アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

特集ルブラン(3)「八点鐘」

モーリス・ルブランによる「アルセーヌ・リュパン」、本シリーズのだいたいの作品を読んだ上での私の感想の結論は、「ルブランのリュパンは長編がダメだ。話が無駄に長くて冗長で雑で、長編特有の伏線や展開の深まりなど不十分で、うまく作り込まれていない」。

その代わりリュパンの短編「怪盗紳士リュパン」(1905年)、「リュパンの告白」(1911年)、「八点鐘」」(1923年)あたりは非常に練られ上手に書かれており、繰り返し再読して「ネタばれ」で結末を知っているにもかかわらず、何度読んでも楽しめるといったところか。長編リュパンで、例えば「オルヌカン城の謎」(1915年)などリュパン・シリーズなのに、ほとんどリュパンが出てこなくて、またルブランは昔の古いタイプの典型的な愛国主義者で笑ってしまうくらい自分の母国のフランスを愛するナショナリストだから(笑)。変な歴史物の愛国的話に昔「オルヌカン城の謎」を読んだ時、私はそのつまらなさに激怒した。

そうしたことからルブランのリュパン・シリーズを繰り返し読むなら自然と短編ばかり選んでしまうわけで、今回はアルセーヌ・リュパンがレニーヌ公爵に扮して大活躍する傑作短編集「八点鐘」のことを。

まず注目すべきは、「八点鐘」は八つの短編が入った短編集だが、短編一つ一つが内容的に独立して個別の話になっていながら、同時に八つで全体に一つの大きな話にもなってるということだ。つまりは、最初の一番目の話でリュパンであるレニーヌ公爵とヒロインのオルタンス嬢が出逢い、そして「これから私と一緒に八つの冒険をしましょう。その間に私のことを知って見定めて、好きになってくれたら」、レニーヌ公爵からオルタンス嬢への求愛提案が各話の前提として一貫してある。

ルブランは「八点鐘」の短編を一つ一つ書き重ねるたびに、オルタンスがレニーヌに心惹(ひ)かれていく女性の恋愛感情の心の機敏(きび)を案外律儀に、その都度丁寧に書き足していくわけだ。例えば、冒険を重ね行動を共にし深く知り合っていくに連れて、オルタンス嬢がなぜか一時的にレニーヌを避けるようになる。時に彼から距離を置く行動をとったりする。すると、リュパンのレニーヌ公爵は「しめた!彼女は徐々に私に心惹かれ始めている。自身の内に芽生え始めた愛の感情に戸惑っている」と確信したりするわけだ。そして最後の八つ目の冒険が終わって、「八点鐘」の短編集のラストでは当然オルタンス嬢はレニーヌ公爵のリュパンに完全に心奪われ恋に落ちる。「八点鐘」の八つの短編読んだら、おそらくは誰でもリュパンのレニーヌ公爵の頭の回転の早さ、冴(さ)え渡る推理、抜群の行動力、スマートな身のこなし、時に機転のウイットに富んだ洗練さに作中のオルタンス嬢のみならず、読んでる読者の男の私でさえ、さすがに好印象の好意を抱くわ(笑)。

(以下、短編集「八点鐘」の核心トリックに触れた「ネタばれ」です。ルブランの「八点鐘」を未読な方は、これから本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

まずは「塔のてっぺんで」から「八点鐘」は始まる。過去の二十年前の殺人事件の暴露の話である。そして、アルセーヌ・リュパンであるレニーヌ公爵とオルタンス嬢の出会い、新たな冒険の始まり。止まっていたはずの大時計が二十年ぶりに再び動き出して鐘が鳴る(「八点鐘」)合理的な機械トリックにも通じる偶然の仕掛けの仕組みが絶妙だと私は、いつも思う。

続いて「水瓶」は、ポオの「盗まれた手紙」(1844年、意外な隠し場所)とドイルのシャーロック・ホームズの「ボヘミアの醜聞」(1891年、故意に火事を発生させて隠し場所を突き止める)を合わせてミックスしたような短編である。海外の探偵小説作家は皆がポオの「盗まれた手紙」以来の「意外な隠し場所」の心理的盲点のトリックが、なぜかやたらと好きだ。長編リュパン「水晶の栓」でも、ルブランは「意外な隠し場所」のテーマを相当しつこくやっていた。ついでタイトルの「水瓶」は、「水瓶」のレンズを利用して太陽光で火事を故意に発生させるというトリックである。だから「水瓶」のタイトル自体が半ばネタばれになっていて、未読のときには「水瓶」のタイトル意味が分からないが、一読すると「なるほど!確かに水瓶だ」と合点(がてん)の納得がいく作者ルブランによる、あらかじめの粋なはからいの読後感がよい。

海外の作家は、核心トリックのヒントのキーワードを最初から大胆にタイトルに入れ堂々と読者にさらしておいて、未読の時は何とも思わないのに読了すると、「すでにタイトル中にネタばれのヒントがあった」と後々気づく、思わず読者をニヤリとさせる仕掛けを好んでよく多用する。例えばドイルのシャーロック・ホームズ中の傑作「ノーウッドの建築士」など。あれは人間の隠し場所というか、隠れ場所のネタばれのヒントがズバリ、タイトル中の「建築士」で最初から堂々とさらされてある、実に大胆で見事な傑作だ。読む前はタイトル中に堂々とさらされてある「建築士」の言葉に何とも思わなかったのに、読後は「ネタばれ」核心トリック連関の「建築士」のタイトルに、「なるほど、建築士であるがゆえに巧妙な隠れ場所の創出が可能」と妙に納得する。

「テレーズとシュルメーヌ」は典型的な密室殺人、しかも「心理的密室」のパターンの話である。つまりは物理的トリックな密室ではなくて、事後的に心理的に作られる密室なのである。密室の絶対脱出不可能な不可解さをさんざん煽(あお)って盛り上げる探偵小説特有の書き方でなく、結果的に密室になってしまう登場人物たちの「男女の愛憎」の心理描写に特に力を注いで書くルブランは、探偵ミステリーのみに限定特化されない書き手であり、まさにオールラウンドな作家といえる。いかにもルブランらしい書き方だ。また「僕は人と違ってわざと難しく考えようとする代わりに、いつも問題をその在るべき姿で取り上げる」といったリュパンの推理鉄則の口上も絶品である。

「映画の啓示」は事件に入り込む発端の意外性が素晴らしい。衆人皆が普通に鑑賞してる劇場公開の映画フィルムから、実際の「誘拐事件」の発端をレニーヌだけが鋭く嗅ぎつけるリュパンの眼力に私は感服する。誘拐事件の顛末は「美女と野獣」な内容で、もちろんラストはハッピーエンドである。

本作「八点鐘」は毎回、リュパンのレニーヌ公爵とオルタンス嬢が何らかの事件の謎に出くわし、その謎を解決する話であるから、必ず謎の事件が持ち込まれなければいけないわけである。しかし、リュパンのレニーヌ公爵とオルタンス嬢は事件解決専門の刑事や私立探偵てはないので、彼らが謎の事件に出くわす自然な誘導設定が執筆している側からすれば毎度、面倒で困難であると思われる。しかしルブランは上手いので「映画の啓示」の短編のように、事件の謎に出くわす導入設定の「奇妙な発端」の書き出しも各短編ごとに工夫を凝らし、極めて自然な話の流れにしていて、「ルブランはさすがに上手い」の感心の思いが私はする。

「ジャン・ルイ事件」は過去の乳児取り違え事件をめぐって「嘘も方便」といった話だ。レニーヌの一芝居うつ茶番の周到なやり口が、機転が効いている。「斧を持つ貴婦人」は、連続猟奇殺人の被害女性の共通点の割り出しが一種の暗号読解に通じる。オルタンス嬢が「斧を持つ貴婦人」事件の実際の被害者の一人であるにもかかわらず、彼女自身がそのことに気づいていなくて、あえてそれを彼女に言わず隠しておくレニーヌ公爵たるリュパンの男の優しさが人として素晴らしい。

「雪の上の足跡」は、何とも言えない素朴で探偵小説には古典で初歩な「雪の上の足跡トリック」だ。雪に囲まれた一軒家で底無し井戸に遺体が投げ込まれ上がってこない、死体消滅の「殺人事件」があり、現場は降雪のある逃亡すれば必ず足跡がついてしまう、いわば「雪のスクリーン」に囲まれた特殊な状況であったのだ。そこでの死体消滅の「殺人事件」の意外な真相とは、といった話である。

八番目の最後の冒険は「マーキュリー骨董店」であり、奇抜な隠し場所に通じる話となっている。後は、自己に有利なよう話を進めるレニーヌの巧みな交渉術と、リュバンのレニーヌ公爵により隠したものをすり替えられ、すでに取られていることに気付かない、信心深い店主の間の抜けたオチの結末が一種の「奇妙な味」で読み所かと。

以上、リュパンの「八点鐘」全八編の収録短編は探偵推理にミステリー、冒険、恋愛、人情話の各要素を絡めており、やはりルブランは探偵推理に特化せず、小説全般が上手いといった感想である。

さて最後に、ルブランのアルセーヌ・リュパンは、日本ではジュヴナイル(少年・少女向け読み物)に内容を改めた南洋一郎による翻訳「ルパン全集」が昔からある。「八点鐘」を南洋一郎が訳したジュヴナイル版ルパンは「八つの犯罪」(1958年)というタイトルで出ている。しかしながら南訳「八つの犯罪」を読むと、本家オリジナルのルブラン「八点鐘」とは実際の収録短編が少し違っている。南洋一郎が「八点鐘」を翻訳し児童書として日本の子どもたちに紹介する際、「どんな内容の短編作品を子どもたちに積極的に読ませたいと思ってそのまま収録し、またどんな内容のものをなるべく読ませたくなくて収録を忌避し見送ったのか」。つまりは南洋一郎訳「八つの犯罪」にてオリジナル「八点鐘」から削られた短編、その代わりに他のリュパン短編集から南「八つの犯罪」に無理やり強引に入れ込まれた収録短編の内容傾向を、それぞれ検討し吟味すると非常に面白いと思う。