アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

東京スカパラダイスオーケストラ大百科(12)「Full-Tension・Beaters」(冷牟田竜之・その3)

(前回からの続き)また近年の「冷牟田竜之・独占インタビュー」で、「東京スカパラダイスオーケストラ」の立ち上げからメジャー・デビューに至るまでの「バンド内の中心メンバーの変遷」の話を読んで私は非常に興味深かった。冷牟田竜之に関し、スカパラの面々に最初に出会って、スカパラ以前にやってた「ブルー・トニック」(Blue・Tonic)を解散し、スカパラに本格的に参加するまでの経過をまとめるとおよそ以下のようになる。

「Blue・Tonicは活動期間が短かったんですけど、中期くらいでスカパラのメンバーと知り合ったというかASA-CHANGと会ったんですよ。…自分の中でスカが盛り上がってるタイミングにASA-CHANGと会って。当時バンドとして体を成してない頃のスカパラに、『プロのミュージシャンが一人もいないから練習を見に来てくれ』って頼まれて見にいったのが、きっかけなんですよ。(スカという音楽への傾倒はあったものの、最初はその前段階での出会いだったと。実際に当時の印象については覚えていらっしゃいますか?)いやぁ、ものすごいヘタクソで(笑)。考えられないくらい。ただ、青木(ドラム)と沖(キーボード)はずば抜けて良かったので、『これはなんとかなるな』と思ったんですよね。」

それから、「(実際にBlue・Tonicのライブにも参加されたり、冷牟田さんご自身も同時進行でスカパラに参加されています。一方でBlue・Tonicは解散という選択をします)…まぁ、仕方ないなと思ったんで。それで一層、スカパラの方に力が入るようになったんですよね。(解散されてからはスカパラ1本になるわけですが、最初はパートがパーカッション?)何しろ、ASA-CHANGが最初リハーサルに来なかったんで、忙しいから(笑)。で、パーカッションはいないし、ベースは川上がいたし。で、当時居たホーンのメンバーとかギターとかも全部入れ替えちゃいましたね。ギムラと2人で(笑)。『すまないけど、辞めてくんないか?』っていう話をしたのを覚えてる。三宿のデニーズでね、夜中2人で会って、どうやっていくかというのを本当によく話してた。」

その後、「(Blue・Tonic解散からスカパラ・デビューまで期間としては短い印象でした)準備期間はあったんだけど、割と早い段階からいろんなところに点を置いていて、一気に線に繋(つな)がるタイミングが早かったなぁとは思う。当時、Blue・Tonicで一緒に動いていたブレーンとかに色々声を掛けたり、お願いをしていたのが功を奏したのはあったかな。当時はマネージャーもいなかったし、全て自分で考えて自分で動くっていう。ライブの組み立てとかも集客が拡大していくように戦略を立ててやっていたので。(ということは、加入された時点で冷牟田さんご自身がリーダー的な役割を果たされていた?)う~ん、デビュー前までそんな感じでギムラと2人でやってて。ただデビューが決まったタイミングでASA-CHANGが帰って来ちゃうっていう(笑)。まぁ、バンドが軌道に乗ってきたタイミングだったんだけど。で、戻ってきてくれたからASA-CHANGに任せちゃえって。面倒くさいわけですよ、自分で考えてやっていくっていうのが疲れるしね。ギムラも、そうした方が良いよねって言ってて。」

私は読んでいて、この話は非常に納得がいった。というのは、スカパラはもともとASA-CHANGが「東京スカパラダイスオーケストラ」って名前を事前に考えて、なぜかメンバーを集める前からバンド名だけ考えていて(笑)、ASA-CHANGがバンド・マスター(バンマス)のリーダーだったけれど、アルバム「パイオニアーズ」を制作した後に自ら「スカパラ脱退します」「もうバンド解散しましょう」になってしまう。その時にスカパラの発起人でリーダーのASA-CHANG自らが「自分は脱退するからスカパラを解散させる」と言っているのに、残りのメンバーが「いや、俺たちは解散しない。スカパラ続けるから」と言って頑(かたく)なにバンドを続ける、「ASA-CHANGがいなくなってもスカパラ継続の秘密」が何だか分かったような気がした。

先の冷牟田竜之のインタビューを読むと、スカパラはASA-CHANGが発起人でリーダーでメンバーを集めてバンドを結成したけれど、どうも最初から一貫してASA-CHANGが主導権を握ってメジャー・デビューへ向けての色々な準備をしていたわけではない。彼は本業のヘアメイクの仕事があったから忙しくて最初の練習もスタジオに来れなくて、ASA-CHANGの代わりにバンド内の様々なことを冷牟田とクリーンヘッド・ギムラの2人がやっていた。ファミレス「三宿のデニーズ」で夜中に2人で会って、本当によく話をしながら。バンドをやった経験がある人なら少なからず誰でも苦(にが)い思い出としてあると思うのだが、まさに「すまないけど、辞めてくんないか?」のような演奏が下手なメンバーにバンドを辞めてもらうよう懇願する、そういう嫌な損な役回りも冷牟田とギムラのコンビでやって初期スカパラを試行錯誤で切り盛りしていた。バンマスのリーダーASA-CHANGがやるのではなく。

そして、スカパラの体制が整ってバンドが軌道に乗り始めて、いよいよメジャー・デビューが決まった時にASA-CHANGが復帰してバンドに戻って来て、またリーダーの中心になる。「デビュー前までそんな感じでギムラと2人でやってて。ただデビューが決まったタイミングでASA-CHANGが帰って来ちゃうっていう(笑)。まぁ、バンドが軌道に乗ってきたタイミングだったんだけど。で、戻ってきてくれたからASA-CHANGに任せちゃえって。…ギムラも、そうした方が良いよねって言ってて」。それで冷牟田とギムラの2人は、バンドの中心的役割から身を引く。そういったスカパラ立ち上げからメジャー・デビューに至るまでの間に「バンド内の中心メンバーの変遷」があり、「最初はASA-CHANGだったが、次第に冷牟田とギムラとなり、また後に復活してASA-CHANGが中心」の動きが以前にあったので、ASA-CHANGが「スカパラ解散しましょう」と言った時も案外、皆がASA-CHANGの提案に従ってあっさり解散せず、発起人でバンマスだったASA-CHANG抜きでもそのままスカパラを継続できた。

つまりは、ASA-CHANGが事前に「東京スカパラダイスオーケストラ」というバンド名も練(ね)りに練って考えて、とりあえず人数を集めてスカパラを結成したけれども、メジャー・デビュー以前には本業のヘアメイクの仕事が忙しくバンド不在で、そのため冷牟田とギムラの2人が運営の主導で色々やっていた。だからASA-CHANGが途中で辞めても、バンドを軌道に乗せた冷牟田とギムラ中軸のメジャー・デビュー以前の体制に再び戻っただけのことで、ASA-CHANG抜きでも最初からスカパラのバンド運営は普通にできていたし、解散せずにスカパラは活動を続けられた。なぜなら初期の実質的な運営で苦労人なクリーンヘッド・ギムラと冷牟田竜之が、まだスカパラには残っていたから。

事実、ASA-CHANGが脱退後のスカパラはギムラと冷牟田を中心に動く。ASA-CHANGが抜けてからの最初のアルバム「ファンタジア」はクリーンヘッド・ギムラの主導で、ギムラの色が際立った派手でカラフルなアルバムだ。「ASA-CHANGが辞めてバンドを今解散するのは簡単なことだけど、なくすには惜しいバンドなんだよ」と言っていたギムラの「スカパラ愛」にあふれる本当にギムラ色が強くて濃い、まさに「ファンタジア」はギムラのアルバムだという感慨が私は強い。

それから、アルバム「ファンタジア」が完成後にクリーンヘッド・ギムラが亡くなり、しばらくしてドラムの青木達之も亡くなって、バンドの屋台骨が揺らいでメンバー全員が精神的に非常に動揺している「幾度目かのスカパラ・バンド危機」の時に、コンビで相棒のスカパラ初期の相談役のギムラをすでに失い独り最後に残った、バンド初期のもう一人の苦労人である冷牟田竜之が今度は自ら手を挙げて、「新しいアルバムのプロデュース、俺にやらせてくれ!俺に仕切らせてくれ!」と名乗り出る。アルバム「Full-Tension・Beaters」やライヴ・アルバム「Gunslingers」での冷牟田が大回転で大活躍の怒涛(どとう)の黄金時代に、いよいよスカパラは突入する。当時のバンド内の状況について後に谷中敦は語っている。「あの頃の冷牟田さんは『アイディアが出ちゃってしょうがない』という感じで炸裂してたから。『それ面白いっすね!』って、みんなで付いていったんです」。

この頃、スカパラはレコード会社を移籍してギムラの弟の杉村ルイを正式メンバーとしてフロントのボーカルに迎えたけれど、結局うまく行かなくて杉村ルイは間もなくスカパラを辞めてしまう。「移籍しての1発目で外してギリギリのところになってきた。後がない。もう失敗できない」といった相当な危機感も当時のスカパラにはあった。

「ルイが加入することになるんだけど、これがうまく行かなかった。一緒にやってみてやれないねっていうバンドとしての判断があって。ただ、そうなったところでこれは『ギリギリのところになってきたな…』っていうのが自分の中に感覚があって。その、移籍して1発目を外してるわけでしょ?で、そこで手を挙げたんです。『俺にリーダーを任せてくれ』っていう話を、みんなにして。そこから『火の玉ジャイヴ』とかの流れになって行くという。」

そして、アルバム「Full-Tension・Beaters」でのハードコアで激しくやるインスト・スカ路線、幾度目かの巡り来るバンド危機の試練な「スカパラ冬の季節」はやがて過ぎて、やや雪溶けの穏健な「メーカー主導のアイデア」による歌モノ3部作を新たにやる頃には、冷牟田には体力も精神力も残っていなかった。すでに全部やり尽くし出し尽くして完全燃焼していた。すなわち、

「ちょうど歌モノに移行した辺りではもう自分的にはやりきっていたというか、燃え尽きた感じで。何も出来ないっていうくらい、もう力が残っていなかったと思う。体もすごいムリをしていたし、精神的にも自分で負荷を掛けてやっていたので、一旦リーダー的な役割を離れてっていう風になってからはモチベーションも維持できなくなっていった。維持できなくなってからは欝(うつ)が酷くなっていって、辞める直前までそういう状態が続いていたかな。」

それから間もなくして非常に残念なことに、冷牟田竜之はスカパラを脱退してしまう。