アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(52)「ペルシャ猫を抱く女」

昔の角川書店は「横溝正史全集」の完全版を期して、横溝が過去に執筆した作品は、ほぼ漏(も)れなく文庫にして出していた。そこで横溝の短編群を所収した短編集も数冊、編(あ)んでいた。横溝のデビュー作を含む大正期の横溝短編集「恐ろしき四月馬鹿」(1977年)、続く戦前昭和の短編を収録した「山名耕作の不思議な生活」(1977年)、それから戦後に発表の諸短編を集めた「刺青(いれずみ)された男」(1977年)と、その続編となる戦後第二の短編集「ペルシャ猫を抱く女」(1977年)である。これら4冊の書籍がいずれも1977年初版である。当時は横溝正史の小説は出せば相当に売れる、時代はまさに「昭和の横溝ブーム」過熱の真っ只中にあったのだ。
 
戦後第二の短編集「ペルシャ猫を抱く女」にて当時の横溝正史は、長編の「本陣殺人事件」(1946年)と「蝶々殺人事件」(1947年)の連載を同時進行で抱えながら、さらに短編の作品依頼にも応じて「ペルシャ猫を抱く女」に所収の作品群を書き続けた。横溝「ペルシャ猫を抱く女」に収録の諸短編を読んで、「横溝さんは金田一耕助の長編『本陣』や由利麟太郎の長編『蝶々』を書きながら、さらにここまでの短編秀作も同時に書ける余力があるのか!」と驚嘆させられる秀作や佳作(「消すな蝋燭(ろうそく)」など)もあれば、読んで「なんじゃ!こりや(←松田優作風)」と逆に腰を抜かす明らかに失敗作の駄作(「詰将棋」「生ける人形」など)もある。そうした収録作品の出来に雲泥(うんでい)の差があり過ぎる、複雑な読み味がする横溝の短編集「ペルシャ猫を抱く女」である。

ここでは横溝正史「ペルシャ猫を抱く女」の中で、かなりの良作の出来のよさだと私には思える、「雲泥の差」にて「雲」の方に該当する、本書の表題作である「ペルシャ猫を抱く女」(1946年)と「双生児は踊る」(1947年)について書いてみたい。これら二つの短編は執筆した横溝本人にとっても使われたトリックや話全体のプロットを気に入って、それなりに思い入れがあったに相違ない。事実、短編「ペルシャ猫を抱く女」は長編「支那扇の女」(1960年)に、同様に短編「双生児は踊る」は短編「暗闇の中の猫」(1956年)に、横溝の手により改稿され後に金田一耕助シリーズとして再び世に出されている。

(以下、犯人やトリックの詳細は直接に明らかにしていませんが、「ペルシャ猫を抱く女」と「双生児は踊る」の話の本質に触れた「ネタばれ」です。横溝の短編「ペルシャ猫を抱く女」「双生児は踊る」を未読な方は、これから新たに読む楽しみがなくなりますので、ご注意ください)

横溝正史「ペルシャ猫を抱く女」は、横溝が戦時に疎開していた岡山を舞台に、作中の語り手が知人から聞いた「明治犯罪史」に絡(から)む話とその後日談である。「明治犯罪史」という書物に掲載され、当時より広く世間に知られていた毒殺狂で毒殺魔と恐れられた明治の女性の古い肖像画(「ペルシャ猫を抱く女」)を持ち出して、由緒正しき伯爵家のある子女に対し、「あなたの一族の祖先の中に、かつて良人殺しの毒殺魔と恐れられた女性がいた。あなたはその毒婦の遺伝を継いだ生まれ変わり」云々で、気弱であるが美しい彼女を暗に脅(おど)し自分のものにしようとする、その家の菩提に当たる寺院の若い僧侶の暗躍である。事実、伯爵家の菩提寺から後に発見された「ペルシャ猫を抱く女」の古い肖像画の中の毒殺魔の毒婦の風貌は現在の彼女に驚くほど似ており、まさに「生き写しの生まれ変わり」とまで気弱な彼女当人は信じ込み、思いつめる程だったのである。

しかし、それは気弱な彼女を精神的に追い詰めて自分のものにしようとする若い僧侶の奸計(かんけい)であったことが本編の後半にて明かされる。伯爵家の菩提寺から発見された「ペルシャ猫を抱く女」の肖像画の中の毒殺魔の毒婦の風貌が現在の彼女に驚くほど似ていて、まさに「生き写しの生まれ変わり」とまでに思われたのは、何と!その僧侶が現在の彼女の風貌にわざと似せて「ペルシャ猫を抱く女」の肖像画として描かせた贋作(がんさく・後に複製で描いた偽物)であったのだ。だから後に描いた偽絵であったため、「ペルシャ猫を抱く女」の肖像画の中の毒殺魔の毒婦の風貌は現在の彼女に驚くほど似ていたのである。

そして本作の最大の読み所は、贋作の「ペルシャ猫を抱く女」に関し、なぜその絵が偽絵と断言できるのか、一切の疑いや反論を完全に封じてしまう合理的で確定的なこれ以上ない明白な物的証拠であって、それは英字で肖像画に書き入れられていた「八木伯爵夫人の肖像」の意味の花文字なのであった。その詳細な理由は各自本作を読み確認して驚いてもらいたいが、この「贋作確定の純然たる物的証拠」というのが、本作「ペルシャ猫を抱く女」の話の肝(きも)であり、最大の目玉である。初読の際にはほとんどの人が驚き、すぐに納得させられる読後の爽快感のようなものを味わえるに違いない。角川文庫「ペルシャ猫を抱く女」の表紙カバーは杉本一文によるイラストで、そのまま表題作の「ペルシャ猫を抱く女」の肖像画になっている。ただし、カバーイラストの「ペルシャ猫を抱く女」も贋作である。なぜなら、 杉本一文によるその表紙絵に「八木伯爵夫人の肖像画」の英字の花文字が書き入れられてあるから(笑)。

横溝正史「双生児は踊る」について、物語の状況設定や登場人物の特徴や配置を排し、探偵小説としてのトリックの原理的な骨格のみを取り出して述べるとすれば、(1)暗闇の中でも犯人が目的の人物をはっきりと識別し狙撃できた妙手と、(2)クローズド・サークルにおける殺人トリックの二人一役ということになる。本編は、この二本柱により構成された好短編といえる。特に(2)の「クローズド・サークルにおける殺人トリックの二人一役」が本作の出色(しゅっしょく)であり、おそらく現実にはあり得ない、いかにもな探偵小説に特有のトリック話といえる。

そもそも「クローズド・サークルにおける殺人」とは次のようなことだ。「クローズド・サークル」とは閉じた人間関係のことで、これはいわゆる「人間関係の密室」である。通常の「密室」は人間が外部から出入りできない(と思われている)空間的で物理的な密室であるが、クローズド・サークルの場合は、互いに見知っている数人がおり、特異な状況下で外部からの新たな人の侵入が不可能なため、そのうちの誰かが必ず犯人であるという「閉じた人間関係内での人的密室」をいうのである。この場合の「互いに見知っている数人がおり、特異な状況下で外部からの新たな人の侵入が不可能なため、そのメンバーの中に必ず犯人がいる」というクローズド・サークル形成の典型といえば、例えば「海上を航行する客船」とか「ノンストップで昼夜走行する寝台列車」とか「悪天候のため外部との連絡が遮断され屋外に出られない孤立した別荘」などの舞台設定が従来の探偵小説にてよく見られる。

この手の閉じた人間関係の人的密室の中で、「このメンバーの中に犯人がいることは確かだが、それが一体誰なのか分からない。明らかな挙動不審や経歴不明、中には偽名使用の人もいて、皆が怪(あや)しく疑おうと思えば果てしなく誰でも疑うことができる」のクローズド・サークルものの探偵推理は、かつてアガサ・クリスティが「オリエント急行の殺人」(1934年)や「そして誰もいなくなった」(1939年)らで散々にやり尽くした印象が私には強い。

昔からある「クローズド・サークルにおける殺人トリック」の定番パターンの中で、横溝の「双生児は踊る」ではサークル内の人物の変装(一人二役、二人一役、一人対一人の人物入れ替わり、実在しない架空の人物の創造など)という、これまた昔からよくある常套(じょうとう)なものが使われている。クローズド・サークル内では皆が互いに見知っている者同士なので外部からの見知らぬ第三者の、あからさまに怪しい不審人物がこの閉じた人間関係の密室(クローズド・サークル)に入ることは原理的に不可能なわけである。そこでサークル内のある人物が同じサークルのあるメンバーに変装し犯行を行って、つまりは「二人一役」をやって、二人一役の変装をした彼が変装された人物に罪をなすりつける型の割と基本に忠実で古典的な「クローズド・サークルにおける殺人トリック」が本作では使われている。また当作品のクローズド・サークル形成の状況設定は、警察から厳重に四方監視されている人の出入りが許されないキャバレーの店舗建物であった。

その他「双生児は踊る」では「なぜ暗闇の中でも犯人が目的の人物をはっきりと識別し狙撃できたのか」のトリックに加えて、「ああ、─暗闇のなかに何かある、─猫だ!猫だ!─猫がこちらをねらっている」の、停電のわずかな時間の暗闇の中で狙撃された被害者の「暗闇の中の猫」なる発言から真犯人の解明に繋(つな)がる展開も印象深いし、何よりも事件解明に乗り出す探偵役にタイトルの「双生児は踊る」の双子を配して物語進行させている点も誠に興味深い。作中にて推理し真犯人を突き止める探偵役たる「踊る双生児」の初登場時の紹介記述は、以下のようなものであった。

「星野夏彦と星野冬彦の踊る双生児(ダンシング・トゥイン)。…夏彦は色が白くて、冬彦は色が黒い。しかし、何から何までそっくりである。体つきから顔かたちにいたるまで、ひとめで双生児と知れるほどよく似ている。…夏彦は色が白くて、冬彦は色が黒い。双生児は踊る。タップの靴音。ランターン・ジャズバンドの気ちがいめいた騒々しさ」

これは探偵小説における探偵役としてインパクトがあるし、何よりもキャラが立っている。横溝は金田一耕助ではなくて、ないしは金田一耕助と平行して「踊る双生児」の星野夏彦と星野冬彦を探偵にした連続シリーズを戦後に執筆しても良かったのでは、と私には思えるほどだ。それ程までに「双生児は踊る」にての、二人の双生児探偵はとても魅力的な良キャラクターであると私は思う。双生児の二人の丁々発止(ちょうちょうはっし)の会話で、どんどん犯罪トリックや事件の真犯人を明らかにしていく話運びのテンポが良い。それから本作には、金田一耕助シリーズでお馴染みの等々力警部も出てきます。

再読 横溝正史(51)「刺青された男」

昔の角川書店は「横溝正史全集」の完全版を期して、横溝が過去に執筆した作品は、ほぼ漏(も)れなく文庫にして出していた。そこで横溝の短編群を所収した短編集も数冊、編(あ)んでいた。横溝のデビュー作を含む大正期の横溝短編集「恐ろしき四月馬鹿」(1977年)、続く戦前昭和の短編を収録した「山名耕作の不思議な生活」(1977年)、それから戦後に発表の諸短編を集めた「刺青(いれずみ)された男」(1977年)と、その続編となる戦後第二の短編集「ペルシャ猫を抱く女」(1977年)である。これら4冊の書籍がいずれも1977年初版である。当時は横溝正史の小説は出せば相当に売れる、時代はまさに「昭和の横溝ブーム」過熱の真っ只中にあったのだ。

戦時中には「探偵小説は英米の敵国の文学」とされ国家当局からの検閲が厳しく、日本的な時代物の「人形佐七捕物帳」シリーズらに執筆が制限されていたこともあり、戦後になって「さあ、これからだ。思いっきり思う存分に本格の探偵小説を書いてやろう」の横溝の創作の再出発に当たる、横溝正史「刺青された男」は1945年以降の短編を全10作収めている。
 
(以下、犯人やトリックの詳細は直接に明らかにしていませんが、本書収録短編にて使われているトリックの型や伏線に軽く触れた「ネタばれ」です。横溝の短編集「刺青された男」を未読な方は、これから新たに本書を読む楽しみがなくなりますので、ご注意ください)

本書に掲載順の時系列からして、戦後に発表の第一弾短編は「神楽太夫(かぐら・だゆう)」(1946年)になっているが、本当は戦後に最初に書かれたのは本書に七番目に掲載の「探偵小説」(1946年)の作品の方であった。敗戦後に週刊誌からの依頼を受け戦後第一弾の復帰作として「探偵小説」を書き始めたが、これが思いのほか原稿量が多くなって指定枚数内にまとめきれなかったため、急遽(きゅうきょ)枚数が少ない「神楽太夫」を書いて、それを当初の原稿依頼の先方に渡し、「探偵小説」の方は枚数が多くても掲載の我儘(わがまま)がきく、かつて自身が編集者を務めていた雑誌「新青年」に後日に回したという事情があったようである。

実質は戦後の横溝復帰作の第一弾に当たる「探偵小説」には、「さあ、これからだ。思いっきり思い存分に本格の探偵小説を書いてやろう」の論理的な本格トリック重視の、戦後の再出発にかける横溝正史の探偵小説に対する並々ならぬ意欲が満ちあふれている。事実、横溝は敗戦の当時を振り返り、以下のように述べている。

「八月十五日終戦の詔勅(しょうちょく)がくだって以来、私は意気軒昂(いきけんこう)たるものがあった。来たるべき文芸復興にそなえて、さまざまなトリックを温めはじめていた。今後探偵小説を書くばあい、できるだけ本格を書こうと決心していた私は、大小さまざまなトリックを考案しては悦(えつ)に入っていた」

「探偵小説」とは、そのまま何のヒネリもない平凡タイトルだが(笑)、中身はアリバイ・トリックの本格物で、横溝正史「探偵小説」の元ネタは、ドイルのシャーロック・ホームズ短編「ブルース・パティントン設計書」(1917年)と江戸川乱歩の「鬼」(1931年)である。それら元ネタにあるトリックを横溝が改良し、さらに上手い具合にまとめている。本作「探偵小説」は、創元推理文庫「日本探偵小説全集9・横溝正史集」(1986年)にも収録されている。このことから横溝の「探偵小説」は、探偵小説評論家や同業の作家や編集者から発表当時より、それなりの高評価な作品であったに違いない。

横溝正史のような多作の量産作家は、その時期に自身が気に入っているトリックや設定を自作にて何度も連投で使い倒すことが多い。そのため横溝の作品を連続して読んでいると「この時期の横溝さんは、こういうプロットやトリックが好きでハマって、かなり入れ込んで自作に連投しているな」と分かってしまうことがある。本書「刺青された男」の収録作品を書いていた時期の敗戦直後の横溝が気に入ってハマっていたのは「叙述トリック」で、それをどの作品にもよく使っている。

叙述トリックとは、話の内容ではなく話の語りの記述そのものに錯覚があるトリックで、「事件を記述する語り手が実は犯人」という「信頼できない語り手」と呼ばれるものだ。探偵小説における通常の語りは、三人称で公正で客観的な語り記述なため、多くの読者は、たとえ事件関係者の一人称な説明語りの記述でも警戒なく「公正で客観的」と思い込んでおり、そこであえてその裏をかいて「実は記述者の語り手が犯人で、これまでの記述は全く信頼できない叙述であった」というので、読者の驚きを最後に引き出す意外性が叙述トリックの面白さの醍醐味である。

本書の巻頭掲載となっている「神楽太夫」も当然、叙述トリックだ。厳密には「叙述トリックもどき」で、作中にて事件の概要を語る人物の意外な正体(作中の語り手が必ずしも犯人というわけではなく、その事件に関係した重要人物の内の一人であったというパターン)の暴露をラストに持ってきて読者を驚かせる趣向である。あと「神楽太夫」には「顔のない死体」のトリックも使われている。

「顔のない死体」トリックとは、顔面毀損(きそん)や首上切断などで身元判別不能な、いわゆる「顔のない死体」があって、その死体の正体は遺体の着衣や所持品から推定される通常被害者と目される人物そのままなのか、それとも事件の被害者と目される死体は実は事件の加害者として手配されている人物で、逆に殺害されたと思われている被害者が加害者であり、「顔のない死体」の被害者を装った本当の加害者は合法的に社会的抹殺の蒸発を遂げ、すでに上手いこと逃亡してしまっているのか。「顔のない死体」における被害者と加害者の入れ替わりはあるのかないのか、そのことが焦点となるトリックである。

ただし「神楽太夫」では、従来ありがちな「顔のない死体」にて「被害者と加害者の入れ替わりはあるのかないのか」以上の、さらに入り組んだ変則パターンを用いており、これは横溝の後の作品「黒猫亭事件」(1947年)での「顔のない死体」の変則のそれに一部よく似ている。おそらく戦中か戦後のかなり早い時期に、すでに横溝は「顔のない死体」トリックの様々な変則パターンを研究し考え尽くしていて、そのトリック研究の成果を今般の「神楽太夫」と後の「黒猫亭事件」に新たに書き下ろし使ったのであろうと推測される。

短編集「刺青された男」にて読むべき良作は「靨(えくぼ)」(1946年)であり、当作は世間一般にはあまり知られていない横溝の短編ではあるけれども、なかなかよく出来ている。あまり詳しく書くと「ネタばれ」になるので書けないが、本作はアリバイ・トリック(犯人が犯行時刻に殺人現場にいないことの現場不在証明のトリックが、元々のトリック構想仕掛人側のミスという、たまたまの「幸運」で成立する昔からよく使われる探偵小説にありがちな有名な定番パターンのあれ)。それに前述のような横溝正史が、この時期にハマって好んで多用していた叙述トリックもどきの作中での事件の語り手の意外な正体。それから本作タイトル「靨(えくぼ)」が読む前には唐突な印象を読み手に与えるが、本作を読み終わると「なるほど」と読者は納得させられる、タイトルの「靨(えくぼ)」が犯人の犯行動機に深く関係していることを明かすラストのオチである。以上の3点セットにて横溝正史「靨(えくぼ)」は短編ながら重厚な読み味がある。まさに秀作の良作だ。

本書に収録の作品一覧を目次で見ていると、本文庫全体の冠(かんむり)にする良タイトルの収録短編がこれ以外になかったのだろう。本書は「刺青された男」(1946年)の短編からタイトルを取って文庫本の表題としている。しかしながら、書籍全体の代表タイトルとなっている表題作の「刺味された男」は、少なくとも私には大して優れているとは思えず全くの凡作で読んで、がっかりする。そういえば「刺青された男」の短編も、作中にて過去の事件概要を語る人物の意外な正体をラストで明かす叙述トリックに類するパターンであった。横溝正史、敗戦直後は作中語り手の意外な正体の「叙述トリックもどき」を自作に連投で使い過ぎだ(笑)。

再読 横溝正史(50)「山名耕作の不思議な生活」

昔の角川書店は「横溝正史全集」の完全版を期して、横溝が過去に執筆した作品は傍流なマイナー作、あからさまな破綻作・失敗作、他人名義で発表した代筆など、どんなものでも漏(も)れなく片っ端から文庫にして出していたので、横溝のデビュー作らその周辺の短編群を所収した初期短編集も数冊、編(あ)んでいた。それが角川文庫の横溝正史「恐ろしき四月馬鹿」(1977年)と「山名耕作の不思議な生活」(1977年)である。「恐ろしき四月馬鹿」は大正時代の横溝短編を、「山名耕作の不思議な生活」は戦前昭和の横溝短編をそれぞれ収録している。

横溝デビュー作「恐ろしき四月馬鹿」を含む大正期の初期短編は、まだ横溝が10代から20歳前後と若く、筆が定まらないので全般に読んで辛(つら)く、話の内容も記憶に残らず読んでもすぐに忘れてしまうのだが、その続編にあたる戦前昭和の横溝の初期短編集「山名耕作の不思議な生活」の頃になると、次第に横溝正史の筆も慣れてきて安定し、いくらか読める短編が増えてくる。

まず読むべきは、本文庫のタイトルにもなっている「山名耕作の不思議な生活」(1927年)あたりか。本作には殺人や失踪や盗難など犯罪は特段、出てこない。「山名耕作」という大正期のモダン市民の変わり者の、これまた一風変わった生活風景や個人趣味を明かす趣向の都市小説である。これは純然たる探偵小説ではないし、またそのジャンルに属する「奇妙な味」とも言えない。大正期当時のモダニズムの影響下にあった都市風俗のユーモア読み物である。本文庫に収録の「川越雄作の不思議な旅館」(1930年)も、タイトルの類似からして「山名耕作の不思議な生活」と内容と読み味ともに似ている。

そもそも横溝正史という人は優秀で常連な雑誌投稿者で、力量が認められて雑誌「新青年」の編集者となり、それと並行して自作の創作もなし、後に編集の仕事を辞めて作家一本に活動を絞(しぼ)った実に多才な人であった。そのためこの人は、こだわりの自世界構築の自身の作品執筆も深くできるが、編集者の嗅覚(きゅうかく)で自分の味ではない小説も無難に広く書けてしまう。「山名耕作の不思議な生活」も横溝はこんな都市風俗のユーモア読み物など本当は書きたくないのに(笑)、原稿依頼を出した他作家らが殺人推理の本格探偵小説ばかりで内容が重複して雑誌が煮詰まるので多彩な誌面づくりのための編集者の機転から、探偵推理以外のこのような都市ユーモア小説を時に散発的にあえて書くと思われ、そこが「横溝さんはバランスの取れた優秀な書き手だ。自分の世界構築のこだわりだけでなく、雑誌編集者として多様な作風の才能も見せる」の感心の思いが昔から私はする。

次に本書で読むべきは「あ・てる・てえる・ふいるむ」(1929年)だ。これは有名な「横溝による乱歩代筆」の作である。当時、雑誌「新青年」が新年号に代表的な日本の探偵作家を一同に並べる特集を組んだが、乱歩が不調で書けなかったため、編集主任であった横溝が執筆し、しかしそれを江戸川乱歩の名義で世に発表したものである。今日では作家が原稿を飛ばして雑誌掲載できなかった場合に、編集者やアシスタントや他作家が代わりに書いて、だがそのことは隠して当該作家の筆によるものとする「代筆」は、読者や世間をだますことになるので大きな問題になると思う。しかし、昔はこのような代筆は日常的に行われていたらしい。

代筆の難しさは作品の自然さと出来具合の調整の配慮にあるのであって、普段この作家の作品を連続で読んでいる読者に「なにか違う…もしかしたらこれは本人が書いていないのでは!?」と疑われ見破られたら、もうアウトだから、元の作家の日頃の作風や文章に似せてまずは代筆しなければならないわけである。その上で、代筆作品はやたら力を入れて名作や話題作を書いてしまうと、後日、作品に覚えがない本人作家に迷惑をかけてしまうし、また逆にあまりにも駄作の失敗作を代筆として世に出してしまうと同様に当該作家の名誉を傷つけ、後々まで迷惑をかけることになる。だから代作する者は、「あまりに優秀作の名作を書いてはいけないし、逆にあまりにも駄作の愚作を出してもいけない」の両端への配慮が必要で案外、気を使うものである。

横溝正史による江戸川乱歩の代筆「あ・てる・てえる・ふいるむ」は、「実は横溝の筆によるもの」と明かされなければ「これは乱歩の作品だ」と少なくとも私は信じてしまうし、また大して目立って秀作でもなければ逆にそこまでの駄作とも言えず、適当に読み流せる無難な短編であると思う。その辺りの横溝による代筆の塩梅(あんばい)が絶妙だ。

本書の巻末短編「丹夫人の化粧台」(1932年)は、夫人の化粧台の謎で読者を引っ張ってラストまで一気に読ませるものがある。妙齢の美しい夫人を、若い青年数人が取り合う話である。夫人をめぐる決闘の末に絶命間際のライバルが残した「気をつけ給え─丹夫人の化粧台─」の意味深な言葉。同様に、鉛筆で走り書きの遺書のメモ「丹夫人の邸(やしき)で、猫の鳴き声を聞いたときこそ、君は警戒すべきだ」の不可解なメッセージ。「こんな荒唐無稽なことが本当にあるのか…だがしかし、もしかしたら現実の事件であるかも」。横溝の発想が当時の戦前昭和の社会の時代のはるか先を行く。現代の日本社会では「丹夫人の化粧台(の秘密)」のようなことは、実際ありえるかも(笑)。

再読 横溝正史(49)「恐ろしき四月馬鹿」

昔の角川書店は「横溝正史全集」の完全版を期して、横溝が過去に執筆した作品は傍流なマイナー作、あからさまな破綻作・失敗作、他人名義で発表した代筆など、どんなものでも漏(も)れなく片っ端から文庫にして出していたので、横溝のデビュー作らその周辺の短編群を所収した初期短編集も数冊、編(あ)んでいた。それが角川文庫の横溝正史「恐ろしき四月馬鹿」(1977年)と「山名耕作の不思議な生活」(1977年)である。「恐ろしき四月馬鹿」は大正時代の横溝短編を、「山名耕作の不思議な生活」は戦前昭和の横溝短編をそれぞれ収録している。

横溝正史初期短編集の一冊目にあたる「恐ろしき四月馬鹿」である。本書タイトルは横溝正史のデビュー作「恐ろしき四月馬鹿」から来ている。書誌情報的により正確に詳細に言えば、最初に大正期と戦前昭和の横溝の初期短編を一挙に集めた「恐ろしき四月馬鹿」のハードカバーの単行本(1976年)が角川書店から出され、後にそれを文庫本にする際に単行本のままでは収録短編が多すぎて総ページ数多く文庫本一冊に収録できないから、ハードカバー版の「恐ろしき四月馬鹿」の内容を二冊に分け、単行本前半の大正時代の短編群を文庫版「恐ろしき四月馬鹿」に新たに編み直し、同様に単行本後半の戦前昭和の短編群を文庫本「山名耕作の不思議な生活」として新しく編んで既出の一冊の単行本を二冊の文庫に分冊したのであった。昔の角川書店は横溝正史の作品が新たに発掘されたりすると、最初から角川文庫には入れず、まずは単行本かカドカワ・ノベルズで一度世に出してから後に再度、角川文庫に収録する手順をとっていたようである。

横溝「恐ろしき四月馬鹿」の文庫版に収録の諸短編は全14作、巻頭の「恐ろしき四月馬鹿」は横溝正史のデビュー作で、雑誌「新青年」の懸賞小説に応募し入選して雑誌掲載されたものだ。この時、横溝正史は弱冠十八歳、実家の薬局を継ぐため大阪薬学専門学校に入学した頃である。横溝デビューの二年後に江戸川乱歩もデビューし、乱歩の文壇登場となる。

「恐ろしき四月馬鹿」(1922年)はショートコントのような微妙な読み味がする。よくテレビのバラエティ番組でどっきり企画を相手に仕掛ける仕掛け人の方が、実はどっきりのターゲットで、そのことを知らずに仕掛け人が、最後にまんまとだまされてしまう「逆どっきり」のような話である。内容は凡庸(ぼんよう)だが、若き日の10代の横溝のタイトル付けのセンスが良くて、「恐ろしき四月馬鹿」と書いて「四月馬鹿」に「エイプリル・フール」の読み仮名を付けて読ませる趣向など、この先を大いに期待させる前途有望な新人のデビュー作といえるのではないか。

その他、収録の横溝の大正期の初期短編は、私は読んでもすぐに忘れてしまう(笑)。おそらくは熱烈な横溝正史ファンならば横溝の作品はコンプリートで所有して全作品を読みたいと思うであろうから、この横溝正史「恐ろしき四月馬鹿」の文庫本も当時は横溝ブームの中、かなり売れたのだろうか。

私は「再読・横溝正史」の記事を書いて人並みに横溝の探偵小説を読んではいるけれど、実はそこまで「熱烈な横溝正史ファン」というわけでもないので、デビュー直後のまだ筆が定まらない横溝の初期短編集は読んで正直ツラい感じもする。

再読 横溝正史(48)「鴉(からす)」

横溝正史の探偵小説を続けて読んでいると、「この時期の横溝さんは、こういうプロットやトリックが好きでハマって、かなり入れ込んで自作に連投しているな」と分かってしまうことがある。

「鴉(からす)」(1951年)を執筆時の横溝正史は、「ある人物が失踪蒸発し、しかし後に戻ってきて関係者一同の前に微妙に姿を現し、たびたび目撃される。と同時に奇怪な殺人事件が起きて、犯人はかつて蒸発したが戻ってきた疑惑の人物なのか!」の、いわゆる「人間消失」のプロットを連続して用いている。「鴉」と同時期に執筆の長編「悪魔が来りて笛を吹く」(1951年)も中編「幽霊座」(1952年)も、いずれも「一度は蒸発した因縁人物が再度現れて関係者一同に微妙に目撃され暗躍し、奇怪な殺人事件が起きる」の「人間消失」のプロットだ。しかも、その因縁人物の再訪が「悪魔が来りて笛を吹く」の場合にはまるで「悪魔」の降臨のように、「幽霊座」の場合はあたかも「幽霊」の徘徊のように、恐怖で不気味なオカルト演出にて横溝により周到に語られるのであった。本作「鴉」にても、自宅の庭の神殿から忽然(こつぜん)と「消失」したある人物が数年ぶりに村に帰ってきた気配があり、その村の土俗信仰にて神の使いであり神聖な鳥とされる鴉(からす)の不気味さで一種異様な神秘の世界へ読者を導いて翻弄(ほんろう)するのである。

横溝正史「鴉」の大まかな話の流れはこうだ。

「静養のために岡山県を訪れ、旧知の磯川警部を県警に表敬訪問した金田一耕助は、警部に誘われるまま山奥の湯治場に案内された。そこにはお彦様という女の神様が祀(まつ)られている神社があり、かつては神社を中心にたいそう栄えたところだったが、今ではすっかり寂(さび)れてしまっていた。なぜ磯川警部がこんな山奥の寂れた温泉宿に金田一を案内したかといえば、その事情は三年前に起きた事件に遡(さかのぼ)る。

当時、村の当主の一人娘の婿養子が狩猟が道楽の趣味で、子宝も授からぬ新婚の時から家を留守にし神社のそばにある山中の、おこもり堂に泊まって朝方にかけ山で猟をする。当家跡取りの孫の誕生を待ちわびている、娘の父親の村の当主はそんな婿養子に内心、怒り心頭である。そして、新妻は心配して『夫に何か間違いがあっては』と日頃より家に住み込んでいる若者を、若旦那の猟に同伴させ付けていた。ある日、山に猟に出掛けているはずの若旦那が突然家に帰ってきて、庭にあるお彦様の土蔵造りの神殿の扉を開いて中に入って行った。これは座敷にいた妻をはじめ家人一同が見ている。しばらくして今度は夫といつも狩猟に同伴の若者も駆け込んできた。そうして彼が言うには、『猟からおこもり堂に戻ってみると天井から鴉(からす)の死骸が吊り下げられており、朝飯に来るはずの若旦那も戻ってこない』というのだ。

鴉(からす)はお彦様のお使いといわれ、この付近では神聖な鳥であった。一同は慌てて庭の神殿に入ってみるが、確かに入ったはずの若旦那の姿はなかった。そこには祝詞(のりと)の折本が置いてあり、その間に鴉(からす)の羽根が挟(はさ)んであった。それを開いてみると『われは行く。三年のあいだわれは帰らじ。みとせ経ば、ふたたびわれは帰り来(きた)らん』と書かれていた。それは墨で書かれ、その上を鴉(からす)の羽根に血をつけたものでなぞってあった。すなわち、これ『人間消失』である。若旦那が庭にあるお彦様の土蔵の神殿の扉を開いて中に入って行ったのを妻を始めとして家人の皆が目撃し目を離さずに注視していた。そうして神殿から彼が出た姿を誰も見ていないのである。衆人環視の中で建物に入った人間一人がそのまま跡形もなく消えてしまう。本件はまさに『人間消失』なのであった。しかも、その『消失』の際に『われは行く。三年のあいだわれは帰らじ。みとせ経ば、ふたたびわれは帰り来らん』という、『一度は消えるが三年後に再び現れる』旨の不気味な書き置きを残して。さらに彼の蒸発と同時に相当な額の現金が持ち去られていた。それから若旦那が『人間消失』で行方不明となって、磯川警部に案内され当村を金田一耕助が訪れた日の明後日が、その『消失』日から数えて出現予告のちょうど三年目に当たるのだった!」

横溝正史「鴉(からす)」は、未解決の奇妙な事件の謎解明のために岡山県警の磯川警部が岡山の現地に金田一を案内し暗に金田一の出馬を請う話の導入が、例えば同じ横溝の「悪魔の手毬唄」(1959年)に似ている。また一度失踪した因縁の人物が数年後に帰って来るの予告を残して蒸発する設定は、例えば同じく横溝の「不死蝶」(1953年)によく似ている。元々あった「人間消失」計画に便乗し、かつ大金を横領した真犯人が絵に描いたような相当な悪人であり、本作は最後まで読んで一連の事件の謎解明がなされると、かなり爽快(そうかい)でスッキリとする満足な読後感が得られる。また探偵推理の中心たる「人間消失」のトリックも、消えた人間と残った人間の数の勘定にて辻褄(つじつま)が合う極めて合理的なものである。それに何よりも三年前の事件発生直後の山中の、おこもり堂現場での初動捜査の際の磯川警部の致命的ミスを金田一耕助がサラリと軽く指摘し、磯川がガックリ頭(こうべ)を垂れるラストの絶妙さがよい。横溝正史「鴉(からす)」は、なかなかの好編だ。

(以下、犯人や犯行動機について直接に明らかにしていませんが、本作にて使われるトリック気付きの発端や犯行動機ら伏線の回収の着目点に軽く触れた「ネタばれ」です。横溝の「鴉」を未読な方は、これから新たに本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

ここでは本作品にて読み所となる、事件の謎解明の主な急所のポイントを3つ挙げておきたい。

(1)女性が「あら、お兄さま」といった場合、「お兄さま」と呼ばれた男性は必ずしも血縁兄弟の兄であるとは限らないし、特定一人の人物を指すとも限らない。「お兄さま」とか「兄さん」というのは女性からする男性へ向けての一般呼称であって、ゆえに「お兄さま」に該当の人物は複数人いるのが常である。

(2)村の有力者である義父から跡取りの孫の誕生を一心に期待されているにもかかわらず、新婚で子宝も授からぬ内から若い婿養子が新妻を放っておいて家を留守にし、夜な夜な山中のおこもり堂に寝泊まりして趣味の狩猟をやり、精力的に野山を駆け回るのは、単に入婿の若旦那が「趣味の猟が好きだから」という理由だけでは到底あるまい。

(3)いわゆる「人間消失」の後、山中のおこもり堂にて「天井から鴉(からす)の死骸が吊り下げられ、室内の床一面は鴉の血に染まり…」といった現場の状況である場合、そうした鴉(からす)の死骸吊り下げや血の飛散は、呪術的で大袈裟(おおげさ)な神の儀式の非合理なものであるよりは、実はおこもり堂の室内こそが人間殺害の犯行現場であり、殺害時に床板に飛び散った被害者の人間血を隠すカモフラージュの目的で、わざと鴉(からす)の死骸を天井から吊り下げ鴉の血を床一面に犯人が撒(ま)き散らしたという合理的理由まで推理されるべきである。してみれば、「人間消失」で忽然と消えた失踪人物の白骨遺体は、殺害現場であった、おこもり堂の案外近くにて発見されるかもしれない。何よりも初動捜査の際に、「おこもり堂の床一面に飛び散った鴉(からす)の血と思われたものに実は人間の血が混じっていなかったか」を警察はまず調べるべきであったのだ。

再読 横溝正史(47)「壺中美人」

昔の角川文庫の横溝作品の表紙カバー絵は、もれなく杉本一文が描いていた。杉本は毎回カバー絵作成の際に事前に横溝の本編小説を読んで、それからイラストを描いていたに違いない。だから杉本一文の歴代イラストカバーをよくよく見ていると、明らかに本編の「ネタばれ」になっていることがよくある。

横溝正史「壺中美人(こちゅうびじん)」(1960年)も昔の角川文庫、杉本イラストをよく見てみると(笑)。本作を既読の者なら「壺中美人」の、かの「美人」の顔を凝視して必ずや思うところがあるはずだ。私は以前、本作初読ののち改めてカバー絵の「壺中」の「美人」を見て爆笑せずにいられなかった。

「無気味な絶叫に目をさました手伝いの老婆は、恐る恐るアトリエまで来た。そして鍵穴からのぞくと、中には血まみれのパレットナイフを握りしめ、器用に身体をねじまげながら壺の中へ入るチャイナドレスの女が…。陶器蒐集(しゅうしゅう)で有名な画家が自宅のアトリエで何者かに殺害された。等々力警部の呼び出しで現場におもむいた金田一耕助は、聞き込みを続けるうちに数日前テレビで見た『壺中美人』と称する曲芸を思い浮かべていた」(角川文庫版、表紙カバー裏解説)

陶器蒐集の画家が自宅のアトリエで何者かに殺害された事件である。その犯行直後に屋敷の手伝いの老婆が鍵穴から、血まみれのパレットナイフを握りしめ、器用に身体をねじまげながら壺の中へ入るチャイナドレスの女を目撃したという。等々力警部と共に捜索に当たった探偵の金田一耕助は、事件発生前に偶然にもテレビの寄席中継にて「壺中美人」を視聴していた。「壺中美人」とは、酢(す)や何かを飲んで関節をやわらかにした女や子供が手や脚をくねくね折り曲げて窮屈な壺の中へすっぽりと入る曲芸で、それをチャイナドレスを着た「壺中美人」と称する人物がやる。しかも金田一がテレビで視聴した「壺中美人」が曲芸に使用のものと全く同じ壺が、陶器収集の画家の殺害現場である彼の自宅アトリエにあったのだ。

横溝正史「壺中美人」は、「常日頃から隠そうと意識し注意していても、人間の日常的な性癖や無意識下の行動しぐさを当人が知らないうちについ出してやってしまう」、そうした「隠そうとしても本人には気づかない無意識下での人間の癖や動作しぐさの露見」を金田一が慧眼(けいがん)をもって早々に気づくというのが、本作の話の肝(きも)である。おそらく横溝は探偵推理の細部の詳細を考えるより先に、「隠そうとしても本人には気づかない無意識下での人間の癖や動作しぐさの露見」ネタを使ってまず一作書こうとしている。その上で「壺中美人」は、犯行動機やアリバイ工作の細部を継ぎ足し全体を組み立てる手順で創作されているに違いない。そのため、実は読み始めの冒頭の10ページ足らずの場面記述で「金田一耕助がおやとつぶやいて身をのりだした」云々の横溝による描写があり、それこそが「隠そうとしても本人には気づかない無意識下での人間の癖や動作しぐさの露見」である。そうしてその内容が何であったかは、今度は作品のラスト近くでいよいよ「金田一の看破の鋭(するど)い気付き」として、ようやくタネ明かしされ披露されるわけである。

横溝「壺中美人」の難点として、作品全体の土台の必殺のネタとしてある「隠そうとしても本人には気づかない無意識下での人間の癖や動作しぐさの露見」が、犯人の意外性やアリバイ・トリックの暴露に直接結び付いていないため、話に面白味がなく残念な読後感が本作にはどうしても残る。

その分、「犯人や関係人物らが、なぜそのような態度や行動をとったのか」や「犯行当日の各人物の具体的行動」の、動機や時系列説明に矛盾や破綻がなく、横溝は相当に気を使って注意して精密に書いているフシは感じられる。だが「矛盾や破綻がないように」のその精密さに横溝の筆の力が入りすぎて、どうも横溝正史「壺中美人」は「だから実はこうであったのだ」的な事後説明臭があまりにも強すぎ、私には少々クドい感じがする。

再読 横溝正史(46)「霧の山荘」

横溝正史「霧の山荘」(1958年)のおおよその話の筋はこうだ。あらかじめ補足しておくと、「K高原のPホテル」は「軽井沢高原のプリンスホテル」の匿名表記といわれている。

「昭和33年9月、K高原のPホテルに滞在していた金田一耕助を江馬容子という女が訪ねてきた。容子は『自分の伯母である元映画スターの紅葉(西田)照子が、30年前に起こった迷宮入り事件の犯人に最近会ったと言いだし不安がっている。ついては伯母に会い、相談にのってやって欲しい』との依頼を金田一に持ちかける。この奇妙な依頼に応じ、照子の待つM原にある別荘へ向かった金田一は、しかし途中で道に迷ってしまった。途方に暮れる金田一を迎えに来た、派手なアロハシャツを着た若い男は照子の使いの者と名乗り、金田一を目的の別荘に案内する。しかし建物には鍵がかかっており、呼び出しにも返事がない。不審に思った2人がカーテンの隙間から中を窺(うかが)うと、そこには身につけた浴衣を赤黒い液体で染めた照子が床に血だまりを残して倒れていた。アロハを着た若い男が石につまずき生爪をはがして歩けなくなったため、金田一が別荘の管理人を呼びに行き、警察にも通報してもらったが、戻ってみると不思議なことにアロハの男も死体も忽然と消えていた。翌朝、K署の捜査主任・岡田警部補から照子の死体が発見されたとの連絡が入る。一緒に避暑を過ごそうとPホテルに来ていた等々力警部とともに金田一が別荘に急行すると、別荘の裏の潅木林の中に裸にされた照子の死体が横たわっていた」

本作のウリは死体消失である。しかも探偵の金田一耕助みずからが、案内役の依頼人の使いのアロハシャツを着た男と共に、「霧の山荘」屋内にて血まみれになった依頼人の凄惨な死体と床の血だまりをガラス戸の外から発見する。金田一がアロハの男を現場に残し、別荘の管理人を呼びに行き現場を一時離れ後に戻ってきてみたら、死体も床の血だまりも全てが跡形もなくきれいになくなっていた!全くの五里霧中な、狐につままれたような不思議な事件である。そうして遺体は別荘裏の潅木林の中で後に発見された。

横溝正史「霧の山荘」における死体消失と殺害現場の早急な復元回復のトリックは、エラリー・クイーン「神の灯」(1935年)の家屋消失のそれと同じである。大がかりな邸宅消失のトリック(「何と!あんな大きな屋敷が一晩のうちに忽然と消えるなんて」)は、ある程度の探偵小説好きな方なら大抵知っている話で、本作は初読であっても読み始めのかなり早い段階ですでに「ネタばれ」のような微妙な読み心地になる(笑)。それで書き手の横溝正史も「霧の山荘」での死体消失と殺害現場の早急な復元回復トリックは、読者に早々に見破られると思っているから、無理に謎を引っ張らず割合に早い話の段階でトリックの全容をあっさり明かしてしまう。そうして話の中心は、犯人らの真の狙いの動機と、その裏に仕組まれたアリバイ・トリックへと移っていく。横溝「霧の山荘」では、往年の名女優のいたずらに第三者が「便乗」して、ある人物を罪に陥れることと、「列車内でのスリと駅のプラットフォームにての通信文」云々のアリバイ工作が中盤からラストまでの話の中心になる。

海外の探偵推理小説にて、家屋消失や列車消失ならびに大人数の乗客や住人消失の話は昔からよく書かれているが、「あんな大きな建物や列車や大勢の人たちが跡形もなく忽然と消えるとは!」と散々に謎を引っ張ったわりには、最後にその謎が解明されると「大がかりで不思議な消失」のトリックが大したことなくて大抵は、がっかりする。クイーンの「神の灯」でもそうだし、横溝正史の「霧の山荘」でもそれは同様だ。

ただ横溝「霧の山荘」の場合、金田一が死体消失と殺害現場の早急な復元回復トリックに気づく発端が、「そういえば海外の探偵小説で『神の灯』のような屋敷消失の大胆なトリックがありましたね」のような海外ミステリー典拠の気付きではなくて、「戸締まりはぜんぶなかからしてあるし、雨戸もみんなしまっている」と別荘案内の際にアロハの男がつい口をすべらせた「雨戸」という言葉を金田一が覚えていて、その言葉に引っ掛かり、そこから死体消失トリックを金田一が見破る横溝の書き方に私は感心した。そのトリック看破の発端記述の工夫が、横溝正史「霧の山荘」にての玄人地味な良さの実の読み所であるように私には思えた。

再読 横溝正史(45)「女怪」

戦後に私立探偵の金田一耕助を創作し「本陣殺人事件」(1946年)にて初登場させた横溝正史は、最初から金田一の活躍を時系列で厳密に構成するシリーズ化の金田一探偵の物語世界構築を案外、丁寧に力を入れてやっている。例えば「黒猫亭事件」(1947年)は「本陣殺人事件」を執筆した疎開地の岡山に在住の語り手、つまりは横溝正史本人の元を金田一耕助が訪問する、「もうすこし、ぼくという人間を、好男子に書いて貰いたかったですな」などと金田一が軽口叩きながらの(笑)、横溝と金田一の架空の直接会見を小説冒頭に置く「本陣」の後日談になっている。

同様に「女怪」(1950年)は「八つ墓村」(1951年)の事件が解決し、岡山から帰京した金田一耕助が、金田一の友人で彼の事件簿の「この男の記録係」を務める私こと、この小説の書き手たる横溝正史と以下のようなやりとりを作中冒頭にて交わすのであった。

「先生、何をぼんやりしているんです。え?仕事が出来なくて弱っているって?そうあなた、机に向かってたばこを吹かしていちゃ、仕事もなにも出来るはずありませんや。たまにゃ環境をかえなきゃ…先生、旅行しましょうよ。どこか静かな、人気のない温泉場へでも旅行しましょう。…」「ほほう、これは景気がいいんだね。すると『八つ墓村』の事件も、うまく解決がついたんだね」

「女怪」は「八つ墓村」事件の後日談であり、「女怪」に描かれる事柄は、横溝正史の「先生」と金田一耕助の「耕さん」が休息がてら二人で出かけた人気のない静かな温泉地で遭遇する、思いもかけない事件なのであった。そうしてその事件の顛末(てんまつ)を「先生」こと、金田一の友人で金田一探偵譚の記録係でもある横溝正史が金田一からの手紙を交えて記述する作品が、本作「女怪」である。

それにしても驚異的な推理能力だったり、ズバ抜けた行動力でキャラクターの立つ名探偵に、比較的凡人だが気を許せる友人がいて、その彼が探偵に同伴し記録したり、探偵から直に聞いた回想話を後日談の事件簿として記述し読者に紹介する語りの形式は、ドイルのシャーロック・ホームズにてのホームズとワトソンから(おそらくは)シリーズ物として連続して本格的に始められたものであって、横溝正史の金田一探偵譚も初期には、金田一耕助を「耕さん」と呼び、その金田一から「先生」と呼ばれる懇意な作家の横溝正史が探偵・金田一の活躍を記録し読者に紹介する語りの形式になっていた。実はルブランの怪盗リュパンのシリーズも、その初期にはリュパンの友人がリュパンから実際に聞いた話をまとめ、後日に読者に紹介する形式であったのだ。そうした同伴の友人が後日談として名探偵の活躍事件簿を記述し一般読者に公開する語りの形式をシリーズものとして連続してやり、それを探偵小説ジャンルの定番に定着させたホームズ・シリーズ創作のドイルの功績は、相当に大きなものがあったと称賛を交え今なら言える。

加えて横溝正史「女怪」は、小説の冒頭から「私立探偵・金田一耕助には活動拠点の探偵事務所はあるのか」とか、「金田一は日々の生活の支払い、つまりは経済的収入をどうしているのか」といった読み手の金田一ファンの疑問や要望に答えるように、金田一探偵譚の物語世界の各種設定をこれまた横溝が案外に律儀(りちぎ)にやっている所が読み所で当作品の価値がそこにあり、また私にとっては多少の笑い所でもある。

私は探偵小説を読む際には純然たるトリック重視であり、探偵である金田一のキャラクターだとか、金田一の恋愛ロマンスだとか、金田一の日常の生活の様子など全く気にならないのだが、世の中の読者にはそういった細かな設定を気にする人が多いらしく、そうした暗にある読者の要望に応じる形で横溝は本作「女怪」にて、「一時は銀座裏の怪しげなビルディングの最上階に事務所を構えていたが、今ではパトロンの風間の二号が経営している大森の割烹旅館の離れ座敷に金田一は居候の形でころげこんでいる」だとか、「風間俊六や久保銀造のパトロンがいて、しかも金田一の冒険譚の記述者である私こと横溝正史も金田一の名でいくらか利益を得ており、金田一から分け前を請求されたことはないけれど、気を使ってできる限りのことを…実は些少の謝礼を」云々の「横溝が金田一に多少は支払って金銭援助をしている」旨をわざわざ事細かに丁寧に説明するのであった。そういえば「犬神家の一族」(1951年)ら以前に横溝の金田一シリーズを監督の市川崑が映画化していたが、横溝の原作小説にはないのに、金銭授受を介した探偵契約だとか、事件解決の折りには宿泊費と食費を差し引いた依頼人からの探偵・金田一への報酬支払いの場面を監督兼脚本家の市川崑が毎作、熱心に撮っていて私は笑った。率直に言って私立探偵・金田一耕助はフィクションで実在しない人物であり、探偵小説の力点は作者の横溝による練りに練ったプロットと大胆かつ精密なトリックにあるのだから、「金田一の定期の収入や日々の支払いはどうなっているのか!?」といった経済的なことはそこまで重要ではないはずなのに、金田一の探偵小説を映画化する市川崑を始めとして、そうした経済的な詳細設定にこだわる人が世の中には多くいるものなのだ、と感心し思わず私は笑ってしまう。

さて「女怪」は「獄門島」(1948年)のヒロイン・鬼頭早苗に続く、金田一耕助のロマンスの話でもある。本作では、金田一が密(ひそ)かに思いを寄せている持田虹子という未亡人のバーのマダムが出てくる。私はトリック重視の探偵小説の読み手なので、探偵・金田一の色恋の恋愛話にそこまで関心興味はないのだが、やはり世間には金田一耕助の恋愛話に強く惹(ひ)きつけられる金田一ファンの読者が多くいるらしい。すなわち、本文にて金田一と懇意な「先生」こと横溝正史が書くには、

「そうだ、金田一耕助はたしかに虹子を愛していた。およそ世界の探偵小説を読むに、探偵が恋をするなんてことはめったにないが、探偵が恋をしたとてなぜ悪かろう。かれらだって血の通った人間なのである。まして金田一耕助はまだ若いのだ。身を焼くような恋をしたとて、なんの不思議もない筈だ」

あと横溝正史「女怪」に関しては、単なる死体収集マニアの性癖ではない、続発する墓荒しの「合理的」理由(「なぜそこまで執拗に墓が掘り返され荒らされるのか!?」)が探偵小説のミステリー話としての一番の読み所であり、そこが話の肝(きも)である。

再読 横溝正史(44)「幽霊座」

以前に横溝正史の探偵小説を連日、連続してほぼ全作読んでいたとき、例えば「本陣殺人事件」(1946年)や「獄門島」(1948年)ら、有名どころの金田一耕助探偵譚を読み切ってしまった後に「残りの横溝マイナー作に読むべきものは、ほとんど残っていないのでは」と、そんなに期待せず引き続き横溝を読み進めていたところ、これが意外にも、おそらくは世間一般にあまり知られておらず、そこまで広く読まれていないであろう傍流な横溝作品の中にもなかなかの良作があり、「うれしい誤算」の思いがけない収穫に恵まれることが多々あった。

横溝正史「幽霊座」(1952年)も、おそらくは世間一般にあまり知られておらず、そこまで広く読まれていないであろう横溝作品群に埋もれた傍流な、しかし、なかなかの秀作であり、「読んで再発見」の「うれしい誤算」で私にとっては思いがけない収穫の作なのであった。

横溝「幽霊座」は、後の角川文庫の巻末解説、大坪直行による「本作は歌舞伎好きである横溝唯一の歌舞伎役者とその舞台を題材にした作品だが、全集(旧版)に収録されていない。それは、あまりよく知られていない歌舞伎の世界をバックにしただけに、当の横溝は自信がなかったのかも知れない」旨の解説文とともに今でも紹介されることが多いけれど、なかなかどうして、私が読む限り良作の力作で横溝全集に収録されて当然の金田一ものであると思える。確かに本作にて、歌舞伎演目「鯉つかみ」での舞台上の人間消失と早変わりの舞台裏仕掛けの説明は、歌舞伎を知らない読者には文章説明を一読しただけでは分かりにくいものがあるが、本作には「『鯉つかみ』眼目の場面の仕掛け」のイラスト図解も掲載されており、それが参考になる。

さて、横溝正史「幽霊座」のあらすじは以下だ。

「稲妻座は歌舞伎興行を独占する会社から秋波を送られている小さな劇場である。いまから17年前、夏芝居の演目であった『鯉つかみ』上演中、一人の役者が失踪した。名を佐野川鶴之助という。いつしか稲妻座では鶴之助失踪の日を彼の命日とするようになり、昭和27年夏、その追善興行として再び『鯉つかみ』が上演される。かつて鶴之助が演じた滝窓志賀之助=鯉の精は鶴之助の遺児、雷蔵が担当するはずだったが、上演直前に倒れたせいで鶴之助の弟、紫紅が演じた。ところがその紫紅が水船から鉄管を通って奈落へ落ちてきたときに死亡する。検視の結果、紫紅は毒殺されたことが判明。その前後に17年前に失踪した鶴之助と見られる人物が舞台袖で目撃され、『鶴之助の幽霊の徘徊か!』。事件の不可解な謎は深まるばかりである。鶴之助のみならず戦前から稲妻座の古参連中と懇意にしていた金田一耕助はその場に居合わせたことから、例によって例の如く事件の渦中に巻きこまれてゆく。やがて金田一耕助の推理は鶴之助を中心とする、梨園にわだかまる因襲と確執、親子の愛憎の因果な人間関係を暴くことになるのだが…」

本作「幽霊座」は人間消失、そうして一度は死んだはずの人間が17年後に甦(よみがえ)り、「幽霊」のごとく「一座」の歌舞伎小屋を徘徊するという趣向である。ゆえに本作は「幽霊座」のタイトルなのであった。

横溝「幽霊座」のミソは歌舞伎の舞台裏のからくり装置を使ったミステリーで同じ事柄の反復構造にある。その舞台装置を利用して、一度目は「人間消失」の失踪であり、二度目は殺人である。しかも二回とも事件の小道具に眠り薬や毒入りのチョコレートが使われており、この辺り探偵小説愛好の読者には、往年のバークリー「毒入りチョコレート事件」(1929年)を思い起こさせ、横溝の筆はなるほど心憎い。あまり詳しく述べると「ネタばれ」になってしまうので直接には書けないが、一連の事件の発端となる17年前に「鯉つかみ」の演目中に舞台上から忽然(こつぜん)と姿を消した「佐野川鶴之助にとって相当に年の離れた××が実は××だった」という意外性の驚きが話の肝(きも)で、一般人の社会とは異なる梨園の世界の特殊な人間関係にて、「こうしたことは実際に昔も今も歌舞伎界ではありがちなこと」といった印象だ。

当時、人気随一の若手歌舞伎役者であった鶴之助の幼少の長男が自宅屋敷の庭の池で溺死し、そのショックで鶴之助の妻も若くして病死して以来、鶴之助は精神的に不安定になり17年前に失踪してしまうのだが、長男溺死の真相を知った際の鶴之助のショックときたら。長男溺死の真相には、後によくよく考えれば鶴之助自身の「身から出たサビ」の自業自得な所もあり、当時から人気で将来を期待された若手歌舞伎俳優であったのに、そうした輝かしい未来も何もかも捨てて「人間消失」で失踪したくなる鶴之助の哀愁で虚無の心境を本作を最後まで読んで事情を知れば、「まぁ、そうなるわな」の共感の思いが私はする。

佐野川鶴之助が失踪するひと月前に、金田一耕助が鶴之助から行状調査を依頼された篠原アキという謎の女。元看護師で夫殺しの毒婦、彼女は一体何者なのか。彼女は歌舞伎俳優の鶴之助と、どういう関係にあるのか。そうして彼女は今どこにいて何をしているのか!?

角川文庫「幽霊座」の杉本一文による表紙カバーイラストも素晴らしい。ただラストで、年寄りの男衆が追善興業にての紫紅殺しの犯人が分かり、だが文盲で字の読み書きが出来ないため、死の直前に工夫を凝らして犯人ヒントのダイイング・メッセージを残す「ブロマイドを血で逆さに貼りつけて」云々の金田一の読み解き口上が、やや無理があってこじつけでクドく、この点に関してだけ本作「幽霊座」にて横溝は失策をしたなとも私は思った。

再読 横溝正史(43)「トランプ台上の首」

横溝正史「トランプ台上の首」(1959年)の話の、あらましはこうだ。

「舟で隅田川沿いに水上惣菜屋を営んでいる宇野宇之助が、アパート聚楽荘(じゅらくそう)の1階に住むストリッパー、牧野アケミの生首を彼女の部屋で発見した。残されていたのは首だけで、胴体の行方は不明であった。前夜、アケミの部屋でトランプゲームをしに集まった、アケミの勤め先のストリップ劇場の支配人・郷田実や幕内主任の伊東欣三、同僚ストリッパーの高安晴子も生首はアケミに間違いないと話す。等々力警部に伴われて現場に訪れた金田一耕助が、散乱したトランプ台上に置かれた女の生首をめぐる猟奇事件の謎に迫る」

本作は見た目のインパクト大なバラバラ殺人事件である。「散乱したカードのうえ、テーブルのちょうど中央に、ちょこんとのっかっているのは、なんと、血に染まった女の生首ではないか」というのが、ギリシア神話の怪物・メデューサの生首を思い起こさせるケレン味ある趣向である。しかも、首切断で生首を現場のトランプ台上に残したまま、首下の胴体は現場から持ち去られ行方不明という誠に陰惨猟奇であり、かつ不思議な事件であった。

本作の舞台は東京の隅田川沿い、時代設定は昭和30年代であるが、そうした比較的近代の新しい時代に、舟の上の水上生活者や河岸すれすれに建ったアパートや家屋の住人へ向けて水上の舟から惣菜を売りあるく「水上惣菜屋」という商売従事の男が「トランプ台上の首」を沿岸アパートの一室にて発見する事件発露の発端がまず面白いと思う。何よりも「水上惣菜屋」という、江戸時代の昔からあった商(あきな)いに関する詳細説明の本作書き出しが新鮮だ。

探偵小説は筋道の通った合理的な近代文学である。ゆえに、遺体の首を切断して現場に生首だけをわざと残し、いわゆる探偵推理における身元が不明な「顔のない死体」とは全くの逆を行く、遺体の顔が明白なことから殺害された被害者の身元を発見者と捜査陣一同に堂々と知らしめるのは、あえてそうしたい犯人側の明確な事情があるからである。創作の探偵小説ではない、現実の首切断放置の猟奇殺人事件の場合、単に生首を晒(さら)しておきたい犯人の性癖とか、猟奇のショッキングさにて世間の人々の耳目を集めたい殺人犯の虚栄心があったりするのだけれど。だから本作「トランプ台上の首」では、なぜ犯人は遺体の首を切断して現場に生首だけをわざわざ残し、殺害された被害者の身元を発見者と金田一耕助ら探偵捜査陣に堂々と知らしめようとしたのか。あえてそうしたい犯人側の事情があるわけで、そこがこの探偵小説の話の本質的な面白さであり、最大の読み所であるといえる。

(以下、話の核心に触れた「ネタばれ」です。横溝の「トランプ台上の首」を未読の方は、これから新たに本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

一連の猟奇殺人に関係する犯人の詳しい犯行動機や後に継続して起こる関係者の連続殺人の細かな話の詳細は省いて、「トランプ台上の首」として、なぜ犯人は遺体の首を切断して現場に生首だけをわざわざ残し、殺害された被害者の身元を発見者と金田一耕助ら探偵捜査陣に堂々と知らしめようとしたのか、あえてそうしたかった犯人側の事情についてだけ述べると以下のようになる。

前夜に同室でトランプを一緒にやっていた、殺人被害者と目されるアケミの、勤め先のストリップ劇場の支配人や主任や同僚のストリッパーの関係者一同、「トランプ台上の首」は「女性の生首の顔からしてその部屋の住人のストリッパー、牧野アケミであり、彼女こそが殺人事件の被害者に間違いないこと」を証言したが、実はストリッパーの牧野アケミは事件被害者ではなかった。何と!牧野明美は双生児でウリ二つの妹がおり、トランプ台上の女性の生首はアケミに顔がそっくりな双子の妹であったのだ。アケミはかねてより麻薬の密輸に関わっていて、早くに逃亡したかった。牧野アケミは殺害されたことにして、彼女は合法的に蒸発したかったのである。だから「トランプ台上の首」はストリッパーの牧野アケミではなく、アケミに殺害され首切断された双子の妹で、実はアケミは生きていたのだった。

そして、なぜ首を切断し、首上だけ残して下の胴体を持ち去り行方不明にしたのかといえば、双子の妹の身体には、ある肝臓の病気から血管が圧迫されてアザのようなものが浮き出る身体的特徴があり、しかし日頃からストリッパーとして裸体をさらしていた牧野アケミには、そのアザの印がないため遺体の胴体を残すと、アザの有無から「死体が牧野アケミではないこと」が検死にてバレてしまう。だから首を切断してアケミと同一な首上だけ現場のトランプ台上に残し、「殺害されたのは牧野アケミ」と関係者一同に信じ込ませた上で、「死体の正体は牧野アケミではない」とバレるアザの身体特徴がある胴体は持ち去り、隠匿したのであった。

この作品のトリックの醍醐味は「事件被害者が実は双生児の双子であった」という、ある意味、探偵小説の書き手にとって誠に都合のよい初歩的で素朴な設定をあえて使ったということに尽きる。探偵推理にての不可能犯罪や現場不在証明(アリバイ)工作にて、容姿がウリ二つの双子、さらには三つ子の設定を用いるのは実は探偵作家として相当に恥ずかしい。双生児や三つ子設定は、あまりも書き手本位で都合がよすぎて現実には滅多にあり得ない、極めて素朴で初歩的な現実離れした無理設定であるからだ。だが、探偵小説家のベテランである横溝は本作にて恥ずかしげもなく何ら臆することなく、双生児の双子の設定を堂々と使ってしまう(笑)。そこが横溝正史「トランプ台上の首」の最大の意外性の面白さであり、読んで半畳の入れ所であると私には思えた。