アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(1)「横溝正史読本」

思えば「虚無への供物」(1964年)の中井英夫が江戸川乱歩が好きで、その乱歩好きが高じて、まさに「虚無への供物」という「乱歩愛」一筋の乱歩に捧げた長編密室物を本気を出して書いて、しかし、あまりにも本気を出しすぎて(笑)、この現実の世を徹底的に相対化する天上界のアンチ・ミステリーとなり、「虚無への供物」が本家・江戸川乱歩の書く探偵小説を軽々と凌駕(りょうが)してしまって結果、審査委員長の当の乱歩が意味が分からず見事、中井の「虚無への供物」は江戸川乱歩賞を落選し、結局は中井と乱歩との相思相愛ならずという悲劇な笑い話が戦後の探偵推理ミステリー文壇にてあった。

そうした「悲劇な」中井英夫が江戸川乱歩のことを「大乱歩」(だい・らんぽ)と呼んで称賛しているのに倣(なら)って、僭越(せんえつ)ながら私も横溝正史のことを「大横溝」(おお・よこみぞ)と呼んで日々ひそかに称賛している。江戸川乱歩と横溝正史は「大乱歩」と「大横溝」であり、日本の探偵小説史にて燦然(さんぜん)と輝く二つの巨星だ。そういったわけで今回から始まる新しい特集「再読・横溝正史」である。

横溝が良いのは、まず多作であることで発表された作品数が多く、毎日定期的に読み続けてもなかなか読み尽きない、そう簡単に弾切れにはならない。しかも多作であるのに破綻の劇的失敗作が少ないため安心して読み続けられる。駄作がそれほどまでになく、横溝の筆が比較的安定している。以前に海外ミステリーでモーリス・ルブランの「怪盗リュパン」のシリーズを、まとめて全作続けて読んだことがあった。南洋一郎の改作ジュヴナイルの「怪盗ルパン」ではなくて、本家ルブランのオリジナルの「リュパン」を。その際にルブランは筆が安定していなくて、特に長編リュパンに関し明らかに出来が良くない、中途で読むのが苦痛になって放り出したくなる作品が、いくつかあって苦労した。やはり前述の中井英夫ではないけれど、「小説は天帝に捧げる果物。一行たりとも腐っていてはならない」。その点、横溝正史は多作の量産作家であるのに比較的筆が安定しており、読み進めて苦痛で読むのを中途で放棄したくなるような、あからさまな破綻の失敗作が少ないため良質な書き手として信頼できる。

あと横溝正史に関しては、以前に角川文庫が横溝作品をほとんど全作、漏(も)れなく完璧に出しまくっていた出版環境があり、しかも昔の角川文庫の横溝作品は表紙絵が杉本一文による上質イラストカバーで、私は杉本のカバーイラストにシビれて横溝の角川文庫を昔からよく購入していた。本当に昔の角川書店はスゴいのである。横溝の代表作はもちろんのこと、まだ当時は横溝は存命だったから、横溝本人にしてみれば今さら読み返されたくない過去の駄作・凡作も、角川は「横溝全集」の完全版を目指して容赦なく片っ端から復刻・再刊して出しまくる。出版社倒産の版元消失で原稿紛失な地方の雑誌に数回掲載のマイナーで傍流な作品でさえも古書店でわずかに流通している古雑誌を発掘し、文字起こしをして角川文庫に強引に入れる。

過去作品の復刻・再版をここまで幅広く執拗に執念深く完全版の勢いで角川にやられ、当の横溝にしてみれば昔の多忙時に乱筆で乱作した、今では封印したい納得できない凡作や失敗作の過去作品もあったはずだ。「横溝さん、大丈夫ですか。さすがに角川はやりすぎだから文句を言った方がよくないですか」。そこまで片っ端に何から何まで全部復刻・再版をやられると、横溝正史の作家評価に傷がつくことを心配した横溝関係者からの角川書店に対する怒りの声も実際あったらしい。当時の角川文庫の、とりあえず横溝の作品なら何でも文庫に収録の、まさに「鬼のような」横溝作品を文庫へ投入の入れ込み方は明らかに異常で常軌を逸していた。

しかし「昭和の横溝ブーム」で横溝正史の本は出せば必ず相当に売れるわけで、角川書店のような野心あるイケイケでやり手の出版社は、ともかく横溝の文庫を「これでもか!」という程に出しまくっていた。横溝ファンとしては「角川の横暴のやり過ぎ」が、多くの横溝過去作品を読めて一読者として嬉しくある反面、横溝本人の「作家の名誉」を考えると横溝関係者の意見と同様、何だか気の毒でもあり正直私は複雑な心境だった。ただ杉本一文による横溝全集、角川文庫の表紙カバーイラストは毎作、実に素晴らしかった。

このように杉本傑作カバーに彩(いろど)られた数多くある角川文庫の横溝正史集は昔の杉本イラストカバーは今や絶版・品切だが、当時の「横溝ブーム」の人気による大量出版で、かなりの冊数が市場に出回ったため現在でも古書で比較的容易に入手できる。だが例外的に版刷が少なく、すぐに品切れで入手困難となり、そのため希少価値が出て古書価格が異常に高騰した書籍も中にはあった。例えば「横溝正史読本」(1976年)の後の文庫本化である。

この本は小説作品ではなくて、横溝正史のファン・ブックのような、まさに「横溝正史読本」の副読本だ。内容は、小林信彦による横溝への長いインタビューや横溝作品の書評が収録されている。本の内容自体は特に大したことはないと私は思うが、熱烈な横溝ファンからすれば「ぜひとも収集して所有しておきたいコレクターズ・アイテム」になるのか。希少の入手困難で一時期は過熱し相当な高額取引をされていたけれど、案外私は醒(さ)めた目で見ていた。「横溝正史読本」は、そこまで内容に価値がある本とは到底、思えなかったから。

次回も「再読・横溝正史」。