリック趣向の本格の探偵小説は書けないのである。それで迷いに迷って中途半端な風俗小説のような通俗長編を時に書いてしまう。

横溝正史「三つ首塔」の話の概要は以下だ。

「宮本音禰(みやもと・おとね)は、13歳のときに両親を亡くし、伯父の某私立大学文学部長で英文学者である上杉誠也にひきとられた。 昭和30年9月17日、音禰は、遠縁に当たる佐竹玄蔵・老人の百億円に近い財産を、高頭俊作という見知らぬ男と結婚することを条件に譲られることになっていることを告げられる。その1ヵ月後の10月3日。上杉伯父の還暦祝いの夜に、連続殺人の最初の事件が起こる。その連続殺人事件は、玄蔵老人が、かつて死に追いやった2人の男と自らの合せて3人の首を供養するために建てたという供養塔『三つ首塔』に起因していた」

本作記述は主人公の宮本音禰が語る一人称表記である。自身の幼少の記憶の中にかすかにある日本のどこかに実在する、今回の一連の連続殺人事件のカギとなっている三人の死者の首を模して祀(まつ)ってある供養塔「三つ首塔」の前に立ち、この因縁の場所に至るまでの自分の波乱な数奇の出来事の連続を彼女が語り出すのであった。

本作についての定番評価で「推理小説とメロドラマの融合を試みた作品」というのが昔からあるが、なるほど、そうした読み心地の内容である。トリック重視の本格の探偵小説とは程遠く、男女の肉欲や同性愛や特殊な性的嗜好趣味(SMやハプニング・バーなど)が入り交じる風俗小説である。この事件に巻き込まれる以前は、良家の世間知らずな品行方正な清楚な箱入りのお嬢様であった主人公の宮本音禰が、誠に気の毒なまでに肉体的にも精神的にも女として堕(お)ちていく。こうした長編小説を楽しんで読める読者層とは一体、どういう人達であろうか。良家の清楚な子女を背徳の罠に陥(おとしい)れたい邪悪な欲望を密(ひそ)かに隠し持っている女性調教願望(?)に苛(さいな)まれている仮面の紳士か。もしくは逆に、本作の主人公・宮本音禰と同様な境遇の清純な良家のお嬢様が、「もし彼女が自分だったら!」と危険な背徳の妄想をしながら感情移入してハラハラドキドキで読み進めるのだろうか。

「ある日、突然、音禰は遠縁に当たる佐竹玄蔵老人の百億円に近い財産を、高頭俊作という見知らぬ男と結婚することを条件に譲られることになっていることを告げられる」。見知らぬ謎の男、高頭俊作と結婚しなかった場合、音禰は百億円の遺産を相続することはできない。彼女は遺産相続の権利を失ってしまう。また不幸にも(!)、仮に宮本音禰ないしは高頭俊作の当事者が亡くなった場合には、残された佐竹家の人々の間で百億円の遺産は等分される。もちろん、残された親族の人数が少なければ少ないほど一人分の相続額は増えるわけである。最悪、自分以外の遺産相続権利者が全員亡くなってしまえば百億の遺産は独り占めできるわけだ。そうして「高頭俊作」を始めとして、音禰の周りの佐竹家の人々が次々と何者かに殺害されていく。しかも、肝心な殺害犯行時刻に当の音禰は毎度、謎の男に連れ回され、夜の都会の怪しい会員制の秘密の風俗会合に案内されその度に堕落して、このため「犯行時刻にどこにいたか」家族や警察に真実を告げられず、現場不在証明(アリバイ)が出来ず、かつ毎回、殺害現場に行った覚えはないのになぜか彼女の所持品が現場に残されてあるという犯人の周到さである。

「三つ首塔」を初読の際、多くの人は今回の連続殺人犯人の正体とその殺人動機を見抜くことはなかなか難しいのではないか。それほどまでに犯人は見事な「盲点」となっており、殺人動機もなかなか推測しにくいものだ。

横溝正史「三つ首塔」は横溝作品の中でも過去に割合よく何度も映像化されている。テレビドラマによくなっている。私はいずれの「三つ首塔」のドラマも未鑑賞なのだが、機会があれば視聴してみたい。それにしても原作に忠実に映像化するとなると、「三つ首塔」の主人公・宮本音禰にキャスティングされ演じる女優は肌の露出が多すぎて大変だ(笑)。