アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(46)「霧の山荘」

横溝正史「霧の山荘」(1958年)のおおよその話の筋はこうだ。あらかじめ補足しておくと、「K高原のPホテル」は「軽井沢高原のプリンスホテル」の匿名表記といわれている。

「昭和33年9月、K高原のPホテルに滞在していた金田一耕助を江馬容子という女が訪ねてきた。容子は『自分の伯母である元映画スターの紅葉(西田)照子が、30年前に起こった迷宮入り事件の犯人に最近会ったと言いだし不安がっている。ついては伯母に会い、相談にのってやって欲しい』との依頼を金田一に持ちかける。この奇妙な依頼に応じ、照子の待つM原にある別荘へ向かった金田一は、しかし途中で道に迷ってしまった。途方に暮れる金田一を迎えに来た、派手なアロハシャツを着た若い男は照子の使いの者と名乗り、金田一を目的の別荘に案内する。しかし建物には鍵がかかっており、呼び出しにも返事がない。不審に思った2人がカーテンの隙間から中を窺(うかが)うと、そこには身につけた浴衣を赤黒い液体で染めた照子が床に血だまりを残して倒れていた。アロハを着た若い男が石につまずき生爪をはがして歩けなくなったため、金田一が別荘の管理人を呼びに行き、警察にも通報してもらったが、戻ってみると不思議なことにアロハの男も死体も忽然と消えていた。翌朝、K署の捜査主任・岡田警部補から照子の死体が発見されたとの連絡が入る。一緒に避暑を過ごそうとPホテルに来ていた等々力警部とともに金田一が別荘に急行すると、別荘の裏の潅木林の中に裸にされた照子の死体が横たわっていた」

本作のウリは死体消失である。しかも探偵の金田一耕助みずからが、案内役の依頼人の使いのアロハシャツを着た男と共に、「霧の山荘」屋内にて血まみれになった依頼人の凄惨な死体と床の血だまりをガラス戸の外から発見する。金田一がアロハの男を現場に残し、別荘の管理人を呼びに行き現場を一時離れ後に戻ってきてみたら、死体も床の血だまりも全てが跡形もなくきれいになくなっていた!全くの五里霧中な、狐につままれたような不思議な事件である。そうして遺体は別荘裏の潅木林の中で後に発見された。

横溝正史「霧の山荘」における死体消失と殺害現場の早急な復元回復のトリックは、エラリー・クイーン「神の灯」(1935年)の家屋消失のそれと同じである。大がかりな邸宅消失のトリック(「何と!あんな大きな屋敷が一晩のうちに忽然と消えるなんて」)は、ある程度の探偵小説好きな方なら大抵知っている話で、本作は初読であっても読み始めのかなり早い段階ですでに「ネタばれ」のような微妙な読み心地になる(笑)。それで書き手の横溝正史も「霧の山荘」での死体消失と殺害現場の早急な復元回復トリックは、読者に早々に見破られると思っているから、無理に謎を引っ張らず割合に早い話の段階でトリックの全容をあっさり明かしてしまう。そうして話の中心は、犯人らの真の狙いの動機と、その裏に仕組まれたアリバイ・トリックへと移っていく。横溝「霧の山荘」では、往年の名女優のいたずらに第三者が「便乗」して、ある人物を罪に陥れることと、「列車内でのスリと駅のプラットフォームにての通信文」云々のアリバイ工作が中盤からラストまでの話の中心になる。

海外の探偵推理小説にて、家屋消失や列車消失ならびに大人数の乗客や住人消失の話は昔からよく書かれているが、「あんな大きな建物や列車や大勢の人たちが跡形もなく忽然と消えるとは!」と散々に謎を引っ張ったわりには、最後にその謎が解明されると「大がかりで不思議な消失」のトリックが大したことなくて大抵は、がっかりする。クイーンの「神の灯」でもそうだし、横溝正史の「霧の山荘」でもそれは同様だ。

ただ横溝「霧の山荘」の場合、金田一が死体消失と殺害現場の早急な復元回復トリックに気づく発端が、「そういえば海外の探偵小説で『神の灯』のような屋敷消失の大胆なトリックがありましたね」のような海外ミステリー典拠の気付きではなくて、「戸締まりはぜんぶなかからしてあるし、雨戸もみんなしまっている」と別荘案内の際にアロハの男がつい口をすべらせた「雨戸」という言葉を金田一が覚えていて、その言葉に引っ掛かり、そこから死体消失トリックを金田一が見破る横溝の書き方に私は感心した。そのトリック看破の発端記述の工夫が、横溝正史「霧の山荘」にての玄人地味な良さの実の読み所であるように私には思えた。

再読 横溝正史(45)「女怪」

戦後に私立探偵の金田一耕助を創作し「本陣殺人事件」(1946年)にて初登場させた横溝正史は、最初から金田一の活躍を時系列で厳密に構成するシリーズ化の金田一探偵の物語世界構築を案外、丁寧に力を入れてやっている。例えば「黒猫亭事件」(1947年)は「本陣殺人事件」を執筆した疎開地の岡山に在住の語り手、つまりは横溝正史本人の元を金田一耕助が訪問する、「もうすこし、ぼくという人間を、好男子に書いて貰いたかったですな」などと金田一が軽口叩きながらの(笑)、横溝と金田一の架空の直接会見を小説冒頭に置く「本陣」の後日談になっている。

同様に「女怪」(1950年)は「八つ墓村」(1951年)の事件が解決し、岡山から帰京した金田一耕助が、金田一の友人で彼の事件簿の「この男の記録係」を務める私こと、この小説の書き手たる横溝正史と以下のようなやりとりを作中冒頭にて交わすのであった。

「先生、何をぼんやりしているんです。え?仕事が出来なくて弱っているって?そうあなた、机に向かってたばこを吹かしていちゃ、仕事もなにも出来るはずありませんや。たまにゃ環境をかえなきゃ…先生、旅行しましょうよ。どこか静かな、人気のない温泉場へでも旅行しましょう。…」「ほほう、これは景気がいいんだね。すると『八つ墓村』の事件も、うまく解決がついたんだね」

「女怪」は「八つ墓村」事件の後日談であり、「女怪」に描かれる事柄は、横溝正史の「先生」と金田一耕助の「耕さん」が休息がてら二人で出かけた人気のない静かな温泉地で遭遇する、思いもかけない事件なのであった。そうしてその事件の顛末(てんまつ)を「先生」こと、金田一の友人で金田一探偵譚の記録係でもある横溝正史が金田一からの手紙を交えて記述する作品が、本作「女怪」である。

それにしても驚異的な推理能力だったり、ズバ抜けた行動力でキャラクターの立つ名探偵に、比較的凡人だが気を許せる友人がいて、その彼が探偵に同伴し記録したり、探偵から直に聞いた回想話を後日談の事件簿として記述し読者に紹介する語りの形式は、ドイルのシャーロック・ホームズにてのホームズとワトソンから(おそらくは)シリーズ物として連続して本格的に始められたものであって、横溝正史の金田一探偵譚も初期には、金田一耕助を「耕さん」と呼び、その金田一から「先生」と呼ばれる懇意な作家の横溝正史が探偵・金田一の活躍を記録し読者に紹介する語りの形式になっていた。実はルブランの怪盗リュパンのシリーズも、その初期にはリュパンの友人がリュパンから実際に聞いた話をまとめ、後日に読者に紹介する形式であったのだ。そうした同伴の友人が後日談として名探偵の活躍事件簿を記述し一般読者に公開する語りの形式をシリーズものとして連続してやり、それを探偵小説ジャンルの定番に定着させたホームズ・シリーズ創作のドイルの功績は、相当に大きなものがあったと称賛を交え今なら言える。

加えて横溝正史「女怪」は、小説の冒頭から「私立探偵・金田一耕助には活動拠点の探偵事務所はあるのか」とか、「金田一は日々の生活の支払い、つまりは経済的収入をどうしているのか」といった読み手の金田一ファンの疑問や要望に答えるように、金田一探偵譚の物語世界の各種設定をこれまた横溝が案外に律儀(りちぎ)にやっている所が読み所で当作品の価値がそこにあり、また私にとっては多少の笑い所でもある。

私は探偵小説を読む際には純然たるトリック重視であり、探偵である金田一のキャラクターだとか、金田一の恋愛ロマンスだとか、金田一の日常の生活の様子など全く気にならないのだが、世の中の読者にはそういった細かな設定を気にする人が多いらしく、そうした暗にある読者の要望に応じる形で横溝は本作「女怪」にて、「一時は銀座裏の怪しげなビルディングの最上階に事務所を構えていたが、今ではパトロンの風間の二号が経営している大森の割烹旅館の離れ座敷に金田一は居候の形でころげこんでいる」だとか、「風間俊六や久保銀造のパトロンがいて、しかも金田一の冒険譚の記述者である私こと横溝正史も金田一の名でいくらか利益を得ており、金田一から分け前を請求されたことはないけれど、気を使ってできる限りのことを…実は些少の謝礼を」云々の「横溝が金田一に多少は支払って金銭援助をしている」旨をわざわざ事細かに丁寧に説明するのであった。そういえば「犬神家の一族」(1951年)ら以前に横溝の金田一シリーズを監督の市川崑が映画化していたが、横溝の原作小説にはないのに、金銭授受を介した探偵契約だとか、事件解決の折りには宿泊費と食費を差し引いた依頼人からの探偵・金田一への報酬支払いの場面を監督兼脚本家の市川崑が毎作、熱心に撮っていて私は笑った。率直に言って私立探偵・金田一耕助はフィクションで実在しない人物であり、探偵小説の力点は作者の横溝による練りに練ったプロットと大胆かつ精密なトリックにあるのだから、「金田一の定期の収入や日々の支払いはどうなっているのか!?」といった経済的なことはそこまで重要ではないはずなのに、金田一の探偵小説を映画化する市川崑を始めとして、そうした経済的な詳細設定にこだわる人が世の中には多くいるものなのだ、と感心し思わず私は笑ってしまう。

さて「女怪」は「獄門島」(1948年)のヒロイン・鬼頭早苗に続く、金田一耕助のロマンスの話でもある。本作では、金田一が密(ひそ)かに思いを寄せている持田虹子という未亡人のバーのマダムが出てくる。私はトリック重視の探偵小説の読み手なので、探偵・金田一の色恋の恋愛話にそこまで関心興味はないのだが、やはり世間には金田一耕助の恋愛話に強く惹(ひ)きつけられる金田一ファンの読者が多くいるらしい。すなわち、本文にて金田一と懇意な「先生」こと横溝正史が書くには、

「そうだ、金田一耕助はたしかに虹子を愛していた。およそ世界の探偵小説を読むに、探偵が恋をするなんてことはめったにないが、探偵が恋をしたとてなぜ悪かろう。かれらだって血の通った人間なのである。まして金田一耕助はまだ若いのだ。身を焼くような恋をしたとて、なんの不思議もない筈だ」

あと横溝正史「女怪」に関しては、単なる死体収集マニアの性癖ではない、続発する墓荒しの「合理的」理由(「なぜそこまで執拗に墓が掘り返され荒らされるのか!?」)が探偵小説のミステリー話としての一番の読み所であり、そこが話の肝(きも)である。

再読 横溝正史(44)「幽霊座」

以前に横溝正史の探偵小説を連日、連続してほぼ全作読んでいたとき、例えば「本陣殺人事件」(1946年)や「獄門島」(1948年)ら、有名どころの金田一耕助探偵譚を読み切ってしまった後に「残りの横溝マイナー作に読むべきものは、ほとんど残っていないのでは」と、そんなに期待せず引き続き横溝を読み進めていたところ、これが意外にも、おそらくは世間一般にあまり知られておらず、そこまで広く読まれていないであろう傍流な横溝作品の中にもなかなかの良作があり、「うれしい誤算」の思いがけない収穫に恵まれることが多々あった。

横溝正史「幽霊座」(1952年)も、おそらくは世間一般にあまり知られておらず、そこまで広く読まれていないであろう横溝作品群に埋もれた傍流な、しかし、なかなかの秀作であり、「読んで再発見」の「うれしい誤算」で私にとっては思いがけない収穫の作なのであった。

横溝「幽霊座」は、後の角川文庫の巻末解説、大坪直行による「本作は歌舞伎好きである横溝唯一の歌舞伎役者とその舞台を題材にした作品だが、全集(旧版)に収録されていない。それは、あまりよく知られていない歌舞伎の世界をバックにしただけに、当の横溝は自信がなかったのかも知れない」旨の解説文とともに今でも紹介されることが多いけれど、なかなかどうして、私が読む限り良作の力作で横溝全集に収録されて当然の金田一ものであると思える。確かに本作にて、歌舞伎演目「鯉つかみ」での舞台上の人間消失と早変わりの舞台裏仕掛けの説明は、歌舞伎を知らない読者には文章説明を一読しただけでは分かりにくいものがあるが、本作には「『鯉つかみ』眼目の場面の仕掛け」のイラスト図解も掲載されており、それが参考になる。

さて、横溝正史「幽霊座」のあらすじは以下だ。

「稲妻座は歌舞伎興行を独占する会社から秋波を送られている小さな劇場である。いまから17年前、夏芝居の演目であった『鯉つかみ』上演中、一人の役者が失踪した。名を佐野川鶴之助という。いつしか稲妻座では鶴之助失踪の日を彼の命日とするようになり、昭和27年夏、その追善興行として再び『鯉つかみ』が上演される。かつて鶴之助が演じた滝窓志賀之助=鯉の精は鶴之助の遺児、雷蔵が担当するはずだったが、上演直前に倒れたせいで鶴之助の弟、紫紅が演じた。ところがその紫紅が水船から鉄管を通って奈落へ落ちてきたときに死亡する。検視の結果、紫紅は毒殺されたことが判明。その前後に17年前に失踪した鶴之助と見られる人物が舞台袖で目撃され、『鶴之助の幽霊の徘徊か!』。事件の不可解な謎は深まるばかりである。鶴之助のみならず戦前から稲妻座の古参連中と懇意にしていた金田一耕助はその場に居合わせたことから、例によって例の如く事件の渦中に巻きこまれてゆく。やがて金田一耕助の推理は鶴之助を中心とする、梨園にわだかまる因襲と確執、親子の愛憎の因果な人間関係を暴くことになるのだが…」

本作「幽霊座」は人間消失、そうして一度は死んだはずの人間が17年後に甦(よみがえ)り、「幽霊」のごとく「一座」の歌舞伎小屋を徘徊するという趣向である。ゆえに本作は「幽霊座」のタイトルなのであった。

横溝「幽霊座」のミソは歌舞伎の舞台裏のからくり装置を使ったミステリーで同じ事柄の反復構造にある。その舞台装置を利用して、一度目は「人間消失」の失踪であり、二度目は殺人である。しかも二回とも事件の小道具に眠り薬や毒入りのチョコレートが使われており、この辺り探偵小説愛好の読者には、往年のバークリー「毒入りチョコレート事件」(1929年)を思い起こさせ、横溝の筆はなるほど心憎い。あまり詳しく述べると「ネタばれ」になってしまうので直接には書けないが、一連の事件の発端となる17年前に「鯉つかみ」の演目中に舞台上から忽然(こつぜん)と姿を消した「佐野川鶴之助にとって相当に年の離れた××が実は××だった」という意外性の驚きが話の肝(きも)で、一般人の社会とは異なる梨園の世界の特殊な人間関係にて、「こうしたことは実際に昔も今も歌舞伎界ではありがちなこと」といった印象だ。

当時、人気随一の若手歌舞伎役者であった鶴之助の幼少の長男が自宅屋敷の庭の池で溺死し、そのショックで鶴之助の妻も若くして病死して以来、鶴之助は精神的に不安定になり17年前に失踪してしまうのだが、長男溺死の真相を知った際の鶴之助のショックときたら。長男溺死の真相には、後によくよく考えれば鶴之助自身の「身から出たサビ」の自業自得な所もあり、当時から人気で将来を期待された若手歌舞伎俳優であったのに、そうした輝かしい未来も何もかも捨てて「人間消失」で失踪したくなる鶴之助の哀愁で虚無の心境を本作を最後まで読んで事情を知れば、「まぁ、そうなるわな」の共感の思いが私はする。

佐野川鶴之助が失踪するひと月前に、金田一耕助が鶴之助から行状調査を依頼された篠原アキという謎の女。元看護師で夫殺しの毒婦、彼女は一体何者なのか。彼女は歌舞伎俳優の鶴之助と、どういう関係にあるのか。そうして彼女は今どこにいて何をしているのか!?

角川文庫「幽霊座」の杉本一文による表紙カバーイラストも素晴らしい。ただラストで、年寄りの男衆が追善興業にての紫紅殺しの犯人が分かり、だが文盲で字の読み書きが出来ないため、死の直前に工夫を凝らして犯人ヒントのダイイング・メッセージを残す「ブロマイドを血で逆さに貼りつけて」云々の金田一の読み解き口上が、やや無理があってこじつけでクドく、この点に関してだけ本作「幽霊座」にて横溝は失策をしたなとも私は思った。

再読 横溝正史(43)「トランプ台上の首」

横溝正史「トランプ台上の首」(1959年)の話の、あらましはこうだ。

「舟で隅田川沿いに水上惣菜屋を営んでいる宇野宇之助が、アパート聚楽荘(じゅらくそう)の1階に住むストリッパー、牧野アケミの生首を彼女の部屋で発見した。残されていたのは首だけで、胴体の行方は不明であった。前夜、アケミの部屋でトランプゲームをしに集まった、アケミの勤め先のストリップ劇場の支配人・郷田実や幕内主任の伊東欣三、同僚ストリッパーの高安晴子も生首はアケミに間違いないと話す。等々力警部に伴われて現場に訪れた金田一耕助が、散乱したトランプ台上に置かれた女の生首をめぐる猟奇事件の謎に迫る」

本作は見た目のインパクト大なバラバラ殺人事件である。「散乱したカードのうえ、テーブルのちょうど中央に、ちょこんとのっかっているのは、なんと、血に染まった女の生首ではないか」というのが、ギリシア神話の怪物・メデューサの生首を思い起こさせるケレン味ある趣向である。しかも、首切断で生首を現場のトランプ台上に残したまま、首下の胴体は現場から持ち去られ行方不明という誠に陰惨猟奇であり、かつ不思議な事件であった。

本作の舞台は東京の隅田川沿い、時代設定は昭和30年代であるが、そうした比較的近代の新しい時代に、舟の上の水上生活者や河岸すれすれに建ったアパートや家屋の住人へ向けて水上の舟から惣菜を売りあるく「水上惣菜屋」という商売従事の男が「トランプ台上の首」を沿岸アパートの一室にて発見する事件発露の発端がまず面白いと思う。何よりも「水上惣菜屋」という、江戸時代の昔からあった商(あきな)いに関する詳細説明の本作書き出しが新鮮だ。

探偵小説は筋道の通った合理的な近代文学である。ゆえに、遺体の首を切断して現場に生首だけをわざと残し、いわゆる探偵推理における身元が不明な「顔のない死体」とは全くの逆を行く、遺体の顔が明白なことから殺害された被害者の身元を発見者と捜査陣一同に堂々と知らしめるのは、あえてそうしたい犯人側の明確な事情があるからである。創作の探偵小説ではない、現実の首切断放置の猟奇殺人事件の場合、単に生首を晒(さら)しておきたい犯人の性癖とか、猟奇のショッキングさにて世間の人々の耳目を集めたい殺人犯の虚栄心があったりするのだけれど。だから本作「トランプ台上の首」では、なぜ犯人は遺体の首を切断して現場に生首だけをわざわざ残し、殺害された被害者の身元を発見者と金田一耕助ら探偵捜査陣に堂々と知らしめようとしたのか。あえてそうしたい犯人側の事情があるわけで、そこがこの探偵小説の話の本質的な面白さであり、最大の読み所であるといえる。

(以下、話の核心に触れた「ネタばれ」です。横溝の「トランプ台上の首」を未読の方は、これから新たに本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

一連の猟奇殺人に関係する犯人の詳しい犯行動機や後に継続して起こる関係者の連続殺人の細かな話の詳細は省いて、「トランプ台上の首」として、なぜ犯人は遺体の首を切断して現場に生首だけをわざわざ残し、殺害された被害者の身元を発見者と金田一耕助ら探偵捜査陣に堂々と知らしめようとしたのか、あえてそうしたかった犯人側の事情についてだけ述べると以下のようになる。

前夜に同室でトランプを一緒にやっていた、殺人被害者と目されるアケミの、勤め先のストリップ劇場の支配人や主任や同僚のストリッパーの関係者一同、「トランプ台上の首」は「女性の生首の顔からしてその部屋の住人のストリッパー、牧野アケミであり、彼女こそが殺人事件の被害者に間違いないこと」を証言したが、実はストリッパーの牧野アケミは事件被害者ではなかった。何と!牧野明美は双生児でウリ二つの妹がおり、トランプ台上の女性の生首はアケミに顔がそっくりな双子の妹であったのだ。アケミはかねてより麻薬の密輸に関わっていて、早くに逃亡したかった。牧野アケミは殺害されたことにして、彼女は合法的に蒸発したかったのである。だから「トランプ台上の首」はストリッパーの牧野アケミではなく、アケミに殺害され首切断された双子の妹で、実はアケミは生きていたのだった。

そして、なぜ首を切断し、首上だけ残して下の胴体を持ち去り行方不明にしたのかといえば、双子の妹の身体には、ある肝臓の病気から血管が圧迫されてアザのようなものが浮き出る身体的特徴があり、しかし日頃からストリッパーとして裸体をさらしていた牧野アケミには、そのアザの印がないため遺体の胴体を残すと、アザの有無から「死体が牧野アケミではないこと」が検死にてバレてしまう。だから首を切断してアケミと同一な首上だけ現場のトランプ台上に残し、「殺害されたのは牧野アケミ」と関係者一同に信じ込ませた上で、「死体の正体は牧野アケミではない」とバレるアザの身体特徴がある胴体は持ち去り、隠匿したのであった。

この作品のトリックの醍醐味は「事件被害者が実は双生児の双子であった」という、ある意味、探偵小説の書き手にとって誠に都合のよい初歩的で素朴な設定をあえて使ったということに尽きる。探偵推理にての不可能犯罪や現場不在証明(アリバイ)工作にて、容姿がウリ二つの双子、さらには三つ子の設定を用いるのは実は探偵作家として相当に恥ずかしい。双生児や三つ子設定は、あまりも書き手本位で都合がよすぎて現実には滅多にあり得ない、極めて素朴で初歩的な現実離れした無理設定であるからだ。だが、探偵小説家のベテランである横溝は本作にて恥ずかしげもなく何ら臆することなく、双生児の双子の設定を堂々と使ってしまう(笑)。そこが横溝正史「トランプ台上の首」の最大の意外性の面白さであり、読んで半畳の入れ所であると私には思えた。

再読 横溝正史(42)「探偵小説」

横溝正史の短編「探偵小説」(1946年)は、そのまま「探偵小説」という何となく締(し)まらない捻(ひね)りのない凡タイトルではあるが、この平凡タイトルは本作の語られ方の叙述設定に由来している。

ある東北地方の温泉地へスキーシーズンに探偵小説家の一同が訪れるも、付近の雪崩(なだれ)の影響により汽車が遅延する。そこで列車が来るまで探偵小説家が仲間と駅の待合室のストーブを囲んで当温泉町にて1ヶ月前に発生した当時、人々を騒がせた未解決の女学生殺人事件のトリックを予想する。それを事件被害の女学生の関係者が同待合室の隅にいて密(ひそ)かに聞いていて、その探偵小説家のトリック話が、はからずも当たっていた。フィクションの「探偵小説」の創作話が、現実の殺人事件の真相を見事に言い当てていた。ゆえに本作は「探偵小説」のタイトルなのであった。

横溝正史「探偵小説」はアリバイ崩しの話であり、本作品は、ある種の「鉄道ミステリー」と言えなくもない。女学生は絞殺されて神社の境内にて遺体で発見された。関係者の中でも重要容疑者として彼女が通う女学校の教師が一番怪しいのだが、遺体の死亡推定時から判断される当日の犯行時刻に、その教師は汽車で一駅離れた隣町にいて、彼には確固とした現場不在証明(アリバイ)があった。どう考えても隣町にいた教師が、犯行時刻に一駅離れた町の神社の境内にて女学生殺しの殺害現場に居合わせることは物理的に不可能なのである。果たして、その教師が女学生殺しの犯人なのか。もしそうだとすれば、アリバイ証明されている教師は、どうやって不可能犯罪を成し遂げたのか!?

(以下、トリックを明かした「ネタばれ」です。横溝の「探偵小説」を未読の方は、これから新たに本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

女学生殺しの犯人は、やはり彼女が通う女学校の教師なのであった。その際に使われたのは「遺体の移動にともなう犯行現場の錯覚」によるアリバイ・トリックである。遺体が故意に移動されて殺害現場が別の場所と錯覚されているため、錯覚させた殺人現場の犯行同時刻に犯人は物理的に存在し得ないという偽のアリバイが成立するわけである。

当日の犯行推定時刻に、その教師は汽車で一駅離れた隣町にいて、女学生殺しの犯人たる教師には確固とした現場不在証明(アリバイ)があり、普通に考えれば隣町にいた教師が、遺体の死亡推定時から判断される犯行時刻に一駅離れた町の神社の境内にて女学生殺しの現場に居合わせることは物理的に不可能である。ところが、隣町にいた教師は自宅で女学生を絞殺した後、教師宅の近所にて徐行通過する列車の屋根に彼女の遺体を乗せ、人知れず遠くの隣町まで運ばせていた。遺体が落下するのは、殺害現場から遠く離れた隣町の急カーブで車体が大きく傾く地点である。しかも、大雪の季節で急カーブ地点に落下した遺体に後続列車からの屋根上の雪が落ちて何度となく降りかかるので、雪に埋もれて遺体は一時的に隠される。それで翌日に教師は、線路脇急カーブにて列車の屋根から振り落とされて雪に埋もれている女学生の遺体を掘り起こし、近くの神社境内に移動させて、あたかも彼女が前日に隣町の神社にて絞殺されたように細工したのだった。

「遺体を移動させて殺害現場を錯覚させる」というのは、探偵小説ではよくある。いわゆるアリバイ(現場不在証明)工作の一環として利用される。要するに殺人犯からすれば、時間的・空間的に遺体を自身から出来る限り遠ざけたいわけで、だから遺体を殺害現場以外の場所に運んで移動させる。しかし、その際に自分が遺体を運んでいる所を目撃されたら、もうアウトなわけだから周囲の人々に気づかれず、労力をなるべく使わずに人知れず効率的に死体を自身から遠ざけ遠くに運ぶ方法を考える。「列車の屋根に乗せて遺体移動」というのは、かなり大胆で理にかなった効率的な労力の少ない省エネ安全なやり方だ。

「列車の屋根に遺体を乗せて移動させる」というのは、実はコナン・ドイルのシャーロック・ホームズ短編「ブルース・パティントン設計書」(1917年)が元ネタである。同様に江戸川乱歩も「鬼」(1931年)という作品で、このトリックをドイルから流用し自作品に使っている。ただ本作「探偵小説」の登場人物の探偵小説家の口上によれば、ドイルも乱歩も「列車の屋根に遺体を乗せて移動させる」トリックに難点があった。本作品内の探偵小説家によるドイルと乱歩の先行作品に対するトリック難点の指摘批評は、他ならぬ著者の横溝の意見であるわけだが、ドイル「ブルース・パティントン設計書」の場合、「このトリックの難点は、死体が線路のすぐそばにあると読者は列車の屋根から遺体が振り落とされたこと」にすぐに気づいてしまう。そうして、この弱点を補うために出来たのが後の江戸川乱歩「鬼」であり、乱歩の場合、死体は線路脇に振り落とされるのだが、そこへ山犬が現れて死体を林の中に引きずり込む。つまりは、「死体は線路から離れた林の中で発見されるので作中の探偵も作品を読んでいる読者もひっかかる」ということになる。しかし、それは僥倖(ぎょうこう)でしかなく、「そう都合よく山犬が現れて死体をわざわざ遠方に引きずっていくか」の不自然さが残る。

そこで横溝はドイルと乱歩の双方のトリック難点を克服すべく、本作「探偵小説」にて、あえて雪国の舞台設定にして、遺体が落下するのは急カーブ地点で、後続列車からの屋根上の雪が落ちて何度となく降りかかるので線路脇に降り落とされた死体は雪に埋もれて一時的に隠される。それで後日に犯人は、線路脇急カーブにて列車の屋根から振り落とされて雪に埋もれている死体を掘り起こし、線路から離れた場所に移動させればよいわけである。結果として横溝の「探偵小説」は、「降り落とされた遺体が線路近くにそのままある」というドイルの「ブルース・パティントン設計書」の難点と、「遺体は線路のすぐそばから離されてあるが、線路脇からの遺体の移動が偶然の幸運に頼っている」という江戸川乱歩の「鬼」の難点の双方を合理的に克服するものであった。

横溝正史「探偵小説」は、あらかじめある過去作のトリック難点を改良・克服しようとする発想が最初にあって、そのトリック改善を果たすような形で横溝は探偵推理の骨格をまず考え、それから人物関係や舞台設定の細部を後に継ぎ足す順序で創作されている。そうした「探偵小説の創作順序の仕組み」が分かりやすく本作から読み取ることができ、探偵小説の創作の手順がよく分かる。横溝の短編「探偵小説」は、ある意味、清々(すがすが)しいタイトル通りの「探偵小説」だと私は思う。

再読 横溝正史(41)「七つの仮面」

横溝正史「七つの仮面」(1956年)は、同じく横溝の「三つ首塔」(1955年)と読み味が似ている。いずれも女性の扇情的な性癖に絡(から)めたメロドラマ調の作りだ。それに殺人事件の探偵推理の要素が加わる。両作品ともに私立探偵の金田一耕助が登場する。

本作は主人公女性の一人告白語り(モノローグ)の手記にて、「聖女」とされた良家令嬢が性的に女性として果てしなく堕(お)ちていく話である。女性同士の同性愛あり、男女の変態嗜好あり、読んで誠に派手で通俗な風俗小説ではある。それに探偵推理として二つの殺人事件があり、そのうちひとつは密室殺人である。探偵の金田一耕助は本当に最後近くで少し出てくるのみだ。

タイトルの「七つの仮面」とは、この主人公の「聖女」と交際していた佝僂病(くるびょう)ぽい老彫刻家が彼女の裏の本性を見抜き、「聖女の首」と称する胸像作品、「聖女の首」「接吻(せっぷん)する聖女」「抱擁する聖女」「法悦する聖女」「悪企(わるだく)みする聖女」「血ぬられた聖女」の六つの仮面彫刻を極秘に作成する。そうして最後に「七つの仮面」たる「縊(くび)れたる聖女」の胸像を前に、彼女はいくつかの殺人を犯した末、縊死にて自死するというプロットである。本作「七つの仮面」は、横溝が以前に手掛けた「聖女の首」(1947年)のリメイクであった。

横溝正史「七つの仮面」を読むと、夢野久作「火星の女」(1936年)や昔の東映映画、多岐川裕美主演「聖獣学園」(1974年)を私はいつも思い出してしまう(笑)。

「あたしが聖女ですって?今は娼婦になり下がった、それも殺人犯の烙印を押されたこのあたしが?でも、あたしが聖女と呼ばれるにふさわしい時期もあったのだ。ミッション・スクール時代の気品に満ち、美しく清らかだったあの頃。だが、醜い上級生、山内りん子に迫られて結んだ忌まわしい関係があたしの一生を狂わせた。卒業してからも、りん子はあたしに執拗に付きまとい、やがて、あの恐ろしい事件が起きてしまった。あたしが恋人の伊東慎策を訪ねた直後、彼が五階の自室から転落死したのである」(角川文庫版、表紙カバー裏解説)

再読 横溝正史(40)「車井戸はなぜ軋る」

横溝正史「車井戸はなぜ軋(きし)る」(1949年)の大まかな話はこうだ。

「ある日、探偵小説家である私S・Y(言わずと知れた横溝正史の匿名イニシャル表記)は、友人の私立探偵・金田一耕助から、ある事件に関する手紙一束と新聞記事の切り抜きと故人の手記を提供してもらった。そこには1946年5月から10月まで繰り広げられた、本位田(ほんいでん)家の中で起きた異変および事件についての全貌が記されていた。

本位田家、秋月家、小野家は、かつてはK村の三名(さんみょう)といわれてきたが、秋月家と小野家が零落する一方、本位田家のみが昔以上に栄えていた。その本位田家の長男・大助と秋月家の長男・伍一はよく似た顔立ちで、見分ける手立ては伍一の二重(ふたえ)の瞳孔のみであった。伍一の二重瞳孔は大助の父・本位田大三郎と同じもので、伍一は母・秋月お柳と本位田大三郎との間に生まれた子であり、お柳の夫・秋月善太郎は伍一が生まれた日に車井戸に身を投げて死んだ。没落した秋月家の善太郎は、繁栄を極める本位田家の大三郎に妻を盗られた形となり、その屈辱で車井戸に身を投げて自死したのであった。ということは、秋月家の子息・伍一は本位田大三郎と秋月お柳との間の子だから、本位田家の子息・大助と秋月家の子息・伍一は、父親が同じ本位田大三郎の異母兄弟になる。ゆえに二人はよく似た顔立ちであり、見分ける手立ては秋月伍一の父親・本位田大三郎譲りの二重の瞳孔のみであったのだ。

そして異母兄弟であるにもかかわらず、それぞれ対立する本位家と秋月家の子息として、二人は終始憎しみ合う因縁の間柄であった。1941年に本位田大助は秋月伍一と恋仲の噂があった梨枝と結婚し、1942年に大助と伍一は戦地に応召され、同じ部隊に入隊する。それから終戦後の翌1946年、大助が復員し戻ってきたが、その両眼は戦傷により失われ義眼がはめ込まれていた。しかも大助は伍一の戦死の報も、もたらした。 かつては朗(ほが)らかで思いやりが深い気性であったのに、復員後は人が変わったように陰気で気性が荒くなった大助の様子に、妻の梨枝と大助の妹・鶴代は『本位田大助と秋月伍一とが入れ替わっているのではないか。復員してきた本位田大助は、本当は秋月伍一ではないのか』と疑惑を抱く。大助と伍一は異母兄弟でよく似た顔立ちであり、見分ける手立ては秋月伍一の二重の瞳孔のみであったが、復員した大助の両眼は戦傷により失われ義眼がはめ込まれていたため、本位田大助か秋月伍一かの見分けがつかないのだ。思い余った鶴代は、胸を病(や)んで結核療養所に入所している次兄の本位田慎吉に手紙で相談し、大助が戦争に行く前に右の手形を押して奉納した絵馬の指紋と、本位田家に戻ってきた大助の指紋を比べるようにとの助言を受ける。生まれつきの心臓弁膜症で一歩も家から出ることのできない病弱な鶴代は、下女のお杉に絵馬を取りに絵馬堂に向かわせるが、お杉は崖から落ちて死んでしまった。鶴代の疑惑がますます深まる中、本位田家に惨劇が起こる。

ある大風雨の夜、寝室で本位田大助の妻・梨枝が何者かによりズタズタに斬られて殺され、心臓をえぐられた主人の大助の死体が屋敷の裏庭の車井戸の中で発見されたのだ。まるで、以前に秋月善太郎が妻のお柳を本位田大三郎に盗られ、本位田大三郎の息子・秋月伍一が生まれ絶望して、みずから車井戸に身を投げて自殺したのと同様に。さらに本位田大助の死体からは右の義眼が失われていた。本位田大助と称して復員してきた男は本当に本位田大助だったのか。もしかしたら本位田大助と秋月伍一が入れ替わり、戦死したとされる秋月伍一が本位田大助に成りすましていたのではないか。因縁の異母兄弟たる本位田大助と秋月伍一との入れ替わりはあるか。また大助と妻・梨枝を殺害した犯人は誰なのか。本位田家の惨劇の真相とは一体!?」

横溝正史「車井戸はなぜ軋る」は、話の設定としては同じく横溝の「犬神家の一族」(1951年)に何となく似ている。ある村の有力家の跡取り息子が出征で戦地に赴き、顔面毀損(きそん)の大怪我をして復員。前よりガラリと性格が変わり、まるで戦地で人物が入れ替わり本人でないような疑い。当人かどうか外見容姿から直接に確かめる術(すべ)がない中、青年が出征前に村の神社に奉納した手形の絵馬があったことが判明。その絵馬にて指紋照合し本人確認しようとするも、照合前に殺人事件の惨劇が次々と起きて…といった一連の話が、「車井戸はなぜ軋る」は「犬神家の一族」に酷似している。また夫婦殺害の犯行動機の真相は「本陣殺人事件」(1946年)に似ている。

「果たして本位田大助と秋月伍一との入れ替わりはあるか否か」の結末も最後まで読者を惹(ひ)きつけ、それなりに面白いけれども、本作「車井戸はなぜ軋る」の真の面白さの作品魅力は犯人の意外性と殺害トリック、そのことに絡(から)めてタイトル「車井戸はなぜ軋る」における「車井戸が軋る」の「なぜ」の理由を作者の横溝正史が最後に明らかにしている、その記述の周到さにあると言ってよい。

(以下、トリックと犯人の正体を明かした「ネタばれ」です。横溝の「車井戸はなぜ軋る」を未読の方は、これから新たに本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

本位田大助と妻の梨枝の惨殺事件を受けて、本位田家と秋月家の関係人物が容疑者として浮かび上がり、各人の事件当夜のアリバイ(現場不在証明)が調べられた。その中でも被害者である本位田大助の弟・慎吉は病身で結核療養中であり、当日も生家から往復五時間かかる村より六里も離れた療養所に入院しており、犯行当夜の本位田慎吉のアリバイは完全証明された。そのため本位田家の次男・慎吉は捜査の犯人リストから真っ先に除外された。しかしながら、本位田大助殺害の真犯人は次男の本位田慎吉であったのだ!

確かに慎吉は結核療養中の身で、大風雨の事件当夜に遠く離れた療養所から本位田の生家に出向いて兄の大助を惨殺し、それから再び療養所に戻ってくるような体力はない。しかも慎吉が事件当夜、療養所敷地から出かけずにいた証言のアリバイは完全にあった。だが事の真相は、結果的に殺害された兄の本位田大助の方があの嵐の夜に下男の運転する自転車荷台に乗り、わざわざ村から出かけ診療所を訪問して弟に面会し、その際に兄の大助は弟の慎吉にその場で殺害されて、死骸となった本位田大助は連れてこられた自転車で再び下男に運ばれ村に連れ返されて、そのまま屋敷の裏庭の車井戸に投げ込まれた顛末(てんまつ)なのであった。

本作の話の肝(きも)は、「本位田大助と梨枝の夫婦が大風雨の嵐の夜に犯人に寝室に踏み込まれ惨殺されたのに、妻の梨枝の遺体は、そのまま屋内の寝室にあって、しかし、なぜ夫の大助の遺体だけが裏庭の車井戸の中に投げ込まれていたのか」の合理的理由にある。それは被害者の本位田大助は犯行当夜、屋敷の寝室で殺害されたのではなく、はるか離れた療養所に自ら出向き、そこで病身の弟に殺害されて死骸となった大助を再び自転車に乗せて大風雨のなか遠く離れた本位田の屋敷に運ぶ際に、どうしても大助の遺体は風雨にさらされ泥まみれになってしまう。そうすると、雨ざらしになった泥だらけの大助の遺体を妻の梨枝の傍らに置いて「屋内の寝室にて主人の大助も同時に殺害された」設定にできないので、本位田大助の遺体だけが裏庭の車井戸に投げ込まれたのである。

本位田大助の殺害犯人たる弟・慎吉のアリバイ証明トリックのために、このアリバイ・トリックは「遺体の移動に伴う殺害現場の錯覚」とされるタイプのものであるが、泥だらけになった大助の死骸から真の殺害現場が露見することを防ぐ目的で本位田大助の遺体だけ、あえて車井戸の中に投げ込まれたのだ。つまりは、このことこそが本作タイトル「車井戸はなぜ軋る」における「車井戸が軋る」の「なぜ」の理由、作者の横溝正史により最後に明らかにされる実に周到な回答なのであった。しかも、この車井戸での死をかつての秋月善太郎の車井戸での身投げの自死に暗に重ね、「これは本位田家と秋月家の両家にまつわる呪われた因縁なのか!?」のオカルト怪奇色を絶妙に醸(かも)し出す、横溝による筆の工夫である。

このように殺害された後、遺体が別の場所に移動させられ、あたかもその場所で実際に殺人が行われたように錯覚された結果、犯行現場のズレが生じ錯覚された殺害現場での同時刻のニセの犯人のアリバイ(現場不在証明)が工作として成就する、いわゆる「遺体の移動に伴う殺害現場の錯覚トリック」は、戦後の日本の探偵小説では鮎川哲也が得意とし、「アリバイ崩しもの」としてよく書いていた印象が私には強い。横溝作品を愛読している読者は分かると思うが、実は横溝は「遺体の移動に伴う殺害現場の錯覚」のような細かなアリバイのトリックはあまり得意ではない。横溝正史という人は、どちらかといえば「密室殺人、顔のない死体、一人二役」が三本柱の大味で大仕掛けなトリックを昔から好んで自作に使う人であった。そういった意味では、細かで精密な現場不在証明のアリバイ・トリックを用いた「車井戸はなぜ軋る」は、横溝作品の中でも割合に珍しく貴重な作品であるといえる。

「車井戸はなぜ軋る」は作者・横溝による客観的三人称記述ではなくて、殺害された本位田家の長男・大助、殺害犯人の次男・慎吉、末の一人娘の鶴代のうち、生まれつきの心臓弁膜症で一歩も家から出ることのできない病弱な鶴代、しかし病弱なため多感な少女であり、人一倍、強い感受性と鋭い観察眼とを備えていた妹の鶴代が、生家を離れ遠方の療養所で治療している次兄の慎吉の求めに応じて大助の復員から惨劇前夜の本位田家の不穏な空気、関係各人の異常な発言と行動を手紙にしてせっせと書き送る、そうした鶴代から慎吉への手紙文章や殺人事件の詳細を報じた新聞記事の引用抜粋にて作品が構成されている。しかし妻の梨枝はともかく、本位田大助を殺害した犯人は弟で次兄の本位田慎吉である。その犯人たる次兄・慎吉に向けて妹の鶴代が「長兄・大助を惨殺の犯人が次兄の慎吉であること」を最初は知らずに、今回の惨劇のすべてをあらかじめ知り犯行を行っている次兄・慎吉に、わざわざ手紙で報告し細かに伝えるわけである。この鶴代の手紙報告の「仕組まれた徒労」ともいうべき絶妙な読み味の余韻ときたら!

横溝正史「車井戸はなぜ軋る」は、おそらく一般にそこまで広く知られてはいない。本作は比較的マイナーな横溝作品の金田一耕助ものの中編であるが、横溝による随所での周到な書きぶりが読んで非常に清々(すがすが)しく、戦後の横溝正史の探偵小説家として乗りに乗った壮年期の傑作といえるのではないか。

再読 横溝正史(39)「迷路の花嫁」

横溝正史「迷路の花嫁」(1955年)は、金田一耕助が登場する長編推理ではあるものの全編に渡って金田一耕助は出てこない。金田一は話の幕間にたまに顔を出すのみである。

その代わりに事件解決には、第一の殺人発見に「偶然に」居合わせた駆け出しの小説家の松原浩三が終始出てきて活躍する。事件の発端は、閑静な住宅街に女性の叫び声が響き、往来の通行人が警ら中の警官と共に駆けつけ屋敷内を確認すると、全裸の女性が身体中をズタズタに突き刺され凄惨に殺されていた。戸口の番犬は毒殺されており、屋内で飼っていた多数の猫が殺害されて血の海になっている女性遺体の主人の周りに集まり不気味に血をすすって、いずれも鮮血に染まり怪しくうごめいていた。彼女は心霊術をやる女性霊媒師であった。彼女は独身であり、この屋敷にて唯一同居の女中はバラバラ死体となって地中に埋められているのを後日、発見された。

タイトルの「迷路の花嫁」というのは、女性霊媒師のパトロンであった呉服屋主人の良家の令嬢で、近日に婚礼を控えた美しい女性をさす。血染めの彼女の手袋がなぜか殺害現場にあり、そのため彼女はこの猟奇な殺人事件の被疑者として結婚式場から警察に連行され、後々まで疑惑の目にさらされる。まさしく彼女こそが「迷路の花嫁」なのであった。

女霊媒師殺害事件の第一発見者たる駆け出し小説家の男と、同じく発見現場に居合わせた足が不自由で手押し車を幼少の男児にいつも紐(ひも)で引かせている「子連れ狼」の逆バージョンのような(笑)、過去に因縁ありそうな中年の男、その他、殺害された女性霊媒師の弟子で「迷路の花嫁」と容姿が似ている美貌の女性、いかにも悪徳らしい女性霊媒師の師匠に当たる男性の心霊術大家、そしてその妻、殺された女性霊媒師と深い関係にあったと思われるパトロンの男性など、この薄気味悪い霊媒殺人事件の犯人は一体誰なのか!?

本作は400ページ近くの長編ではあるが、なかなか読者を飽きさせることなく、どんどん先を読ませるものがある。話の骨子は勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の復讐物で、殺人動機には犯人に同情の余地はある。本作にて探偵の金田一耕助が出ずっぱりでなく事件解決のために終始奔走せず活躍せず、要所での節目の場面で思い出したように出てきて捜査の適切なアドバイスをするに留(とど)まるのは、犯人の復讐劇の遂行を邪魔せず暗に見届けさせる作者・横溝正史による良心の筆の傾きか、と読後に思えなくもない。第一の女性霊媒師のズタズタな凄惨刺殺遺体にて、「不思議なんだが、どうしてあんなところを切られたんだろうと思われるようなところに傷があるんだ。たとえば内股などにね」といった検死の捜査医師の何気ないセリフで横溝の探偵小説を読み慣れている常連読者ならば、何となくラストの筋は読めてしまうかもしれない。そこが本作のポイントであり、不気味な話の内実であるように私には思えた。

横溝正史「迷路の花嫁」は昭和30年代の連載作品であり、この頃には社会派推理小説の台頭人気に押されて、横溝は金田一耕助が登場の小説は書くが、敗戦直後の「本陣殺人事件」(1946年)のような、もう練(ね)りに練ったトリック満載の本格の探偵小説は執筆しなくなっていた。本格推理にてマニアな一部の読者を唸(うな)らせるよりは、どちらかと言えば分かりやすく広く一般ウケするような通俗ミステリーに作風が傾いていた。この「迷路の花嫁」と同時進行で「吸血蛾」(1955年)と「三つ首塔」(1955年)も横溝は当時、執筆連載していたという。なるほど「迷路の花嫁」は、「吸血蛾」や「三つ首塔」と通俗長編のサスペンス・ロマンの点でどこか読み味が似ている。

「迷路の花嫁」角川文庫版の巻末解説は、探偵小説評論家の中島河太郎によるものである。以下のような中島の解説文は横溝「迷路の花嫁」に対する至言であり、簡潔で的確な紹介文であるといえる。だいたい何を読んでも中島河太郎の探偵小説評論は失策なく的確で、いつも上手い。

「昭和三十年といえば、著者は『吸血蛾』と『三つ首塔』を連載中であった。考え抜いたトリックを中核にして、本格物の醍醐味を提供するというより、物語性のふくらみを見せることに興味をもたれた時期の作品である」(中島河太郎、角川文庫版「迷路の花嫁・解説」)

再読 横溝正史(38)「悪霊島」

横溝正史「悪霊島」(1980年)は、横溝作品が次々に映像化され過去の小説も売れまくる「昭和の横溝ブーム」の最中、一度休筆していた横溝正史が復活を果たし、齢(よわい)70代にして新たに書き抜いた上下二巻、全700ページ近くの長編である。横溝は本作を角川書店の雑誌「野生時代」に1979年1月から1980年5月まで連載し、その後1981年12月に没している。横溝正史「悪霊島」は氏の最終作であり、事実上の絶筆であるといってよい。

本作の目玉のトピックは「シャム双生児」(身体がつながったまま生まれてきた双子、いわゆる結合双生児)である。この点に関し当の横溝いわく、

「(角川書店より雑誌『野生時代』)創刊以前から私は長編執筆を依頼されていた。書くならばシャム双生児をと、私の脳細胞はいよいよ活潑(かっぱつ)に動きはじめた。それにもかかわらずいざ『野生時代』に筆を執(と)った時、それはこの小説ではなく『病院坂の首縊りの家』であった。そのころこの小説はまだ私の脳細胞の中でほどよく発酵していなかったのであろう。それだけに『病院坂の首縊りの家』を書いているあいだ、私の脳裡(のうり)には常にこの小説があった。だから昭和五十三年の夏いよいよ執筆を開始したとき、この小説の結構は、そうとう細部にわたるまで、私の脳裡に形成していた。しかし、構想がまとまっているということと、それを文章によって表現するということはまた別の問題であるらしく、これを書いている間中、私は塗炭(とたん)の苦しみをなめなければならなかった」

シャム双生児を題材にしたものに従前、海外ミステリーでクィーン「シャム双生児の秘密」(1933年)や、国内の探偵小説にて江戸川乱歩「孤島の鬼」(1930年)があった。横溝の本作「悪霊島」も、シャム双生児が事件の鍵を握る話である。加えて横溝晩年の執筆であるためか、過去作品との設定重複、ネタの流用、場面の酷似が目立つ。私が読んで気付いた限りでも話の基本の構図は「蜃気楼島の情熱」(1954年)と「獄門島」(1948年)であって、あとの中身は「八つ墓村」(1951年)や「悪魔の手毬唄」(1959年)や「悪魔が来りて笛を吹く」(1953年)や「神の矢」(1949年)など、横溝の過去作品を思い起こさせる記述が幾つもある。また横溝「悪霊島」は、岡山の瀬戸内海の島を舞台にした、すでに殺害されている失踪人物をめぐる過去の因縁話であり、これと似た舞台設定の日本の探偵小説史における本格長編の古典名作、蒼井雄「瀬戸内海の惨劇」(1937年)のことも本作「悪霊島」から私は思い出したりしていた。

話は「悪霊島」たる刑部島(おさかべしま)に私立探偵の金田一耕助が依頼を受け、岡山県警の磯川警部と出向き滞在して、その島にて連続殺人に新たに出くわし事件の謎に挑む。その際、自身の父親が以前に島に訪れた形跡がありながら失踪し、そのまま行方不明になっているという青年、三津木五郎と同伴する。さらには磯川警部の過去も、その以前の失踪事件と今回の刑部島にての連続殺人事件とに複雑に密接に絡(から)み合っている、といった内容である。まず、今回の一連の事件の発端となる殺害被害者の「あの島には悪霊がとりついている、悪霊が…」、刑部島をして「悪霊島」と呼ぶ死の間際に吹き込まれた録音テープ、ダイイング・メッセージの不気味さがよい。なぜかの島が「悪霊島」であるのか、その謎が話のポイントではある。

ただ全体に、これは「悪霊島」のみならず横溝が復活して再び筆をとった最晩年の作品はいずれもそうなのだが、不必要に枚数多く無駄に話が長い。しかも長編話にテンポがなく中途で読むのにダレれて中だるみしてしまう。少なくとも私の場合はそうだ。本作「悪霊島」に関しても、確かに横溝は(おそらくは)あらかじめ綿密に結末まで考えてから書き出しており、前半から幾つも周到に伏線を張り巡らしてはいる。しかし、それが綿密に丁寧にやり過ぎてかえってクドく話の進行(テンポ)が遅いのが、あえて難点といえば難点か。この「悪霊島」にしても、例えば最晩年の作「迷路荘の惨劇」(1976年)にしても、とにかく話にリズムがなく進行が遅いので中途でダレてしまうのである。

私の経験からして身近な年寄りを見ていると分かるが、人は年をとるとなぜかクドくなる。思考の瞬発力がなくなって簡潔で的確な説明が出来ない自信喪失のためなのか、万全を期して丁寧に大切に自身の本意を漏(も)らすことなく相手に伝えたい思いが若い頃より強く働くからなのか、何度も念を押して執拗に繰り返したり、非常に回りクドい説明過多な会話を日常生活にてもよくやる。横溝正史も最晩年の探偵小説は例外なく長編で異常に長いし、重複もあり記述が丁寧すぎてクドい感じがする。この辺りのことは、横溝が働き盛りの壮年期に雑誌「新青年」や「宝石」に毎月のように執筆掲載していた昔の作品と読み比べてみると、よく分かる。

しかしながら、長くて時にクドいテンポの悪い金田一ものの長編探偵小説も晩年の横溝のコクの味だ。「悪霊島」を読み返す度に「この作品で金田一耕助も横溝正史も終わってしまうのだな」という非常に寂しい気持ちに毎回、私はなる。

角川文庫版「悪霊島」の巻末解説は、これまで角川文庫の横溝全集の多くの解説を書き重ねてきた探偵小説評論家の中島河太郎によるものだ。以下のような中島の巻末解説の語り、「著者に、天寿を恵まれるように祈りたい」という解説結語を読むと「やはり、この作品で金田一耕助も横溝正史も本当に終わってしまうのだな」といった「祭りの後」の喪失感のような寂しい思いを私はいつも痛感させられる。

「日本の推理作家では喜寿翁が、こういう大長編を完成した例はかつてなかった。年齢や枚数の記録を抜きにしても、これほど綿密周到な布置のもとに、愛憎の悲劇を仮借(かしゃく)なく掘り下げた大ロマンは、著者を措(お)いては創(つく)りえなかった。今後もまだまだ手のこんだ探偵小説を書いて行きたいと、意欲を示される著者に、天寿を恵まれるように祈りたい」(中島河太郎、角川文庫版「悪霊島・解説」)

再読 横溝正史(37)「死仮面」

いわゆる「昭和の横溝ブーム」にあって横溝作品が次々と映像化され社会での人気を極める中で、横溝ブームを強力に牽引(けんいん)したのは、角川春樹が社長だった昔の角川書店であった。当時から角川文庫が横溝作品をほとんど全作、漏(も)れなく完璧に出しまくっていた出版環境があり、しかも昔の角川文庫の横溝作品は表紙絵が杉本一文による上質イラストカバーに彩(いろど)られていた。

本当に昔の角川文庫はスゴいのである。横溝の代表作はもちろんのこと、まだ当時は横溝は存命だったから横溝本人にしてみれば今さら読み返されたくない過去の駄作・凡作も、角川は「横溝全集」の完全版を目指して容赦なく片っ端から復刻・再刊して出しまくる。出版社倒産の版元消失で原稿紛失な地方の雑誌に数回掲載のマイナーで傍流な作品でさえも、古書店でわずかに流通している古雑誌を発掘し、文字起こしをして角川文庫に強引に入れる。

膨大な再刊や映像化に関しほとんど許可していた温厚で誰に対しても偉ぶることのない人柄で知られた横溝正史であったが、多忙期に乱作した作品も含め片っ端から角川文庫に収録されるので、横溝の作家評価に傷がつくことを心配した友人らから忠告を受け、また横溝自身も気恥ずかしくなって、「ええ加減にしてくださいよ。これ以上出すとおたく(角川文庫)のコケンにかかわりますよ」と一時は怒りを露(あらわ)にしたらしい。だが最後は角川春樹に押し切られ、自身が最低と決めつけている作品でも再刊されると相当に売れたことから以後、過去の自作に対し自分で評価を決めることはせず、読者諸賢の審判を待つべきと割り切ることに決めたという。

さて、横溝正史「死仮面」(1949年)は、「横溝作品であれば作品内容や完成度の出来はどうあれ、何が何でも角川文庫に入れて復刊で出す。ともかく横溝ブームの最中、横溝作品は出せば必ず売れるから」の角川書店の狂気の沙汰が感じられる一冊である。

横溝の「死仮面」は敗戦直後に名古屋の雑誌に八回連載で掲載されたが、全八回の中の第四回の分が欠けていた。原稿が残っておらず、当時に流通した雑誌をできる限り手を尽くして探したけれど発見できず、連載の第四回原稿が欠落してどうしても見つからない。欠落分の載った雑誌を見つけ作品を「完成」させて角川文庫(最初はカドカワ・ノベルズに収められている)に収録したいが、それが叶(かな)わない。しかも、本作を再刊企画時には横溝正史は「悪霊島」(1980年)を完成させた後で静養につとめることになっていた。横溝自身の筆による欠落回の早急な書き直し復刻も残念ながら望めない。そこで角川編集部がとった強硬手段は、何と角川文庫の横溝作品巻末解説を毎回書いていた探偵小説評論家の中島河太郎が横溝の代わりに欠落回を創作して補い、とりあえずは「死仮面」を完成させ角川文庫に収録させるという強引極まる荒業(あらわざ)であった。そこまでして横溝の「死仮面」を自社文庫に入れたいのか、角川書店(笑)。

後の横溝の回想によれば、「死仮面」は「当時、私はなぜかこの作品を毛嫌いし、本にしなかった。話が陰惨すぎたせいであろう」ということである。

横溝正史「死仮面」の復刻時の売り出し文句のコピーは、「30年ぶりに発掘された巨匠幻の本格推理」であった。私は本作の初読は、旅先でフラりと入った古書店にて横溝「死仮面」の角川文庫を偶然に見つけ購入し、旅の中途で読んだ。そのため再読や再々読の機会に至るまで時に肝心な話の内容は忘れてしまうが、しかし「横溝の『死仮面』は、あの旅の途中に見知らぬ土地で面白く読んだなぁ」の初読時の楽しい思い出の感触だけは今でも忘れることなく、ずっと覚えている。

(※横溝正史「死仮面」は、後に欠落回掲載の雑誌が発見され、横溝オリジナルの完全版が春陽文庫(1998年)から出ています。)