アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(48)「鴉(からす)」

横溝正史の探偵小説を続けて読んでいると、「この時期の横溝さんは、こういうプロットやトリックが好きでハマって、かなり入れ込んで自作に連投しているな」と分かってしまうことがある。

「鴉(からす)」(1951年)を執筆時の横溝正史は、「ある人物が失踪蒸発し、しかし後に戻ってきて関係者一同の前に微妙に姿を現し、たびたび目撃される。と同時に奇怪な殺人事件が起きて、犯人はかつて蒸発したが戻ってきた疑惑の人物なのか!」の、いわゆる「人間消失」のプロットを連続して用いている。「鴉」と同時期に執筆の長編「悪魔が来りて笛を吹く」(1951年)も中編「幽霊座」(1952年)も、いずれも「一度は蒸発した因縁人物が再度現れて関係者一同に微妙に目撃され暗躍し、奇怪な殺人事件が起きる」の「人間消失」のプロットだ。しかも、その因縁人物の再訪が「悪魔が来りて笛を吹く」の場合にはまるで「悪魔」の降臨のように、「幽霊座」の場合はあたかも「幽霊」の徘徊のように、恐怖で不気味なオカルト演出にて横溝により周到に語られるのであった。本作「鴉」にても、自宅の庭の神殿から忽然(こつぜん)と「消失」したある人物が数年ぶりに村に帰ってきた気配があり、その村の土俗信仰にて神の使いであり神聖な鳥とされる鴉(からす)の不気味さで一種異様な神秘の世界へ読者を導いて翻弄(ほんろう)するのである。

横溝正史「鴉」の大まかな話の流れはこうだ。

「静養のために岡山県を訪れ、旧知の磯川警部を県警に表敬訪問した金田一耕助は、警部に誘われるまま山奥の湯治場に案内された。そこにはお彦様という女の神様が祀(まつ)られている神社があり、かつては神社を中心にたいそう栄えたところだったが、今ではすっかり寂(さび)れてしまっていた。なぜ磯川警部がこんな山奥の寂れた温泉宿に金田一を案内したかといえば、その事情は三年前に起きた事件に遡(さかのぼ)る。

当時、村の当主の一人娘の婿養子が狩猟が道楽の趣味で、子宝も授からぬ新婚の時から家を留守にし神社のそばにある山中の、おこもり堂に泊まって朝方にかけ山で猟をする。当家跡取りの孫の誕生を待ちわびている、娘の父親の村の当主はそんな婿養子に内心、怒り心頭である。そして、新妻は心配して『夫に何か間違いがあっては』と日頃より家に住み込んでいる若者を、若旦那の猟に同伴させ付けていた。ある日、山に猟に出掛けているはずの若旦那が突然家に帰ってきて、庭にあるお彦様の土蔵造りの神殿の扉を開いて中に入って行った。これは座敷にいた妻をはじめ家人一同が見ている。しばらくして今度は夫といつも狩猟に同伴の若者も駆け込んできた。そうして彼が言うには、『猟からおこもり堂に戻ってみると天井から鴉(からす)の死骸が吊り下げられており、朝飯に来るはずの若旦那も戻ってこない』というのだ。

鴉(からす)はお彦様のお使いといわれ、この付近では神聖な鳥であった。一同は慌てて庭の神殿に入ってみるが、確かに入ったはずの若旦那の姿はなかった。そこには祝詞(のりと)の折本が置いてあり、その間に鴉(からす)の羽根が挟(はさ)んであった。それを開いてみると『われは行く。三年のあいだわれは帰らじ。みとせ経ば、ふたたびわれは帰り来(きた)らん』と書かれていた。それは墨で書かれ、その上を鴉(からす)の羽根に血をつけたものでなぞってあった。すなわち、これ『人間消失』である。若旦那が庭にあるお彦様の土蔵の神殿の扉を開いて中に入って行ったのを妻を始めとして家人の皆が目撃し目を離さずに注視していた。そうして神殿から彼が出た姿を誰も見ていないのである。衆人環視の中で建物に入った人間一人がそのまま跡形もなく消えてしまう。本件はまさに『人間消失』なのであった。しかも、その『消失』の際に『われは行く。三年のあいだわれは帰らじ。みとせ経ば、ふたたびわれは帰り来らん』という、『一度は消えるが三年後に再び現れる』旨の不気味な書き置きを残して。さらに彼の蒸発と同時に相当な額の現金が持ち去られていた。それから若旦那が『人間消失』で行方不明となって、磯川警部に案内され当村を金田一耕助が訪れた日の明後日が、その『消失』日から数えて出現予告のちょうど三年目に当たるのだった!」

横溝正史「鴉(からす)」は、未解決の奇妙な事件の謎解明のために岡山県警の磯川警部が岡山の現地に金田一を案内し暗に金田一の出馬を請う話の導入が、例えば同じ横溝の「悪魔の手毬唄」(1959年)に似ている。また一度失踪した因縁の人物が数年後に帰って来るの予告を残して蒸発する設定は、例えば同じく横溝の「不死蝶」(1953年)によく似ている。元々あった「人間消失」計画に便乗し、かつ大金を横領した真犯人が絵に描いたような相当な悪人であり、本作は最後まで読んで一連の事件の謎解明がなされると、かなり爽快(そうかい)でスッキリとする満足な読後感が得られる。また探偵推理の中心たる「人間消失」のトリックも、消えた人間と残った人間の数の勘定にて辻褄(つじつま)が合う極めて合理的なものである。それに何よりも三年前の事件発生直後の山中の、おこもり堂現場での初動捜査の際の磯川警部の致命的ミスを金田一耕助がサラリと軽く指摘し、磯川がガックリ頭(こうべ)を垂れるラストの絶妙さがよい。横溝正史「鴉(からす)」は、なかなかの好編だ。

(以下、犯人や犯行動機について直接に明らかにしていませんが、本作にて使われるトリック気付きの発端や犯行動機ら伏線の回収の着目点に軽く触れた「ネタばれ」です。横溝の「鴉」を未読な方は、これから新たに本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

ここでは本作品にて読み所となる、事件の謎解明の主な急所のポイントを3つ挙げておきたい。

(1)女性が「あら、お兄さま」といった場合、「お兄さま」と呼ばれた男性は必ずしも血縁兄弟の兄であるとは限らないし、特定一人の人物を指すとも限らない。「お兄さま」とか「兄さん」というのは女性からする男性へ向けての一般呼称であって、ゆえに「お兄さま」に該当の人物は複数人いるのが常である。

(2)村の有力者である義父から跡取りの孫の誕生を一心に期待されているにもかかわらず、新婚で子宝も授からぬ内から若い婿養子が新妻を放っておいて家を留守にし、夜な夜な山中のおこもり堂に寝泊まりして趣味の狩猟をやり、精力的に野山を駆け回るのは、単に入婿の若旦那が「趣味の猟が好きだから」という理由だけでは到底あるまい。

(3)いわゆる「人間消失」の後、山中のおこもり堂にて「天井から鴉(からす)の死骸が吊り下げられ、室内の床一面は鴉の血に染まり…」といった現場の状況である場合、そうした鴉(からす)の死骸吊り下げや血の飛散は、呪術的で大袈裟(おおげさ)な神の儀式の非合理なものであるよりは、実はおこもり堂の室内こそが人間殺害の犯行現場であり、殺害時に床板に飛び散った被害者の人間血を隠すカモフラージュの目的で、わざと鴉(からす)の死骸を天井から吊り下げ鴉の血を床一面に犯人が撒(ま)き散らしたという合理的理由まで推理されるべきである。してみれば、「人間消失」で忽然と消えた失踪人物の白骨遺体は、殺害現場であった、おこもり堂の案外近くにて発見されるかもしれない。何よりも初動捜査の際に、「おこもり堂の床一面に飛び散った鴉(からす)の血と思われたものに実は人間の血が混じっていなかったか」を警察はまず調べるべきであったのだ。