アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(11)「蜃気楼島の情熱」

横溝正史の中編「蜃気楼島の情熱」(1954年)は戦後に発表の作品で、本作に「獄門島」(1948年)と「悪霊島」(1980年)を合わせ、その筋の正統な横溝ファンから「島ミステリー三部作」と称されているらしい。「蜃気楼島の情熱」は何よりもタイトルが素晴らしい。最初の「蜃気楼」(しんきろう)の語感の響きが、まず良い。そして、その語にそのまま「島」を付けて「蜃気楼島」とするネーミングの妙に、さらに続けて「の情熱」と来る。「蜃気楼島の殺人」とか「蜃気楼島の惨劇」など、探偵小説だからといって安易に「殺人」や「惨劇」の、ありきたりな言葉を継がない。あえてはずして「情熱」とつなぐ所が、これまた心憎い。

「蜃気楼島の情熱」は非常に深みのある良タイトルで、横溝の探偵小説の歴代タイトルの中でも「車井戸はなぜ軋(きし)る」(1949年)に匹敵で次点に位置するくらいの「いかにも」な雰囲気ある私的に好みのタイトルだ。しかも、このタイトルと小説の内容とが絶妙にリンクしており、「なるほど、だから蜃気楼島の『情熱』なのか」、同様に「だから『車井戸は軋る』のだな」と読後に納得し非常に合点(がてん)がいく、うれしい仕組みとなっている。

横溝正史「蜃気楼島の情熱」では、まず私立探偵の金田一耕助が登場する。それから金田一のパトロンの久保銀造も登場する。さらには金田一とは旧知の岡山県警の磯川警部まで出てくる(笑)。横溝正史は、本作にて金田一ファンの読者へのサーヴィス精神が満点である。本作の読み所は、前述のように「蜃気楼島の情熱」の名タイトルに絡(から)み、その題名が見事に探偵小説の中身と結びついている点であり、タイトル結語の「情熱」が「一体、誰の何に対する何ゆえの情熱であるのか」その辺りが話の急所で「ネタばれ」を防ぐため、作中にての金田一耕助の発言をあえて一部伏せ字にして引用すると、「警部さん、ごらんなさい。あのうつくしい蜃気楼を…」「××にとってあの蜃気楼はそれだけのねうちがあったんです」。

「蜃気楼島の情熱」は「獄門島」と「悪霊島」と並んで「島ミステリー三部作」を構成するだけあって、「獄門島」にて丁寧に描かれた「狭い閉鎖的な島だからこそ、その島に住む人達の排他的心情に由来する余所者(よそもの)へ向けての悪意が生む悲劇」のモチーフを逃すことなく見事に捉え、探偵推理の殺人事件に組み入れて書かれている。しかも本作は、じっくり書き込んで話を膨(ふく)らませるには困難な中編で紙数制約があるにもかかわらず、「閉鎖的な島の排他的心情で余所者に対する悪意の悲劇」を横溝はギリギリの所で書き切っているので、毎度のことながら「今作でも横溝は相当に上手いな」の読後の感想余韻が鮮(あざ)やかに残る。探偵小説としては、「死体の移動」による殺害現場の錯覚による犯人らの現場不在証明(アリバイ)トリックが出色(しゅっしょく)であり、「被害者の夫にとっての死体となった妻の遺体移動の現実の残酷さ」と来たら。ぜひ本作を読んで確かめて頂きたい。

この探偵小説から学び私達が日々の生活にて実際に活かすことのできる人生の教訓といえば、もし、ある人に対し裏切りや不義があったとしても、真実を告白することで相手を苦しめ、その人が被る絶望の精神的ダメージの深さをあらかじめ考えるなら決して全てを明かし謝ってはいけない。むしろ相手に真実を明かさず謝罪せず、そのまま黙って隠し通し、どこまでも真実は自分の胸のうちに深くしまって、いわゆる「墓場にまで持っていく」べきということだ。裏切りや不義を黙って隠しておくのは相手に悪いからと中途で全てを正直に白状し安易に謝罪したくなるのは、本当は相手のためを思っての故でなく、単に告白し謝罪して自身が楽になりたいだけだ。もしくは「隠すことなく正直に全てを告白し誠実に謝罪する自分」の自己の良イメージ回復をやって今さらながら自分を救いたいだけであり、つまりは、それは相手のためではなく自分のためにやる偽善でしかない。そうしたことで突然に自己本位な勝手な都合で告白謝罪されても、真実を知って一方的に謝られる相手はショックでなすすべなく途方に暮れ、ただただ苦しむだけである。中途半端に告白せず、そのまま黙っていてくれてた方がどれだけ「思いやり」があり、当人は主観的に「幸せ」だったか。

もし今、あなたが誰かに対し裏切り続けていたり不義を重ねていたとしても、絶対に安直に全てを明かして謝ってはいけない。「正直者の告白謝罪主義の偽善」に乗っかってはならない。告白・謝罪されて絶望し苦しむ相手の姿を想像できるなら隠して隠して隠しぬいて最後まで嘘をつき通せ。墓場にまで全部持っていけ!

本作「蜃気楼島の情熱」にても、犯罪なすりつけの罠に陥れるために、ある人物との過去の不貞を当人の前で白状すれば必ずや彼は絶望の崖下に叩き落とされるに違いないことを知った上で、今さらながらあえて「正直」にわざと「告白」し、しらじらしく「謝罪」してみせて結果、相手を計画通り苦しめる「偽善」、この「正直者の告白謝罪主義の偽善」な行為が出てくる。実に卑劣な憎むべき悪の所業である。