アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(8)「悪魔が来りて笛を吹く」

横溝正史「悪魔が来りて笛を吹く」(1953年)、昔の角川文庫の表紙カバー裏解説には以下のようにある。

「毒殺事件の容疑者である椿(つばき)元子爵が失踪して以来、椿家に次々と惨劇が起こる。自殺他殺を交え7人の命が奪われた。子爵が娘に残した遺書『これ以上の屈辱、不名誉にたえられない』とは何を意味するのか?悪魔の吹くフルートの音色を背景に、妖異なる雰囲気とサスペンスが最後まで読者を惹(ひ)きつけて離さない」

横溝正史「悪魔が来りて笛を吹く」は、従来の金田一耕助探偵譚にて定番な地方の村落共同体の閉鎖的因習の話ではなく、太宰治「斜陽」(1947年)のような敗戦後の都市の没落貴族の雰囲気設定の話なのだが、「ネタばれ」しない程度に本作品の主な構成要素の読み所を挙げてみると、まず主要な見るべき殺人は四つで、しかもその内の一つは密室殺人である。「悪魔が来りて笛を吹く」での密室トリックは、私は昔から好きだ。

次に小説世界と現実世界との架橋がある。本作では、戦後に実際に起きた毒殺強盗の「帝銀事件」を彷彿(ほうふつ)とさせる「天銀堂事件」の話題を冒頭に置き、話を展開させる。薬服用の手慣れた手本自演を介しての計画的な毒殺強盗事件、本格的なモンタージュ作成配布による警察の大々的捜査など本作連載発表時にて、当時未解決で進行中の実際の帝銀事件の題材を取り込んで虚構の小説世界が実際の現実世界と上手い具合にリンクして重なり、不思議なリアリティが生じる。横溝は以前に「八つ墓村」(1951年)でも、実際にあった「津山三十人殺し」を作品内に入れ存分に活用し尽くしており、小説世界と現実世界との架橋錯覚の記述手法は今回も横溝は周到で実に上手い。

さらには「悪魔が来りて笛を吹く」と同タイトルな異様な音階メロディーを持つ特異な指運びのフルート楽曲、「亡霊」の彷徨(ほうこう)、砂占いの儀式にて浮かび上がる火焔太鼓(かえん・だいこ)の「悪魔の紋章」、もしくはラストでの同火焔太鼓「悪魔の紋章」の痣(あざ)など、おどろおどろしい怪奇オカルトの怪しい雰囲気演出、小道具の効果満点な使い方が見られる。しかしながら、それら怪奇色風味はあくまでも表面的(デコレーション)な味付けで、肝心の小説中身の本筋は、どこまでも合理的で論理的な本格の探偵小説である。横溝正史が優れているのは、毎回地方の閉鎖的共同体の因習や親族血縁の因縁など非合理な怪奇オカルト要素を多用し最大限利用しはするが、肝心の小説の中身の基本骨格は理詰めで合理的な本格の探偵推理を貫く所だ。この人は、非合理な怪奇やオカルトを小道具使いするけれど、「あくまでも探偵小説の本筋の正統は理知的で論理的で合理的な近代文学にあること」をよく分かっており、無駄にいたずらに怪奇オカルト記述に深入りして惑溺(わくでき)しない。非合理記述引き際の見極めが非常に優れている。

また作中人物らが死際(しにぎわ)に残す謎のセリフの真意や、小説タイトルに秘められた裏の意味の着想が尋常ではない。本作にて登場人物らは死の最期に際し、皆ことごとく驚くほど不気味な謎の言葉を遺(のこ)して死んでいく。「悪魔ここに誕生す」「わたしは畜生道におちいった」の「呪わしい言葉」である。「悪魔」とは「畜生道」とは一体何か。これらセリフの真意を知りたくて読者は作品に惹きつけられ急いで先を読みたくなる。「悪魔が来りて笛を吹く」の小説世界に熱中する。この読者を引き込む横溝による巧妙セリフの着想は実に上手い。

だいいち「悪魔ここに誕生す」の「悪魔」にしても、犯人の容姿や服装や雰囲気が単に「悪魔的」というような漠然とした表現の使い方ではなくて、なぜ「悪魔ここに誕生す」なのであり、なぜ犯人が「悪魔」であるのか。犯人が「悪魔」と呼ばれるのは、まさに「犯人こそは他ならぬ悪魔であって現実に悪魔たりうる」合理的で科学的(生物学的)な確固たる理由があるわけだ。何となくの恐怖雰囲気演出で「悪魔が来りて笛を吹く」ではないのである。加えて、「悪魔が来りて笛を吹く」の小説タイトルに秘められた裏の意味も優れている。本編未読の時は、このタイトルを見ても何とも思わないが、読了するとタイトルに込められた真の裏の意味が分かり、「なるほど、確かに犯人は『悪魔が来りて笛を吹く』だな」と私は深く納得し、昔の角川文庫、杉本一文の傑作カバー絵の「悪魔」がフルートを持つ指の数を思わす確認したくなってしまう(笑)。

「悪魔が来りて笛を吹く」は、作中に出てくる異様な音階メロディーを持つ特異な指運びのフルート楽曲の曲名で、この曲に実は犯人の手がかりが隠されており、しかし私立探偵の金田一耕助は、その楽曲タイトルに込められた裏の意味に気付かず、犯人の「悪魔」に散々に連続殺人を許した後、小説の終盤のラスト近くでやっと気付いて、「僕が最初にもう少し早く気付いていれば、今回の一連の連続殺人の悲劇は未然に防げたはずなんですが」云々で毎度お決まりの、お約束定番な金田一の悔恨もある。だが、探偵の冴(さ)え渡る推理で早い段階に犯人を明かして連続殺人事件を未然に防ぐのは話の都合上、盛り上がりに欠けるわけで。探偵は「名探偵」ではなく、文字通り「迷探偵」で犯人に散々に連続殺人をやらせた上で、最後の最後に犯人明かしをしないと探偵推理のミステリーとして話が盛り上がらないわけである。話の都合上、探偵が冒頭から天才的推理にて犯人が分かって「あなたが犯人ですね」と名指しして問い詰めないところが探偵推理のミステリー話たる所以(ゆえん)だ。そういった意味でいえば、いつも犯人の連続殺人を散々に許して最後の最後で犯人が分かってしまう金田一耕助は、「まさに探偵小説にふさわしい迷探偵である」といえる。

そして、「現在の事件解決のための過去の悲劇への時間的遡及(そきゅう)」というものがある。横溝作品の場合、殺人事件が起こっても昨日、今日の偶然で、たまたま発生するものではないのである。数十年前の昔に起こった悲劇や事件がまずあって、現在劇中で起こってる連続殺人は必ずその昔の出来事と関連を持っている。以前の事件や悲劇に引きずられて、今回の殺人は起こるべくして起こるよう運命づけられているのだ。それで、自分の一族や父母や祖先がやらかした昔の事件に翻弄される現在の登場人物たちの悲劇、殺人事件そのものに「人間の運命」や「人生の悲哀」の背景が加味されて話が非常に重くなる。例えば「八つ墓村」なら、津山三十人殺しのような村の悲劇が以前にあり鍾乳洞の秘密があって、それが現在進行中の連続殺人につながるし、「悪魔の手毬唄」(1959年)なら、二十三年前の村での未解決な迷宮入りの殺人事件が確実に引き金になっているわけである。だから横溝正史の探偵小説の場合、物語の後半で必ず金田一耕助が一見、関係ないようにも思える昔の事件を唐突に調べだしたり、容疑者たちの経歴・出自の調査のために遠方まで出向いて行ったりする。すなわち、「現在の事件解決のための過去の悲劇への時間的遡及」がある。

本作「悪魔が来りて笛を吹く」でも話の後半に「現在の事件解決のための過去の悲劇への時間的遡及」があり、「金田一耕助西へ行く」の章にて、金田一が今回の事件関係者の出自の過去の洗い出しのために関西の須磨明石、淡路へと向かう。ここで椿家一族にまつわるドロドロで忌まわしい戦慄の過去が明らかになるわけで、この辺りは人物相関図や家系図のメモを作成しながら、「××は××と××の間に生まれた子であり、他方××は××と××の間の子であって」云々を物語に沿って丁寧に確認し読んでいくと読者は必ず驚くはずだ、今回の現在進行形な連続殺人事件の現在から過去への遡及、並びに過去から現在への由来に。

横溝正史「悪魔が来りて笛を吹く」は、少なくとも以上のような読み手を惹きつけ読ませる主な作品構成要素の読むべき読み所があるわけだが、中でも一番強烈なのが最後の「現在の事件解決のための過去の悲劇への時間的遡及」にて明かされる驚くべきエピソードだ。この部分要素の内容刺激が非常に突出してインパクトがあり強烈すぎるため、他の読ませ所の各要素も実のところ並の探偵小説のそれと比べ何ら遜色(そんしょく)ない、それなりの高水準なものであるにもかかわらず、現在の事件由来の過去エピソードの衝撃インパクトに押され相対的に、その良さが目立たなくなってしまう。本作にての主要な四つの殺人のうちの一つの密室殺人のトリックや小説世界と現実世界との架橋など、本来なら十分に読むべき物がある、読ませ所となる探偵小説にて盛り上がりの目玉たりうる要素であるにもかかわらず、しかしながら横溝の「悪魔が来りて笛を吹く」は、「現在の事件解決のための過去の悲劇への時間的遡及」の椿一族の過去の因縁エピソードが異常にドロドロの戦慄で強烈過ぎるため、密室殺人のトリックを始めとして、その他の高水準で優れた「読ませる」探偵小説の要素がともすると印象浅く軽く読み流されるはめになる。

探偵小説を創作するにあたり、小説内の各要素がいずれも高水準でレベルが高すぎ、かつ一つの突出した構成要素の刺激のインパクトが大き過ぎて他の要素を圧倒凌駕してしまっている結果、本来ならよく読まれるべき高水準な他の小説要素を凡庸錯覚にかすめさせる事態になってしまう。まさに天才・横溝正史、探偵小説家として、あまりに出来すぎて優秀すぎるがゆえの作品内にて起こる「悲劇」といえる。